☆勇者が触れた黒塗りの感情 『憂惧』
『憂惧』…心配し恐れること。
「眠ったか」
「ええ、ぐっすりと。よっぽど疲れてたんでしょうね」
あの戦いのあと、俺たちは再びリィムの家に厄介になっていた。
魔物の大群から村を守ったとして、俺たちは英雄として……違うな、もはや崇拝対象なんじゃないかと思うくらいの扱いだった。
他の街に比べると比較的気さくに話してくれていた彼らだったが、その距離はとても遠くなったように感じられた。
そんな村人たちだが唐突な魔物の出現にまだ不安を感じる者は多く、メサイアの師匠の家は現在も村人でひしめき合っている。
感謝されているのは理解しているつもりだが、さすがにそんな場でゆっくり休めるとは到底思えず、仲間たちとともにリィムの家に避難させてもらっていた。
今回、リィムの許可は取っていない。というのも、戦いが終わるのとほぼ同時に眠りの世界に入ってしまったからだ。
「村が救われたのは勇者様方のおかげ、ですって」
「ま、そりゃそうなるわな。村人からは見えない位置に陣取ってたんだからよ」
メサイアとカインは苦笑まじりに語っている。
当然だ。本当にこの村を救ったのは、俺たちじゃないんだから。
――リィム。この村に住む、ひとりの少女。
元々……不思議な存在だとは思っていた。
俺を勇者としてではなくひとりの人間として扱ってくれたこと。
村で普通の生活をしていながら、魔法が使えること。
商人たちに攫われたというのに、凶刃の前に立ちその命を守ろうとしたこと。
そして、彼女について考える時……俺の心に何かが芽生えること。
それがどのような感情なのか、俺は未だに整理しきれていない。あちこち黒く塗りつぶされたかのようにところどころが欠けていて、自分の感情でありながらうまく読み取ることが出来ずにいる。
「ともかく、これであいつの実力は知れたわけだ」
カインの言葉に顔をあげた。視線が合う。
告げているのだ。これで文句はないだろう、と。
「というか、予想以上だったわね……魔法もだけど、普通に戦えるところとか」
魔法を使いこなす以前に、必要とされるものがある。
それが「戦えるか」ということ。
以前俺たちは、魔法を使える人物を連れて旅に出たことがある。
確かに彼は魔法を使うことが出来た。ただそれは、あくまで使えるという事実だけだ。
彼がこれまで行ってきたように、静かな場所で集中していられるわけじゃない。
万全の状態とは限らない。状況が変化するかもしれない。
――自身に、攻撃が及ぶかもしれない。
「まさか咄嗟に守りまで出来るたぁ……こいつは本当にすごい奴に当たったんじゃねえか」
「って、そうよそれ! あれ、リィムが防御張れたから良かったものの、もし当たってたらどうするつもりだったのよ!」
「い、いやそんなこと言ったってよ、あんな高い位置にいられちゃ俺の剣も届かねえし……」
戦いの最中、魔物の攻撃がリィムへと及んだ。
あの時は頭が真っ白になり、名前を呼ぶことしか出来なかった。リィムが手を振って無事を伝えてきた時には心から安堵した。
今にして思えば、名前を呼ぶことで守りがおろそかになることを考えなければいけなかったと思う。
けれどリィムは焦ることもなく、ただ冷静に対策を取った。
俺たちよりも戦い慣れているのではないかと錯覚するほど、見事な対応だった。
「それよりも、だ。俺がした質問、聞いてたよな?」
話題を変えようとしているのか、カインが前のめりになってこちらに問いかけてきた。
口は開かなかったが、首は縦に振った。
『あ、すまんリィム。これだけ聞かせてくれ』
眠たげなリィムが立ち去る寸前、カインはそのように声をかけた。
何を問うか。そして今のリィムが理解するにはどの言葉が最適かと考えたのだろう。
一瞬だけ間をおいて。
『――戦うのは、怖くないか』
そう問いかけた。
対するリィムは、目をこすりながら虚ろな目で答える。
『んー……まぁ。それより、もっと、怖いこと、ありますし……』
『え?』
眠気が限界だったのか、驚く俺たちに意識をさくこともなくリィムはあくびをしながらふらふらとした足取りで立ち去った。
回答としては、実に中途半端な答えだ。無論、意識が覚醒していない状態でこちらが問いかけたのだから無理もないことだが……。
「もっと怖いことってのが何なのかはわからんが、それでも逃げずに戦えるんなら俺としちゃ充分だ。欲を言やあ、どんくらい連携出来るか計りたいところだが」
カインはすでにリィムを実戦に投入することを考えている。
それは……おかしいことじゃない。あれだけの戦力をみすみす手放すほうがどうかしている。過酷な旅になる、けれど、世界が滅べば彼女の生活も壊れることになる。
だから、だから……そうするのが正しいと、わかっているのに。
どうしてこんなにも、俺は胸が苦しいのだろう。
握りしめた拳で胸を押さえる。
何故だろう。うまく呼吸が出来ない。
拳の下、俺は浅い呼吸を繰り返すだけだった。
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