世界一の食事
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宝クジが当たっていた。一等賞である。賞金は、一億円。
今日、何気なくタンスの整理をしていたのがことの始まりだ。着古したズボンのポケットに触れるものがあり、なんだろうと思い取り出してみると宝クジ。去年買ったやつ。
会社は休みなので散歩がてら近所の図書館へ行き、古新聞を閲覧した。当選番号の確認。そこで自分の持ってる宝クジが一億円の価値あり、と分かったわけである。
「今日が、換金の最終日かぁ」自宅の居間であぐらを掻きながら、俺は呟いた。宝クジの裏面にそう記載されていたのだ。
壁の掛け時計を見ると十四時。銀行が閉まるまでには数時間あった。そこまでは歩いて十五分ほどの距離である。あせる必要は、まるでない。
俺は煙草に火をつけた。「一年前ねぇ」
当時を回想する。たしか、なけなしの金をはたいて駅の売店で十枚購入したはずだ。
そしてその内九枚までは抽選日にすぐ当選番号を確認した。ことごとくハズれていた。
残りの一枚、それがこれである。なぜか紛失していたのだ。
当時は、どうせ九枚外れていたのだから残りの一枚も当たっているわけがないと思い探しもしなかった。
なのに今頃になって発見されたのである。一枚だけズボンの中に入り込んでいたとは、謎以外の何ものでもない。
「さて、と」俺は煙草を灰皿で揉み消し、ベランダへ視線を移した。
妻が、洗濯物を干していた。パート勤務のパン屋で使う作業着の皺を伸ばしている。
宝クジが当たったのを報告したら、どんな反応を示すのだろう。驚くかな、それとも……。俺は手に持った宝クジとベランダを交互に見やりながら、ふとそんなことを考えた。
そしてこれまたふと、あることを思い付いた。その思い付きはだんだんと膨れあがり、ついには俺の頭の中を支配した。実に馬鹿げたことである。
しかし、言うだけいってみよう。
俺はベランダに向かって声をかけた。「おおい、ちょっとこっちへ来てくれ」
「はあい」と間延びした返事をし、妻は小走りにやってきた。「なにか、用なの」
「うん。実はな」俺は上目使いに妻の顔をちらちら見ながら言う。「宝クジが、当たった」
「えっ、本当」嬉々として妻が尋ねてくる。「いったい、いくら当たったの」
「一等、一億円だ」
妻は、唖然とした。
「一年前に買って行方不明になってたやつが、今頃出てきやがった」俺はその宝クジを妻に差し出す。「今日が換金の最終日だ。銀行に行ってくれ」
妻は震える手で宝クジを受け取った。今にも、なにかを叫び出しそうな様子である。
俺はつづけて言う。「さっき思い付いたことなんだが、その宝クジの賞金は今日中に使い切ろう。一億円の夕食をたのむ」
妻は目をむいた。「あなた、正気なの」
「正気だよ」
「な、なにを考えてるのよ。三人家族の夕食費に一億円だなんて」笑いだした。「冗談よね。マジメな顔して、冗談が過ぎるわ。ほほほほほっ」
「まあ、落ち着いてよく聞いてくれ」俺は立ち上がり妻の両肩をつかんだ。「他に、使い道が思いつかないんだ。手元に残しておく気もない。なんせ一等賞、おそらく当選確率は何百万分の一といったところだろう。悪い予感がする。ほら、宝クジに当たって不運に見舞われた人の話なんてありふれてるじゃないか。だから、さっさと厄祓いしようってことなんだ」
妻は、笑うのをやめた。
「だからって、夕食費に……」消え入りそうな声で言う。
俺は必死の態度に出て、妻をなんとか説得しようと試みる。
「分かってる。一億円で夕食を作るなんて、馬鹿げてる。限りなく不可能だ。しかし、やるだけやってくれ。お前の腕で」土下座して頭の上で手を合わせた。「たのむ」
妻は腕組みをして考え込んだ。
「分かりました」しばらくしてから決意を固めた表情で頷く。「一億円の夕食を、引き受けましょう」
「そうか。やってくれるか」俺は顔をあげる。「でもな、できる限りでいいぞ。無理はしなくても。本当に。このお願いがどれだけムチャなものなのかは俺も」
「いいえ。主婦の意地にかけて、あなたの期待以上のものを作ってみせます。必ず」俺に最後まで喋らさず、妻は言いきった。「それじゃあ、行ってくるわ」
買い物カゴを取りあげ、表へ向かう。
なんて良くできた妻なんだろう。――俺はひとりきりになった部屋の中でそう思った。
普通ならあんな願いは却下されてしかるべきである。なのに、妻は応じてくれたのだ。今まで一度だって俺に逆らったためしがない。
「いい女を、嫁にもらったもんだ。本当に俺は幸せだなあ」感動して目頭が熱くなった。と同時に、妻のことがとても愛惜しくなり始めた。「あいつひとりで大丈夫だろうか。
一万枚もの万札を女手ひとつで持てるだろうか。もし、転んで頭でも打ったりしたら……」
途中から愛惜しさが不安に変わった。
「こりゃ、たいへんだあ」居ても立ってもいられなくなり慌てて玄関口へ走り、靴をひっかける。「間に合ってくれ、たのむ」
体当たりするようにドアを開け、たたらを踏みながら庭の中ほどまできた。
あることを、思い出した。「もうすぐ幼稚園も終わりじゃないか」
今日は俺が息子を迎えに行く番だったのである。朝に妻から釘を刺されてもいた。
「うむ」迷う。こうしてる間にも時間は刻々と過ぎていく。
俺は、決断を下した。
「そうだな。うんうん、そうだ」自分に言い聞かせる。「一億円といったところで、しょせんは紙きれ。たいした重量でもあるまい。女手でも問題なかろう。それに周りは顔見知りばかりだ。なにかの時には、助けてくれるさ。心配いらないな」 庭を引き返し、部屋へ戻った。
「どっこいしょ」座布団に腰をおろす。壁時計を確認すると、もう一服するくらいの時間的余裕。
俺はシャツの胸ポケットから煙草を取り出し火を付けた。
煙を吐きながら一億円の夕食に思いをはせる。それは、どのようなものになるのだろう。しかも家族三人で……。
頭が空白になった後、ふたたび時計を見あげる。
俺は、太股をパシリと叩いた。「さて、行くとするか」
夕方。――俺と息子の影が玄関先に伸びている。
一応はチャイムを鳴らしてドアを開けた。「おおい、帰ったぞ」
家の奥へ向かって声をかけると、台所の壁の側から妻が顔をのぞかせた。
「あら、今日は早いのね」
「ああ。夕食のことをこいつに話したら浮き足だちやがってな。手を引っ張られながら帰ってきたんだ」
「そういうことだったのね」妻は口元を押さえクスッと笑った。「もうすぐそのお楽しみの夕食が出来るから、テレビでも観ててちょうだい」
壁に妻が消えたのを見届けてから、俺と息子は揃って靴を脱いだ。居間へ向かう。
「僕、お腹ペコペコだよ」アニメ番組にチャンネルを合わせながら息子は言った。「はやく、出来ないかな」
「食いしん坊だな」俺の隣に座った息子をふざけた調子で睨んだ。「急がなくっても、ご飯は逃げやしないさ」
「うん。分かってるけど」そう答えてから息子は体を半分浮かせ、調理場を遠望した。自分でつけたアニメ番組にはまるで興味を示さない。
やはり子供というものは堪え性に欠ける。――俺は息子を見るにつけ、そう思った。が、そのクセ実は俺も夕食のことが気になってソワソワしていたのだった。
ついつい息子と同じ姿勢を取る。
どれくらいそうしていたのだろう。やたらに長く感じられたが、やがて妻が額に玉の汗を浮かべ現れた。
「まあ、ふたりとも首を長くしちゃって」少し呆れたといったふうに、妻はまた笑った。「さあ、お台所へいらっしゃって」
俺と息子は立ち上がり妻のあとに従う。
「わあ、おいしそう」息子が感嘆の声をあげた。
たしかに、その通り。驚きである。食卓に並んだ食事を前に、俺は言葉も出ない。
「いただきまぁす」イスにつくや否や息子が箸をのばした。
「こら、待ちなさい」俺は息子の手を払う。「母さんがくるまでの辛抱だ。食事は三人揃ってからにする」
「はあい」息子は少しふてくされた表情をしたものの、素直に箸をテーブルへと置く。
それでも前のめりにじっと食事を見つめたままだ。
俺はそんな息子を横目で牽制しつつ顔をあげる。
お盆を両掌にのせて、妻が直立していた。
「さあ、イスについて」かいがいしく配膳を終えると妻はテーブルを挟んで俺の正面に座る。「いただきましょ」
「いただきまぁす」手を合わてせお辞儀をし、息子は食事に飛び付いた。
それにひき比べ、俺はイスに固まったまま動けない。驚愕していたのである。一億円じゃあり得ない食事を目の当たりにして。――最初、テーブルの上の食事を見た時もそう思った。しかし、あの時点では無理矢理にでも理由付けする余地があった。妻が限られた予算で上手くやりくりしたのだろう、と。それが今では出来やしない。
最初テーブルの上には炊きたての白米が三杯と三つの小鉢にそれぞれタクアンが二切れづつ。
そしてそのあと妻が配膳したのは、なんとサンマなのである! 三尾!
「あら。あなたどうしたの」いっこうに箸を付けない俺を見とめて妻はけげんな表情を浮かべた。「はやく食べないと、冷めちゃうわよ」
そして、今日いちばんの微笑み。
俺は、ハッとした。ようやく一億円の食事の正体が分かったのである。これは一億円の食事ではなかったのだ。
一年前から始まったインフレ。それが加速度的に進み今や貨幣価値は昔と比べるべくもない。一億円で郊外に一軒家が建ったのは夢のよう。今では、一億円ぽっちじゃ缶コーヒーのひとつも買えやしない。
妻はどこからか金を工面してきたのである。俺に黙って。気を使わせまいと。
流しの下に置かれた買い物カゴからは見慣れない作業着が袖をのぞかせていた。
「うぅぅぅっ」俺はその優しさに心打たれ、涙を流しながらむさぼりつく。三日振りの食事に。
一億円じゃあり得ない、世界一の食事に。
-了-