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没落令嬢がドアストッパーを磨いたら国宝でした ~「著者は対象者を愛している」と閣下に論証書で告白されました~

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/03/25

 王宮の最深部に位置する遺物管理室には、朝日が届かない。

 石造りの壁に囲まれた薄暗い空間。埃とカビの匂いが染みついた書架には何百年も前の羊皮紙が山と積まれ、用途不明の古代遺物が棚から溢れそうになっている。

 王宮で最も日当たりが悪く、最も人が寄りつかず、最も存在を忘れられがちな部署。

 それが私の職場だ。


 私の名前はエリーゼ。かつては伯爵家の長女であった。

 一年前に実家の投資事業が破綻し、多額の負債を抱えて没落。それと同時に、幼い頃から婚約していた男爵令息のアーサーに一方的に婚約を破棄され、実家からも追い出された。

 身寄りを失った私が、この特殊な部署で文官補佐として働けているのは、偏に私の二つの取り柄が評価されたからだ。


 一つは、お茶を淹れる腕。

 もう一つは――清掃と整理整頓に対する、尋常ならざる執念である。


 今朝も私は、王宮の誰よりも早く管理室の扉を開けた。

 まず空気の入れ替え。高窓を少し開き、淀んだ空気を逃がす。次に書架の埃払い。柔らかな羽根箒で、古い羊皮紙を傷つけないよう一枚一枚の隙間まで丁寧に払っていく。

 棚に並ぶ古代遺物はすべて、私が着任してから分類し直したものだ。材質別、年代別、発掘地別に仕分け、それぞれに手書きした整理札を添えてある。着任前は「あの古い壺はどこだったかな」「確かあの棚の裏に……」と室長が三日に一度は遺物を紛失していたのだが、今では誰でも三十秒以内に目当ての品を見つけられる。

 我ながら見事な仕事だと思う。

 清潔で整然とした空間は、人の心を穏やかにする。これは伯爵令嬢時代から変わらない、私の信条だ。


「おお、エリーゼ嬢。今朝も早いね」


 白髭の室長が、寝癖のついた髪をぼさぼさにしながら出勤してきた。手には昨晩から読みかけの古代語の文献を抱えている。この方は研究に没頭すると寝食を忘れるので、私の日課には「室長の生存確認」も含まれている。


「おはようございます、室長。昨晩もお泊まりでしたの? お顔の色が優れませんわ」

「いやなに、面白い記述を見つけてしまってね。つい……」

「つい、ではございません。まずは朝食を召し上がってください。それから、お茶をお淹れしますわ」


 室長が椅子に沈み込むのを見届けてから、私はワゴンの上に並べた茶器に手を伸ばした。

 本日の茶葉は、ダージリンのセカンドフラッシュ。美しい琥珀色の水色すいしょくとともに、マスカットにも似た甘い香りが鼻先をかすめる。ポットは三分前から温めておいた。カップも同様だ。注ぐ湯の温度は九十五度。蒸らし時間は四分。

 添えるのは、今朝私が宿舎の厨房を借りて焼いたアーモンドとオレンジピールのビスコッティだ。


 コトリ、と室長の前にカップを置く。


「おお……エリーゼ嬢のお茶だ。これでまた三日は戦える……」


 室長が一口飲んで恍惚とした表情を浮かべると、いつの間にか出勤していた他の職員たちも次々とワゴンの周りに集まってきた。


「ビスコッティの硬さも絶妙だよ。噛むたびにアーモンドの香りが弾けてね」

「エリーゼ嬢、これ、視察の帰りに買ってきた南部のハチミツ飴。仕事の合間に舐めなさい」

「おいおい、俺も飴をあげようと思ってたのに先を越されたぞ」


 お菓子や労いの言葉が次々と差し出される。

 この職場の皆様は、没落令嬢の私を哀れむこともなく、まるで孫娘のように可愛がってくださる。私の過去を知った上で、ただ仕事ぶりと人柄だけを見てくれている。それがどれほど有り難いか、わかる人にはわかると思う。

 過去の理不尽な出来事など思い出す暇もないほど、私はこの穏やかな職場を愛していた。


 そんな朝のひとときに、不意に空気が変わった。


 管理室の重厚な扉が音もなく開き、一人の青年が姿を現す。

 濡れたような光沢の黒髪。切れ長の金色の瞳。寸分の狂いもなく仕立てられた宮廷服を纏ったその人は、薄暗い管理室にあっても目を引いた。


 王弟にして筆頭魔導師、ユリウス・フォン・クライス公爵閣下。

 他国との魔術外交から国内の結界行政まで、この国の魔術に関わるすべてを統括する方であり、冷徹にして精密無比な頭脳の持ち主として知られている。


「室長。先日依頼した第三期結界層の古文書の解読は進んでいるか」


 ユリウス様の声は低く平坦で、感情の起伏がほとんどない。室長たちは少し背筋を伸ばしながら報告を始めた。

 閣下はこの管理室に月に数度、公務で足を運ばれる。古代の結界術に関する文献がここに集中しているためだ。いつも用件だけを簡潔に済ませ、無駄な雑談はされない。王宮の廊下で閣下とすれ違った新人文官が、その冷たい視線に当てられて三日間寝込んだ、などという噂が立つほどである。


「……では、来週までに第七章の翻訳を頼む」


 報告を聞き終えたユリウス様が踵を返しかけて、ふとこちらを見た。


「エリーゼ。今日の茶葉は何だ」


 私は軽く会釈して答えた。


「ダージリンのセカンドフラッシュですわ。閣下もお一つ、いかがですか?」

「……いや、今日は結構だ。仕事がある」


 そう言って閣下は管理室を出ていかれた。

 扉が閉まった後、老学者の一人がニヤニヤしながら隣の同僚と肘を突き合っている。


「閣下、今日も茶葉の銘柄を聞いていったぞ」

「先月から毎回聞いてるな。断るくせに」

「あれは完全に、嬢ちゃんのお茶を飲みたいのを我慢してるんだよ」

「まさか。あの冷徹と名高いクライス閣下が?」


 ひそひそ声のつもりらしいが、丸聞こえである。

 私は「年配の方の想像力は逞しいですわね」と内心で受け流しながら、使い終わったティーカップの片付けに取りかかった。



* * *


 管理室の日常業務の中で、私がずっと気になっていたものがある。

 部屋の隅に転がっている、黒ずんだ粘土の塊のようなもの。私がこの部署に配属された時から、扉の重しとして使われていた。着任初日に「あれは何ですか」と尋ねたところ、室長は「先代の室長が、重さがちょうどいいと言って拾ってきたらしい」と答えた。つまり、誰もその正体を知らないまま、何年もドアストッパーとして使い続けてきたらしい。


 管理室の遺物はすべて台帳で管理されている。だが、このドアストッパーだけは台帳に記載がなかった。

 分類されていないものが存在する。

 それは、私の整理整頓の信条に対する重大な違反である。


「今日こそ、あのドアストッパーを片付けてしまいましょう」


 私はその黒ずんだ塊を作業台に載せ、まず表面の状態を観察した。

 泥と茶渋のような汚れが何層にも重なり、元の形状すら判別できない。だが、持ち上げた時の重量感が妙に均一だった。天然の石や粘土であれば重心が偏るのが普通だ。この均一さは——人工物の特徴ではないだろうか。


 私は自分が開発した特製の清掃液を取り出した。

 出涸らしの茶葉から抽出したタンニン酸、中庭に自生するレモンソウから搾った精油、そして重曹。この三つを、用途に応じた配合比で混ぜ合わせる。金属の錆にはタンニン酸を多めに、油汚れにはレモンソウを強く、石材の水垢にはごく薄く。何十回もの試行錯誤を経て完成させた、私だけの調合だ。

 管理室の古い遺物は繊細で、市販の洗浄剤では表面を傷めてしまうことがある。だからこそ、材質を選ばず優しく、しかし確実に汚れだけを落とす清掃液が必要だった。


 今回は金属用の配合を選んだ。もし中身が金属製の遺物であれば、最も効果的に汚れを落とせるはずだ。


 布に清掃液を染み込ませ、塊の表面をゆっくりと磨く。

 ポロリ、と分厚い汚れの層が剥がれた。

 その下から現れたのは、鈍い銀色の光沢。


 やはり金属だ。しかも、ただの金属ではない。

 磨くほどに輪郭が明瞭になっていく。規則正しい多面体の構造。各面に刻まれた微細な紋様。これは——古代の魔術加工の特徴だ。管理室で何百もの遺物を整理してきた私の目が、そう告げている。


 最後の汚れを拭い去った瞬間。

 多面体の中心から、目を灼くほどの青い光が噴き出した。

 光は天井を突き抜けるかのように部屋全体を照らし、窓の外からは遠く鐘の音のような低い振動が伝わってきた。


「な、なんだ!?」「地震か!?」


 室長たちが椅子から飛び上がる中、管理室の扉が開かれた。

 入ってきたのはユリウス様だった。いつもの無表情ではない。わずかに目を見開き、足早に歩み寄ると、私の手元をじっと凝視した。


「……これを、どこで」

「あの、ドアストッパーを磨いておりましたら、急に光り出しまして……」

「ドアストッパー、だと」


 ユリウス様は多面体を受け取り、光に翳すように角度を変えながら検分した。

 数秒の沈黙。

 その沈黙の間に、閣下の表情が変わった。初めて見る顔だった。何かを確かめるように、食い入るように多面体を見つめている。


「……間違いない。これは建国期に失われたとされる『王都大結界の基幹魔石』だ」


 閣下の声は抑えられていた。だが、多面体を持つ指先がかすかに震えている。


「ここ数十年、結界の出力低下が深刻な問題になっていた。魔導省が総力を挙げて捜索し、見つからなかった国家最高機密の遺物だ。……なぜ、これが、ドアストッパーに」

「先代の室長が、重さがちょうどいいと拾ってこられたそうで……」


 ユリウス様は一瞬だけ天井を仰いだ。

 それから、いつもの無表情に戻って私を見据えた。


「エリーゼ。君が汚れを落としたことで、魔石の魔力回路が再び接続された。先ほどの光と振動は、王都全域の結界が数十年ぶりに本来の出力を取り戻した証だ」

「……それは、つまり」

「君は国家を救った。王家から正式に報奨と叙勲が下されるだろう」


 ドアストッパーを磨いただけで、国家の英雄。

 私の頭では到底処理しきれない情報量だった。


「ただし」


 ユリウス様は多面体を慎重に布で包みながら、低い声で続けた。


「この件が公になれば、君は望むと望まざるとにかかわらず注目を集める。莫大な報奨金と名声には、それを狙う者たちが必ず群がってくる」

「……閣下」

「僕はこれから、君を法的に守るための準備に入る。詳細が整い次第、改めて説明する」


 背を向けかけた閣下に、私はとっさに声をかけた。


「閣下。よろしければ、お茶を一杯いかがですか。今日のダージリンは、本当に良い出来ですのよ」


 ユリウス様の足が止まった。

 振り返りはしなかった。だが、半歩だけ動きが止まり、その目がちらりとワゴンの上のティーカップに向けられた。


「……今は、時間がない」


 いつもの「結構だ」ではなかった。「時間がない」。それだけの違いなのに、なぜか耳に残った。

 けれどそれ以上考える間もなく、ユリウス様は魔石を抱えて管理室を後にした。

 私はポカンとしたまま、閣下が去った扉をしばらく見つめていた。


 背後で、老学者たちがざわめいている。


「なあ……閣下、今『僕は君を守る』って言ったよな?」

「言った。間違いなく言った」

「公務上の職責として言ったのか、それとも……」

「いやいや、あの目は公務じゃないだろう」


 聞こえていますよ、皆様。



* * *


 国宝発見の翌日から、私の生活は一変した。

 いや、正確に言えば、王宮の空間そのものが一変した。


 最初に異変に気づいたのは室長だった。


「エリーゼ嬢、ちょっと聞いてくれ。昨晩、隣の資料室に本を取りに行こうとしたんだが……」

「はい、どうなさいましたの?」

「扉を開けたら、なぜかクライス閣下の執務室のクローゼットの中に出てしまってね。腰を抜かして泣いてしまったよ」

「……はい?」


 室長の話は、残念ながら、ただの始まりに過ぎなかった。

 その日の午前中だけで、私の元に駆け込んできた被害報告は七件に上った。


 まず、管理室の給仕係。昼食を運ぶために配膳室の扉を開けたところ、なぜかユリウス様の私室の浴室に繋がり、カボチャのクリームスープが乗ったトレイごと大理石の浴槽に突っ込んだ。幸い閣下は不在だったが、浴槽は鮮やかな橙色に染まった。


 次に、南棟の文官二名。会議室に向かって扉を開けたらユリウス様の執務室に転がり出た。折しも閣下は隣国の魔術大使への書簡を起草中であり、突然現れた二人組に対し「アポイントメントは取ったか」と氷のような声で問うた。文官たちはそのまま失神した。


 さらに深刻だったのは、友好国の使節団である。王宮見学のために正門から続く回廊の扉を開けたところ、ユリウス様の執務室の本棚の裏に出現した。使節団長は困惑の末に「これは我が国への暗号的なメッセージであろうか」と呟き、随行の書記官が慌てて本国に緊急報告書を書き始めた。外交問題の種が芽吹きかけた。


 そして極めつけは、私自身の体験だった。


「少し図書室へ行って参りますわ」


 管理室の扉を出て、図書室へ向かう廊下の扉を開ける。

 目の前に広がったのは、見覚えのある執務机と、窓際の巨大な書架。


 ユリウス様の執務室だった。


「……」


 黙って扉を閉じ、深呼吸をして、もう一度開く。

 ユリウス様の執務室。


 閉じる。今度は反対方向の扉を開ける。

 ユリウス様の執務室。


 階段を降り、一階の通用口を開ける。

 ユリウス様の執務室。


「どこへ行っても閣下のお部屋に出るのですが!」


 私がつい声を上げると、執務机の向こうで書類に目を落としていたユリウス様が、ペンを置いて顔を上げた。


「ああ、エリーゼ。来たか」

「来たか、ではございません。来ざるを得なかったのです。閣下、これはどういうことですか」


 問い詰めると、ユリウス様は眉一つ動かさず答えた。


「昨晩、王宮の空間魔術式を書き換えた。君の生活動線上にあるすべての扉の空間座標を、一時的に僕の執務室に固定した」

「一時的に、とは具体的にどのくらいの期間ですか」

「安全評価が完了するまでだ」

「安全評価とは何の安全評価ですか」

「君を狙う可能性のある人物すべてのリスク査定だ」

「それにはどのくらいかかりますの?」

「数週間から数ヶ月だな」


 私は深々とため息をついた。


「閣下。私は食堂に行けません」

「食事は僕の執務室に運ばせる」

「図書室で調べ物がしたいのですが」

「必要な本は僕が取り寄せよう」

「管理室への出勤はどうするのですか」

「管理室の扉は僕の執務室を経由する形で接続してある。僕の部屋を通り抜ければ出勤は可能だ」


 つまり毎朝、閣下の執務室を横切って出勤しろと。


「閣下。それでは私が閣下と同居しているも同然ではないですか」

「同居ではない。空間の中継地点として僕の執務室を利用しているだけだ」

「屁理屈ですわ」

「論理的帰結だ」


 ユリウス様は涼しい顔で言い切った。


 この方は。

 普段は恐ろしく理知的な方だ。魔術外交の交渉では、相手国の大臣を論理の檻に閉じ込めて一歩も動けなくさせると聞く。法案の起草をさせれば、議会の重鎮たちですら一字も修正できない完璧な条文を書き上げる。

 なのに、なぜか私に関することだけ、魔術で空間を捻じ曲げるという力業に走る。それも、本人はあくまで合理的な判断だと信じている顔で。


 私は改めてユリウス様を正面から見つめた。


「閣下。お気持ちはありがたく存じます。ですが、このままでは王宮の業務に支障が出ます。現に外交問題になりかけておりますわ」

「些事だ」

「使節団が暗号メッセージだと解釈しかけた件のどこが些事ですか」


 ユリウス様はちらりと視線を外した。


「……あれは想定外だった」

「想定してください。閣下の頭脳なら容易いでしょう」


 閣下はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「……エリーゼ。君が国宝を発見した功績は、間もなく公になる。莫大な報奨金と終身年金が君に与えられる。その時、必ず君の過去につけ込んで擦り寄ろうとする者が現れる」

「それは閣下のご推測ですか」

「推測ではない。確定した未来だ」


 金色の瞳が、初めて感情の色を帯びた。


「君を追い出した親族。手のひらを返す元婚約者。奴らはある日突然、『家族の絆』だの『誤解があった』だのという言葉を盾に現れる。欲に目の眩んだ人間は、自らの過去の暴言を脳内で都合よく改竄する生き物だからだ」


 声は落ち着いていた。でも、底のほうに硬いものが混じっている。

 私のために怒っている。そう気づいたら、言い返せなくなった。


「……閣下のご心配は理解いたしました。ですが、手段が大胆すぎます。せめて生活動線の扉は元に戻してくださいませ。代わりに、もし彼らが現れた時には、閣下にご相談いたします。それではいけませんか」


 ユリウス様は腕を組み、窓の外に目をやった。

 しばらくして、渋々といった口調で言った。


「……わかった。生活動線は復旧する。ただし、管理室の周辺三十メートル以内の空間だけは僕の管轄下に置く」

「三十メートル……まあ、それくらいでしたら業務に支障はございませんわね」

「それと、君の宿舎の扉には警報魔術を追加する。不審者が接近した場合、即座に僕に通知が届くようにする」

「……閣下」

「交渉というものは、互いに妥協点を見出すものだ。僕は大幅に譲歩した。これが最終線だ」


 すっかり交渉モードに入ったユリウス様を前に、私は苦笑しながら頷くしかなかった。


「承知いたしました。では、お詫びと申してはなんですが、閣下にお茶をお淹れいたしましょうか。今朝、中庭で摘んだばかりの生ミントがございますの」


 ユリウス様の表情が、ほんの一瞬だけ揺らいだように見えた。


「……では、一杯だけ」


 その声が、いつもより少しだけ柔らかかったのは、気のせいだろうか。



* * *



 翌日。空間魔術の復旧作業は、思いのほか難航した。


 なにしろ閣下が書き換えた扉の総数は、私が把握しているだけで三十七枚。管理室周辺だけでなく、私が日常的に使いそうな経路すべてに手が入っていた。

 復旧中に判明したのだが、給仕室と図書室を繋ぐ渡り廊下は、空間座標が三重にねじれた状態になっていた。ユリウス様曰く「念のために二重の迂回路を用意しておいた」とのことだが、結果として給仕係が廊下を真っ直ぐ歩いたはずなのに元の場所に戻ってくるという無限回廊が発生し、三十分間ぐるぐると同じ場所を歩き続けた挙げ句に目を回して倒れた。


 私はその報告を聞いて、額に手を当てた。


「閣下。空間を捻じ曲げる才能を、もう少し穏当な方向に活かしていただけませんか」

「穏当な結界の強化案であれば、既に七通りほど策定してある。聞くか」

「いいえ、結構です。どうせそのうち五つくらいは私の居住区画が閣下の管轄に入る案でしょう」


 ユリウス様は一瞬だけ口元を引き結んで、視線を書類に戻した。

 図星だったらしい。



* * *



 空間の復旧がおおむね完了した日の夕方。管理室で後片付けをしていると、室長が私の隣に腰を下ろして、珍しく真剣な顔で言った。


「エリーゼ嬢。閣下のことで、一つだけ話しておきたいことがあるんだ」


 他の老学者たちも手を止めて、こちらに目を向けていた。


「三年前、東部国境のルーデン市で魔術災害が起きたのを覚えているかい? 古代の防衛結界が暴走して、市街地の空間が歪み始めた。放っておけば街ごと空間の裂け目に飲み込まれる。そんな状態だった」


 私は頷いた。ルーデンの名は報道で知っていた。だが当時は伯爵家の令嬢として、遠い土地の災害としか認識していなかった。


「あの時、現地に飛んだのがクライス閣下だ。暴走する結界の空間座標を、一人で書き換え続けた。歪んだ空間の中に避難路を作り、住民を一人ずつ安全な場所へ転送する。三日三晩、不眠不休でね」


 室長はお茶を一口すすってから続けた。


「千二百人の住民のうち、閣下が救ったのは千百八十七人だった」


 ――十三人。


「残りの十三人は、空間の歪みが複雑すぎて接続が間に合わなかった。閣下の魔術をもってしても、全員には届かなかった。……その中に、閣下が幼い頃から慕っていた老侍従もいたと聞いている」


 私は息を呑んだ。


「閣下はその後、一ヶ月間、執務室から出てこなかった。議会への報告書には『空間魔術による避難誘導は概ね成功した』とだけ書かれていたが……あの方は、救えなかった十三人の名前を全員暗記している。それを知っているのは、当時の記録を保管しているこの管理室の人間くらいのものだよ」


 老学者の一人が、小さく付け加えた。


「あの日以来だな、閣下が空間魔術の使い方について異常なほど慎重になったのは。……いや、人を守ることについて、と言うべきかもしれないが」


 室長が私の目を見て、少しだけ笑った。


「嬢ちゃんのために王宮中の扉を書き換えるのは、確かにやりすぎだ。だが、あの方がなぜそこまでするのかは、わかってやってほしい。あの方は、もう二度と、手の届く場所にいる人を失いたくないんだよ」


 私はしばらく何も言えなかった。

 あの瞳の奥に、そんな記憶が沈んでいたのか。

 空間を捻じ曲げてまで私を囲い込もうとする、あの無茶の根っこには、十三人分の重さがあった。


 ワゴンの上で、冷めかけたダージリンが薄い湯気を立てていた。



* * *


 ユリウス様の予言は、一週間も経たずに現実となった。


 王宮の面会室。

 私の向かい側のソファに座っているのは、元婚約者のアーサーと、従姉妹のセシリアだった。


 アーサーは自信に満ちた笑顔を浮かべ、セシリアは絹のハンカチで目元を押さえている。一年前と変わらない芝居がかった二人の姿を見て、私は妙に落ち着いていた。

 怒りも悲しみもない。ただ、目の前のウバ茶が冷めないうちに終わらせたい、とだけ思っていた。


 本日のお茶は最高級のウバ。カップの内側にゴールデンリングが浮かんでいる。なかなかの出来だ。

 コトリ、とカップをアーサーたちの前にも置いたが、彼らには紅茶の香りを楽しむ余裕はないらしい。


「エリーゼ! ああ、会いたかったよ!」


 アーサーが立ち上がりかけ、すぐに座り直した。

 私の隣の椅子に、ユリウス様が腰を下ろしていたからだ。閣下は口を開く気配もなく、手元の書類にペンを走らせている。面会室を自分の執務室の延長として使っているようにしか見えない。


「お姉様……わたくしたち、お姉様が王宮で辛い思いをしていらっしゃらないかと、ずっと心配しておりましたのよ」


 セシリアが涙声で語りかけてくる。

 私はウバ茶を一口含んでから、二人に向き直った。


「お気遣いいただきありがとうございます。ですが、私は王宮での仕事にとても満足しておりますわ」

「そ、そうか。それは良かった。でもエリーゼ、国宝を発見した報奨金の管理は、やっぱり家族に任せた方が安心じゃないかな?」


 アーサーが身を乗り出す。目がギラついている。


「お姉様、それと清掃液のことですけれど」


 セシリアが口を挟んだ。


「あの清掃液は、元々わたくしたちの伯爵家に伝わるハーブの知識を応用したものですわよね? でしたら、その権利は本来お家に属すべきですわ」


 なるほど。報奨金だけでなく、清掃液の権利まで。

 一年前の私なら、こうした言葉に動揺していたかもしれない。家族という言葉の重さに、情に絆されていたかもしれない。

 でも、今の私には一年分の仕事がある。古い文献を読み、先人たちの知恵に触れ、記録と証拠の重みを身体で覚えた一年間がある。何より、この居場所は私が自分の手で作ったものだ。


「セシリア。一つ訂正させてくださいませ」


 私ははっきりと口を開いた。


「私の清掃液に使用しているのは、王宮の厨房で出た紅茶の出涸らしと、中庭に自生するレモンソウ、そして一般に流通している重曹です。伯爵家の知識は一切使用しておりません」

「で、でも、ハーブの扱いはお母様から……」

「母から教わったのは、庭園の花の水やりの仕方ですわ。清掃液の調合は、私がこの一年間、管理室の古代遺物を傷つけずに洗浄するために独力で試行錯誤を繰り返して完成させたものです。配合比も材料の調達先も、すべて実験記録が残っております」


 セシリアが言葉に詰まった。


「それに」


 私はカップをソーサーに戻した。


「仮に権利を主張されるおつもりでしたら、知的財産に関する法的な手続きが必要になりますわ。管理室の文献で学んだ限りでは、王国法において知的財産の帰属は『創作の過程と独自性の証拠』によって判断されます。出涸らしとレモンソウの配合に、伯爵家の家伝がどのように関与しているのか、法廷で立証なさるのは難しいのではないかしら」


 面会室が静まり返った。

 アーサーもセシリアも、口を開けたまま固まっている。一年前に家を追い出した「おとなしくて何も言い返さない令嬢」が、法的根拠を持ち出すとは思わなかったのだろう。


 アーサーが表情を変えた。取り繕った笑顔が剥がれ、その下から焦りが覗く。


「エリーゼ……僕は君のことを本当に心配して来たんだ。確かに一年前は酷いことを言った。でも、僕はずっと後悔していて……やり直したいんだ」


 その言葉を聞いて、私はふっと息をついた。


「アーサー様。一年前、あなたは私に『借金まみれの女など妻にできない』と仰いましたわね」

「あ、あれは……」

「私はあの言葉を忘れておりませんし、恨んでもおりません。ただ、あの日を境に、あなたへの感情はすべて消えてしまいました。壊れた茶器を無理に継ぎ合わせても、元のようにはお茶を注げませんの。時計の針は巻き戻せません」


 怒りでもなく、悲しみでもなく。ただそれだけのことだった。


「お二人とも、どうぞお引き取りくださいませ」


 アーサーはなおも食い下がろうと口を開いた。

 だが、その時初めて、隣で書類を読んでいたユリウス様が顔を上げた。


「……聞いていたか、アーサー・カルステッド男爵令息」


 その眼差しが冷ややかにアーサーを射抜く。


「彼女は自らの言葉で、明確に拒絶した。これ以上の要求は、王宮面会規則第十三条に抵触する迷惑行為に該当する。なお、彼女の清掃液の製法については、先般制定された王宮特許法に基づき、エリーゼ個人の知的財産として登録済みだ。権利を争う余地はない」


 アーサーとセシリアの顔から血の気が引いた。


「近衛騎士。面会は終了だ」


 ユリウス様の一言で、扉の外に控えていた騎士たちが入室し、アーサーを両脇から抱えるようにして退出させた。「エリーゼぇ!」という情けない声が、廊下の奥へ消えていく。


 セシリアも立ち上がり、騎士に促されて扉へ向かった。

 だが、敷居を跨ぐ直前。ほんの一瞬だけ足を止め、私のほうを振り返った。


 その目から、涙は消えていた。絹のハンカチを握る手が、小さく震えている。


「……お姉様。お母様に、よく似てこられましたわね」


 その一言だけを残して、セシリアは面会室を出ていった。

 声は震えていた。でも、先ほどまでの芝居の声とは違った。


 あの子も、追い詰められていたのかもしれない。

 傾きかけた実家に、一族の期待を背負わされて。私のところに「権利を取り戻せ」と送り出されて。断られるとわかっていて、それでも来なければならなかった。


 家を出された私と、家に縛られたままのセシリア。

 どちらが自由なのかは、もうわからなかった。



* * *



 二人が去った後。

 私は深く息を吐き出し、改めてユリウス様に向き直った。


「閣下、最後にお力添えいただきありがとうございます」

「僕は規則を述べただけだ。君が自分の力で退けた」


 ユリウス様はそう言って、懐から一通の封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。


「これは?」

「……万が一のために用意していたものだ。もう不要だが」


 封筒を開くと、中には分厚い書類の束が入っていた。

 アーサーとセシリアの両家の財務状況を調査した報告書。カルステッド男爵家が鉱山投資に失敗し、二つの領地を抵当に入れている記録。伯爵家が負債を隠蔽するための二重帳簿を作成している証拠。さらには、彼らが不当な要求をした場合に即座に法的措置を取れるよう、裁判所への申請書まであらかじめ準備されていた。


 すべて、私が自分で対処できなかった場合の、後備えだった。一分の隙もない。


「……閣下」


 一枚一枚めくっていく。調査の範囲も、証拠の精度も、法的手続きの段取りも、隙がない。

 報奨金の話が出てから面会までの、わずか数日間で、これだけの準備を整えていた。


「保険にしては、随分と周到ですわね」


 私が書類を見つめながらそう言うと、ユリウス様は窓の方へ目をやった。


「……僕の性分だ。あらゆる事態に備えるのは」


 そう言う閣下の耳の先が、ほんのり赤い。



* * *


 亡者たちが去ってから、数日が経った。

 王宮は平穏を取り戻し、私もまたいつも通り、管理室で遺物の整理とお茶の準備に励んでいた。


 空間魔術の騒動もおおむね収束していた。生活動線の扉は元に戻り、管理室周辺三十メートルの結界だけがユリウス様の管轄として残っている。

 ただ一つ、私の宿舎の扉だけは、ごく稀に(本当にごく稀にだが)目的地ではなくユリウス様の執務室に繋がることがあった。「残留魔力の影響で時折誤作動する」と閣下は説明されたが、故意でないとは到底思えない。


 その日の夕刻。私が管理室の片付けを終えて退勤しようとした時だった。

 机の上に、見覚えのない羊皮紙の封筒が置かれていた。


 表書きには、几帳面な筆跡でこう記されている。


『エリーゼ殿 ――ユリウス・フォン・クライスより 私信』


 封を切ると、中から数枚の羊皮紙が現れた。

 最初の一枚の表題に目を通した瞬間、私は何度か瞬きを繰り返した。


『エリーゼ・フォン・ハイデンライヒとの恒久的保護契約の必要性に関する論証書』


 ――論証書。


 私は椅子に座り直し、読み始めた。


『前提条件の整理:

 対象者エリーゼ・フォン・ハイデンライヒは、国宝発見の功労者として公的な注目を集めており、今後も第三者による利害的接触のリスクが継続する。本論証書は、対象者の安全を恒久的に確保するための最適な方法論を、論理的に導出することを目的とする。』


 まるで議会に提出する法案のような文体だった。

 私は半ば呆れ、半ば感心しながら頁をめくった。


『論点一:物理的近接性による防衛効率の最大化

 過去の事例分析により、対象者に対する脅威は、対象者から半径五十メートル以内に不審者が接近した段階で顕在化する。この段階で即時対応するためには、防衛者が常に対象者の近傍に位置していることが望ましい。

 空間魔術による扉の書き換えは一定の効果を示したが、副次的被害が過大であった(外交問題の発生:一件、文官の失神:二名、浴槽のスープ汚染:一件、無限回廊の形成:一件)。

 よって、より効率的かつ副次的被害の少ない方法として、防衛者と対象者の生活圏を統合することが最適解と結論づける。

 具体的には――同じ邸宅に居住することが推奨される。』


 ……これは要するに、同居の提案ではないか。

 論理の衣を纏ってはいるが、言っていることの核はかなり大胆ではないか。


『論点二:精神的安定性の相互確保

 対象者は過去に家族および婚約者からの裏切りを経験しており、精神的に孤立するリスクを内包している。このリスクを軽減するためには、信頼できる存在による継続的な支援が有効である。

 なお、本論証書の著者は、対象者が淹れるウバ茶を飲んだ際の精神的安定度が著しく向上することを自覚しており、これは双方向の依存関係が成立しつつあることを示唆する。

 すなわち、本保護契約は一方的なものではなく、相互に利益をもたらす関係であると主張する。』


 今、さりげなく「僕も君に依存している」と書いていないか。

 論証の体裁を保ちつつ、本音が漏れ始めている。


 私は三枚目をめくった。

 ここで、筆跡が変わっていた。


 最初の頁は完璧に整った文字だった。だが、三枚目に入ると文字の間隔がわずかに乱れ始めている。インクの濃淡にもムラが出て、何度か書き直した痕跡があった。


『論点三:空間魔術の非合理的使用に関する自己分析

 著者は、自身の空間魔術の運用が対象者に関する案件において著しく非合理的になる傾向があることを認める。

 扉の書き換えは論理的には防衛手段として正当化し得るが、その規模と副次的影響を鑑みれば、冷静な判断であったとは言い難い。

 この非合理性の原因について、著者は長期間にわたり分析を試みたが、論理的な説明の導出に失敗した。

 以下に、失敗の過程を記す。


 仮説一:対象者は著者にとって優秀な人材であり、人材保全の観点から過剰防衛に至った。

 → 棄却。優秀な人材は他にもいるが、彼らのために空間を捻じ曲げたことは一度もない。


 仮説二:対象者は国宝発見の功労者であり、国家的価値の保全として正当化し得る。

 → 棄却。功績が公表される以前から、著者は対象者の周辺空間を密かに監視していた。国家的価値とは無関係である。


 仮説三:対象者の亜麻色の髪が窓からの光に透ける瞬間を目にした際、胸腔に締め付けられるような感覚が生じるのは、心臓疾患の初期症状である。

 → 医務官による精密診断の結果、身体に異常は認められず棄却。


 仮説四:』


 ここで文章が途切れていた。

 数行分の空白があった。


 その下に、何度も線で消された跡があった。消しては書き、書いては消し、インクが擦れて羊皮紙の表面が少し毛羽立っている。


 その奥に、かろうじて読み取れる文字が残されていた。


『仮説四:著者は対象者を愛している。


 本仮説は、上記すべての非合理的行動を矛盾なく説明する唯一の解である。

 棄却する根拠を、著者は持たない。


 ――僕は、君が好きだ。

 論証書の形式では、もう書けない。

 この感情だけは、どれほどの論理を重ねても正しく表せなかった。

 すまない。』


 最後の一行だけ、やけに丁寧で、少し震えた筆跡だった。


 私はしばらく、その羊皮紙を膝の上に載せたまま動けなかった。


 あの人だ、と思った。

 議会では一字の隙もない条文を書き、外交では相手国の大臣を黙らせ、空間すら捻じ曲げてみせるあの人が。仮説を一つずつ立てては潰し、最後に残った答えを何度も消して、それでも書かずにはいられなかった。

 全部、この四行のための回り道だった。空間魔術も、法律も、あの分厚い書類の束も。


 鼻の奥がじんとした。


 私は管理室の引き出しから赤いインクの瓶を取り出した。

 いつも古文書の校正に使っているものだ。

 ペン先を浸し、論証書の最後の頁の余白に、一行だけ書き添えた。


『本論証書の結論を承認します。

 なお、仮説四について補足いたします。

 対象者もまた、著者を愛しております。

 論理的根拠は不要と判断します。


           エリーゼ・フォン・ハイデンライヒ』


 赤いインクが乾くのを待って、論証書を元の封筒に収めた。

 そして翌朝、管理室を通り抜けた先のユリウス様の執務室に、扉が「誤作動」で繋がったその機会に、閣下の机の上にそっと置いた。



* * *



 その日の午後。

 管理室で遺物の清掃をしていると、扉が開いた。


「エリーゼ」


 振り返ると、ユリウス様が立っていた。

 いつもの顔ではなかった。

 封筒を両手で胸に押し当てている。あの隙のない姿勢が、少しだけ前のめりになっている。


「……承認、と」

「はい。承認いたしました」

「……本当に、承認なのか」

「はい。赤いインクで書きましたので、正式な校正済みですわ」


 私が微笑むと、ユリウス様は力が抜けたように肩を落とした。

 それから、笑った。うまく笑えていない、ぎこちない笑い方だった。でも、この一年で見たどの表情よりも好きだと思った。


「……エリーゼ」

「はい」

「僕はこれから、君のために茶を淹れることを覚えたい。下手でも怒らないでくれるか」

「閣下がお茶を?」

「論証書に書き忘れたことがある。保護契約である以上、僕も君に何かを返すべきだと考えた。だが、法律を作ることと空間を歪めること以外に、僕にできることが何もなくてな。……せめて茶くらいは」


 王弟閣下が、真顔でお茶の弟子入りを申し出ている。


「閣下。お茶を淹れるのに天才的な頭脳は必要ありませんわ。必要なのは、飲んでくれる人のことを想う気持ちだけです」

「……それなら、僕に不足しているものはないな」

「ええ。十分すぎるほどに」


 管理室のワゴンの前で、私はユリウス様に紅茶の淹れ方を教え始めた。

 湯の温度。蒸らし時間。カップの温め方。

 一つ伝えるたびに、閣下は真剣な顔でメモを取っている。空間座標の計算式を書くのと同じペンで「蒸らし四分」と書き込んでいるのが、なんだかおかしくて、嬉しかった。



* * *


 それから数週間後。

 王宮の空間魔術は完全に復旧し、扉はすべて正しい行き先に繋がるようになった。外交問題は円満に解決し、スープまみれの浴槽も清掃され、失神した文官二名は元気に復職した。無限回廊も消滅し、給仕係は「もう二度と真っ直ぐ歩けないかと思った」と涙ぐみながらも平常勤務に戻った。


 ただ一つだけ。

 私の宿舎の寝室にある小さなクローゼットの扉だけは、夜遅くに開けた時だけ、ユリウス様の書斎に繋がることがあった。

 閣下は「残留魔力の自然消滅には時間を要する」と淡々と述べたが、その表情には微塵の反省も見られなかった。


「閣下。この残留魔力は、いつ頃消えるのでしょうか」

「さあ。数年はかかるかもしれないな」

「まあ、数年も」


 私は首を振りながらも、口元が緩むのを抑えきれなかった。


 いつものように管理室の扉を開ける。

 遺物を磨き、同僚たちのためにダージリンを淹れる。

 そして夕方になれば、もう一杯。今度は少しだけ不器用な手つきで淹れられたお茶を、閣下の執務室で受け取る。

 蒸らし時間がまだ安定しないそのお茶は、正直、濃かったり薄かったりする。でも、まあ、飲めなくはない。閣下が「今日のは前回より改善されたはずだ」と妙に自信満々なのも含めて、嫌いではなかった。


 あのドアストッパーが国宝だったように。

 何気ない日常の中にこそ、本当に大切なものは隠れている。


 ダージリンを一口。

 悪くない毎日だ。

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