灯台の白猫 第9話
灯台を離れたあとも、澪の胸は落ち着かなかった。
白猫の輪郭が薄れていたこと。
「それでもだ」と言った声の静けさ。
それらが、何度も脳裏で反芻される。
――嘘は、守っていた。
自分だけでなく、白猫も。
その事実に気づいてしまった以上、澪の中で何かが変わり始めていた。
翌朝、登校すると、遥斗が昇降口で立ち止まっているのが見えた。靴を履き替えながら、何かを考え込んでいるようだ。
「おはよう」
澪が声をかけると、遥斗は顔を上げた。
「あ、おはよう」
一瞬だけ、視線が揺れる。
「……澪さ」
歩き出しながら、遥斗は言った。
「最近、灯台の近く、よく行く?」
澪の心臓が、強く鳴った。
「……どうして?」
問い返しながら、嘘を探す自分がいる。
「この前、夕方にさ」
遥斗は、前を見たまま続ける。
「あの辺、通ったんだ」
「そしたら」
少し言い淀む。
「誰かと話してる声が、聞こえた気がして」
澪の喉が、ひくりと鳴る。
「でも、姿は見えなかった」
「風の音かなって思ったけど」
遥斗は、ちらりと澪を見る。
「澪だった」
断定ではない。
けれど、確信に近い声音だった。
――近づいてきている。
白猫の存在に。
「……一人だよ」
澪は、そう言った。
それは、事実でもあり、嘘でもあった。
「独り言」
付け加える。
遥斗は、少しだけ眉を寄せる。
「そう」
それ以上、追及しなかった。
昼休み、澪は屋上ではなく、校舎の影にある古い倉庫の裏へ向かった。誰も来ない場所。
「……出てきて」
小さく呼ぶ。
白猫は、しばらくしてから現れた。昨日よりも、さらに薄い。
「遥斗が、気づき始めてる」
澪は、すぐに言った。
「声を、聞いたって」
白猫は、目を伏せる。
「時間の問題だ」
「……どうすればいい?」
澪の声は、必死だった。
「私が、嘘をつけば」
「あなたは、いなくならない?」
白猫は、しばらく沈黙した。
その間、風が校舎の壁を撫でる。
「嘘は、俺を繋ぎとめる」
白猫は、ゆっくり言う。
「だが、それはお前を縛る」
澪は、唇を噛む。
「それでも」
声が震える。
「消えるの、嫌だ」
白猫は、澪を見つめる。
その瞳に、影が揺れた。
「守りたいと思ったか」
澪は、頷く。
「……初めて」
白猫は、小さく息を吐いた。
「なら、覚えておけ」
「それは、嘘とは違う」
澪は、白猫を見る。
「選択だ」
その言葉が、胸に落ちる。
放課後、遥斗が澪を呼び止めた。
「澪」
廊下の窓際。夕日が差し込む。
「灯台のこと」
心臓が跳ねる。
「無理に聞くつもりはない」
遥斗は、先に言った。
「でも、何か起きてるなら」
「一人で抱えなくていい」
澪は、遥斗を見る。
――ここで、本当のことを言えば。
白猫は、どうなる?
「……大丈夫」
澪は、選んだ。
「ちょっと、考え事してるだけ」
遥斗は、澪の顔を見つめる。
その沈黙が、重い。
「分かった」
やがて、そう言った。
「でも」
澪に背を向ける前、付け加える。
「嘘だって分かったら」
「俺は、怒らない」
澪の胸が、締めつけられる。
――見抜かれている。
帰り道、澪は灯台へ急いだ。
白猫は、いつもより低い位置に座っていた。
「……嘘、ついた」
澪は、正直に言った。
「あなたを守るために」
白猫は、澪を見上げる。
「その嘘は、重い」
「でも」
澪は、言い切る。
「私は、選んだ」
白猫は、しばらく澪を見つめていた。
やがて、静かに言う。
「それでいい」
夕暮れの灯台に、二つの影が重なる。
だが、白猫の影は、もう完全な形を保っていなかった。
澪は、その儚さから目を逸らさなかった。
灯台の周囲に、夜の気配が滲み始めていた。
空は群青に沈み、海は音だけを残して闇に溶けていく。澪は、白猫の隣に腰を下ろしていた。
二人の影は、もはや同じ濃さではない。
白猫の方が、明らかに薄い。
「……ここ、好きだったな」
白猫が、ぽつりと言った。
澪は、胸が詰まる。
「過去形にしないで」
白猫は、わずかに口元を緩めた。
「俺はな」
海の方を見て続ける。
「嘘が必要な場所に、現れる」
「選べないやつの前に」
澪は、黙って聞く。
「お前は、もう違う」
その言葉が、鋭く胸に刺さる。
「じゃあ」
澪は、声を絞り出す。
「私は、どうすればいい?」
白猫は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり言う。
「嘘に頼らず、俺を守る方法を探せ」
澪は、白猫を見る。
「そんなの……あるの?」
「ある」
白猫は、短く答えた。
「だが、それは痛む」
風が、灯台の階段を駆け上がる。
白猫の輪郭が、風に削られるように揺らぐ。
「……消えるの?」
澪は、ついに聞いた。
白猫は、否定もしなかった。
「可能性はある」
その答えが、胸を締めつける。
「俺は、役目でできている」
「役目が終われば、薄れる」
澪は、俯く。
「私が、大人になっても?」
白猫は、澪を見る。
「それは、まだ分からない」
灯台の光が、遠くで一瞬だけ瞬いた。
澪は、拳を握りしめる。
「私」
深く息を吸う。
「嘘をやめる」
白猫の目が、わずかに見開かれる。
「でも」
澪は、続ける。
「全部話すわけじゃない」
白猫は、黙っている。
「選ぶ」
澪は、はっきり言う。
「誰に、どこまで話すか」
白猫は、静かに頷いた。
「それが、答えの一つだ」
澪は、胸の奥で何かが固まるのを感じた。
――嘘じゃない。
――隠すけど、偽らない。
その境界。
それが、自分の守り方。
帰り道、澪はスマホを握りしめていた。
遥斗の名前が、画面にある。
指が、迷う。
やがて、短いメッセージを打った。
『今度、灯台の話、少しだけする』
送信。
すぐに既読がつく。
『無理しなくていい』
その返信に、澪は微笑んだ。
灯台に戻ると、白猫は座っていた。
「話す、のか」
澪は、頷く。
「全部じゃない」
「でも」
白猫を見る。
「一人で抱えない」
白猫は、ゆっくり目を閉じた。
「それでいい」
灯台の影に、静けさが満ちる。
白猫の姿は、さらに薄い。
それでも、まだそこにいる。
澪は、その存在を確かめるように、視線を離さなかった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




