灯台の白猫 第7話
放課後の教室には、夕方特有の匂いが残っていた。消し忘れたチョークの粉と、窓から入り込む潮の気配が、どこか混ざり合っている。
遥斗に教えてもらいながら問題を解き終えたあと、澪は一人、ノートを閉じた。
「……ありがとう」
その言葉は、嘘じゃなかった。
「どういたしまして」
遥斗は、鞄を肩に掛けながら言う。
「じゃあ、俺は先に」
澪は、頷いた。
廊下へ向かう遥斗の背中を見送りながら、胸の奥に、かすかな温度が残るのを感じていた。
――ちゃんと、息ができた。
その感覚に戸惑いながら、澪は帰り支度をする。
校舎を出ると、空はすでに茜色に染まっていた。遠くで、海鳥の声が響く。
気づけば、足は自然と灯台の方へ向かっていた。
灯台の階段を上がると、白猫はいつもの場所にいた。欄干の上、風を受けながら、静かに座っている。
「……今日は、早いな」
澪が言うと、白猫はちらりと目を向けた。
「学校で、何かあった」
断定だった。
「……見てたの?」
「見なくても分かる」
白猫は、淡々と続ける。
「嘘の匂いが、少し薄くなった」
澪は、苦笑する。
「いいこと?」
「どうだろうな」
白猫は、灯台の外――海の方を見た。
「お前は、嘘をつかなかったわけじゃない」
「でも、嘘に気づいた」
澪は、その言葉を反芻する。
「……それだけで、違う?」
「違う」
即答だった。
「嘘は、無自覚なときに一番深く刺さる」
白猫は、澪を見下ろす。
「今日は、刺さりきる前に止まった」
澪は、胸に手を当てる。
確かに、あのとき。
真琴に教えるふりをした瞬間、遥斗に見抜かれた瞬間。
――あ、嘘だ。
そう思えた。
「……でも」
澪は、言葉を探す。
「結局、嘘はついた」
「それで、人を騙した」
白猫は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「お前は、“人を騙した自分”を許せない」
澪の肩が、わずかに震える。
「それは、過去と繋がっている」
白猫の声は、いつもより静かだった。
「まだ、思い出せない?」
澪は、首を振る。
「……怖い」
本音だった。
「思い出したら」
声が、かすれる。
「もっと、嘘つきになる気がする」
白猫は、澪の近くへ降りてきた。影が、澪の足元に重なる。
「逆だ」
「真実に触れた者ほど、嘘は減る」
澪は、白猫を見る。
「本当?」
「本当だ」
白猫は、少しだけ目を細めた。
「嘘は、傷を隠すための布だ」
「傷が見えなくなれば、布はいらない」
風が、灯台を撫でる。
澪の脳裏に、断片的な映像がよぎった。
水の音。
白い手。
名前を呼ぶ声。
「……っ」
澪は、頭を押さえた。
「今は、いい」
白猫は、すぐに言った。
「無理に思い出すな」
「だが」
少し間を置く。
「逃げ続けると、嘘は厚くなる」
澪は、ゆっくり息を吐いた。
「……今日は」
顔を上げる。
「少しだけ、正直だった」
白猫は、頷いた。
「それで十分だ」
夕暮れの灯台に、長い影が伸びる。
澪の影と、白猫の影が、並んで揺れていた。
――嘘をつく自分を、初めて嫌いにならなかった。
その小さな変化に、澪はまだ名前をつけられずにいた。
翌日、澪はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は曇り空で、海の色も鈍く沈んでいる。天気のせいだけではない。胸の奥に、まだ言葉にならない不安が残っていた。
――遥斗は、どこまで気づいているのだろう。
学校へ向かう道すがら、その考えが何度も浮かぶ。
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「おはよう、澪」
遥斗だった。
「おはよう」
澪は、少しだけ間を置いて返した。
その“間”に、嘘がないことを自分で確かめる。
教室へ向かう途中、遥斗は澪の歩幅に合わせて並んだ。
「昨日のあとさ」
遥斗が、前を見たまま言う。
「ちょっと考えた」
澪は、黙って聞く。
「澪って、嘘をつくのが上手い」
胸が、ひくりと鳴る。
「……褒めてる?」
「どっちかと言うと」
遥斗は、困ったように笑った。
「癖、かな」
澪は、否定しなかった。
「でもさ」
遥斗は続ける。
「隠したいっていうより、守りたいって感じがする」
その言葉に、澪は足を止めた。
「守りたい?」
「うん」
遥斗も立ち止まり、澪を見る。
「自分とか、周りとか」
「どっちも」
澪の喉が、きゅっと縮む。
それは、今まで誰にも言われたことのない言葉だった。
「……違うよ」
反射的に、澪は否定しかける。
けれど、途中で止めた。
――今のは、嘘だ。
「……分からない」
そう言い直す。
遥斗は、何も言わずに待っていた。
「守ってるつもり、なのかも」
澪は、小さく続けた。
「でも、それで誰も守れてない気もする」
遥斗は、静かに頷いた。
「それ、正直だ」
胸の奥が、少し温かくなる。
昼休み。澪は一人、屋上へ上がった。普段は使われていない場所で、風の音だけが響く。
「……ここまで来るとは思わなかった」
白猫の声が、背後からした。
澪は振り返る。
「学校に来るんだ」
「来ないと思っていたか」
「うん」
白猫は、フェンスの上に座る。
「お前の嘘が、変わり始めている」
「変わる?」
「隠すための嘘から、守るための嘘へ」
澪は、眉を寄せる。
「それって……いいこと?」
「まだ、分からない」
白猫は、正直に言った。
「だが」
澪を見る。
「選べるようになり始めている」
その言葉に、澪は息を呑む。
――選ぶ。
今まで、嘘は反射だった。
考える前に口をついて出ていた。
「昨日」
澪は、ぽつりと言う。
「嘘だって、分かった」
「それでも、言った」
「でも、後で……やり直せた」
白猫は、静かに聞いていた。
「それが、分岐点だ」
白猫は言う。
「嘘をやめるかどうかじゃない」
「嘘を選ぶか、選ばないかだ」
澪は、フェンス越しに空を見る。
曇り空の向こうに、薄い光が滲んでいた。
「……怖いよ」
「選ぶの」
白猫は、澪の近くへ降りる。
「怖いのは、生きている証だ」
その言葉に、澪は小さく笑った。
屋上の隅で、二つの影が揺れる。
白猫の影は、風に溶けるように薄くなっていた。
澪は、その変化に気づき、胸を押さえる。
「……大丈夫だよね」
白猫は、答えなかった。
ただ、澪の足元に影を残したまま、静かに海の方を向いていた。
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