灯台の白猫 第6話
朝の教室は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
窓から差し込む光は柔らかく、机に伏せたままの生徒や、眠そうに欠伸を噛み殺す声が点在している。澪は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出しながら、昨夜の灯台を思い出していた。
白猫の声は、夢ではなかった。
その確信だけが、胸の奥で静かに脈打っている。
「澪、おはよ」
隣の席から、明るい声がかかる。
同じクラスの女子――真琴だった。短く切った髪を揺らしながら、無邪気に笑う。
「昨日さ、数学のプリントやった?」
一瞬の沈黙。
澪の脳裏に、白猫の目がよぎる。
――嘘をつく前の、あの感覚。
「うん、ちょっとだけ」
口をついて出た言葉は、半分だけ本当だった。
実際には、ほとんど手をつけていない。それでも「やってない」と言えば、真琴はきっと気を遣う。そう思った瞬間に、この言い方を選んでいた。
「さすが澪。私ぜんぜん分かんなくてさ」
真琴は笑いながら言う。
澪も、つられるように口角を上げた。
――誰も傷つかない。
――空気も壊れない。
それでいいはずだった。
けれど、胸の奥が、わずかに重い。
昼休み。澪は一人、校舎裏のベンチに腰を下ろしていた。海は見えないが、潮の匂いだけが、微かに風に混じって届く。
「……また、やっちゃった」
小さく呟いた瞬間だった。
「“ちょっとだけ”は、便利な言葉だな」
低く、静かな声。
澪は、肩を震わせた。
振り返らなくても分かる。
「……ここ、学校だよ」
「だから何だ」
いつの間にか、白猫はベンチの背もたれに座っていた。昼の光の中でも、その白さは妙に際立っている。
「誰も、俺の声は聞かない」
澪は、唇を噛む。
「さっきの、真琴への返事」
白猫は、淡々と言った。
「嘘だ」
「……全部じゃない」
澪は反射的に返す。
「少しは、やったし」
「そうだな」
白猫は、否定しなかった。
「だが、お前が守りたかったのは“事実”じゃない」
「……」
「嫌われない自分だ」
その言葉は、痛いほど正確だった。
澪は、視線を落とす。
「本当のこと言ったら、迷惑かける」
「期待に応えられないって思われる」
言葉が、止まらなくなる。
「だから、これでいい」
「誰も傷つかない」
白猫は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「その嘘で、一番傷ついているのは誰だ」
澪は、答えられなかった。
答えが、分かってしまうから。
白猫は、澪の足元に影を落とす。
「嘘は、防壁だ」
「だがな」
その声は、少しだけ柔らいだ。
「壁の内側で、息ができなくなることもある」
遠くで、チャイムが鳴る。
澪は、立ち上がった。
「……分かってる」
本当だった。
だからこそ、苦しい。
白猫は、澪を見上げる。
「分かっているだけ、昨日よりはましだ」
その言葉に、救われたのか、突き放されたのか。
澪には、まだ分からなかった。
ただ一つ。
嘘は、自分を守っているつもりで、少しずつ自分を削っている。
その事実だけが、はっきりと胸に残っていた。
午後の授業は、眠気と戦う時間だった。
黒板に書かれる数式を追いながら、澪の意識は何度も別の場所へ逸れていく。白猫の声が、耳の奥に残って離れなかった。
――壁の内側で、息ができなくなる。
自分は、ちゃんと息をしているだろうか。
「澪」
小さな声で名前を呼ばれ、澪は顔を上げた。
前の席の真琴が、こっそり振り返っている。
「さっきのプリント、ちょっと教えて」
周囲に聞こえないように、口だけを動かす。
一瞬、時間が止まった。
胸の奥で、何かが軋む。
教えて、と言われるほど理解していない。それは事実だ。けれど、ここで「分からない」と言えば、昨日の返事が嘘だったと気づかれるかもしれない。
――大丈夫。
――少しなら、なんとかなる。
澪は、ノートを引き寄せた。
「……ここ」
曖昧な指先が、問題の一部を指す。
「この公式、使うだけだから」
声は、思ったよりも滑らかに出た。
「ほんと?」
真琴は、安心したように笑う。
「助かるー」
その笑顔を見た瞬間、澪の胸が、ちくりと痛んだ。
――まただ。
嘘は、形を変えて続いていく。
放課後。澪は教室に残り、問題集を開いていた。真琴に教えたはずの箇所が、どうしても解けない。
「……おかしいな」
消しゴムのカスが、机に溜まっていく。
そのとき、斜め後ろから声がした。
「そこ、違う」
遥斗だった。
いつの間にか、教室にはほとんど人が残っていない。
「公式は合ってるけど、代入の仕方が逆」
澪は、はっとして顔を上げる。
「……見てたの?」
「うん」
遥斗は、あっさり答えた。
「さっきから、ずっと」
胸が、嫌な音を立てる。
「真琴に教えてたところだよね」
澪は、何も言えなくなる。
遥斗は、澪の手元を覗き込みながら言った。
「無理してた?」
その言い方には、責める響きがなかった。
だからこそ、澪は苦しくなる。
「……ちょっとだけ」
それは、今日一番正直な言葉だった。
遥斗は、頷いた。
「そうだと思った」
「教え方が、分からない人のそれだったから」
澪は、俯く。
「……嫌われたくなかった」
ぽつりと零れた本音に、自分でも驚いた。
遥斗は、少し考えてから言う。
「嫌われないための嘘ってさ」
「優しいけど、孤独だよな」
澪は、思わず遥斗を見る。
その目は、澪と同じ色をしていた。
――言えなかった側の目。
「俺も、よくやる」
遥斗は、苦笑する。
「本当は分からないのに、分かったふり」
「平気なのに、平気じゃないふりの逆」
澪の胸が、静かに揺れた。
「……じゃあ、どうすればいいの」
尋ねる声は、震えていた。
遥斗は、すぐには答えなかった。
「正解は、知らない」
正直な答えだった。
「でも」
少し間を置いて、続ける。
「嘘をついたって気づいた瞬間に、やり直せる」
「今みたいに」
澪は、問題集を見つめる。
消せば、書き直せる。
たったそれだけのことなのに、今まで出来なかった。
「……教えて」
澪は、小さく言った。
遥斗は、少し驚いたように目を見開き、すぐに笑った。
「うん」
その声は、軽かった。
教室の隅で、二人の影が机に並ぶ。
澪は気づかなかったが、窓の外、校舎の影が伸びる先に、白い影が一瞬だけ揺れていた。
――嘘をやめたわけじゃない。
けれど、嘘に気づいた。
それだけで、胸の奥の息苦しさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
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