灯台の白猫 第4話
翌朝、澪は教室に入った瞬間、わずかな違和感を覚えた。
空気が、ほんの少しだけ変わっている。騒がしさの質が違うというか、視線の向きが、いつもと違う。
「……?」
自分の席に向かう途中、何人かのクラスメイトと目が合った。すぐに逸らされるが、その速さが妙に揃っている。
「澪、おはよ」
真奈が声をかけてくる。
「おはよう」
返事をしながら、澪は小さく首を傾げた。
「なんかさ」
真奈は机に頬杖をつき、声を潜める。
「今日、ちょっと雰囲気違くない?」
「……そう?」
澪は即座に否定した。自分でも理由は分からないが、そう答えなければいけない気がした。
「うーん。気のせいかな」
真奈はそれ以上追及しなかったが、澪の胸の奥には、違和感だけが残った。
授業が始まると、教室の扉が開き、担任が一人の生徒を連れて入ってきた。
「みんな、静かに。今日からこのクラスに来ることになった生徒を紹介する」
ざわめきが一段階大きくなる。
澪は、黒板の前に立つその姿を、何気なく見た。
背は平均より少し高く、黒髪は短く整えられている。都会的、という言葉がふと浮かんだ。制服の着こなしも、どこかこの町の生徒とは違う。
「遥斗です。よろしく」
簡潔な挨拶。声は落ち着いていて、必要以上に愛想を振りまかない。
その瞬間、澪は奇妙な感覚に襲われた。
――見られている。
遥斗の視線が、教室を一巡し、澪のところで一瞬だけ止まった気がした。
ほんの一瞬。けれど、確かに。
胸の奥が、ひくりと跳ねる。
「席は……澪の後ろが空いてるな。そこに座れ」
担任の声で、澪の肩がわずかに強張る。
椅子が引かれる音が、すぐ後ろで響いた。
授業が始まっても、澪は落ち着かなかった。背後に、人の気配を強く感じる。今まで、あまり意識したことのない距離感だった。
黒板の文字を書き写しながら、澪は自分に言い聞かせる。
――気のせい。たまたま。
けれど、休み時間になると、その感覚ははっきりした形を持った。
「ねえ」
後ろから、声がした。
振り返ると、遥斗が立っていた。
「……なに?」
澪は、無意識に身構える。
「さっきから、よく海の方見てるなって」
胸が、きゅっと縮む。
「……そう?」
「うん」
遥斗は、責めるような口調ではなかった。ただ、事実を述べているだけの声。
「この町、初めてだからさ。みんなが何見てるのか、気になって」
「別に……」
澪は言葉を濁した。
「何も見てないよ」
それは、嘘だった。
遥斗は、少しだけ首を傾げる。
「……そっか」
それ以上、深くは踏み込んでこなかった。その態度に、澪は拍子抜けする。
昼休み、澪は一人で校舎裏に出た。潮の匂いはしないが、風の向きで、遠くの海を感じる。
――気づかれている。
何に、とは言えない。ただ、これまで自分だけのものだった世界に、他人の視線が差し込んできた感覚があった。
放課後、澪は急ぐように灯台へ向かった。
階段の脇に、白猫はいた。
「……今日、誰か来た」
白猫は、澪を見るなり言う。
「学校に?」
「ああ」
澪は、少し驚いた。
「分かるんだ」
「お前の影が、揺れた」
白猫は、遠くを見るような目をしている。
「その男、厄介だ」
胸が、どくりと鳴る。
「……どうして?」
「嘘に、違和感を覚える目をしている」
澪は、思い当たる節がありすぎて、言葉を失った。
遥斗の視線。問い方。踏み込みすぎない距離。
――見抜かれる。
その予感が、澪を不安にさせた。
「……私は、ちゃんと隠せてるよね」
白猫は、澪を見つめる。
「隠しているつもりでいるだけだ」
その言葉が、胸に刺さる。
灯台の影が、いつもより濃く、長く伸びていた。
数日後、放課後の空は重たい雲に覆われていた。雨が降り出しそうな、湿った空気。澪は、いつもより少しだけ足早に灯台へ向かっていた。
胸の奥が、落ち着かない。
あの日から、遥斗の視線が気になるようになった。話しかけられることは少ない。それでも、教室の後ろから向けられる静かな観察の気配が、澪の神経を刺激する。
――見られている。
それは、責められる視線ではない。ただ、澪の嘘を、澪自身よりも正確に捉えようとする目。
灯台の階段に差しかかったとき、澪は足を止めた。
誰かが、いる。
風の音に混じって、微かな足音が聞こえた気がした。
「……?」
振り返ると、道の向こうに人影がある。こちらを見ている。
澪の心臓が、跳ねた。
「……まさか」
人影は、こちらに近づいてくる。
近づくにつれ、輪郭がはっきりする。制服姿。見覚えのある横顔。
「……遥斗?」
名前を呼ぶと、相手は足を止めた。
「やっぱり、ここか」
遥斗は、少しだけ困ったように笑った。
「偶然?」
澪は、思わず問いかける。
「半分は」
遥斗は正直に答えた。
「放課後、いつも海の方に行くから。気になってた」
胸が、ぎゅっと縮む。
「……尾けてきたの?」
「そんなつもりじゃなかった」
遥斗は、慌てて首を振る。
「ただ、話せる場所がここしかない気がして」
澪は、言葉を失った。
ここは、自分だけの場所だったはずだ。白猫と、自分だけの世界。
「……帰って」
思わず、きつい声が出る。
遥斗は、少しだけ目を見開いた。
「悪かった」
すぐに謝り、踵を返そうとする。その様子が、逆に澪の胸をざわつかせた。
――違う。
怒りたいわけじゃない。ただ、怖かった。
「……待って」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
遥斗は振り返る。
「ここ……危ないから」
咄嗟に選んだ理由。もっともらしい、けれど本当ではない言葉。
遥斗は、澪をじっと見つめた。
「それ、理由じゃないよな」
胸が、強く締めつけられる。
「……何が?」
「俺がここに来たこと、嫌なんだろ」
澪は、答えられなかった。
白猫の存在が、すぐそばにある。気配だけが、濃くなる。
「ここ、澪にとって大事な場所なんだろ」
遥斗は、踏み込まない距離を保ったまま言う。
「誰にも見せたくない場所」
その言葉に、膝が少しだけ震えた。
「……どうして、そんなこと分かるの」
「分かるよ」
遥斗は、静かに言った。
「嘘つくときと同じ顔してる」
その瞬考虑、澪は息ができなくなった。
――見抜かれている。
白猫の言葉が、脳裏をよぎる。
『厄介だ』
澪は、思わず視線を逸らした。
「……帰って」
今度は、さっきよりも弱い声。
遥斗は、少しだけ考えてから頷いた。
「今日は、帰る」
そして、付け加える。
「でも、聞きたいことがある」
澪は、顔を上げた。
「澪が、ここで誰と話してるのか」
空気が、凍りついた。
白猫が、低く唸る。
「答えなくていい」
遥斗は、すぐに言った。
「今は。ただ……独り言にしては、ちゃんと会話してるように見えた」
澪の胸が、どくどくと鳴る。
「気のせいだよ」
即答だった。
嘘だと、自分でも分かる。
遥斗は、しばらく澪を見つめてから、微かに笑った。
「そうか」
その笑顔が、なぜか怖かった。
責めるでも、疑うでもない。ただ、理解しようとしている目。
「じゃあ、また学校で」
遥斗はそう言って、来た道を引き返した。
澪は、その背中が見えなくなるまで、動けなかった。
白猫が、澪の足元に現れる。
「言っただろ」
低い声。
「嘘に、違和感を覚える目をしている」
「……どうすればいいの」
澪は、絞り出すように言った。
白猫は、しばらく考えるように黙った。
「嘘を、重ねるな」
「……無理だよ」
「無理でも、重ねるな」
白猫の声は、いつもより強かった。
「重ねた嘘は、いずれ自分を見失わせる」
澪は、唇を噛みしめる。
灯台の影が、二人の足元に重なっていた。
その夜、澪は自分の部屋で、遥斗の言葉を何度も反芻していた。
『嘘つくときと同じ顔』
そんな顔を、自分はしているのだろうか。
鏡を覗いてみる。そこにいるのは、いつもと変わらない自分。
――違う。
どこか、ひびが入っている。
そのひびは、白猫だけが知っているはずだった。
けれど、もう一人、気づき始めた人間がいる。
それが、怖くてたまらなかった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




