白猫の消失 第3話
しばらくの間、誰も動かなかった。
作業員たちも、機械を止めたまま、崩れた灯台を見つめている。長い時間を費やした仕事の終わりを、言葉にする必要がない、そんな沈黙だった。
やがて、一人が無線で何かを伝え、現場に少しずつ動きが戻る。
町の人たちは、用事を思い出したように、ぽつぽつと帰り始めた。
「昔はさ、あそこから船を見てたんだよ」
「もう、時代だな」
そんな会話が、澪の耳に届く。
灯台は、誰かにとっての思い出でもあった。それを壊したわけではない。形を変えただけなのだと、澪は思った。
気づくと、周囲は、随分と静かになっていた。
残っているのは、作業員と、澪と遥斗、それから、崩れた灯台の跡。
潮の満ち引きの音が、はっきりと聞こえる。
澪は、胸に手を当てる。
そこに、重たい痛みは、もうない。代わりに、小さく、あたたかいものが、確かにあった。灯り、というほど強くはない。でも、完全な暗闇でもない。白猫がいなくなった場所に、何かが残っている。
それは、白猫の代わりではなく。白猫が残していったもの。
澪は、そう理解した。
遥斗が、少し照れたように言う。
「帰る?」
澪は、頷きかけて、ふと立ち止まる。
「……もう少しだけ」
「うん」
遥斗は、何も聞かずに了承した。
澪は、崩れた灯台に、そっと目を向ける。
心の中で、名前を呼ぶ。声には、出さない。返事は、ない。
それでも、寂しさは、もう支配的ではなかった。
過去は、消えない。でも、今は、足元にある。
澪は、確かめるように、地面を踏みしめた。
遥斗は、少し離れた場所で、澪を待っていた。
澪は、一人で、灯台の跡地に近づく。
ロープの内側に入ることはできないが、崩れた瓦礫は、まだ生々しい存在感を放っていた。
白い破片。錆びた金属。砕けた階段の一部。
そのどれもが、かつて「灯り」を支えていたものだ。
澪は、しゃがみ込み、瓦礫の隙間を覗き込む。
探しているわけではない。
確かめているのだ。
――もう、いない。
白猫の気配は、どこにもない。
以前なら、その不在に、耐えられなかっただろう。
名前を呼び。声を探し。
自分の中に嘘を作り続けた。
でも今は、いないことを、ちゃんと受け止められる。
澪は、小さく息を吐いた。
「……行くね」
誰に向けた言葉でもない。それでも、言葉は必要だった。
風が、瓦礫の隙間を抜けていく。白い粉塵が、ふわりと舞った。
一瞬だけ。それが、猫の毛のように見えた。
錯覚だと、分かっている。それでも、澪は、微笑んだ。
過去は、影として寄り添うものではなく。記憶として、背中を押すものになった。
立ち上がり、遥斗の方へ戻る。
歩くたび、足音が、確かなリズムを刻む。
遥斗が、澪を見る。
「……もう、いい?」
澪は、はっきりと頷いた。
「うん。もう、大丈夫」
その言葉に、以前のような震えはなかった。
嘘でもない。ただし、完全な真実でもない。
それでも。今の澪には、それで十分だった。
遠くで、海が光る。波が、変わらず岸に寄せている。灯台は、もうない。
それでも、海は、道を失っていない。
澪は、その事実を、静かに胸に刻んだ。
空の色が、ゆっくりと変わっていく。
青は薄まり、橙が混じり、やがて紫に近づいていく。
作業員たちは、片付けを始めていた。
重機の音は、もう荒々しさを失い、日常に戻る準備をしている。
澪と遥斗は、少し離れた岩場に腰を下ろした。
視線の先には、灯台のあった場所。そこは、今や、形のない空白だ。
澪は、膝を抱え、海を見つめる。
波は、夕焼けを映して、きらきらと揺れている。
その光が、胸の奥に残る温かさと、どこか似ていた。
白猫の声が、脳裏をよぎる。
――嘘つき。
責める響きではない。
確かめるための言葉。
澪は、自分に問いかける。
私は、今、嘘をついている?
「もう大丈夫」
さっき口にした言葉を、心の中で反芻する。
完全な真実ではない。でも、逃げるための嘘でもない。前に進むための、仮の言葉。
それが、白猫の言っていた「最後の嘘」なのだと、澪は、少しずつ理解し始めていた。
遥斗が、ぽつりと言う。
「夕日、きれいだな」
澪は、頷く。
「うん」
それ以上の言葉は、必要なかった。
沈黙が、心地いい。
澪は、胸に手を当てる。
まだ、完全に癒えたわけじゃない。
夜になれば、思い出は、また顔を出すだろう。
それでも。今は、この光を、ちゃんと見ていられる。
それが、何よりの変化だった。
白猫は、もういない。でも、白猫の言葉は、澪の中に残っている。
嘘をつくこと。
本音を隠すこと。
そのどちらも、澪の一部だ。
大切なのは、どちらを選ぶか。
澪は、そう思えた。
日が沈むと、海は一気に色を失った。
夕焼けの名残は、水平線の奥にわずかに残るだけで、空は深い群青へと変わっていく。
灯台のあった場所は、もう暗闇に溶けていた。
そこに、かつて灯りがあったことを、知らなければ気づかないほどに。
澪と遥斗は、立ち上がる。
帰り道は、昼間よりも静かだ。
足元で、小石が転がる音が、やけに大きく聞こえる。
澪は、歩きながら、空を見上げた。
星は、まだ少ない。でも、確かに、いくつか瞬いている。
白猫は、夜が好きだった。
そんな記憶が、ふと浮かぶ。
理由は、分からない。でも、そうだった気がする。
澪は、胸の奥で、小さく微笑んだ。
遥斗が、歩調を合わせる。
「明日……どうする?」
澪は、少し考える。
すぐには答えが出ない。
それでも、立ち止まらなかった。
「明日になってから、考える」
それでいい。
未来は、今、決めなくていい。
遥斗は、頷く。
「そっか」
二人は、町へ続く道を歩いていく。
背後には、もう灯台はない。
けれど。澪の中には、確かに残っている。
白猫が指摘し続けた、心の影。
そして、それを見つめることができるようになった、自分。
夜風が、澪の髪を揺らす。
澪は、そっと目を閉じる。
――私は、もう大丈夫。
その言葉は、まだ嘘だ。でも、必要な嘘だ。
明日、また本音に近づくための。
そう思えた。
海の向こうで、波が光を反射する。
灯台のない夜でも、道は、完全には失われていなかった。
澪は、そのことを、初めて信じられた。
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