白猫の消失 第2話
階段を下りる足取りは、来たときよりも軽かった。
白猫の姿は、もうない。振り返っても、白い影は現れない。
それでも澪は、足を止めなかった。
扉の前に立つと、外の光が、隙間から細く差し込んでいる。
押し開けると、潮の匂いと風が一気に流れ込んできた。
「……終わった?」
ロープの向こうで待っていた遥斗が、そう尋ねる。
澪は、一瞬だけ考えてから、首を縦に振った。
「うん。たぶん」
遥斗は、それ以上聞かなかった。
聞かない、という選択をしてくれたことが、澪にはありがたかった。
作業員の一人が、合図を出す。機械の音が、大きくなる。
澪は、灯台を見上げる。
白く塗られた外壁。長い時間、ここに立ち続けてきた塔。自分の記憶よりも、ずっと古い存在。それなのに、今まで、自分の中にあった灯台のほうが、重かった。
遥斗が、澪の横に立つ。
「……怖い?」
澪は、少しだけ首を振る。
「怖くない、って言ったら嘘になる」
正直な言葉だった。でも。
「でも、逃げたい感じは、しない」
遥斗は、短く息を吐いて、笑った。
「それなら、いい」
二人並んで、灯台を見つめる。
金属音が、空気を震わせる。
白猫のことを、考えないようにしているわけじゃない。
ただ、思い出が、痛みだけじゃなくなっている。
それに気づいたとき、澪は、胸の奥が少しだけ温かくなった。
遥斗が、ぽつりと言う。
「あのさ」
「なに?」
「……ちゃんと、見送ろう」
澪は、頷いた。
「うん」
風が強くなり、雲が流れる。
灯台の影が、少しずつ形を変えていく。
それは、消える影ではなく。
次の場所へ移っていく影のように、澪には見えた。
最初の衝撃は、思っていたよりも静かだった。
大きな音が鳴り響く――そんな予想は、あっさり裏切られる。重機が壁に触れた瞬間、鈍い振動が地面を伝い、澪の足裏にだけ、確かな感触として届いた。
崩れる、というより。ほどけていく。
長い時間をかけて積み上げられたものが、役目を終え、静かに形を失っていくようだった。
白い外壁に、細い亀裂が走る。そこから、粉のような破片が、はらはらと落ちていく。
澪は、目を逸らさなかった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
でも、それは痛みというより、深く息を吸い込む前の感覚に近かった。
――終わる。
そう、思った。幼い頃の記憶。夜の海の匂い。呼んでも届かなかった声。
全部が、灯台の中に閉じ込められていた気がしていた。
だから、壊れたら、自分も一緒に崩れてしまうと、どこかで信じていた。でも灯台が崩れても、澪は、ここに立っている。
足は震えていない。呼吸も、乱れていない。
遥斗が、澪の様子を盗み見るようにしてから、何も言わずに前を向き直った。
その距離感が、ちょうどよかった。
突然、風が吹く。強く、潮の匂いを含んだ風。その瞬間、澪の耳の奥で、かすかな声がした。
――嘘つき。
聞き慣れた、低くて、少しだけ優しい声。
澪の肩が、わずかに揺れる。でも、振り返らない。
もう、姿を探さない。
「……うん」
澪は、心の中で答える。
「嘘だよ。でもね」
胸に、手を当てる。
「前より、ちゃんと呼吸できてる」
返事は、なかった。ただ、風が、もう一度だけ強く吹いた。
それで十分だった。
灯台の上部が、ゆっくりと傾く。影が、地面を滑るように移動する。その影の中に、白い輪郭は、もう存在しなかった。けれど澪は、不思議と寂しくなかった。
影が消えた場所に、空白が生まれたからこそ。
そこに、新しい光が差し込む気がした。
最後の一撃は、予告なく訪れた。
金属音が一段高くなり、次の瞬間、灯台の胴体が大きく歪む。長年、海と風に耐えてきた塔は、低い唸り声を上げるようにして、ゆっくりと崩れ始めた。
白い壁が割れ、内部の骨組みが露わになる。土煙が、空へと舞い上がる。
澪は、息を止めていた。
音も、振動も、すべてが現実なのに、どこか夢を見ているようだった。
崩れる瞬間。澪の胸に、熱いものが込み上げる。
視界が、滲んだ。涙だと気づくのに、少し時間がかかった。泣いているのに、取り乱してはいない。ただ、静かに、溢れてくる。
――守れなかった。
その言葉が、胸の奥に浮かぶ。でも、以前とは、響き方が違った。責める刃ではなく、事実を認める、柔らかい言葉に近い。
あのとき、自分は、精一杯だった。小さな体で、小さな選択しかできなかった。それでも、逃げたわけじゃない。
澪は、そう思えるようになっていた。
遥斗が、そっと、澪の隣に立つ。
何も言わない。肩が触れるか触れないか、その距離。それが、今の澪には、十分だった。
灯台は、ついに地面へと倒れ込む。
大きな音。煙。
そして、静寂。
耳鳴りのような余韻が、しばらく残る。
澪は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたものが、一緒に抜けていく。涙を、指で拭う。
遥斗が、初めて口を開いた。
「……終わったな」
澪は、頷く。
「うん。終わった」
それは、喪失を示す言葉ではなかった。区切りを受け入れる言葉だった。
澪は、もう一度だけ、崩れた灯台を見る。
そこには、白猫の影も、過去の自分も、確かにあった。でも今は。ここには、瓦礫と空と、海だけが広がっている。
そして、自分は、立っている。




