白猫の消失 第1話
朝の空は、やけに澄んでいた。
雲が少なく、音も少ない。
取り壊し当日だというのに、町は不思議なほど静かだった。
澪は、少し早起きをして、灯台へ向かう誰にも告げていない。遥斗にも。
これは、自分一人で来るべきだと、分かっていた。
坂道を上る足取りは、軽くはない。でも、重くもなかった。
白猫が、横を歩いていないことに、もう違和感はない。
――いないのが、当たり前。
灯台の前に着くと、工事用のロープが張られている。
黄色と黒の縞模様が、やけに現実的だ。
澪は、その手前で立ち止まる。
ここから先は、もう「特別な場所」じゃない。そう、思っていた。でも。
風が吹く。澪の足元を、白いものが一瞬だけ横切った。
錯覚だ。そう分かっている。
それでも、澪は視線を落とした。
「……もう、出てこなくていいよ」
声は、優しかった。
白猫に向けたというより、自分に向けた言葉だ。
灯台は、ただの建物になる。白猫は、ただの記憶になる。それでいい。
澪は、ロープの外側から、灯台を見上げた。
高く、白く、古い。これまでと、何も変わらない。
変わったのは、澪の立ち位置だけだ。
――守られる側から、立つ側へ。
胸の奥が、静かに震える。
怖さじゃない。確かめだ。
白猫がいなくなった今、自分は、ここに立てるのか。
澪は、一歩、前に踏み出した。
遠くで、金属が擦れる音がした。
作業車のエンジン音が、朝の静けさを少しずつ削っていく。
澪は、ロープの外側に立ったまま、動かなかった。
町の人たちが、ぽつぽつと集まり始める。
「もうそんな時期か」
「長かったな」
そんな声が、風に乗って届く。
誰も、白猫の話はしない。当然だ。
澪だけの存在だったのだから。
作業員が、ヘルメットを被り、灯台の周囲を確認している。
その動きが、やけに現実的で、澪の胸を少し締め付けた。
――見えなくなった。
改めて、そう思う。
白猫の姿が、完全に浮かばない。
以前なら、こういうとき、必ずいた。足元に。影の中に。問いを投げるために。でも、今は、いない。
澪は、ゆっくりと息を吐く。
逃げたくなる衝動は、ない。
それが、何よりの証拠だった。
灯台が壊れることより。白猫が消えたことより。自分が、ここに立っていられることが、少し誇らしい。
「……大丈夫」
澪は、小さく呟く。
誰に聞かせるでもない。
言葉は、空に溶ける。
そのとき、背後から足音がした。
「澪」
聞き慣れた声。
振り返ると、遥斗が立っていた。
「来ないって、言ってなかったよね」
澪は、少しだけ困った顔をする。
「言ってない」
遥斗は、息を整えながら言う。
「でも、来ると思ってた」
澪は、何も言わずに微笑んだ。
遥斗は、澪の隣に立つ。
ロープの向こう側を見る。
「……何も、いないな」
澪は、頷く。
「うん」
その一言に、寂しさはなかった。
遥斗は、少し考えてから言う。
「それで、いいんだろ」
澪は、空を見る。青い。
白猫がいなくても、空はそこにある。
「うん」
確かめるように、もう一度言った。
工事の音が、少し近づく。
灯台の「終わり」が、動き出していた。
作業開始まで、まだ少し時間があるらしかった。
責任者と思しき男性が、関係者以外の立ち入りを制限しながら、最後の確認をしている。澪は、その様子を遠目に見つめていた。
――中に入りたい。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど、心が静かだった。
以前なら、白猫を探さずにはいられなかっただろう。いないと分かっていても、名前を呼び、影を追い、必死になっていたはずだ。
でも今は、違う。
確かめたいのは、白猫の存在ではなく、自分の気持ちだった。
澪は、意を決して責任者に近づいた。
「すみません。少しだけ、中を見てもいいですか」
突然の申し出に、男性は一瞬戸惑った顔をしたが、澪の表情を見て、短く息を吐いた。
「……五分だけだ。危ないから、奥には行くなよ」
「ありがとうございます」
遥斗が、少し驚いたように澪を見る。
「一人で?」
澪は、頷いた。
「うん。大丈夫」
それは、嘘ではなかった。
灯台の扉は、重く、冷たかった。
軋む音を立てて開くと、潮と埃が混ざった匂いが流れ出す。
中は、思ったより暗い。
階段は螺旋状で、壁に取り付けられた小さな窓から、細い光が差し込んでいる。
一段、一段、澪は、ゆっくりと足を進める。
足音が、やけに大きく響いた。
「……白猫」
無意識に、名前を呼んでいた。
返事は、ない。
それでも、澪の胸は乱れなかった。
途中の踊り場で、足を止める。
壁に、古い落書きのような文字が残っていた。
いつのものか分からない。
誰かが、ここで何かを残そうとした痕跡。
澪は、壁に指先を触れる。
冷たい。確かな感触。
そのとき。
足元で、かすかな気配がした。
――いる。
反射的に、視線を落とす。
白い影が、揺れた。
澪の心臓が、一拍だけ強く鳴る。
そこにいたのは――
白猫だった。
以前より、ずっと薄い。輪郭が、光に溶けかけている。
「……来ちゃったんだ」
澪は、そう言った。
責める気持ちは、なかった。
白猫は、何も言わない。
ただ、澪を見上げている。
その瞳は、澪の中にあるものを、すべて知っている色をしていた。
澪は、静かに問いかける。
「これは……本当に、いる?」
白猫は、尻尾を一度だけ揺らした。
答えにならない、いつもの仕草。
でも、それで十分だった。
澪は、分かっていた。
これは“錯覚”だ。
自分が、最後にもう一度だけ、影に触れたくなっただけ。それでも。
澪は、白猫の前にしゃがみ込む。
「……ありがとう」
白猫の輪郭が、さらに薄くなる。
階段の上から、遠く人の声がした。
時間が、迫っている。
澪は、立ち上がる。
白猫は、もう追ってこなかった。
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