表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯台の猫と、嘘をつく少女  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/32

灯台の白猫 第3話

 灯台を出る頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。海の表面が赤く揺れ、風が少しだけ冷たくなる。澪は、灯台の階段に腰を下ろし、膝を抱えた。


 白猫は、澪の隣ではなく、少し離れた場所に座る。その距離は、触れようと思えば触れられるが、触れないままにしておくための距離だった。


「……ねえ」


 澪が声をかける。


「なんだ」


「どうして、私だけなの?」


 白猫は、すぐには答えなかった。夕暮れの光の中で、毛並みがわずかに揺れる。


「聞こえるのが、お前だけだ」


 それだけ。


「理由は?」


「理由が欲しいのか」


 澪は、少し考えてから頷いた。


「欲しい」


 白猫は、ふっと鼻で笑った。


「理由を知れば、楽になると思ってる顔だ」


 図星だった。澪は視線を落とす。


「でもな」


 白猫は続ける。


「理由を知っても、影は消えない」


 澪は、砂利を指でいじりながら言った。


「それでも、知らないよりはいい」


 白猫は、それ以上踏み込まなかった。


 しばらく、二人の間に沈黙が流れる。波の音と、遠くのカモメの鳴き声だけが、空気を満たしていた。


  澪は、ふと気づく。


 ここに来ると、白猫はいつも、彼女の心が最も揺れているときに現れていた。

 まるで、澪が自分自身についた嘘を見抜き、それを指摘する存在が必要な瞬間を、

 正確に知っているかのように。


 ――気づいたときには、そばにいる。


「……守ってるつもり?」


 澪は、冗談めかして言った。


 白猫は、真剣な目で澪を見る。


「守っている」


 即答だった。


 澪の胸が、小さく揺れた。


「でも、守り方が変だよ」


「影の守り方は、そんなものだ」


 澪は、その言葉を噛みしめる。


「……ありがとう」


 小さく言う。


 白猫は、わずかに視線を逸らした。


「礼を言われる筋合いはない」


 日が沈み、空が紫色に変わる。灯台の影が、地面に長く伸びていく。


 そのときだった。


 遠くで、エンジン音がした。澪は顔を上げる。灯台の下の道を、一台の軽トラックが通り過ぎていった。荷台には、見慣れない機材が積まれている。


「……何か、工事?」


 白猫が、低く唸る。


「気にするな」


 その声には、わずかな苛立ちが混じっていた。


 澪は、胸の奥がざわつくのを感じた。


「ねえ、灯台って……なくなったりしないよね」


 白猫は、しばらく澪を見つめていた。


「今は、まだだ」


 その言い方が、妙に引っかかる。


「今は、って……」


「先のことは、分からない」


 白猫は、それ以上語らなかった。


 澪は、理由もなく不安になった。灯台がここにあることは、当たり前だと思っていた。ずっと変わらず、ここに立ち続けるものだと。


 ――もし、なくなったら?


 その想像に、胸が締めつけられる。


 澪は、無意識のうちに白猫の方へ身を寄せていた。白猫は逃げることなく、ただそこにいる。


「……ねえ」


 澪は、風に紛れるように言った。


「もし、ここがなくなったら、あんたはどうなるの?」


 白猫は、答えなかった。


 その沈黙が、何よりの答えのように思えた。


 空が暗くなり、町の明かりが遠くに点り始める。


「そろそろ、帰れ」


 白猫が言う。


「今日は、ここまでだ」


 澪は立ち上がり、制服の砂を払う。


「……また来る」


「来なくていい」


 いつものやり取りだった。


 澪は、少しだけ笑う。


「それ、嘘でしょ」


 白猫は、何も言わなかった。


 帰り道、澪は何度も振り返った。灯台は、いつも通りそこに立っている。白い影も、階段のそばに見えた。


 それでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。


 ――この場所は、永遠じゃない。


 その予感が、初めて、はっきりとした形を持った瞬間だった。


 その夜、澪は久しぶりに夢を見た。


 はっきりとした映像ではない。音と光と、断片的な感触だけが、ゆっくりと重なっていく夢だった。


 ――波の音。


 低く、重たい響き。夜の海が、すぐそばにある。


 ――白い光。


 暗闇の中で、一定の間隔で瞬く灯り。それを見上げる、小さな自分。


 澪は、夢の中で幼かった。背丈は低く、足元は不安定で、手を伸ばしても何にも届かない。


「……だめ」


 誰かの声がする。焦ったような、切羽詰まった声。


 ――行っちゃだめ。


 その声が、誰のものなのか、分からない。


 澪は、足元を見る。濡れた地面。滑りやすい岩。波が、すぐそこまで迫っている。


 そして。


 白い影がいた。


 灯台の下、暗がりの中に、じっとこちらを見ている存在。今よりもずっと小さく、けれど確かに“白猫”だった。


「……こないで」


 声が震える。


 白猫は、動かない。ただ、こちらを見ている。


 ――大丈夫。


 そう言ったのは、誰だったのか。


 次の瞬間、眩しい光が視界を覆い、夢はそこで途切れた。


 澪は、はっと目を覚ました。


 カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。心臓が早鐘のように打ち、背中には薄く汗をかいていた。


「……また」


 枕元に手を伸ばし、ぎゅっとシーツを握る。


 この夢は、初めてではない。けれど、見るたびに少しずつ内容が違う。まるで、忘れていた記憶が、順番に浮かび上がってくるようだった。


 ――行っちゃだめ。


 あの声が、頭から離れない。


 澪は、学校の支度をしながらも、ぼんやりとしていた。歯を磨き、制服に袖を通し、いつもの朝なのに、どこか現実感が薄い。


 朝食の席で、母が言う。


「昨日、灯台の方で工事車両見かけたわ」


 スプーンを持つ手が、止まった。


「……工事?」


「ええ。詳しくは分からないけど、老朽化が進んでるって話は前からあったでしょ」


「……そう」


 それ以上、会話は続かなかった。


 澪の胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいく。昨日、白猫が言った「今は、まだだ」という言葉が、頭をよぎる。


 学校では、授業の内容がほとんど頭に入らなかった。ノートを取っていても、意識は遠く、海の方へ引っ張られていく。


 放課後になると、澪はほとんど無意識のまま、灯台へ向かっていた。


 いつもの階段。いつもの風景。


「……?」


 白猫の姿が、見えない。


 澪は、足を止めた。辺りを見回す。階段の影、灯台の裏、いつも座っている場所。


「……いない?」


 胸が、ざわりと揺れる。


「ねえ」


 呼びかけてみる。


「……いるんでしょ」


 返事はない。


 澪は、灯台の中へ入った。螺旋階段を上り、踊り場を覗く。どこにも、白い影は見当たらない。


 不安が、じわじわと広がる。


「……どうして」


 声が、かすれる。


 そのとき。


「呼ぶな」


 背後から、低い声がした。


 澪は、息を呑んで振り返る。


 白猫が、そこにいた。けれど、いつもより輪郭が曖昧で、光に溶け込むように揺れている。


「……今、いなかった」


「いた」


 白猫は、短く答える。


「ただ、見えなかっただけだ」


 澪は、胸に手を当てる。


「……消えちゃったのかと思った」


 白猫は、少しだけ目を伏せた。


「まだ、だ」


 その言葉が、夢と重なる。


 ――今は、まだ。


 澪は、確信に近い感覚を覚えた。


 この白猫は、ただの不思議な存在じゃない。

 この灯台と、自分の記憶と、深く結びついている。


 そして、その“つながり”は、少しずつ弱まっている。


 灯台の外で、再びエンジン音が響いた。重たい音が、現実を引き戻す。


 澪は、白猫を見つめた。


「……ねえ」


「なんだ」


「昔の私、ここに来たことある?」


 白猫は、答えなかった。


 その沈黙が、何よりも重く、真実を含んでいるように思えた。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ