灯台の白猫 第3話
灯台を出る頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。海の表面が赤く揺れ、風が少しだけ冷たくなる。澪は、灯台の階段に腰を下ろし、膝を抱えた。
白猫は、澪の隣ではなく、少し離れた場所に座る。その距離は、触れようと思えば触れられるが、触れないままにしておくための距離だった。
「……ねえ」
澪が声をかける。
「なんだ」
「どうして、私だけなの?」
白猫は、すぐには答えなかった。夕暮れの光の中で、毛並みがわずかに揺れる。
「聞こえるのが、お前だけだ」
それだけ。
「理由は?」
「理由が欲しいのか」
澪は、少し考えてから頷いた。
「欲しい」
白猫は、ふっと鼻で笑った。
「理由を知れば、楽になると思ってる顔だ」
図星だった。澪は視線を落とす。
「でもな」
白猫は続ける。
「理由を知っても、影は消えない」
澪は、砂利を指でいじりながら言った。
「それでも、知らないよりはいい」
白猫は、それ以上踏み込まなかった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。波の音と、遠くのカモメの鳴き声だけが、空気を満たしていた。
澪は、ふと気づく。
ここに来ると、白猫はいつも、彼女の心が最も揺れているときに現れていた。
まるで、澪が自分自身についた嘘を見抜き、それを指摘する存在が必要な瞬間を、
正確に知っているかのように。
――気づいたときには、そばにいる。
「……守ってるつもり?」
澪は、冗談めかして言った。
白猫は、真剣な目で澪を見る。
「守っている」
即答だった。
澪の胸が、小さく揺れた。
「でも、守り方が変だよ」
「影の守り方は、そんなものだ」
澪は、その言葉を噛みしめる。
「……ありがとう」
小さく言う。
白猫は、わずかに視線を逸らした。
「礼を言われる筋合いはない」
日が沈み、空が紫色に変わる。灯台の影が、地面に長く伸びていく。
そのときだった。
遠くで、エンジン音がした。澪は顔を上げる。灯台の下の道を、一台の軽トラックが通り過ぎていった。荷台には、見慣れない機材が積まれている。
「……何か、工事?」
白猫が、低く唸る。
「気にするな」
その声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
澪は、胸の奥がざわつくのを感じた。
「ねえ、灯台って……なくなったりしないよね」
白猫は、しばらく澪を見つめていた。
「今は、まだだ」
その言い方が、妙に引っかかる。
「今は、って……」
「先のことは、分からない」
白猫は、それ以上語らなかった。
澪は、理由もなく不安になった。灯台がここにあることは、当たり前だと思っていた。ずっと変わらず、ここに立ち続けるものだと。
――もし、なくなったら?
その想像に、胸が締めつけられる。
澪は、無意識のうちに白猫の方へ身を寄せていた。白猫は逃げることなく、ただそこにいる。
「……ねえ」
澪は、風に紛れるように言った。
「もし、ここがなくなったら、あんたはどうなるの?」
白猫は、答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えのように思えた。
空が暗くなり、町の明かりが遠くに点り始める。
「そろそろ、帰れ」
白猫が言う。
「今日は、ここまでだ」
澪は立ち上がり、制服の砂を払う。
「……また来る」
「来なくていい」
いつものやり取りだった。
澪は、少しだけ笑う。
「それ、嘘でしょ」
白猫は、何も言わなかった。
帰り道、澪は何度も振り返った。灯台は、いつも通りそこに立っている。白い影も、階段のそばに見えた。
それでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
――この場所は、永遠じゃない。
その予感が、初めて、はっきりとした形を持った瞬間だった。
その夜、澪は久しぶりに夢を見た。
はっきりとした映像ではない。音と光と、断片的な感触だけが、ゆっくりと重なっていく夢だった。
――波の音。
低く、重たい響き。夜の海が、すぐそばにある。
――白い光。
暗闇の中で、一定の間隔で瞬く灯り。それを見上げる、小さな自分。
澪は、夢の中で幼かった。背丈は低く、足元は不安定で、手を伸ばしても何にも届かない。
「……だめ」
誰かの声がする。焦ったような、切羽詰まった声。
――行っちゃだめ。
その声が、誰のものなのか、分からない。
澪は、足元を見る。濡れた地面。滑りやすい岩。波が、すぐそこまで迫っている。
そして。
白い影がいた。
灯台の下、暗がりの中に、じっとこちらを見ている存在。今よりもずっと小さく、けれど確かに“白猫”だった。
「……こないで」
声が震える。
白猫は、動かない。ただ、こちらを見ている。
――大丈夫。
そう言ったのは、誰だったのか。
次の瞬間、眩しい光が視界を覆い、夢はそこで途切れた。
澪は、はっと目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。心臓が早鐘のように打ち、背中には薄く汗をかいていた。
「……また」
枕元に手を伸ばし、ぎゅっとシーツを握る。
この夢は、初めてではない。けれど、見るたびに少しずつ内容が違う。まるで、忘れていた記憶が、順番に浮かび上がってくるようだった。
――行っちゃだめ。
あの声が、頭から離れない。
澪は、学校の支度をしながらも、ぼんやりとしていた。歯を磨き、制服に袖を通し、いつもの朝なのに、どこか現実感が薄い。
朝食の席で、母が言う。
「昨日、灯台の方で工事車両見かけたわ」
スプーンを持つ手が、止まった。
「……工事?」
「ええ。詳しくは分からないけど、老朽化が進んでるって話は前からあったでしょ」
「……そう」
それ以上、会話は続かなかった。
澪の胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいく。昨日、白猫が言った「今は、まだだ」という言葉が、頭をよぎる。
学校では、授業の内容がほとんど頭に入らなかった。ノートを取っていても、意識は遠く、海の方へ引っ張られていく。
放課後になると、澪はほとんど無意識のまま、灯台へ向かっていた。
いつもの階段。いつもの風景。
「……?」
白猫の姿が、見えない。
澪は、足を止めた。辺りを見回す。階段の影、灯台の裏、いつも座っている場所。
「……いない?」
胸が、ざわりと揺れる。
「ねえ」
呼びかけてみる。
「……いるんでしょ」
返事はない。
澪は、灯台の中へ入った。螺旋階段を上り、踊り場を覗く。どこにも、白い影は見当たらない。
不安が、じわじわと広がる。
「……どうして」
声が、かすれる。
そのとき。
「呼ぶな」
背後から、低い声がした。
澪は、息を呑んで振り返る。
白猫が、そこにいた。けれど、いつもより輪郭が曖昧で、光に溶け込むように揺れている。
「……今、いなかった」
「いた」
白猫は、短く答える。
「ただ、見えなかっただけだ」
澪は、胸に手を当てる。
「……消えちゃったのかと思った」
白猫は、少しだけ目を伏せた。
「まだ、だ」
その言葉が、夢と重なる。
――今は、まだ。
澪は、確信に近い感覚を覚えた。
この白猫は、ただの不思議な存在じゃない。
この灯台と、自分の記憶と、深く結びついている。
そして、その“つながり”は、少しずつ弱まっている。
灯台の外で、再びエンジン音が響いた。重たい音が、現実を引き戻す。
澪は、白猫を見つめた。
「……ねえ」
「なんだ」
「昔の私、ここに来たことある?」
白猫は、答えなかった。
その沈黙が、何よりも重く、真実を含んでいるように思えた。
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