遥斗の本音 第3話
数日後、町に小さなざわめきが広がった。
灯台の取り壊し日程が、正式に決まったのだ。
掲示板に貼られた紙は、風に揺れながらも、はっきりと日付を示していた。
澪は、その前で立ち止まる。
胸の奥が、静かに締め付けられる。
――いよいよ、だ。
遥斗が、隣に立つ。
「近づいてきたな」
澪は、頷いた。
「うん」
怖さは、もう、暴れない。形を持った不安として、そこにある。
それでいい。
灯台は、町の象徴だった。観光地じゃない。けれど、夜の海を照らし続けてきた。
澪は、ふと思う。
白猫も、同じだ。誰にも気づかれず。名前もなく。それでも、確かに役目を果たしてきた。
「……ねえ」
澪が、遥斗に言う。
「白猫のこと、誰かに話した?」
遥斗は、首を振る。
「澪が話したくなるまで、俺は言わない」
その言葉に、嘘はなかった。
澪は、少しだけ安心する。
「ありがとう」
町の人たちは、灯台を“古くなった建物”として見ている。
それは、事実だ。でも、澪にとっては、違う。問いかけの場所。逃げ場。そして、手放す場所。
夜、澪は一人で灯台へ向かった。
取り壊しまで、あと数日。
空は、星が少ない。灯台の影が、長く伸びている。
「……来たよ」
澪は、いつものように言った。
返事は、ない。
それでも、澪は続ける。
「もう、怖くない」
嘘じゃない。強がりでもない。ただ、覚悟だ。
風が、白い毛のように頬を撫でる。
澪は、目を閉じた。
白猫の気配は、もう、外にはない。でも、町の記憶と重なるように、胸の中にいる。
澪は、最後の夜が近いことを、はっきりと意識していた。
灯台の階段を上る足音が、夜に響く。
その音に、もう懐かしさはない。
澪の後ろを、遥斗が続く。
二人で来るのは、これが初めてだった。
「ここが……」
遥斗が、周囲を見回す。
「澪の、始まりの場所」
澪は、否定しなかった。
「終わりでもあるけどね」
灯台の最上部。
窓の外には、暗い海が広がる。
波の音だけが、はっきり聞こえる。
二人は、しばらく何も言わずに立っていた。
そのとき。
空気が、少し変わった。風が止み。波音が、遠くなる。
澪は、息を飲む。
――いる。
姿は見えない。でも、分かる。白猫の気配。
遥斗も、何かを感じ取ったのか、視線を動かす。
「……今」
「うん」
澪は、小さく頷く。
白猫は、もう言葉を使わない。
代わりに、問いを残す。
――本当に、行くのか。
澪は、胸に手を当てる。
心臓は、速い。
でも、逃げない。
「行くよ」
声は、震えなかった。
遥斗が、澪の隣に立つ。
「一緒に」
その言葉に、白猫の気配が、少し和らぐ。
澪は、目を閉じる。
白い影が、夜の中に溶けていく。
それは、消失じゃない。
受け渡しだ。
問いを、澪自身へ。そして、遥斗へ。
二人は、静かに息を吐く。
この場所で、やっと同じ方向を向けた気がした。
灯台の最上部に、再び風が流れ込む。
波の音が、現実に引き戻すように戻ってくる。
遥斗は、しばらく黙っていた。
言葉を探している。
それを、澪は待った。
――急がなくていい。
ここは、問いを急かす場所じゃない。
「澪」
遥斗が、低い声で呼ぶ。
「俺さ」
一度、息を吸う。
「ずっと、怖かった」
澪は、静かに頷く。
「また、誰かを傷つけるのが」
その言葉は、ようやく外に出た本音だった。
「でも」
遥斗は、澪を見る。
「言わないまま、離れていく方が……もっと怖い」
澪の胸が、じんと熱くなる。
「だから」
遥斗は、はっきり言った。
「澪と、ちゃんと話したい」
逃げない。抑えない。
間違える可能性ごと、引き受ける。
「本音で」
その一言が、灯台の中に静かに落ちる。
澪は、すぐに答えなかった。
胸の奥で、白猫の気配が、最後に揺れる。
――それ、本当に君の言葉?
澪は、遥斗を見る。
その目に、嘘はなかった。
「……うん」
澪は、微笑む。
「私も」
短い言葉。でも、十分だった。
白猫の気配が、ふっと消える。
もう、問いを投げる必要はない。
問いは、二人の中に残った。それぞれの声で、確かめ合える。
灯台の窓から、夜の海が見える。
暗い。
それでも、怖くなかった。
灯台を出ると、夜風が二人を包んだ。
階段を下りながら、澪は一度だけ振り返る。
もう、白い影はない。
それでも、空っぽには感じなかった。
遥斗が、隣で立ち止まる。
「……不思議だな」
澪を見ることなく、言う。
「ここ、さ」
「うん」
「もう、寂しい場所じゃない」
澪は、少し驚いてから、静かに笑った。
「私も、そう思う」
灯台は変わっていない。
古くて、取り壊される予定で。
でも、意味は変わった。
問いを預ける場所から、答えを持ち帰る場所へ。
二人は、並んで歩き出す。歩幅を合わせる必要はなかった。
同じ方向を向いていれば、それでいい。
澪の胸の中で、白猫の存在が、完全に静まる。
役目を終えたのだ。守るためでも、導くためでもない。
澪自身が、自分の嘘と向き合えるようになったから。
「これからさ」
遥斗が言う。
「間違えたら、ちゃんと言おう」
澪は、即座に頷く。
「うん」
「逃げたくなったら、止めて」
「止める」
二人は、同時に小さく笑った。
約束というほど、重くはない。でも、確かだった。
灯台の明かりが、背後で微かに揺れる。
それは、最後の夜のための光。
澪は、もう振り返らなかった。
前を向く理由が、ここにある。
白猫は去った。
けれど、問いは残った。
問いを抱えたまま、歩けるようになった二人とともに。
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