遥斗の本音 第1話
朝の教室は、まだ完全に目を覚ましていなかった。
窓から差し込む光が、机の角を白く縁取っている。
澪は席に座り、ノートを開いたまま、文字を書かずにいた。
昨夜、自分に向けて口にした言葉が、まだ胸の奥で反響している。
――私は、もう大丈夫。
本音ではない。でも、嘘でもない。
その曖昧さを、澪は否定しなくなっていた。
「おはよう」
隣の席に、遥斗が立つ。
相変わらず、少し距離を測るような声。
けれど、以前のような遠慮はなかった。
「……おはよう」
澪は顔を上げる。
遥斗の表情を見て、すぐに気づいた。何かを、話すつもりだ。
授業が始まり、終わり、昼休みになるまで、遥斗は、何度か口を開きかけては、閉じた。
そして、昼休みの終わり際。
「放課後、少し時間ある?」
澪は、一瞬迷い、頷いた。
「うん」
それだけで、遥斗は少し安心したように見えた。
放課後、二人は校舎裏へ向かう。
人の少ない場所。潮の匂いが、かすかに混じる。遥斗は、フェンスにもたれかかり、空を見上げた。
「俺さ」
言葉を選ぶように、間を置く。
「本音を言うの、得意じゃない」
澪は、何も言わず、聞く。
「前の学校で……それで、失敗した」
遥斗は、ようやく澪を見る。
その目は、真剣だった。
「誰かを傷つけた。……少なくとも、そう思われた」
澪の胸が、少し痛む。
遥斗は、続ける。
「だから、ここに来てから、ずっと抑えてた」
考え。言葉。感情。
「澪のことも」
一瞬、風が強く吹いた。
「踏み込みすぎないようにしてた」
澪は、静かに息を吸う。
嘘は、澪だけのものじゃなかった。
遥斗もまた、本音を隠して生きていた。
「……それで」
遥斗は、フェンスから離れる。
「白猫のことを知って、気づいた」
澪を見る。
「言わないことも、嘘になるって」
澪の中で、何かが静かに重なった。
白猫の問い。
――それ、本当に君の言葉?
澪は、遥斗に向き直る。この先は、選択だ。嘘でやり過ごすか。本音で、踏み出すか。
澪は、逃げなかった。
校舎裏の影が、少しずつ長くなる。
フェンス越しに見える海は、午後の光を受けて鈍く光っていた。
遥斗は、視線を海に向けたまま話し続ける。
「前の学校でさ……」
一度、言葉を切る。
「仲の良い友達がいた」
澪は、頷くだけで促した。
急かさない。それが、今の澪にできる精一杯だった。
「その人、周りに合わせるのが苦手で」
遥斗は、苦笑する。
「でも、俺には、本音を言ってくれてた」
昼休みの教室。放課後の帰り道。他愛もない会話。
けれど、どこか危うい空気。
「ある日、その人が言ったんだ」
遥斗の声が、少し低くなる。
「“もう、全部やめたい”って」
澪の指先が、きゅっと握られる。
「俺は……正直に言った」
遥斗は、澪を見る。
「逃げるみたいなこと、言うなって」
正論だった。
少なくとも、遥斗はそう信じていた。
「強く言いすぎた」
沈黙。
「次の日、その人、学校に来なかった」
胸の奥が、重く沈む。
「大事にはならなかった。でも」
遥斗は、息を吐く。
「俺の言葉が、引き金だったんじゃないかって」
澪は、ゆっくり口を開いた。
「……誰かが、そう言ったの?」
遥斗は、首を振る。
「誰も」
それが、いちばんきつかった。
責められない。罰もない。
ただ、距離だけが生まれた。
「だから、俺は決めた」
遥斗は、拳を握る。
「本音を、抑える」
正しいと思うことも。
言うべきだと思うことも。
全部、胸の中にしまう。
「そうすれば、誰も傷つけない」
その言葉に、澪ははっとする。
かつて、自分が信じていた考えと同じだった。
「……遥斗」
澪は、ゆっくり言った。
「それ、本当に“誰も”?」
遥斗は、言葉に詰まる。
澪は、続ける。
「一番傷ついてるの、遥斗じゃない?」
遥斗の目が、揺れる。
その揺れを、澪は見逃さなかった。
今度は、澪が問いを投げる番だった。
澪は、少し考えてから話し始めた。
言葉を選ぶというより、自分の内側を確かめるように。
「私もね」
視線を、フェンスの向こうの海に向ける。
「“誰も傷つけない”って思って、嘘をついてた」
遥斗が、黙って聞いている。
「でも、傷ついてたのは、いつも私だった」
それでも、その事実を認めるのが怖かった。
嘘を手放した瞬間、自分が空っぽになる気がして。
「遥斗の言葉が、あの人を傷つけたかどうかは……分からない」
澪は、はっきり言った。
「でも、言わなかったら、後悔は別の形で残ったと思う」
遥斗の肩が、少し下がる。
「私ね」
澪は、遥斗を見る。
「白猫に、ずっと問いかけられてた」
――それ、本当に君の言葉?
「遥斗の言葉も、本当に遥斗のものだったんでしょ」
遥斗は、答えない。でも、否定もしない。
澪は続ける。
「それなら……間違いでも、嘘じゃない」
正しさと、結果は、いつも一致しない。でも。
「本音を言ったこと自体が、罪になるわけじゃない」
遥斗の目に、わずかに光が戻る。
「……怖くなかった?」
遥斗が、初めて弱音を見せる。
澪は、正直に答えた。
「怖かった」
それでも。
「今も、怖い」
風が、二人の間を通り抜ける。
フェンスが、かすかに鳴った。
「でも」
澪は、言葉を続ける。
「怖いまま言える相手がいるなら……前より、少し楽」
遥斗は、長い沈黙のあと、苦笑した。
「……ずるいな」
「なにが?」
「それ」
澪は、小さく笑った。
「白猫の受け売り」
遥斗も、つられるように笑う。
初めて見る、力の抜けた笑顔だった。
沈黙が戻る。でも、さっきまでとは違う。逃げない沈黙。言葉を探すための、間。
「……ありがとう」
遥斗が、低く言った。
その一言に、嘘はなかった。
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