澪の過去と影嘘猫 第2話
事故のあと、日常は形だけ戻った。学校も、家も、変わらないはずだった。けれど、澪の中だけが、決定的に変わってしまった。
教室で、友だちが笑っている。
その輪の中にいても、澪は少し離れた場所にいる気がした。
楽しそうに振る舞うことはできる。でも、本音を出す場所は、もうどこにもなかった。
「大丈夫?」
そう聞かれるたびに、澪は笑って頷く。
嘘が、うまくなる。
それは、褒められることだった。
「しっかりしてるね」
「大人びてる」
澪は、その言葉を受け取るたび、胸の奥が冷たくなった。
――私は、そうじゃない。
――ただ、何も言えないだけ。
夜になると、夢を見る。灯り。波。伸ばした手。届かない背中。
澪は、布団の中で、声を殺して泣いた。
誰にも聞こえないように。誰にも、迷惑をかけないように。
そんな夜が、何度も続いた。
そして、ある夜。澪は、目を覚ます。
部屋の隅に、白いものが見えた。
最初は、光の反射だと思った。
目をこすって、もう一度見る。
そこに、小さな白猫がいた。
鳴かない。動かない。ただ、澪を見ている。
怖くはなかった。不思議と、安心した。
澪は、小さく息を吸う。
「……行かないの?」
白猫は、答えない。
けれど、消えなかった。
それが、最初だった。
澪が、自分の中の痛みから目を逸らさずにいられた、最初の夜。
白猫は、言葉を持たない代わりに、役割を持った。
澪が、自分を責めすぎないように。嘘が、本当になる前に。
――それは、無意識の防波堤。
澪の心が、生きるために作り出した存在だった。
灯台跡地で、澪はその事実を受け止める。
「……だから、いなくなったんだ」
自分で、分かる。白猫は、役目を終えた。完全ではないけれど。
澪は、もう、独りで立てるところまで来ている。
遥斗が、静かに頷いた。
風が、二人の間を通り抜ける。
澪は、しばらく何も言わなかった。
言葉にすれば、何かが壊れてしまいそうだった。
けれど、胸の奥に溜めたままでは、前に進めないことも分かっている。
澪は、ゆっくり口を開いた。
「白猫は……」
一度、言葉を切る。
「私が、自分を責めすぎないために作った存在だった」
遥斗は、驚いた様子を見せない。
ただ、真剣に聞いている。
「本当は、誰かに言ってほしかった言葉を、代わりに持ってきてくれてたんだと思う」
――それは、嘘じゃない。
――でも、全部でもない。
白猫は、澪に「大丈夫だよ」と言わなかった。
代わりに、澪が自分に向けてつく嘘を、そっと指摘した。
その嘘が、生きるためのものか。
それとも、縛るものか。
澪は、ようやく理解する。
白猫は、否定しなかった。叱らなかった。
ただ、問いかけていた。
――それ、本当に君の言葉?
澪は、息を吸う。
「私……守ってたつもりだった」
自分を。周りを。全部。
「でも、守り方を、間違えてた」
遥斗が、静かに言う。
「間違えたって言えるのは、今だからだよ」
その言葉に、澪は小さく笑った。
確かに、そうだ。
あの頃の澪には、他の選択肢なんてなかった。
白猫は、その唯一の選択肢だった。
灯台跡地に、雲の切れ間から光が落ちる。
澪は、その光を見つめながら言った。
「だから……いなくなってくれて、よかったんだと思う」
寂しさは、ある。でも、それは喪失じゃない。卒業だ。
遥斗が、澪を見る。
「それでも、完全に消えるわけじゃないだろ」
澪は、頷く。
「うん。たぶん、もう“姿”はいらないだけ」
問いかけは、残る。
自分に向けるための、静かな問い。
澪は、歩き出す。
足取りは、まだ揺れている。
けれど、止まらない。
灯台跡地を離れ、二人は町外れの小さな公園まで歩いた。
ブランコが二つ、錆びた音を立てて風に揺れている。
澪は、その前で足を止めた。
――ここだ。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……事故があったの、ここ」
遥斗は何も言わず、澪の隣に立つ。
澪は、ブランコの鎖にそっと触れた。
冷たい。
記憶の中では、いつも夏だったのに。
「小学生のとき……友達と、かくれんぼしてて」
声が、少し震える。
「私が、鬼だった。みんなを探すのが楽しくて……」
澪は目を閉じる。
断片的な映像が浮かぶ。
笑い声。走る足音。
そして――。
「一人、見つけられなかった子がいて」
澪は、唇を噛む。
「その子、灯台の方に行ったんだと思って……」
あの日の潮の匂い。強すぎる日差し。大人たちの怒鳴り声。
「……足を滑らせて、怪我をした」
命に別状はなかった。
それでも。
「私は、“私が追い込んだ”って思い込んだ」
遥斗が、静かに問う。
「実際は?」
澪は、首を振る。
「あとから聞いた。立ち入り禁止のロープを、勝手に越えたって」
事故は、澪のせいじゃなかった。
管理不足。
大人の判断ミス。
偶然。
いくつもの要因が重なった結果だった。
「……でも」
澪の声は、かすれる。
「誰も、はっきり“澪のせいじゃない”って言ってくれなかった」
だから、澪は自分で決めた。
自分が悪いことにすれば、世界は分かりやすくなる。
誰も責めなくて済む。誰も傷つかない。
――その代わり、自分だけが傷つけばいい。
「それが、最初の嘘だった」
澪は、そう言った。
「“私が悪い”っていう、自分への嘘」
遥斗は、ブランコを軽く押す。
鎖が、きい、と鳴った。
「……優しすぎる嘘だな」
澪は、少し驚いて遥斗を見る。
「でもさ」
遥斗は、真っ直ぐ澪を見る。
「それ、澪を守ってない」
その言葉は、白猫の声とよく似ていた。
澪は、息を吐く。
胸の奥で、何かがほどける音がした。
――ああ。
やっと、ここまで来た。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




