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灯台の猫と、嘘をつく少女  作者: 倉木元貴


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澪の過去と影嘘猫 第1話

 その日は、風が強かった。

 夏の終わりに近いはずなのに、空は重く、雲が低く垂れ込めていた。

 澪は、その空を見るだけで、胸の奥がきしむのを感じた。


 ――思い出したくない。


 そう思えば思うほど、記憶は逆に輪郭を持つ。

 白猫がいなくなってから、夢は減った。悪夢も、あの夜の反復も。

 それなのに今日は、朝からずっと、胸の奥がざわついている。


「……来ちゃった」


 澪は、灯台があった場所の前に立っていた。

 正確には、灯台“だった”場所だ。

 重機の音は止み、地面はならされ、そこにはもう、かつての象徴は存在しない。

 けれど、澪の中では、あの日の灯りがまだ消えていなかった。

 遥斗は、少し離れたところで立っている。

 今日は、澪から「一緒に来てほしい」と言った。

 それ自体が、澪にとっては小さな変化だった。


「ここ……」


 澪は、言葉を探す。


「私が、一番逃げてきた場所」


 遥斗は、何も言わない。ただ、黙って聞く。

 それが、今の澪にはありがたかった。

 澪は、深く息を吸った。

 潮の匂い。風の冷たさ。遠くで鳴くカモメの声。

 記憶が、ゆっくりと重なっていく。


 ――あの日も、こんな匂いだった。


 小さな手。自分より少し高い背中。笑い声。

 澪は、ぎゅっと拳を握る。


「……事故だった」


 初めて、その言葉を、誰かの前で口にした。

 遥斗の視線を感じながら、澪は続ける。


「でも、ずっと……私のせいだって思ってた」


 足元の地面を見つめる。

 そこに、白い影はない。

 それでも、声は聞こえた気がした。


 ――逃げるな。

 ――ちゃんと、話せ。


 澪は、目を閉じる。


「私が、嘘をつくようになったのは……」


 喉が、きゅっと締まる。


「この日のせい」


 風が、強く吹いた。

 まるで、過去が扉を開ける合図のように。

 澪は、ゆっくりと目を開く。

 もう、引き返さない。

 白猫はいない。

 でも、澪は一人ではなかった。


 ――ここからだ。


 影の正体を、ちゃんと見るのは。


 あの日のことを、澪は長い間「思い出」と呼ばなかった。

 記憶ですらない。

 ただ、胸の奥に沈んだ重りのようなもの。

 考えないようにしても、沈殿したまま、決して消えないもの。


 ――あれは、まだ私が小学生だった頃。


 夏休みの終わりが近づいた、夕方。

 海は穏やかで、空は淡い橙色をしていた。


「澪、こっち」


 少し前を歩く背中。

 年上で、背が高くて、いつも先を歩いてくれる存在。

 澪は、その人の背中を見るのが好きだった。

 ついていけば大丈夫だと、信じていられたから。

 灯台は、その頃から立ち入り禁止だった。

 柵があり、看板があり、大人たちは近づくなと言っていた。

 でも、子どもにとって「禁止」は、理由にならない。


「すぐ戻るから」


 その一言を、澪は今でもはっきり覚えている。


 ――止めればよかった。

 ――ついていかなければよかった。


 何度も、何度も、そう思った。

 けれど、あのときの澪は、ただ頷いただけだった。

 怖かった。嫌われたくなかった。置いていかれるのが、嫌だった。

 波の音が、急に大きくなる。足元の砂が、湿っている。

 柵の向こう。灯台の影。

 そこで、何かが起きた。

 音。叫び。転ぶ感触。


 ――時間が、歪んだ。


 澪は、その場に立ち尽くした。

 声が出なかった。足が、動かなかった。

 助けを呼ぶという選択肢が、頭から抜け落ちていた。

 そして、取り返しのつかない瞬間が過ぎた。

 大人たちが駆け寄ってきたとき、すべては終わっていた。

 澪は、泣かなかった。泣けなかった。

 ただ、自分の中で何かが壊れる音を、確かに聞いた。


 ――私が、止めていれば。

 ――私が、呼んでいれば。


 その夜から。

 澪は、言葉を選ぶようになった。

 正直に言えば、誰かが傷つく。

 だから、嘘をつく。

 自分が、全部引き受ける。

 そうすれば、もう二度と、誰かを失わずに済む。


 ――そう、信じ込んだ。


 灯台の跡地に立つ澪の胸が、痛む。

 遥斗は、静かに言った。


「……それ、澪だけのせいじゃない」


 澪は、ゆっくり首を振る。


「分かってる」


 そう言いながら、その言葉を、まだ完全には信じられていなかった。

 でも、今日は、逃げない。

 ここから先を、ちゃんと見る。

 白猫が、ずっと守ろうとしていた記憶の核心へ。


 事故のあと、大人たちは皆、忙しかった。

 誰が悪いのか。

 どうして起きたのか。

 責任はどこにあるのか。

 澪は、その輪の外にいた。

 小さな体で、少し離れた場所に立ち、ただやり取りを聞いていた。

 誰も、澪に強く問いただすことはなかった。

 それが、逆に重かった。


 ――怒られなかった。

 ――責められなかった。


 それは、優しさだったのかもしれない。

 けれど、幼い澪には、沈黙の方がずっと怖かった。

 大人の一人が、澪の頭に手を置いた。


「怖かったね」


 その言葉に、澪は頷くしかなかった。

 本当は、怖かったのはその先だ。


 ――何も言えなかった自分。

 ――動けなかった自分。


 誰かが言った。


「澪ちゃんのせいじゃないよ」


 その言葉は、慰めのつもりだったのだろう。

 けれど、澪の中では、違う意味に変わった。

 “せいじゃない”と、わざわざ言われるほど、疑われている。

 そんな風に、歪んで届いてしまった。

 事故からしばらくして。

 澪は、ある会話を聞いてしまう。

 扉の向こう。

 大人たちの、低い声。


「……あの子、見てたんだろ」


「声を出せなかったらしい」


「そばにいたのに……」


 それ以上は、聞こえなかった。

 けれど、十分だった。

 澪の中で、何かが固まった。


 ――やっぱり、私のせいだ。


 誰も、はっきりとは言わない。

 でも、言わないこと自体が、答えのように感じられた。

 その日から澪は、本当のことを言わなくなった。

 泣きたいときも。怖いときも。


「大丈夫」


 その一言で、すべてを終わらせる。

 そうすれば、誰も深く踏み込んでこない。

 誰も、失望しない。

 そうやって、澪は自分を守った。


 ――守ったつもりで、閉じ込めた。


 灯台跡地。

 風が、吹き抜ける。

 澪は、目を閉じる。

 白猫の声が、聞こえた気がした。


 ――それは、罪じゃない。

 ――恐怖だ。


 澪は、ゆっくりと息を吐く。

 遥斗が、そっと言った。


「澪は、生き延びたんだ」


 その言葉が、胸に落ちる。

 生き延びた。

 逃げたのではない。弱かったのでもない。

 生きるために、動けなかった。

 その視点は、澪にとって初めてだった。

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