白猫のいない朝 第3話
夕暮れが、夜へと溶けていく。ベンチに座る二人の足元に、街灯の灯りが伸び始めていた。
澪は、灯りと影の境目を、ぼんやりと見つめる。
影がある。けれど、それは怖くない。昔は、影に飲み込まれる気がしていた。今は、ただそこにあるものとして、受け止められる。
「ねえ、澪」
遥斗が、静かに言う。
「前の自分、嫌いか?」
即答できなかった。
嫌いだ、と言ってしまえば楽だ。
責めて、切り離して、なかったことにすればいい。
けれど。
「……嫌いじゃない」
澪は、ゆっくりと答えた。
「好きでもないけど」
遥斗が、小さく笑う。
「正直だな」
「うん」
澪は、胸に手を当てる。
「必死だったんだと思う」
あの頃の自分は、嘘をつくことでしか、立っていられなかった。
誰も傷つけないように。自分が壊れないように。
「守ろうとしてた」
誰よりも、弱かった自分を。
その事実を認めたとき、胸の奥が少しだけ緩んだ。
――ありがとう。
声には出さなかった。けれど、その言葉は、確かに心にあった。白猫へ。影へ。
そして、嘘をついていた自分へ。
遥斗は、澪の横顔を見て言う。
「それ、前に進める人の言葉だと思う」
澪は、首を振る。
「進めてるかどうかは、分からない。でも、立ち止まって、自分を見ることはできてる」
その言葉に、澪は目を伏せた。
――それでいい。
誰かに許されるより先に、自分が自分を許す。
それが、こんなにも静かな行為だとは、知らなかった。
立ち上がり、二人は歩き出す。夜の風が、少し冷たい。
澪は、歩きながら、ふと思う。
もし、あの白猫が、まだここにいたら。きっと、何も言わず、背中を見ている。それで十分だ、と。
街灯の下、澪の影は、前へと伸びていた。
もう、踏みしめても消えない影だ。
家に戻ると、部屋の空気が少しだけ違って感じられた。
変わったのは、部屋ではない。澪自身だ。
鞄を机に置き、椅子に腰を下ろす。窓の外では、波の音が微かに聞こえていた。
以前なら、この時間帯、白猫は必ず現れていた。
窓辺。あるいは、ベッドの足元。何も言わず、ただそこにいた。
澪は、視線を巡らせる。
――いない。
その事実を、もう否定しない。
代わりに、胸の奥に浮かぶものがある。記憶。灯台で過ごした時間。嘘を指摘された夜。黙って寄り添ってくれた瞬間。
澪は、机の引き出しを開けた。そこにしまっていた、小さなノート。
白猫に言われて、書き始めたものだ。
「本当はどう思ったか。言えなかったこと。ついてしまった嘘」
ページをめくるたび、胸が少し痛む。
でも、目を逸らさなかった。
書いたのは、自分だ。
そして、それを見つめるのも、自分。
最後のページに、何も書かれていないことに気づく。
澪は、しばらく考えてから、ペンを取った。
ゆっくりと、文字を書く。
――私は、まだ完璧じゃない。
――嘘も、たぶん、またつく。
――それでも、逃げない。
書き終え、ペンを置く。
深く息を吐いた。
これは、宣言ではない。誓いでもない。
ただの、確認だ。
ベッドに横になり、天井を見る。暗闇の中で、白猫の輪郭を思い出す。
声。
目。
歩き方。
その一つ一つが、はっきりと残っている。
消えたのではない。形を変えただけだ。
澪は、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思う。
――また、会いたくなる日も、きっと来る。
でも、それでいい。会えなくても、進める。
それを知ったから。
夜中。
澪は、ふと目を覚ました。
理由は、分からない。
夢を見ていたような、いなかったような。
ただ、胸の奥が静かにざわついている。
枕元の時計を見ると、午前二時を少し過ぎていた。
カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいる。
澪は、ゆっくりと起き上がり、窓の方へ歩いた。
夜の海は、昼とはまるで違う。
音が、深い。
暗さの中に、輪郭だけが浮かび上がっている。
澪は、ガラス越しに外を見つめながら、ふと思う。
――私は、もう大丈夫なんだろうか。
その問いは、怖くなかった。
ただ、確かめたいだけだった。
胸に手を当てる。
そこには、不安も、痛みも、まだある。
消えてはいない。
それでも。
――歩ける。
そう思える。
その瞬間、澪は気づく。白猫が、いなくなってから。初めて、自分に嘘をつかなかったと。
「大丈夫」と言わない。
「平気」とも言わない。
ただ、今の自分を、そのまま認める。
それは、白猫が求めていた“最後の嘘”とは、まだ違う。
でも、その手前まで来ている。
澪は、静かに息を吸う。
月明かりが、床に影を落とす。
その影は、もう怖くなかった。
澪は、そっと呟いた。
「……まだ、途中だよ」
誰に言うでもなく。そして、誰も否定しない。その静けさが、胸に広がる。ベッドに戻り、横になる。眠りに落ちる直前、澪は思う。
――いつか、「大丈夫」って言える日が来る。
それが、嘘でも。
前に進むための、嘘なら。
今は、まだ言わない。
言えるようになるまで、歩く。
それでいい。
朝の光は、容赦がなかった。
カーテン越しに差し込む光が、澪のまぶたを押し上げる。
目を開くと、いつも通りの天井。
けれど、胸の奥は、昨日とは少し違っていた。
澪は、ゆっくりと起き上がる。
白猫の姿を探す癖は、もうない。
その代わり、呼吸を確かめる。
息を吸って、吐く。
ちゃんと、生きている。
窓を開けると、潮の匂いが入り込んできた。
海は、今日もそこにある。
灯台がなくても。
白猫がいなくても。
澪は、歯を磨きながら、鏡を見る。
映る自分の目は、まだ揺れている。
でも、逃げてはいない。
「……行こう」
小さく言って、支度を整える。
家を出ると、空は澄んでいた。歩きながら、澪は思う。
嘘は、悪ではない。人を守ることもある。けれど、自分を縛る嘘だけは、もう手放す。
その選別を、これからは自分でする。
それが、白猫から受け取った灯りだ。
通学路の途中、海が見える場所で、澪は一瞬立ち止まる。
波が、光を反射している。
その中に、白い影はない。
それでも、澪は微笑んだ。
影は、もう、背中にある。
前を向いて進むための、影だ。
澪は、歩き出す。
次に向き合うべきものが、待っている。
過去。
あの日。
灯台に縛られた記憶。
それでも。
今の澪は、立ち止まらない。
朝の光の中で、澪は確かに一歩を踏み出した。




