白猫のいない朝 第2話
灯台跡地を離れ、二人は海沿いの道を歩いた。夕方が近づき、空の色がゆっくりと変わっていく。オレンジと青の境目が、曖昧に溶け合っている。
澪は、その色が好きだと思った。
はっきりしないのに、嘘ではない。そんな色だ。
「澪」
遥斗が、歩きながら言った。
「前から思ってたんだけど」
少し、間がある。
「嘘をつくのが上手すぎる」
澪は、思わず足を止めた。
「……褒めてる?」
「半分はね」
遥斗は苦笑する。
「でもさ、上手すぎる嘘って、誰にも気づかれない代わりに、自分が一番傷つく」
胸に、鈍い痛みが走る。
それは、責められた痛みではない。見抜かれた痛みだ。
「……知ってる」
澪は、そう答えた。
声は、思ったより落ち着いていた。
「だから今は、全部正直にする練習中」
遥斗は、少し驚いたように澪を見る。
「全部?」
「ううん。選ぶ」
澪は、前を向いたまま言う。
「守るための嘘と、逃げるための嘘。ちゃんと、分けたい」
遥斗は、しばらく黙ってから言った。
「それ、難しいな」
「……うん。でも」
澪は、胸に手を当てる。
「前よりは、分かる気がする」
足元の砂利が、かすかに音を立てる。海は、変わらずそこにある。灯台がなくなっても、波は寄せて返す。
「白猫さ」
遥斗が、ふと思い出したように言う。
「もう、戻らないのか?」
澪は、少しだけ考えてから答えた。
「戻らないと思う」
言い切ると、胸が少し痛んだ。
でも、不思議と後悔はなかった。
「……寂しい?」
遥斗の問いに、澪は頷く。
「うん。すごく」
それから、続ける。
「でも、それだけじゃない」
遥斗は、黙って聞いている。
「一緒に歩いてた影を、今は背中に感じる」
澪は、自分の言葉に驚いた。
けれど、しっくりきた。影は、消えたのではない。位置が、変わっただけだ。
前ではなく、後ろに。導くのではなく、支えるために。
風が吹き、澪の髪を揺らす。
その感触が、確かに現実だった。
澪は、歩きながら、空を見上げた。
白猫はいない。
けれど、澪はもう、足元を見失ってはいなかった。
翌日。
教室は、いつもと変わらない朝のざわめきに包まれていた。
椅子を引く音、笑い声、誰かのため息。
澪は、自分の席に座りながら、その一つ一つを静かに受け取っていた。
――音が、近い。
そう感じたのは、白猫がいなくなってからだ。以前は、世界との間に薄い膜があるようだった。
今は、その膜が少しだけ薄くなっている。
「澪、これ見た?」
隣の席の友人が、スマートフォンを差し出してくる。
画面には、週末のイベント情報。
澪は、視線を落とした瞬間、違和感を覚えた。
友人の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まっている。
言葉は明るい。
けれど、目が笑っていない。
――嘘。
白猫の声が、脳裏をかすめる。だが、実際には何も聞こえない。あるのは、自分の感覚だけ。
「……行きたい?」
澪は、静かに問い返した。
友人は、少し驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
「本当は」
澪は、言葉を選ぶ。
「行きたいなら、一緒に行くよ」
一瞬の沈黙。
それから、友人は小さく笑った。
「……実はさ、あんまり気乗りしてない」
肩の力が、すっと抜けるのが分かった。
「みんな行くって言ってるから、断りづらくて」
澪は、頷いた。
「そうだと思った」
自分の声が、驚くほど穏やかだった。
責める気持ちは、ない。指摘するためでもない。ただ、気づいたことを差し出しただけ。
友人は、少し照れたように言う。
「澪って、前からこんなだったっけ」
澪は、少し考えてから答えた。
「……前は、気づかないふりしてた」
それは、嘘ではない。
そして、痛みも伴わなかった。
チャイムが鳴り、会話は途切れる。
澪は、ノートを開きながら、胸の奥を確かめる。
――今のは。
白猫がしていたことだ。
誰かの嘘を暴くのではなく、嘘をつかなくていい場所を作ること。
澪は、静かに息を吸う。
自分が、その役割を引き受け始めていることを、否定しなかった。
放課後。
遥斗が、教室の前で待っていた。
「なんか、雰囲気変わったな」
「そう?」
「うん。柔らかくなった」
澪は、小さく笑った。
白猫がいなくなって、強くなったわけではない。ただ、逃げなくなった。それだけだ。
廊下を歩きながら、澪は思う。
――影は、消えない。
でも、影に支配される必要はない。
白猫が教えてくれたのは、そのことだったのかもしれない。
放課後の校舎は、昼間とは別の顔をしていた。人の気配が減り、廊下に足音が長く響く。
澪と遥斗は、並んで歩きながら、特別な行き先を決めていなかった。
「澪」
階段を下りながら、遥斗が言う。
「最近さ、無理してない?」
澪は、一瞬だけ足を止めた。
心配されている、と分かる問いだった。だからこそ、逃げたくなる。
――大丈夫。
いつもなら、そう言っていた。けれど、今日は。
「……無理してる」
正直な言葉が、すっと出た。
遥斗は、驚いた様子を見せず、ただ頷く。
「そっか」
それだけだった。それが、ありがたかった。
校舎を出て、ベンチに腰を下ろす。
夕暮れの風が、肌に触れる。
澪は、しばらく黙ってから、口を開いた。
「私、前は」
言葉が、喉で詰まる。
――言っていい。
自分に、そう言い聞かせる。
「嘘をつくと、少し楽になれた」
遥斗は、黙って聞いている。
「本当のことを言うと、誰かが困る気がして」
視線を落とす。
「だから、全部私が飲み込めばいいって、思ってた」
沈黙。波の音。遠くの町の気配。
澪は、続けた。
「でもね」
胸に、じんわりと痛みが広がる。
「白猫がいなくなってから、気づいた」
顔を上げる。
「嘘をつくたびに、私が私から遠ざかってたって」
遥斗は、ゆっくりと息を吐いた。
「……それ、しんどいな」
「うん」
澪は、笑った。
苦しいけれど、嘘ではない笑いだった。
「今でも、つきそうになる」
白猫の声が、聞こえない瞬間ほど、癖は顔を出す。
「でも、そのたびに思い出す」
――嘘は影だ。
――影は、光があって生まれる。
「影を消すんじゃなくて、向き合えばいいんだって」
遥斗は、澪を見て言う。
「それ、白猫が言いそうだ」
澪は、小さく頷いた。
「うん。だから……」
言葉を探す。
「今も、いなくなった気がしない」
それは、未練ではない。依存でもない。継承だ。
遥斗は、少し照れたように視線を逸らす。
「俺もさ」
「うん?」
「本音、言えなかったこと、いっぱいある」
澪は、黙って待つ。
急かさない。
白猫が、澪にしてくれたように。
「でも、今は……」
遥斗は、澪を見る。
「言ってもいいかなって、思えてる」
澪は、静かに頷いた。
「……うん」
風が、二人の間を抜けていく。白猫はいない。
それでも澪は、人と本音で並んで座っていた。
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