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灯台の猫と、嘘をつく少女  作者: 倉木元貴


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白猫ないない朝 第1話

 翌朝。


 澪は、目覚ましより先に目を覚ました。

 カーテン越しの光が、いつもより白く感じられる。


 ――静かだ。


 それが、最初に浮かんだ感覚だった。

 耳を澄ましても、あの足音はない。布団の端に、白い影もない。胸の奥が、わずかにひやりとする。

 澪は、ゆっくりと上半身を起こした。

 昨日まで、当たり前のようにいた存在。名前もなく、説明もできなかった存在。


 ――白猫。


 いない。

 分かっていたはずなのに、現実として突きつけられると、喪失は思ったより生々しかった。

 洗面所へ向かい、鏡を見る。そこに映るのは、少し目の腫れた自分。

 けれど、以前ほど「知らない顔」ではなかった。


「……行ける」


 声に出すと、わずかに震えた。それでも、否定はしなかった。

 朝食をとり、支度をして家を出る。

 玄関のドアを閉める瞬間、ふと立ち止まる。


 ――本当に、もう来ないんだ。


 確認するように、心の中で呟く。返事はない。その代わり、胸の奥で、微かな熱が灯る。

 昨日、灯台で残されたもの。自分で灯す、と選んだもの。

 澪は、靴紐を結び直し、歩き出した。


 通学路。

 海沿いの道。風が、強い。

 いつもなら、白猫が先を歩いていた場所に、今日は何もいない。


 ――寂しい。


 そう思って、澪は驚いた。寂しさを、否定しなかった自分に。

 これまでは、感じる前に押し殺してきた感情だ。

 学校に着くと、遥斗が待っていた。


「おはよう」


 澪は、一瞬だけ言葉に詰まり、それから答える。


「……おはよう」


 遥斗は、澪の顔を見て、何かを察したように微笑んだ。


「大丈夫そうだな」


「……うん」


 本当は、完全に大丈夫ではない。けれど、崩れてもいない。それが、新しかった。


 教室に入る。

 ざわめき。椅子を引く音。

 日常が、何事もなかったように流れている。澪は、自分が「戻ってきた」ことを実感する。


 白猫のいない世界に。


 それでも、机に座った瞬間、澪は気づく。

 心の奥で、確かに何かが呼吸している。

 それは、声ではない。姿もない。けれど。


 ――迷ったら、立ち止まれ。


 ――嘘をつくな。


 そんな感触だけが、残っていた。

 白猫はいない。

 だが、澪はもう、自分の暗闇を一人で歩ける。

 そう思えた。その瞬間、窓の外を、一羽の白いカモメが横切った。

 澪は、ほんの一瞬だけ目を細める。


「……行ってくるね」


 誰にともなく呟き、ノートを開いた。

 午前中の授業は、澪の中をすり抜けていった。

 黒板の文字をノートに写しながらも、意識のどこかが微かに揺れている。集中できていない、というより――頼る先がないことに、まだ身体が慣れていない。

 これまでは、心が曇るたびに、白猫の声が割り込んできた。

 それは優しさではなく、むしろ厳しさに近いものだったが、澪にとっては確かな「指標」だった。


 今は、それがない。


 代わりにあるのは、沈黙と、自分の判断だけ。


「……」


 シャープペンを持つ指に、少し力が入る。

 昼休み。

 クラスメイトの一人が、澪の席に近づいてきた。


「ねえ澪、今日の放課後、ちょっと寄り道しない?」


 一瞬、胸がざわつく。

 本当は、灯台の跡地を見に行きたい。

 でも、それを言えば、相手を困らせるかもしれない。


 ――だから、嘘をつく。


 そう、いつもなら自然に出てきたはずの選択肢。

 けれど。澪は、言葉を飲み込んだ。

 今、嘘をついたら。誰も指摘はしない。誰も止めない。

 それでも――胸の奥が、わずかに熱を持つ。


「……ごめん。今日は用事があるの」


 嘘だ。けれど、以前とは違う。

 逃げるためではなく、自分の行き先を選ぶための言葉だった。

 友人は少し残念そうにしながらも、「そっか」と笑って去っていく。

 澪は、静かに息を吐いた。

 責める声は、聞こえない。その代わり、心の中で自分が自分を見ている感覚があった。


 ――今のは、どうだった?


 問いかけるのは、白猫ではない。澪自身だ。

 放課後。

 校舎を出ると、遥斗が待っていた。


「今日は、灯台の方行くんだろ」


 断定ではなく、確認するような声。

 澪は、少し驚いてから頷いた。


「……うん」


「一緒に行ってもいい?」


 一瞬、迷う。

 一人で向き合いたい気持ちと、誰かがそばにいる安心感。

 その間で揺れながら、澪は答えた。


「……来てくれるなら、嬉しい」


 遥斗は、微笑んだ。


「じゃあ、決まりだな」


 歩き出しながら、澪は気づく。

 誰かと並んで歩くとき、以前ほど「取り繕う言葉」を探していない自分に。

 白猫はいない。

 それでも、澪はもう、無意識に嘘へ逃げ込んではいなかった。

 その事実が、静かに胸に残る。


 ――これは、成長なのだろうか。


 問いに、明確な答えはない。

 けれど、歩く足取りは、確かに前を向いていた。

 校舎を離れると、町の空気が一気に変わる。

 人通りの少ない道。潮の匂い。遠くで波が砕ける音。

 灯台へ向かう坂道は、以前よりも広く感じられた。


「……なくなるんだな」


 遥斗が、ぽつりと言う。

 澪は頷いた。


「うん。もう、工事の準備も始まってる」


 視線の先に、白い柵が見える。

 あの向こうにあった灯台は、もう半分以上、囲われていた。

 近づくにつれて、胸の奥がざわつく。


 ――ここに来れば、あの声が聞こえる。


 そんな期待が、まだ完全には消えていなかった。

 だが、坂を上り切っても、白猫は現れない。足元に、白い影も落ちていない。

 澪は、立ち止まった。


「……やっぱり、いないね」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 遥斗は、何も言わず、澪の隣に立った。

 二人の間を、風が吹き抜ける。

 灯台があった場所は、土が剥き出しになり、重機の跡が残っていた。

 あの螺旋階段も、光も、もうない。代わりに残っているのは、記憶だけだ。

 澪は、無意識に胸に手を当てる。


 ――ここに、いた。


 確かに、白猫はここにいた。

 姿はなくても、その事実は消えない。


「……澪」


 遥斗が、静かに声をかける。


「今、どう思ってる?」


 即答できなかった。

 以前なら、曖昧に笑って、無難な言葉で濁していただろう。

 けれど、今は。


「……怖い」


 正直な言葉が、口からこぼれた。


「いなくなったことも。でも……」


 少し、言葉を探す。


「一人で立ってる自分が、想像できるのが」


 遥斗は、驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと頷いた。


「それ、すごいことだと思う」


 澪は、小さく首を振る。


「すごくなんてない。ただ……逃げられなくなっただけ」


「それでもさ」


 遥斗は、前を向いたまま言う。


「逃げないって、簡単じゃない」


 沈黙。波の音。遠くで、金属がぶつかる工事の音。その中で、澪の胸の奥に、微かな感触が生まれる。

 声ではない。言葉でもない。それでも。


 ――立ち止まるな。


 ――ちゃんと、見ろ。


 そんな輪郭だけが、浮かび上がる。

 澪は、そっと目を閉じた。白猫の声に似ている。でも、同じではない。これは。


「……私の、声だ」


 ぽつりと呟くと、遥斗が横を見る。


「今、何か言った?」


 澪は、少しだけ笑った。


「ううん。独り言」


 けれど、今回は誤魔化しではなかった。

 澪は、確かに聞いた。

 白猫のいない場所で。自分自身の中から。

 初めて。

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