灯台の取り壊し 第5話
灯台の中は、ひどく静かだった。
遠くで波が砕ける音だけが、壁越しに微かに届いている。
澪は、その場からしばらく動けずにいた。
白猫の言葉が、胸の奥で何度も反響する。
――事故は、お前の判断で起きたものじゃない。
それは、澪が長い間、拒み続けてきた可能性だった。 灯台の空気は、ひどく冷たかった。
長い間誰も触れていない壁は、湿った石の匂いをわずかに放ち、澪の背中に寄り添うように沈黙している。薄暗い室内には、割れた窓から差し込む細い光が一本だけ落ちていて、その中を、舞い上がった埃がゆっくりと漂っていた。澪は、その光の揺れを見つめながら、胸の奥のざわめきが、自分の呼吸と同じリズムで震えていることに気づく。
「……じゃあ」
澪は、震える声で言う。
「私は……何をそんなに怖がってたの?」
白猫は、すぐには答えなかった。
代わりに、灯台の壁に残る傷を見つめる。
「責任の所在が、曖昧な出来事ほど、人は自分を罰したがる」
澪は、唇を噛む。
「私が悪いって思っていれば世界は、分かりやすいから」
白猫は、ゆっくりと澪を見た。
「そうだ。だから、お前は、自分に嘘をついた」
澪は、膝を抱えた。
嘘は、人を守るための防壁。その言葉が、初めて現実味を帯びる。
「……楽だった」
澪は、正直に言った。
「私が悪いって思ってれば、考えなくて済んだから」
遥斗が、そっと口を開く。
「それって、澪が、弱かったってことじゃない」
澪は、顔を上げる。
「生き延びるための、選択だったんだと思う」
白猫は、小さく息を吐いた。
「聞いたか、外の声だ」
澪は、遥斗を見る。
彼の目には、同情も、否定もなかった。
ただ、隣に立っているという意思だけがあった。
白猫は、立ち上がる。
その姿は、今にもほどけそうだった。
「俺は、お前がここまで来るための、橋みたいなものだ。いつか役割を終える」
その言葉が胸の奥で重く響いた。橋という比喩が、なぜだか別れの形をしているように思えて、息が少しだけ詰まった。
澪の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……じゃあ、もう」
言葉が、続かない。
白猫は、微かに笑った。
「まだだ。だが、長くはない」
澪は、涙をこぼす。
「嫌だ。いなくならないで」
白猫は、首を振った。
「それを言えるようになった時点で、お前はもう前より強い。俺なんか必要ない」
遥斗が、澪の肩にそっと手を置く。
「澪。ここまで来たのは、一人じゃない」
澪は、何度も頷いた。
白猫は、階段の上を見上げる。
「最後に一つだけ、残ってる」
澪は、白猫を見る。
「……何?」
「灯りだ」
白猫は、静かに言う。
「消える前に渡すものがある」
澪の胸が、大きく波打つ。
灯台の上。そこが、次の場所だ。真実の先にあるもの。
澪は、立ち上がる。足は、まだ震えていた。
それでも。逃げなかった。
白猫の後ろ姿を追いながら、澪は思う。
これは、喪失ではない。受け継ぎなのだと。
灯台の階段は、まだ続いている。
けれど。その一段一段が、もう“罰”ではなくなっていた。
灯台の最上部は、思っていたよりも開けていた。
円形の部屋。大きなレンズ。割れたガラスの隙間から、夕暮れの光が差し込んでいる。
澪は、息を吸い込んだ。
潮の匂い。風の音。そして、懐かしい静けさ。
白猫は、レンズの前に座った。
その身体は、ほとんど透けている。
「ここが、最後だ」
澪は、何も言えなかった。
言えば、終わってしまう気がした。
遥斗は、少し離れた場所で、二人を見守っている。
白猫は、レンズに前足を触れる。
「灯台は、外を照らすものだと思われがちだが、本当は、中にいる人間を、迷わせないためのものだ」
澪は、ゆっくりと頷く。
胸に、何かが落ちてくる。
「お前は、ずっと自分が、暗闇だと思っていた」
白猫は、続ける。
「だが、灯りは最初から、そこにあった」
澪は、目を閉じる。
自分の中の、かすかな温度。
痛みと一緒にあった、それ。
「俺はそれを、指差していただけだ」
白猫の声が、少しだけ揺れる。
「役目はもう、終わる」
澪は、震える声で言う。
「……ありがとう」
白猫は、微かに首を振る。
「礼を言う相手を間違えるな」
澪は、胸に手を当てる。
白猫は、立ち上がる。
その姿は、夕陽に溶け込むようだった。
「最後に」
白猫は、澪を見つめる。
「選べ」
澪は、息を詰める。
「これから暗くなったとき、俺を、探すかそれとも自分で、灯すか」
澪は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと、答える。
「……自分で」
白猫は、満足そうに目を細めた。
「それでいい」
次の瞬間。
白猫の身体が、光の粒となってほどけていく。消えていく光を見つめながら、胸の奥で二つの感情がせめぎ合う。
失う痛みと、受け取ったものの温かさ。
どちらも本物で、どちらも否定できなかった。
風に乗って、灯台の外へ流れていく。
澪は、手を伸ばした。触れられなかった。でも、胸の奥に、確かな灯りが残っていた。
遥斗が、そっと澪の隣に立つ。
「……行こうか」
澪は、頷く。
灯台を出ると、外はすっかり夜だった。海の向こうに、町の灯りが見える。灯台は、もう点いていない。それでも澪は、迷わなかった。
振り返らず、前を向く。白猫はいない。だが、澪は、もう一人ではなかった。そして、自分の中の灯りを、信じられるようになっていた。
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