灯台の白猫 第2話
朝の教室は、いつも少し騒がしい。窓から差し込む光はまだ柔らかく、机に反射して白く揺れている。澪は自分の席に着くと、鞄を足元に置き、そっと息を吐いた。
ここでは、灯台も白猫もいない。
その事実に、安堵と、ほんのわずかな寂しさが混じる。
「おはよ、澪」
隣の席の友人――真奈が声をかけてきた。明るくて、誰とでもすぐ打ち解ける性格の子だ。
「おはよう」
澪は微笑みを作る。鏡を見なくても、ちゃんと“いつもの顔”ができていると分かる。
「昨日さ、海の方すごい風だったでしょ? 帰り大丈夫だった?」
「うん、平気だったよ」
その瞬間、胸の奥で小さく何かが鳴った。
平気じゃなかった。灯台の前で、白猫に嘘を指摘されて、少しだけ心が揺れていた。でも、それを話す理由はない。
「よかった。澪、風邪ひきやすいからさ」
「ありがとう」
感謝は本当だ。だからこそ、嘘が自然に混じる。
嘘をつく瞬間、澪はいつも同じ感覚を覚える。言葉を選び、口にするほんの一瞬、胸の奥がひやりと冷える。そのあと、何事もなかったように会話が進む。
それが、自分の普通だった。
授業が始まり、黒板の文字をノートに写す。先生の声は単調で、意識は半分ほどしか向いていない。澪の頭の片隅には、昨日の白猫の言葉が残っていた。
――嘘は、心の影だ。
影、という言い方が引っかかる。嘘はもっと軽いものだと思っていた。守るための、便利な言葉の選び方。それ以上でも以下でもない。
休み時間になると、クラスのあちこちで会話が弾み始める。澪は席を立たず、ノートを閉じた。
「ねえ澪、週末ひま?」
真奈が振り向いて聞く。
「え?」
「みんなで映画行こうって話になっててさ。澪も来ない?」
一瞬、言葉に詰まる。
週末は、灯台に行くつもりだった。特別な約束ではない。ただ、行かないと落ち着かない。
「……ごめん、その日はちょっと」
「用事?」
「うん、家の」
また、嘘。
真奈は「あ、そっか」とあっさり引き下がった。「また今度ね」と笑う。
その笑顔に、胸がちくりと痛む。
本当のことを言えば、誘いを断る理由を説明すれば、きっと真奈は理解してくれる。それでも、澪は言わない。
――断る理由が、自分でも説明できないから。
放課後、教室を出ると、廊下の窓から海が見えた。遠くに白く光る点がある。灯台だ。
澪は、無意識にそちらへ視線を向けていた。
「また、行くの?」
誰かの声に、肩が跳ねる。
振り返ると、真奈が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「え?」
「最近、放課後すぐ帰らないでしょ。海の方、好きだよね」
一瞬、息が止まる。
「……散歩」
短く答える。
「へえ。澪が?」
驚いたように笑われる。
「なんか意外。でも、澪っぽいかも」
その一言に、救われた気がした。
“澪っぽい”。その枠に収まる嘘なら、誰も疑わない。
「じゃ、また明日ね」
「うん、また」
真奈が去ったあと、澪は一人、廊下に残った。
――本当のことを言うと、嫌われる。
いつから、そう思うようになったのだろう。
その日の放課後、澪はいつも通り灯台へ向かった。風は昨日よりも穏やかで、波も静かだ。
階段の脇に、白い影があった。
「今日は、嘘が多かったな」
白猫が、澪を見るなり言う。
澪は苦笑する。
「見てたの?」
「聞いてた」
猫は当然のように言った。
「学校まで?」
「声は、嘘に引かれる」
澪は、何も言えなくなった。
自分がついた嘘が、すべて聞かれていた。そう思うと、胸の奥がざわつく。
「……それでも」
澪は、灯台の壁に背を預けた。
「嘘をつかないと、私、ここにいられない」
白猫は、しばらく黙って澪を見つめていた。
「それは違う」
低い声が、風に混じる。
「お前は、嘘があるから、ここに来てるんだ」
澪は、その言葉の意味を、まだ理解できなかった。
灯台の中は、外よりもひんやりとしていた。扉はいつも半分だけ開いていて、澪は迷うことなく中へ足を踏み入れる。錆びた蝶番が、低く鳴いた。
内部は円筒形で、壁に沿って螺旋階段が続いている。かつて灯りを灯すために人が行き交った場所は、今では埃と静けさに満ちていた。澪はこの匂いを知っている。古い紙と鉄、そして潮の匂いが混ざった、灯台特有の匂い。
「入るの、好きだな」
白猫が後ろからついてくる。足音はないのに、存在だけがはっきりと分かる。
「落ち着くから」
澪は短く答えた。
階段を上ると、途中の小さな踊り場に出る。窓は曇り、外の海はぼんやりとしか見えない。それでも、澪は立ち止まり、そこから外を眺めるのが好きだった。
「ここ、昔は立ち入り禁止だったよね」
「……そうだな」
猫の返事が、わずかに遅れた。
「でも、気づいたら入れるようになってた。柵も、鍵もなくて」
澪は窓枠に指を置く。冷たい。
「最初に来たとき、怖くなかったか」
白猫の問いに、澪は首を振った。
「怖くなかった」
それは嘘ではない。
初めてこの灯台に入った日のことを、澪はよく覚えている。まだ小学生になる前だった。大人の目を盗んで、ここまで歩いてきた。胸が高鳴っていたが、恐怖よりも、不思議な安心感が勝っていた。
「誰かが、待ってる気がした」
ぽつりと、澪は言った。
白猫は、その言葉に反応しなかった。ただ、尻尾を一度だけ揺らす。
「……そうか」
それ以上、何も言わない。
澪は階段をさらに上り、灯室の手前まで来る。今は使われていないレンズが、暗闇の中で鈍く光っていた。
「灯台ってさ」
澪は、独り言のように続ける。
「昔は、誰かを導くための場所だったんだよね。迷った船が、ここを見つけて、帰れるように」
「そうだな」
「でも今は、誰も見てない」
白猫は、澪を見上げた。
「それでも、立ってる」
その言葉が、胸に落ちる。
澪は、灯台の壁に手を当てた。ざらついた感触。長い時間、ここに在り続けた証。
――私も、こうなりたい。
誰にも気づかれなくても、ただ立っていられる存在。
その考えに、自分でも驚いた。
「お前は、ここに縛られてる」
白猫が、静かに言う。
「……縛られてない」
反射的に否定する。
「好きで来てるだけ」
猫は目を細めた。
「それが、嘘だ」
澪は言い返せなかった。
灯台の外から、波の音が届く。遠くで、何かが軋む音がした。古い建物が、少しずつ時間に削られている。
「ここは、思い出の場所なんだ」
澪は、しばらくして言った。
「楽しい思い出じゃないけど……大事な場所」
白猫は、何も言わない。
「昔、ここで――」
言いかけて、言葉を止める。
胸の奥が、急に重くなる。空気が足りない。
「……やめとく」
澪は視線を落とした。
白猫は、澪の足元に近づき、静かに座る。
「無理に思い出す必要はない」
その声は、いつもより低く、柔らかかった。
「影は、急に引きずり出すと、形を失う」
澪は、その言葉の意味が分からないまま、頷いた。
灯台の上から見える海は、穏やかだった。青と灰色が混じり合い、水平線が曖昧に溶けている。
澪は思った。
――ここには、何かがある。
まだ名前のつかない記憶。言葉にすると壊れてしまうもの。
白猫は、最初からそれを知っているようだった。
階段を下りるとき、澪はふと気づいた。
「ねえ」
「なんだ」
「……いつから、ここにいるの?」
白猫は、少しだけ間を置いた。
「さあな」
それだけだった。
嘘なのか、本当なのか、澪には分からなかった。
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