灯台の取り壊し 第3話
灯台へ行かないと決めた夜は、思っていたよりも長かった。
窓の外から聞こえる波の音が、いつもより近く感じられる。
澪は、机に向かいながら、何度も視線を窓へやった。
――行かない。
そう選んだはずなのに、心は落ち着かない。
白猫は、現れなかった。呼びかけても、気配すら感じない。
それが、余計に不安を煽る。
翌日。
澪は、放課後になると無意識に校門の方を見ていた。
灯台へ向かう道と、逆方向。
その分かれ道に、立ち止まる。
「……」
足が、動かない。
そこへ、遥斗がやって来た。
「今日も、行かない?」
澪は、首を振る。
「うん」
その答えは、昨日より少しだけ迷いが少なかった。
遥斗は、澪の横に立つ。
「無理に、切り替えなくていいと思う」
「切り替え?」
「依存から自立、みたいな」
澪は、苦笑する。
「そんな、簡単じゃないよ」
「分かってる」
遥斗は、空を見上げる。
「でも。距離を変えるだけでも、意味はある」
澪は、その言葉を噛みしめた。
白猫が、教えてくれたことと、重なる。
その日の夜。澪は、夢を見た。
灯台の灯りが、消えていく夢。光が弱まり、最後には闇に溶ける。白猫は、灯台の下に座っている。澪が呼んでも、振り返らない。目が覚めると、胸が苦しかった。
汗が、背中に張りついている。
――これは、予兆?
朝、学校へ向かう途中。
海沿いの道で、白い影が視界の端を横切った。
澪は、足を止める。
「……猫?」
だが、振り返っても、何もいない。
心臓が、早鐘を打つ。
昼休み。
澪は、屋上へ行った。
誰もいない場所で、風に吹かれながら、フェンスに寄りかかる。
「……聞こえてる?」
小さく、問いかける。
返事はない。
その沈黙が、答えのようだった。
白猫は、遠ざかっている。
それは、澪が選んだからだ。
でも。それが正しい選択なのかは、まだ分からない。
放課後。
澪は、遥斗と別れたあと、一人で海沿いを歩いた。
灯台は、遠くに見える。今日は、近づかない。
その代わり、立ち止まって、見つめた。
灯台は、変わらずそこに立っている。
だが、胸の奥で、何かが少しずつ、離れていく感覚があった。
怖い。失いたくない。
それでも。
逃げているだけではないと、信じたかった。
その日を境に、澪の夢は少しずつ変わっていった。
同じ灯台が出てくるのに、景色が毎回違う。
晴れた海の夜もあれば、嵐の中で傾く姿もある。
共通しているのは、白猫の存在だ。
けれど、どの夢でも、猫は澪を見なかった。
声も、届かない。
澪は、朝起きるたび、胸に小さな穴が空いたような感覚を覚えた。
現実でも、白猫の姿はほとんど見えなくなった。
灯台の近くを通っても、気配がない。
呼びかけても、返事はない。
まるで、境界が閉じられていくようだった。
昼休み、澪は図書室にいた。
本を読んでいるふりをしながら、ページの文字はまるで別の言語のように頭に入ってこない。
視界の端で白いものが揺れた気がするたび、胸の奥がひゅっと縮む。
期待して、落ち込んで、また期待してしまう自分が嫌になる。
“もう、いないのかもしれない”
その考えが浮かぶたび、喉の奥がきゅっと痛んだ。
言葉にしてしまえば、本当にそうなってしまう気がして、口を開くのが怖かった。
視界の隅に、白いものが揺れた気がして、思わず顔を上げる。
――いない。
自分で自分を、疑う。
これは、喪失の始まりなのだと、頭では理解していた。
けれど、心は追いつかない。
「……大丈夫?」
遥斗が、向かいの席に座った。
澪は、はっとする。
「顔、暗い」
澪は、少し考えてから答える。
「……いなくなりそう」
遥斗は、すぐに「誰か」と聞かなかった。
その沈黙が、澪にはありがたかった。
「それって」
遥斗が言う。
「もう、渡し始めてるってことじゃない?」
澪は、首を傾げる。
「渡す?」
「前、猫が言ってたろ。失うんじゃない、渡すって」
澪は、息を呑む。
遥斗の口から、その言葉が出ることに、驚いた。
「覚えてるんだ。澪が言ったことは。ちゃんと、残る。受け継がれるんだ」
その言葉に、澪の胸が少しだけ温かくなる。
放課後。
澪は、久しぶりに灯台へ向かった。
距離を取ると決めたはずなのに、今日はどうしても、確かめたかった。
灯台の足元には、誰もいない。
風が吹き抜けるだけだ。
「……白猫」
呼んでみる。
返事はない。聞こえるのは、波と風の音だけ。
代わりに、記憶が溢れ出す。
幼い頃の自分。あの日の音。止まらない時間。
澪は、頭を抱えた。
「……戻ってきて」
声が、震える。
そのとき。
「呼ぶな。騒がしい」
低い声がした。
澪は、顔を上げる。
灯台の影に、白猫がいた。
以前より、さらに薄い。
「……いた」
安堵と、恐怖が同時に込み上げる。
白猫は、澪を見る。
その目に、迷いはなかった。
「俺はもう、前ほど、お前を支えられない」
澪の胸が、締めつけられる。
「でも」
白猫は、続ける。
「それでいい」
澪は、涙が止まらなかった。
白猫は、静かに言う。
「記憶は重荷じゃなくなる。選べばな」
澪は、何度も頷いた。
選ぶ。
それが、ここへ来る理由だと、今は分かる。
白猫は、澪から視線を外す。
「次は、灯台の中だ」
その言葉を残し、白猫は、風に溶けるように消えた。
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