灯台の取り壊し 第1話
夏の終わりが近づくにつれて、町の空気は少しずつ変わっていった。
観光客の姿はほとんどなく、海沿いの道を歩くのは、地元の人間ばかりだ。潮の匂いに混じって、どこか乾いた気配が漂っている。
澪は、学校帰りに遠回りをして、商店街を抜けていた。
理由は、特にない。
ただ、家にまっすぐ帰る気になれなかっただけだ。
シャッターの下りた店が増え、古い看板の文字は色褪せている。子どもの頃から見慣れた景色なのに、今日はやけに「終わり」を意識させた。
掲示板の前で、足が止まる。
町内会の連絡事項が、無造作に貼られている場所だ。
その中に、一枚だけ、異質な紙があった。
白地に、黒い文字。
整った書式。
行政の匂いがする。
澪は、無意識に一歩近づいた。
「……灯台、取り壊し?」
声が、かすれた。
そこには、はっきりと書かれていた。
――老朽化に伴い、8月21日をもって、当町の旧灯台を解体する。
目が、文字を追う。日付が、脳裏に焼きつく。思ったよりも、ずっと近い。胸の奥が、冷たくなる。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
――嘘でしょ。
そう思った瞬間、澪は自分に嘘をついたことに気づく。
嘘だと、願っているだけだ。
背後で、自転車のブレーキ音がした。
「鈴谷?」
振り返ると、遥斗が立っていた。
息を少し切らしている。
「どうした?」
澪は、言葉を探す。
いつものように、軽く誤魔化せばいい。 「大したことない」と。
でも。その選択肢が、今日は、やけに重かった。
澪は、掲示板を指さす。
「……これ」
遥斗は、紙を見る。
数秒、黙ったまま。
「……本当なんだ」
低く、そう言った。
澪は、唇を噛む。
「ずっと、あると思ってた」
遥斗は、澪を見る。
「大事な場所?」
澪は、答えられなかった。
大事、という言葉では足りない。
灯台は。
守りたかったもの全部が、詰まっている場所だった。
遥斗は、何も言わず、澪の隣に立つ。
二人で、紙を見つめた。
そのとき。
「……見せられるのは、辛いな」
低い声が、風に紛れて届いた。
澪は、息を呑む。
振り返ると、掲示板の影に、白猫が座っていた。
いつもより、輪郭が曖昧だった。
白猫は、紙を見上げる。
「とうとう、来たか」
澪の喉が、詰まる。
「……消えるの?」
白猫は、澪を見る。
その目は、静かだった。
「灯台が消えれば、俺も消える」
淡々とした声。
だからこそ、胸に突き刺さる。
遥斗は、澪の様子に違和感を覚えたようだった。
「澪?」
澪は、言葉を出せない。
白猫は、ふっと息を吐く。
「怯えるな。終わりは、いつも最初から決まってる」
澪は、白猫を見る。
初めて、白猫が遠く感じた。
――依存していた。
その事実が、静かに、浮かび上がる。
灯台の取り壊し。
それは、町の話であり。
同時に、澪の心の奥を切り取る、宣告でもあった。
掲示板の前を離れても、澪の胸の中では、あの紙切れがひらひらと揺れ続けていた。
遥斗と並んで歩く海沿いの道。夕暮れの色が、水面に溶けていく。
けれど澪の視界は、どこか霞んでいた。
「……澪」
遥斗が、気遣うように声をかける。
「大丈夫?」
澪は、反射的に口を開きかけて、止めた。
大丈夫。
いつもなら、そう言っていた。
でも、それは――嘘だ。
喉の奥で言葉が詰まる。
その沈黙に、遥斗はそれ以上踏み込まなかった。
白猫は、二人の少し後ろを歩いている。
足音は、聞こえない。
だが、そこに「いる」気配だけは、はっきりと分かる。
「……落ち着かないな」
白猫が、ぽつりと言った。
「風の流れが、変わってきてる」
澪は、猫を見る。
その輪郭は、夕焼けに滲んで、少し揺れているようだった。
「……消えそう?」
白猫は、答えない。
代わりに、灯台の方角を見た。
「お前、俺がいなくなったら、どうする?」
澪の胸が、きゅっと縮む。
「……嫌」
思わず、そう答えていた。
白猫は、静かに澪を見る。
「それが、依存だ」
澪は、視線を逸らす。
分かっている。
分かっているから、苦しい。
「でも」
白猫は、声を低くする。
「お前が壊れないために、俺はいた」
「……だったら」
澪は、震える声で言う。
「いなくならないで」
白猫は、少しだけ目を細めた。
「それは、選べない」
遥斗は、二人のやり取りを見て、困惑していた。
澪が、何かと話している。
でも、その「何か」が見えない。
「澪」
遥斗は、慎重に言う。
「……今、誰と話してる?」
澪は、はっとして遥斗を見る。
言っていいのか。
言えば、壊れるかもしれない。
けれど、嘘をつけば、また自分を縛る。
「……猫」
小さく、答えた。
遥斗は、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情になる。
「灯台の?」
澪は、頷く。
遥斗は、何も言わない。
否定もしない。
それが、逆に澪を不安にさせた。
「信じてない?」
澪が、恐る恐る聞く。
遥斗は、首を振った。
「信じるとか。そういう話じゃない」
澪は、息を止める。
「じゃあ……」
「澪が、そう感じてるなら」
遥斗は、ゆっくりと言った。
「それは、本物だと思う」
その言葉に、澪の目が熱くなる。
白猫が、鼻で小さく笑った。
「……いい奴だな」
その声には、どこか安堵が混じっていた。
白猫は、歩みを止める。
「今日は、ここまでだ」
灯台が、近づいてきている。
だが、白猫は、足を進めようとしない。
「行かないの?」
澪が聞く。
「近づきすぎると、俺が崩れる」
澪の胸が、ざわつく。
見えない期限が、確かに迫っている。
白猫は、澪を見る。
「覚えておけ。俺がいなくなっても、嘘をつくな、じゃない。選べ」
澪は、その言葉を胸に刻む。
選ぶ。
それは、逃げることじゃない。
この夜、澪は初めて、白猫が「守る側」から「手放す側」へ移り始めたことを、はっきりと感じていた。
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