転校生の違和感 第5話
翌朝。
澪は、鏡の前でしばらく動けないでいた。
目の下に、うっすらと影ができている。眠れなかった証拠だ。
──時間は進んでいる。止めることはできない。
白猫の言葉が、頭の奥で反響する。
制服に袖を通しながら、澪は深く息を吸った。
今日は……逃げない。
そう決めた。
学校に着くと、教室の空気がざわついていた。
席に着いた瞬間、遥斗がこちらを見る。
その視線は、問いではなく、確認のようだった。
澪は小さく頷く。それだけで、遥斗は視線を戻した。
わかっている。
何かが、違う。
昼休み。
澪は、自分から遥斗の席へ向かった。
「……少し、話せる?」
遥斗は、すぐに立ち上がる。
「屋上?」
小さな声で言う。
澪は頷いた。
階段を上がる間、心臓の音がうるさく響いていた。上りきって、屋上へ出る前に小さく深呼吸をして、息を整えた。
屋上の扉を開けると、風が二人の間を通り抜けた。
澪は、フェンスに手をかける。
「全部は、話せない」
最初にそう言った。
遥斗は、頷くだけだった。
「でも」
澪は言葉を選ぶ。
「私。一人でいるのが、怖い」
遥斗は驚いた顔をしたが、すぐに表情を緩める。
「それ、案外、普通だと思う」
その言葉に、澪の肩が少し下がる。
「……依存って」
口に出すのは、勇気が必要だった。
「どこからが、依存なんだと思う?」
遥斗は少し考えてから、小さく笑って答える。
「その相手がいないと。自分が壊れるって、思ったらじゃない?」
澪は胸が締め付けられる。
思っていたことが、当たっていた。
「でも」
遥斗は続ける。
「頼ってしまうのは、違うと思う」
「頼ってしまうって?」
「うーん……そうだな。たとえば、自分で立とうとしている人が、一時的に手を借りること。必要だけど、必要な時に頼ること。それは依存なんかじゃないと思う」
澪はその言葉を噛み締める。
白猫の言葉と、重なる。
影と光。
「……私」
澪は声を落とす。
「一人で立てるって。思えなくなっている」
遥斗は、澪の方を見る。
視線がまっすぐだった。
「じゃあ、今は立てなくていい」
澪は目を見開く。
「え?」
「今は」
遥斗は言葉を選びながら続ける。
「寄りかかっても、回復すればいい」
その言葉に、澪の胸が熱くなる。
──選択肢は、何も二つじゃない。
初めてそう思えた。
「……ありがとう」
澪は小さく言った。
遥斗は、照れたように視線を逸らす。
「礼……言われると、ちょっと困る」
放課後。
澪は灯台へ向かう。
だが、今日は一人じゃない。遥斗と並んで、海沿いの道を歩いた。
「ここ?」
遥斗が言う。
「ここが、鈴谷の好きな場所」
澪は、少し迷ってから頷いた。
「……落ち着くから」
灯台が見えてくる。
澪は、心の中で、静かに白猫に語りかける。
──一人じゃない。
それが答えなのかは、まだわからない。けれど、前に進むための、形の一つだと、今は信じたかった。
灯台の足元にたどり着くと、潮の匂いが一段と濃くなった。
夕方の海は、昼間よりも静かで、どこか息を潜めているようだった。風に混じって、遠くの波の音が一定のリズムで届く。
澪は灯台を見上げる。
白い壁に、夕焼けの色がうっすらと滲んでいる。
「……ここが」
遥斗が静かに言った。
「鈴谷の場所なんだな」
澪は否定も肯定もできず、ただ立ち尽くしていた。
──私の場所
そう呼んでいいのか、まだわからない。
その時。
「遅いじゃないか」
低く、掠れた声がした。
澪は、はっと息を呑む。
灯台の影から、白猫が現れた。
夕暮れの中でも、その毛並みは不自然なほど白く、現実から一歩ずれたように見えた。
遥斗は、猫の姿を見て目を細める。
「……あれ?」
澪の胸が強く脈打つ。
「堀川、見えるの?」
遥斗は、少し困ったように首を傾げた。
「猫、だよな?」
澪は思わず、白猫を見る。
白猫は、ふっと口元を歪めた。
「今日は、サービスだ。お前が一人ではないって、わかったからな」
遥斗は、澪と白猫を交互に見る。
「鈴谷……その猫……もしかして、喋ってる?」
澪の喉が、ひくりと鳴った。
──バレてしまった。
自分だけの、影だったはずの存在が。遥斗に。
白猫は、澪を見上げる。
「なあ。怖いか?」
澪は、少し考えてから首を横に振った。
「……ううん。怖くない」
その答えに、白猫は満足そうに目を細めた。
「なら、いい」
白猫は、灯台の壁に背を預けるように座る。
「この転校生。嘘を見抜く目はないが、違和感には正直だ。苦労するが、悪くはない」
遥斗は、苦笑いを浮かべる。
「それは、褒められている?」
「半分な」
白猫は、澪に視線を戻す。
「お前。一つ、選べるようになったな」
澪は、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
選ぶ。嘘か、本音か。孤独か、依存か。
──その間に、道がある。
遥斗がそっと言う。
「全部、わからなくても。一緒に考えていけばいいんじゃない?」
澪は遥斗を見る。
その目は、曇っていなかった。
白猫は、静かに立ち上がる。
「……今日は、ここまでだ。話はまた今度」
その声に、微かな疲れが混じっていることに、澪は気づいた。
「また来る」
白猫は、そう言って、灯台の影に溶けるように姿を消した。
澪はしばらく動けなかった。
遥斗が、気を遣うように声をかける。
「大丈夫?」
「……うん」
澪は頷く。
胸の奥に、不思議な感覚が残っていた。
失われる前触れのような感覚。
それでも、同時に。確かに、何かが始まったような感覚もあった。
灯台は、何も変わらずそこに立っている。けれど、澪の中でだけ、確実に、景色が変わり始めていた。
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