転校生の違和感 第3話
翌朝。
澪は、いつもより少し早く家を出た。
海沿いの道は、朝の光を受けて淡く輝いている。潮の匂いが肺の奥まで入り込むようだった。
少しだけ、気分がいい。
──今日は選ぶ。
そう心の中で繰り返しながら、澪は歩く。
学校に着くと、教室にはまだ数人しかいなかった。自分の席に座り、鞄を机の上に置く。
遥斗はまだ来ていない。
ほっとしたような、少し残念なような。
その曖昧な感情に、澪は小さく首を振った。
「おはよう」
真琴が話しかけてくる。
「おはよー……」
「澪、何だか今日は元気ない?」
澪は一瞬だけ迷った。
いつもなら「大丈夫」そう言って、終わらせていた。
けれど、できる限り嘘はつかない。
「……あはは、ちょっと寝不足」
それだけ言った。
全部ではない。でも、嘘でもない。
真琴は、気にする様子もなく笑った。
「夏の終わりって、眠くなるよね。ついつい夜更かししてしまって」
その軽い返しに、澪は肩の力が抜ける。
──壊れない関係。
胸の奥で何かが解けた。
授業中。
澪は黒板を見ながらも、白猫の言葉を思い出していた。
嘘の仮面とは違う。守るための沈黙は嘘ではない。
昼休み。遥斗が席に戻ってきた。
澪は意を決して遥斗に話しかける。
「堀川」
遥斗は少し驚いた顔で振り向いた。
「どうしたの?」
澪は机の端を指でなぞりながら言う。
「昨日のこと……その……ありがとう」
遥斗は一瞬きょとんとする。
「何に?」
「……待ってくれたこと」
遥斗はすぐには答えなかった。
やがて、少し照れたように言う。
「待つのは……嫌いじゃないんだ」
その言葉に、澪は小さく笑った。
その時、遥斗がふと澪の手元を見る。
「それ」
澪は自分の指先を見る。
爪を強く噛んでいた。
無意識の癖。
澪は、恥ずかしくて背中に隠した。
「緊張するとそうなるの?」
澪は、一瞬迷ってから頷いた。
「……うん」
遥斗は、何も言わず、それ以上については触れなかった。
放課後。
澪は灯台へ向かう前に、少しだけ遠回りをした。
白猫が、灯台の入り口で、身体を掻きながら待っている。
「今日は違うな」
白猫が言う。
「うん」
澪は頷く。
「少しだけ」
灯台の影に腰を下ろす。
「本音、言えた」
白猫は澪を見る。
「小さいが、確かな一歩だ」
澪は胸に手を当てる。
「嘘じゃないって、こんなにも楽なんだね」
白猫は静かに答える。
「お前は、嘘をつくことに疲れているだけだ」
澪は白猫の輪郭を見る。
──薄くなっている。
ほんのわずか。
それでも確実に。
「……ねえ」
澪は不安を隠さずに聞く。
「私がこうして変わったら、あなたは……」
白猫は目を伏せる。
「それは……」
答えなかった。
沈黙が灯台を満たす。
澪は何も言わずに白猫を抱き上げた。
それ以上、澪は何も聞かなかった。
選ばないことも、今は選択だった。
夕方の灯台は、どこか息を潜めているようだった。
空は薄く曇り、海の色も冴えない。澪は、いつものように階段を上がりながら、胸の奥のざわめきを無視できずにいた。
──薄くなっている。
白猫の輪郭。
気のせいだと、何度も自分に言い聞かせた。
「……来たよ」
澪が声をかける。
返事は、少し遅れて返ってきた。
「わかっている」
白猫は手すりの上に座っていた。だが、その姿は、明らかに以前より淡い。
風が吹くと、輪郭が溶けるように揺らぐ。
澪は胸が締め付けられるのを感じた。
「最近」
澪は言葉を探す。
「あなた、遅いよね」
白猫は、目を細める。
「来るのに?」
「いるのに」
白猫は少し考えるように黙った。
「……感覚が鋭くなったな」
澪は否定しなかった。
「消えたり、しないよね?」
白猫はすぐには答えない。
その沈黙こそが、何よりの答えだった。
「私……」
澪は拳を握る。
「嘘。減らしている」
「わかっているさ」
白猫は静かに言う。
「だからだ」
澪は息を呑む。
「じゃあ、やっぱり……」
白猫は遮るように言った。
「恐れるな。これは罰じゃない」
澪は、涙が滲むのを必死で堪えていた。
「でも」
声が震える。
「いなくなるのは、同じでしょ?」
白猫は、優しい目で澪を見つめる。
「影は……光が当たれば、薄れる。それはどうしようもないことだ」
澪はその言葉を噛み締める。
わかっていた。理解していたつもりだった。
それでも。
「私……」
澪は声を落とす。
「また、守れなかったって思っている」
白猫は、ゆっくりと首を振った。
「違う。お前は、守っている。自分自身を」
澪は、白猫を見る。
「でも、あなたを守れない」
白猫は微かに笑った。
「俺は……守られるために、ここにいたわけじゃない」
その言葉は、優しくても、残酷だった。
夕暮れの中、風が強く吹く。
白猫の尻尾が、途中で途切れたように見える。
澪は思わず手を伸ばす。
触れない。
指先は、空を掴むだけ。
「……やだ」
澪は初めてはっきりと言った。
「いなくならないで!」
白猫は、澪の方へ一歩近づく。
それでも距離は埋まらない。
「選べ」
白猫は繰り返す。
「俺か……前に進むか」
澪は唇を噛む。
また選択。
またそれ。
「そんなの……」
声が、掠れる。
「ずるいよ」
白猫は何も言わなかった。ただ、小さくフッと笑った。
灯台の影が、二人の間に深く落ちる。
澪は、その影に包まれながら、初めて気づく。自分が遅れているのは、白猫の消失だけではない。
──前に進むこと、そのものだと。
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