転校生の違和感 第1話
朝の教室は、まだ完全には目覚めていなかった。
窓から差し込む光はやわらかく、机の上に残った消しゴムの粉や、昨夜のままのプリントを淡く照らしている。澪は自分の席に座り、鞄の中身を整えるふりをしながら、周囲の音に耳を澄ませていた。
笑い声。椅子を引く音。誰かの欠伸。
それらはいつもと同じはずなのに、今日はどこか落ち着かなかった。
理由は分かっている。
──遥斗が、同じ教室にいるから。
昨日、灯台で少しだけ本当のことを話した。それだけで、何かが変わった気がしてしまう自分がいる。その変化を、誰かに見抜かれるのが怖い。
「おはよう、澪」
友人が声をかけてくる。
「うん。おはよう」
自然な笑顔。声の調子も、問題ない。
──嘘じゃない。
そう確認してから、澪は小さく息を吐いた。
ホームルーム開始のチャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。その後ろに見慣れない男子生徒が立っていた。
「えー今日は転校生を紹介する」
その瞬間、教室の空気が変わる。
ざわめき、好奇の視線。
「東京から来た、堀川遥斗だ」
遙斗は、軽く会釈をした。
「よろしくお願いします」
淡々とした声。
澪は、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。
──昨日と同じ声。
灯台の風の中で聞いた声と、今、教室で聞く声が重なる。
遙斗の席は、澪の斜め後ろだった。
椅子を引く音が近い。
それだけで、背中が少し緊張する。
遙斗の紹介も終えて、授業が始まる。
黒板の文字を追いながら、澪は意識が散っていくのを感じていた。集中しようとすればするほど、背後の気配が気になる。
──見られている気がする。
実際に、視線があるわけではない。
それでも、視線を感じている気がしていた。
昼休み。
澪が一人で教室を出ようとすると、声がかかった。
「鈴谷さん」
振り向く。
遙斗だった。
「昨日の……」
一瞬、言葉に詰まる。
澪は、すぐに周囲を確認した。誰もこちらも見ていない。
「何?」
短く返す。
遙斗は、澪の表情をじっと見てから言った。
「無理に話さなくていい。ただ……」
少し時間をおいた。
「教室だと、雰囲気違うなって思って」
澪は、思わず笑ってしまった。
「それ、どう言う意味?」
「昨日は……」
遙斗は、言葉を選ぶ。
「もっと、静かだった」
澪は、その言葉に胸がざわついた。
──違和感。
白猫が言っていた言葉が、ふと頭をよぎる。
嘘をつく瞬間、自分はどう見えているのか。
澪は、軽く肩をすくめた。
「学校では、こうしていないとね」
その言葉に、遙斗も何も言わなかった。
ただほんのわずかに、眉を寄せた。
それを見て、澪は確信する。
──この人は、気づいている。
自分が、場面ごとに違う顔をしていることに。
そして、それを“間違い”だとは言わないまま、違和感として抱えていることに。
澪は、その沈黙が少し怖くて、少しの救いだと思った。
午後の授業が終わり、教室に少しだけ余白の時間が流れ始める。
部活に向かう生徒。友人同士で談笑する声。窓の外では、蝉の泣き声が途切れ途切れに響いていた。
澪は、鞄を肩にかけながら、視線を伏せて席を立つ。
──灯台へ。
いつもの帰り道。
誰にも見られないように、そっと教室を抜け出す。
だが今日は、背中にわずかな視線を感じていた。
校舎を出て、人気のない通用門を抜ける。
風が、海の匂いを運んでくる。
澪は足を止め、周囲を確かめた。
「……今日は静かだね」
思わず口にした言葉。
返事があるとわかっているようで、同時に、ないこともわかっている。
白猫の姿は、まだ見えない。
澪は灯台へ続く坂道を登る。
草むらの中で影が揺れた。
「一人できたな」
白猫の声。
遅れて白い影が姿を現す。
「……いた」
澪はホッとする。
「今日は、学校どうだった?」
白猫が聞く。
「普通」
澪は即答した。
「嘘だ」
澪は唇を噛む。
「……ちょっとだけ」
「転校生だな」
白猫は、あっさり言った。
「どうしてわかるの?」
「お前の嘘は音が違う」
澪は苦笑いをした。
灯台の影に腰を下ろし、膝を抱える。
「気付かれるの、怖い」
澪は、ぽつりと漏らす。
「何が?」
「私が」
言葉を探す。
「私が、私じゃないってこと」
白猫は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、澪の背中を押す。
「ねえ」
澪は空を見上げる。
「人って、場面ごとに態度を変えるよね」
「変わる」
白猫は即答する。
「だが、嘘と仮面は違う」
澪は、その言葉を胸に刻む。
その時、足音がした。砂利を踏むしっかりとした足音。
澪は、はっとして振り返る。
「……え?」
坂道の途中に、人影があった。
転校生の堀川遙斗だった。
「ごめん」
少し息を切らしている。
「帰り道たまたま、見かけて……」
澪の心臓が、強く打つ。
──聞かれた? 白猫と話しているところを。
白猫の姿はもうない。
澪は反射的に立ち上がった。
「な、何?」
声が少し高い。
遙斗は、澪の背後を見る。
「今……」
澪の喉がひくりと鳴る。
「誰かと話してた?」
世界が一瞬止まる。
澪は即座に答えを選んだ。
「……独り言」
笑顔を作る。
「考え事、してただけ」
遥斗は、何も言わない。
ただ、澪の目をじっと見る。
その視線に、逃げ場がない。
「独り言、か」
遥斗は、繰り返す。
澪は、頷く。
嘘。
自分でも、はっきり分かる。
その時、風が吹いた。
澪の背後、灯台の影が揺れる。
――見られている。
白猫の気配。
遥斗は、視線を澪に戻す。
「責めない」
静かな声。
「ただ」
一拍置いて。
「違和感があった」
澪の胸が、ぎゅっと縮む。
遥斗は、続けなかった。
「今日は、帰る」
それだけ言って、踵を返す。
澪は、立ち尽くしたまま、その背中を見送った。
白猫の声が、遅れて響く。
「今のが」
「お前の嘘だ」
澪は、俯いた。
――ばれていない。
けれど。
――誤魔化せてもいない。
灯台の影が、いつもより濃く、澪を包んでいた。
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