灯台の白猫 第10話
翌日の放課後、澪は校舎裏の坂道で立ち止まっていた。
海へ続く細い道。灯台へ向かういつもの分かれ道の手前で、足が止まる。今日は――一人じゃない。
「澪」
背後から声がした。
振り向くと、遥斗が少し距離を保ったまま立っていた。無理に踏み込まない、その立ち位置が、澪にはありがたかった。
「……来た」
それだけ言うと、澪は歩き出す。遥斗も何も聞かず、隣を歩いた。
海の匂いが強くなる。
風が、制服の裾を揺らす。
「灯台、初めて?」
澪が聞く。
「近くまでは来たことあるけど」
遥斗は前を見たまま答えた。
「中まではない」
それ以上、踏み込まない。
灯台が見えてくる。
白く、古く、ひび割れた壁。
澪は無意識に周囲を見回した。
――白猫はいない。
それに、少しだけ胸がざわつく。
「……ここ」
澪は足を止めた。
「私にとって、特別な場所」
遥斗は、黙って頷いた。
「全部は話さない」
澪は、先に言った。
「それでもいい?」
遥斗は、即答しなかった。
数秒の沈黙のあと、静かに言う。
「うん」
「話したい分だけでいい」
澪は、深く息を吸った。
「……私」
言葉を選ぶ。
「ここで、昔、事故があった」
遥斗の表情が、わずかに引き締まる。
「私が、小さかった頃」
「誰かが、怪我をした」
――守れなかった。
その言葉は、まだ出せない。
「それでね」
澪は、足元の砂利を見る。
「本当のことを言うのが、怖くなった」
遥斗は、何も言わない。
ただ、聞いている。
「本当のことを言うと」
澪は、続ける。
「誰かが、傷つく気がして」
「嫌われる気がして」
声が、少し震えた。
「だから」
澪は、苦笑する。
「優しい嘘をつくようになった」
遥斗は、ようやく口を開いた。
「優しい嘘、か」
澪は、頷く。
「でも」
一拍置いて。
「それが、本当に優しかったのかは……分からない」
そのとき、風が吹いた。
灯台の影が、二人を覆う。
遥斗は、澪を見る。
「澪の嘘」
ゆっくり言う。
「俺は、嫌いじゃない」
澪は、驚いて顔を上げた。
「でも」
遥斗は、続ける。
「苦しそうなのは、分かる」
その言葉に、胸が締めつけられる。
――見抜かれている。
でも、責められていない。
「全部話さなくていい」
遥斗は、同じ言葉を繰り返す。
「でも」
澪を見る。
「一人で背負わなくていい」
その瞬間、澪の胸の奥で、何かがほどけた。
涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
「……ありがとう」
それは、嘘じゃなかった。
ふと、気配を感じる。
澪は、灯台の壁際を見る。
白猫が、少し離れた場所に座っていた。
――干渉しない。
ただ、見ている。
澪は、その視線に気づきながらも、遥斗から目を逸らさなかった。
今日は。
今日は、自分で選ぶ。
嘘も、本音も。
帰り道、白猫は何も言わなかった。
それが、澪には何よりの肯定に思えた。
夜が、町を包み込み始めていた。
街灯の明かりが、濡れたアスファルトに細く伸びる。澪は一人、海沿いの道を歩いていた。遥斗とは、駅前で別れた。
「またね」
その言葉に、嘘はなかった。
胸の奥に、妙な静けさがある。
いつもなら、誰かと話したあとは疲れてしまうのに、今日は違った。言葉を削り、選び、それでも伝えた。その事実が、澪を少しだけ軽くしていた。
灯台が見える。
夜の中で、白い影として立っている。
澪は、自然と足を向けていた。
階段を上がると、風が強まる。潮の匂いが、肌にまとわりつく。
「来たか」
白猫の声がした。
振り向くと、手すりの上に座っている。月明かりを受けて、輪郭が淡く滲んでいた。
「今日は、何も言わないのかと思った」
澪が言う。
「言う必要がなかった」
白猫は、静かに答えた。
澪は、灯台の壁にもたれた。
「ねえ」
少し迷ってから、聞く。
「嘘って、全部悪いの?」
白猫は、すぐには答えなかった。
しばらく海を眺め、それから言う。
「悪いのは、嘘じゃない」
「選べないことだ」
澪は、その言葉を反芻する。
「嘘をつくしかない、って思い込むこと?」
「そうだ」
白猫は、澪を見る。
「嘘が盾になるうちは、成長だ」
「だが」
声が、わずかに低くなる。
「鎖になったら、手放せ」
澪は、胸に手を当てた。
――鎖。
確かに、嘘は自分を縛っていた。
でも今日は。
「……私」
澪は、小さく言う。
「少し、選べた気がする」
白猫は、目を細めた。
「それでいい」
灯台の上を、風が通り抜ける。
白猫の尻尾が揺れ、輪郭が一瞬、欠けたように見えた。
澪は、息を呑む。
「大丈夫だ」
白猫が言う。
「今すぐ消えるわけじゃない」
その言葉が、なぜか胸に刺さる。
「……いつかは?」
白猫は、否定しない。
「役目が終わればな」
澪は、唇を噛む。
まだ、怖い。
失うことが。
でも。
「ねえ」
澪は、空を見上げる。
「私が嘘をつかなくなったら」
「あなたは、どうなるの?」
白猫は、しばらく考える素振りを見せた。
「それは」
少し、困ったように笑う。
「誇らしいだろうな」
澪は、思わず笑ってしまった。
「何それ」
白猫も、微かに笑う。
灯台の光が、遠くで回転する。
澪は、その光を見つめながら思う。
嘘は、防壁だった。
でも今は。
選べる道の一つに、なり始めている。
胸の奥で、小さな変化が確かに息づいていた。
澪は、白猫に背を向け、階段へ向かう。
「また来る」
白猫は、答えなかった。
でも。
振り返らなくても、そこにいると分かった。
灯台の影が、まだ澪を包んでいる。
それが、救いでもあり、別れの予感でもあった。
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