灯台の白猫 第1話
海から吹き上げる風は、夏の終わり特有の湿り気を含んでいた。潮の匂いと、どこか錆びた鉄の香りが混じり合い、澪は思わず鼻先をすくめる。制服のスカートが風に揺れ、膝に触れた冷たさに、季節が確実に前へ進んでいることを知らされた。
放課後のこの時間、澪は決まって一人で歩く。家とは反対方向、海沿いの細い道を抜けた先にある、古い灯台へ。
町の外れに立つその灯台は、もう何年も稼働していない。白い外壁はところどころ剥がれ、潮風に晒された金属部分は赤茶色に錆びている。観光客が来ることもなければ、写真を撮る人もほとんどいない。ただ、地元の人間だけが「まだそこにある」ことを知っている、そんな存在だった。
澪は、その灯台が好きだった。
好き、という言葉が正しいのかは分からない。ただ、ここに来ると呼吸が楽になる。誰にも見られていない、誰にも何も求められない。そんな感覚に包まれる場所だった。
灯台の裏手に回ると、コンクリートの階段があり、その脇に小さな影が見えた。
「……いた」
思わず声が漏れる。
白い毛並みの猫が、階段の上で丸くなっていた。夕暮れの光を受けて、毛先がほのかに金色に染まっている。細身だが、どこか年を経た落ち着きがあり、目だけが異様に鋭い。
澪は足音を殺すように近づき、一定の距離を保ったところで立ち止まった。
「今日も、来てたんだね」
猫はゆっくりと顔を上げる。その視線が、まっすぐ澪を射抜いた。
――その瞬間だった。
「来てたのは、お前の方だろ」
低く、静かな声が、はっきりと耳に届いた。
澪は息を呑んだ。
この声を聞くのは、今日が初めてではない。それでも、何度聞いても慣れることはなかった。猫の口は、確かに動いている。だが、周囲に誰かがいる気配はない。
「……分かってる」
澪は小さく答えた。まるで、独り言の続きを呟くように。
「でも、来てたって言い方、悪くないでしょ。ここ、あんたの場所だし」
猫は鼻を鳴らすように息を吐いた。
「そうやって、すぐ嘘をつく」
澪の胸が、きゅっと縮む。
「嘘じゃないよ」
「本当でもない」
白猫は立ち上がり、しなやかな動きで階段を降りてくる。その足取りは静かで、まるで影が滑ってくるようだった。
「『あんたの場所』なんて思ってないくせに。ここは、お前が逃げ込む場所だ」
澪は反射的に視線を逸らした。灯台の影が、足元に長く伸びている。
「……それくらい、いいじゃん」
声が、わずかに震える。
「誰にも迷惑かけてないし。誰も傷つけてない」
猫は澪の前で立ち止まり、じっと見上げた。その瞳は、まるで夜の海のように深い。
「嘘は、誰かを傷つけないためにつくものじゃない」
白猫は淡々と告げる。
「嘘はな、心の影だ。お前が見ないふりをしてる場所から、生まれる」
澪は何も言えなくなった。
胸の奥で、ずっと沈めていたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる感覚があった。言葉にすれば壊れてしまいそうで、澪は唇を噛みしめる。
「……今日は、長くいられないから」
澪は話題を変えるように言った。
「家で、用事あるって言ってきたし」
猫は、ふっと目を細めた。
「ほらな」
「……なに?」
「それが嘘だと言ってる」
澪の肩が、びくりと跳ねた。
家に用事なんてない。ただ、母に心配をかけたくなくて、適当に言っただけだ。小さな、小さな嘘。いつものことだった。
「いいでしょ、それくらい」
澪は、少しだけ強い口調で言った。
「誰も困らないし。私だって――」
言いかけて、言葉が詰まる。
猫は、静かに続きを待っている。
――私だって、大丈夫。
その言葉を、澪は飲み込んだ。
灯台の上空を、カモメが一羽、鳴きながら通り過ぎる。夕暮れの光が、灯台の白壁を赤く染めていた。
澪は気づいていなかった。
この灯台が、自分にとって「ただの逃げ場所」ではないことを。
そして、この白猫が、単なる不思議な存在ではないことを。
それは、まだ言葉にならない、過去の影の始まりだった。
家に戻ると、玄関にはまだ昼間の熱がこもっていた。澪は靴を脱ぎながら、無意識に深く息を吸う。潮の匂いはもうしない。代わりに、洗剤と畳が混じった、どこにでもある「家の匂い」が鼻を満たした。
「おかえり、澪」
台所から母の声がする。鍋の中で何かが煮える音が、一定のリズムで響いていた。
「ただいま」
澪は声の調子を整えながら返事をする。ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶ間があった。
「今日は遅かったわね」
「うん、ちょっと学校で」
それ以上は言わない。母も深くは聞いてこない。澪が何かを抱え込むタイプだと、もう分かっているからだろう。
「部活?」
「……そんな感じ」
曖昧な返事。これも嘘だった。澪はどの部活にも所属していない。
母はそれ以上追及せず、「先に着替えてきなさい」とだけ言った。その背中に、ほっとする自分がいることを、澪は認めたくなかった。
自室に入り、カーテンを閉める。机の上には、開いたままのノートと、書きかけの課題。ペンを取ろうとして、手が止まる。
――さっきの声。
「それが嘘だと言ってる」
白猫の低い声が、耳の奥に残っている。
「……分かってるよ」
誰にともなく呟く。
嘘だと分かっていて、ついている嘘。誰も困らないし、誰も傷つかない。少なくとも、そう信じてきた。
ベッドに腰を下ろすと、膝の上で手を握りしめる。指先が、わずかに震えていた。
澪は、昔からこうだった。
本当のことを言う前に、相手の表情を想像してしまう。驚く顔、困る顔、悲しむ顔。もしも、正直に言ったことで誰かの顔が曇るなら、その未来を消すために、別の言葉を選ぶ。
それが、自分の役目だと思っていた。
夕食の時間まで、まだ少しある。澪は机に向かい、ノートを開くが、文字は頭に入ってこない。視線は、自然と窓の外へ向かった。
カーテンの隙間から、遠くに灯台の影が見える。家から直接見えるわけではないが、澪には分かる。あの方向に、あの場所がある。
――どうして、あそこなんだろう。
澪自身、はっきりとした理由を説明できない。ただ、小さい頃から、灯台はそこにあった。町の端に立ち、誰かに注目されるでもなく、ただ立ち続けている。
それが、自分と重なって見えたのかもしれない。
「澪、ご飯できたわよ」
母の声に呼ばれ、澪は立ち上がる。鏡の前で、一度だけ自分の顔を確認する。いつも通りの表情。少し大人しくて、少し控えめな、どこにでもいる高校生の顔。
「……大丈夫」
小さく言ってみる。
その言葉に、何の手応えもなかった。
夕食は静かに進んだ。父は仕事で帰りが遅いらしく、食卓には母と二人だけ。テレビから流れるニュースの音が、沈黙を埋めてくれる。
「学校、どう?」
母が何気なく聞く。
「普通」
即答だった。嘘だが、いつも通りの嘘。
「そう。無理しないでね」
「うん」
母は優しい。それが、澪には少しだけ苦しかった。
食後、部屋に戻る途中、廊下の突き当たりにある写真立てが目に入る。家族写真の隣に、少し古い写真が一枚飾られている。
澪は、一瞬だけ足を止めた。
写真には、幼い自分と、もう一人――顔がよく見えない誰かが写っている。背景には、今よりもずっと新しかった灯台。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「……ごめんなさい」
写真に向かって、声にならない声で呟く。
その夜、澪はなかなか眠れなかった。布団に入っても、波の音が頭の中で響き続ける。目を閉じると、灯台と、白い影が浮かぶ。
――嘘は、心の影だ。
白猫の言葉が、繰り返し蘇る。
「影なら……消えないよ」
澪は、そう思った。
影は、光がある限り、必ず生まれる。なら、自分から影を消すことなんて、できるはずがない。
それでも。
灯台のそばにいるときだけ、澪はその影と、少しだけ距離を取れる気がしていた。
翌日の放課後も、澪は同じ道を歩くことになる。
まだ知らない。そこに、これまでとは違う「視線」が加わることを。
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