第23.5話 side:玲「心の奥の本音」
十二月初旬。
放課後の教室に、私、上野玲は一人残っていた。
窓から差し込む秋の夕日が、机の上のノートを橙色に染めている。クラスメイトたちの声はもうほとんど聞こえない。部活に行く者、友達と帰る者、それぞれの放課後が
始まっている。
私はペンを握ったまま、じっとノートの文字を見つめていた。
数学の問題。
解けない。
いや、正確には「解こうとする気力」が湧いてこない。
「……はぁ」
小さくため息をついて、ペンを置く。
窓の外を見ると、グラウンドでサッカー部が練習している。掛け声が風に乗って聞こえてくる。いつもの光景。変わらない日常。
でも――私の中では、何もかもが変わってしまった。
あれは、十一月の終わり頃だった。
元樹が急に学校を休むようになった。
最初は体調不良だと思っていた。でも、一週間経っても戻ってこない。心配で、光明に聞いた。
「元樹、何かあったの?」
光明は困ったような顔をして、少し黙ってから答えた。
「……実は、柊さんが入院してるらしいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が凍りついた。
「入院……?」
「詳しくは知らないけど、重い病気みたいで。元樹が毎日病院に通ってるって」
「そう……」
それだけ言って、私は会話を終わらせた。
光明はまだ何か言いたそうだったけど、私はそれ以上聞きたくなかった。
聞いたら、きっと壊れてしまう。
そんな予感があった。
思い返せば、元樹と私の関係は、ずっと昔から続いていた。
小学校に上がる前からだ。
母同士が仲良しで、よく一緒に遊んでいた。公園で、児童館で、お互いの家で。いつも一緒だった。
小さくて可愛い由美ちゃんを抱っこして、「お姉ちゃんになった気分」を味わった。
元樹は少し照れくさそうに笑っていた。
「俺、お兄ちゃんになったんだ」
「うん、知ってる。由美ちゃん、可愛いね」
「そうだな」
元樹はそう言いながら、妹の頭をそっと撫でた。
その優しい手つきを見て、私は思った。
(元樹って、優しいんだな)
当たり前のように思っていたけど、改めてそう感じた瞬間だった。
小学生のとき。
元樹が急に引っ越すことになった。
「え……引っ越し?」
「うん。お母さんが再婚するから」
元樹は少し寂しそうに笑った。
「別の町に行くんだ」
その言葉を聞いたとき、胸が苦しくなった。
「いつ……?」
「来月」
「そっか……」
私はそれ以上何も言えなかった。
引っ越しの日。
私は元樹の家の前で、ずっと立っていた。トラックが荷物を運び出していく。家の中が少しずつ空っぽになっていく。
「玲」
元樹が声をかけてきた。
「……うん」
「また……会えるかな」
その問いに、私は必死に笑顔を作った。
「うん、絶対会える」
「そっか」
元樹も笑った。
でも、その笑顔は少し泣きそうだった。
トラックが出発する。
私は手を振り続けた。
元樹も窓から手を振り返してくれた。
そして――トラックが角を曲がって、見えなくなった。
その瞬間、涙が溢れ出した。
「元樹……」
初めて自覚した。
私は、元樹のことが好きだった。
友達としてじゃない。
もっと特別な感情。
でも、その気持ちに気づいたときには、もう遅かった。
二年後。
元樹が戻ってきた。
「お父さんと、離婚したんだ」
元樹はそう言った。
「だから、またこの町に戻ってきた」
その言葉を聞いて、私は心の底から嬉しかった。
「おかえり、元樹」
「ただいま、玲」
また一緒にいられる。
それだけで、世界が輝いて見えた。
中学に入学したとき。
元樹と同じクラスになった。
「よろしくな、玲」
「うん、よろしく」
自然に隣の席に座る。
周りのクラスメイトが「幼馴染なの?」と聞いてくる。
「うん、小さい頃からの友達」
そう答えながら、胸の奥では別の言葉が渦巻いていた。
(友達……けど私は、元樹のことが……)
でも、言えなかった。
言ったら、今の関係が壊れてしまう気がした。
元樹にとって私は「幼馴染」。
それ以上でも以下でもない。
だから、私はその立場に甘んじることにした。
一緒にいられるなら、それでいい。
そう思っていた。
高校に入学して。
また同じクラスになった。
「また一緒だな」
「うん」
元樹は嬉しそうに笑った。
私も笑い返した。
この関係が、ずっと続けばいいのに。
そう思っていた矢先――
柊奈々美が転校してきた。
あの日から、全てが狂い始めた。
「はい、静かに。今日は転校生を紹介するぞ」
担任の佐々木先生が、一人の少女を連れて教室に入ってきた。
黒髪ショート。片目を覆う前髪。暗い雰囲気。
でも、確かに美しい。
「柊奈々美です。よろしくお願いします」
小さな声で自己紹介をする彼女。
クラス中がざわつく。
「じゃあ、奈々美さんの席は……渡部の隣が空いてるな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が嫌な予感で満たされた。
元樹の隣。
私の前の席。
そこに、彼女が座る。
奈々美さんは無言で頷き、元樹の隣に座った。
その瞬間――彼女の瞳が、一瞬だけこちらを向いた。
冷たい。
鋭い。
まるで、私の存在を値踏みするような視線。
背筋が凍る。
(この子……何か、おかしい)
直感が警告を発していた。
案の定、奈々美さんは元樹に異常な執着を見せ始めた。
授業中、ずっと元樹を見ている。
休み時間も、元樹の隣から離れない。
放課後も、一緒に帰ろうとする。
「ねえ元樹、あの子さぁ……」
私は元樹に警告しようとした。
「全然笑わないし、なんか変じゃない?」
「別に……人見知りなんだろ」
元樹は気づいていなかった。
いや、気づこうとしていなかった。
「でもさ、やけに元樹のこと見てない? 授業中とかも」
「……授業中?」
元樹は少し考え込む。
でも、すぐに笑って誤魔化した。
「いや、考えすぎだろ」
その反応を見て、私は諦めた。
元樹は、自分では気づけない。
だから、私が守らなきゃいけない。
そう思った。
でも――守れなかった。
ゴールデンウィーク明け、元樹は明らかに変わっていた。
奈々美さんとの距離が、異様に近くなっていた。
「元樹くんは私と食べるの」
昼休み、私が元樹を誘おうとしたとき、奈々美さんが割り込んできた。
「でも、昔からずっと――」
「昔は昔よ。今は私が元樹くんの恋人なの」
その宣言に、教室の空気が凍りついた。
恋人。
その言葉が、胸に突き刺さる。
「……そう、だね」
私は引き下がるしかなかった。
元樹は何も言わない。
ただ、申し訳なさそうな顔をしているだけ。
(どうして……)
胸が苦しい。
息ができない。
涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
その日の放課後。
私は一人で屋上に行った。
誰もいない。
フェンスに寄りかかって、空を見上げる。
「くそ……」
涙が止まらなかった。
「何で……何で私じゃないの……」
ずっと一緒にいたのに。
小さい頃から、ずっと側にいたのに。
元樹が辛いとき、いつも支えてきたのに。
なのに、選ばれたのは――転校してきたばかりの、あの子。
「悔しい……」
拳を握りしめる。
爪が手のひらに食い込んで、痛い。
でも、心の痛みの方が、もっと痛かった。
六月。
期末試験の時期。
元樹の様子がおかしくなってきた。
いつも疲れた顔をしている。
成績も下がっているらしい。
奈々美さんの束縛が、どんどん激しくなっているようだった。
「玲」
光明が声をかけてきた。
「元樹のこと……心配だよな」
「……うん」
「あいつ、最近ずっと元気ないし」
光明は続ける。
「柊さんと、うまくいってないみたいなんだ」
その言葉に、複雑な気持ちになる。
元樹が苦しんでいる。
それは悲しい。
でも同時に――少しだけ、期待してしまう自分もいる。
(もしかしたら……)
元樹が奈々美さんと別れるかもしれない。
そうしたら、また私の側に戻ってきてくれるかもしれない。
そんな不純な期待。
自分でも最低だと思った。
でも、止められなかった。
七月。
終業式の日。
元樹が奈々美さんに「自由になりたい」と告げたらしい。
そして、奈々美さんは転校した。
「玲」
放課後、元樹が声をかけてきた。
「……なに?」
「あのさ……聞いてくれるか?」
元樹は少し迷うような表情をしてから、話し始めた。
「奈々美と……別れたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が高鳴った。
「そう……」
「俺、ずっと苦しかった」
元樹が続ける。
「束縛が辛くて」
「自由になりたくて」
「それで、正直に言ったんだ」
元樹は俯く。
「……」
「俺……ひどいことしたのかな」
その問いに、私は首を振った。
「そんなことない」
「玲……」
「元樹は、自分の気持ちに正直になっただけだよ」
私は続ける。
「それは、悪いことじゃない」
「……ありがとう」
元樹は少し笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
(今なら……)
今なら、元樹に気持ちを伝えられるかもしれない。
でも――その勇気は、まだ出なかった。
夏休み。
元樹の様子が、また変わった。
解放されたはずなのに、どこか物足りなさそうな表情をしている。
「元樹、最近どう?」
ある日、二人で会ったとき、私は聞いてみた。
「ん? 普通だけど」
「そう……?」
でも、その表情は「普通」には見えなかった。
まるで、何かを探しているような。
失くしたものを求めているような。
そんな顔。
「奈々美さんのこと……まだ気になってる?」
思い切って聞いてみた。
元樹は少し驚いた顔をしてから、苦笑した。
「……わかる?」
「うん」
「やっぱり、玲には隠せないな」
元樹が続ける。
「あいつのこと……心配なんだ」
「どこにいるのか、元気にしてるのか」
「俺が傷つけたままになってないか」
その言葉を聞いて、胸が冷たくなった。
(まだ……奈々美さんのことを……)
私の気持ちに、元樹は気づいていない。
ずっと一緒にいたのに。
ずっと側で支えてきたのに。
見えているのは――奈々美さんだけ。
「そっか」
それだけ言って、私は話題を変えた。
これ以上聞いたら、きっと泣いてしまう。
九月一日。
始業式の日。
元樹が私に告白してきた。
「玲……俺、お前のことが好きだ」
「付き合ってくれ」
その言葉を聞いたとき、信じられなかった。
「え……?」
「俺、この夏ずっと考えてた」
元樹が続ける。
「奈々美のことも大切だった」
「でも、本当に一緒にいたいのは……玲、お前なんだ」
胸が高鳴る。
嬉しい。
嬉しいはずなのに――
どこか、引っかかるものがあった。
「本当に……いいの?」
「ああ」
元樹が頷く。
「俺、玲と一緒にいたい」
その言葉に、私は頷いた。
「……うん」
「ありがとう!」
元樹が笑顔を見せる。
その笑顔を見て、私も笑った。
(これで……元樹は私のものだ)
そう思った。
でも――心の奥底では、不安が消えなかった。
(本当に……奈々美さんのことは、忘れられるの?)
その疑問が、ずっと残り続けていた。
元樹と付き合い始めた。
最初は幸せだった。
一緒に登下校して。
一緒にお弁当を食べて。
一緒に放課後を過ごして。
ずっと夢見ていた関係。
でも――何かが違った。
元樹は、時々遠くを見ている。
まるで、何かを思い出しているような。
「元樹、何考えてるの?」
「ん? いや、何も」
笑って誤魔化す。
でも、その笑顔の奥に――奈々美さんの影が見える。
気がする。
「そう……」
私は、それ以上追及できなかった。
聞いたら、元樹を失ってしまう気がした。
そして先日。
私は、前を向くことを決めた。
「私……決めたの」
玲が元樹を見つめる。
「前を向くって」
その言葉に、元樹は驚く。
「玲……」
「あなたと別れて、すごく辛かった」
玲が続ける。
「毎日、泣いてた」
「学校にも行けなかった」
「でも……」
玲は深呼吸をする。
「このままじゃダメだって、気づいたの」
「いつまでも、あなたに執着してたら」
「私、本当に壊れちゃうって」
その言葉に、元樹は胸が痛む。
「玲……ごめん」
「謝らないで」
玲が首を振る。
「もう、いいの」
「私、あなたを許すことにした」
そう言いながら――心の奥底では、真逆のことを思っていた。
(許さない)
(絶対に、許さない)
でも、それを口には出さなかった。
「ありがとう……」
元樹は涙を流していた。
その涙を見て、私も泣きたくなった。
でも、堪えた。
(泣いたら、負けだ)
私は笑顔を作った。
「元樹、幸せになってね」
「玲……」
「大丈夫。私ももう、前を向くから」
嘘だった。
全部、嘘。
前なんて、向けるわけがない。
元樹を失って、どうやって前を向けばいいの?
でも――そう言うしかなかった。
元樹を、奈々美さんのところに送り出すためには。
それから、私は一人になった。
学校には通っている。
でも、心はからっぽ。
授業を受けても、内容が頭に入らない。
友達と話しても、楽しくない。
全てが色褪せて見える。
「玲ちゃん、大丈夫?」
未菜が心配そうに聞いてくる。
「うん、大丈夫」
笑顔で答える。
でも、未菜は信じていない様子だった。
「無理しないでね」
「ありがとう」
未菜の優しさが、逆に辛い。
私は、優しくされる資格なんてない。
だって、心の中では――元樹を恨んでいるから。
夕暮れの教室。
一人残って、窓の外を見つめる。
オレンジ色の空。
沈んでいく太陽。
夜が近づいてくる。
「……許さない」
小さく呟く。
「絶対に、許さないから」
その言葉は、誰にも聞こえない。
ただ、夕焼けの空に吸い込まれていく。
私の中の憎しみは、日に日に大きくなっている。
元樹への。
奈々美さんへの。
そして――こんな醜い感情を抱いてしまう、自分自身への。
「何で……」
涙が溢れる。
「何で、私じゃダメだったの……」
ずっと一緒にいたのに。
ずっと支えてきたのに。
小学生の頃から、ずっと元樹のことを想っていたのに。
なのに――選ばれたのは、奈々美さん。
転校してきて、数ヶ月しか経っていない彼女。
「悔しい……」
「悔しいよ……」
泣きながら、拳を握りしめる。
爪が手のひらに食い込んで、血が滲む。
でも、痛みは感じない。
心の痛みの方が、もっと痛いから。
あの日のことを、思い出す。
元樹が引っ越す日。
「玲」
元樹が声をかけてきた。
「……うん」
「また……会えるかな」
その問いに、私は答えた。
「うん、絶対会える」
あの日の約束。
私たちは、また会えた。
一緒に、中学に通った。
一緒に、高校に入った。
ずっと一緒だった。
でも――
「一緒にいても……心は一緒じゃなかった」
元樹の心は、いつも遠くを見ていた。
私がどれだけ近くにいても。
どれだけ愛情を注いでも。
元樹の心を、掴むことはできなかった。
「……っ」
また涙が溢れる。
止まらない。
胸が苦しい。
息ができない。
「元樹……」
その名前を呼ぶ。
でも、元樹はもういない。
元樹は今、奈々美さんの側にいる。
私の側じゃない。
机の上のノートを見つめる。
そこには、落書きがたくさん描かれている。
元樹の名前。
ハートマーク。
「渡部玲」という苗字。
勝手に書いた、妄想の名前。
「……馬鹿みたい」
自嘲する。
こんなこと、もう叶わない。
元樹は、奈々美さんを選んだ。
私は――捨てられた。
「許せない……」
呟く。
「許すって言ったけど……嘘だから」
誰にも聞こえない声で、本音を吐き出す。
「元樹のこと……絶対に、許さない」
「奈々美さんのことも……許さない」
憎しみが、心を満たしていく。
でも同時に――悲しみも、後悔も、全てが混ざり合っている。
「何で……何でこんなことになったの……」
泣きながら、机に突っ伏す。
夕日が沈んでいく。
教室が暗くなっていく。
でも、私は動けなかった。
ただ、泣き続けるしかなかった。
その日の夜。
家に帰ってから、ずっとベッドで横になっていた。
母が夕食を作る音が、遠くから聞こえる。
「玲ー、ご飯よー」
母の声が聞こえる。
「……今日はいらない」
「え? 体調悪いの?」
「うん……ちょっと」
母が部屋に入ってくる。
「大丈夫? 熱は?」
額に手を当てられる。
「熱はないみたいだけど……」
母が心配そうに顔を覗き込む。
「玲、最近元気ないわね。何かあった?」
その問いに、私は首を振った。
「何もないよ」
「そう……?」
母は納得していない様子だったけど、それ以上は聞かなかった。
「無理しないでね。何かあったら、いつでも言ってね」
「うん……ありがとう」
母が部屋を出ていく。
一人になると、また涙が溢れてきた。
(お母さん……ごめん)
心配かけてしまっている。
でも、本当のことは言えない。
元樹に振られたなんて。
奈々美さんに負けたなんて。
そんなこと、恥ずかしくて言えない。
スマホを手に取る。
未菜からメッセージが来ていた。
『玲ちゃん、大丈夫? 辛かったら話聞くよ』
優しい言葉。
でも、返信する気力がない。
『ありがとう。でも大丈夫』
短く返信する。
すぐに既読がついた。
『本当に? 無理してない?』
『してないよ』
また嘘をついた。
『そっか。でも、いつでも連絡してね』
『うん』
それだけ返信して、スマホを置く。
天井を見つめる。
暗い部屋の中で、時計の針の音だけが響いている。
カチ、カチ、カチ。
規則正しい音。
でも、私の心は不規則に乱れている。
「元樹……」
その名前を呼ぶ。
「何で……」
「何で、私じゃダメだったの……」
答えは返ってこない。
ただ、暗闇の中で、私の声が虚しく消えていくだけ。
次の日。
学校に行くのが辛かった。
でも、休んだら――きっとみんなに心配される。
「大丈夫」って、笑顔を作り続けなきゃいけない。
制服に着替えて、鏡を見る。
そこには、疲れ切った顔の私がいた。
目の下にはクマができている。
顔色も悪い。
「……最悪」
ため息をつく。
でも、学校には行かないと。
カバンを持って、家を出る。
いつもの道。
いつもの景色。
でも、全てが違って見える。
元樹がいない世界。
それがこんなにも色褪せて見えるなんて。
学校に着くと、光明と未菜が心配そうに近づいてきた。
「玲、大丈夫か?」
「うん……」
笑顔を作る。
でも、二人は信じていない様子だった。
「無理してるだろ」
光明が言う。
「してないよ」
「玲ちゃん……」
未菜が涙ぐむ。
「そんな顔しないで」
その言葉に、胸が痛む。
「ごめん……心配かけて」
「謝らなくていいよ」
光明が言う。
「俺たち、友達だろ」
「何かあったら、いつでも頼ってくれ」
その優しさが、逆に辛い。
「ありがとう……」
それだけ言って、教室に入る。
自分の席に座ると――前の席は空いていた。
元樹の席。
今は誰も座っていない。
元樹は、今日も病院に行っているんだろう。
奈々美さんの側に。
「……っ」
胸が締め付けられる。
(また……奈々美さんといるんだ)
嫉妬が渦巻く。
憎しみが膨らむ。
でも――それを表に出すことはできない。
私は「許した」んだから。
「前を向く」って言ったんだから。
だから――この感情は、心の奥底に閉じ込めておくしかない。
授業が始まる。
先生の声が聞こえる。
でも、内容が全く頭に入ってこない。
ノートにペンを走らせるけど、何を書いているのかわからない。
窓の外を見る。
空は青い。
雲が流れている。
穏やかな秋の日。
でも、私の心は嵐の中にいた。
(許さない)
(絶対に、許さない)
心の中で、何度も繰り返す。
でも――同時に思う。
(でも……元樹が幸せなら……)
(それでいいのかな……)
矛盾した感情。
愛と憎しみ。
幸せを願う気持ちと、不幸を願う気持ち。
全てが混ざり合って、私を苦しめる。
「……っ」
涙が溢れそうになる。
必死に堪える。
ここで泣いたら、みんなに心配される。
「大丈夫?」って聞かれる。
でも、大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
休み時間。
トイレに行って、個室に入る。
ドアを閉めて、便座に座る。
「はぁ……」
ため息をつく。
ここなら、誰にも見られない。
涙を流しても、誰にも気づかれない。
「……元樹」
小さく名前を呼ぶ。
「会いたい……」
でも、会えない。
元樹は今、奈々美さんの側にいる。
私の側じゃない。
「何で……」
「何で、こんなことになったの……」
時間を巻き戻したい。
奈々美さんが転校してくる前に。
元樹と、まだ普通に話せていた頃に。
でも――時間は戻らない。
過去は変えられない。
「……っ」
また涙が溢れる。
止まらない。
どれだけ泣いても、胸の痛みは消えない。
むしろ、どんどん大きくなっていく。
「苦しい……」
「助けて……」
誰かに助けてほしい。
この痛みから、救ってほしい。
でも――誰も助けてくれない。
この痛みは、私一人で抱えるしかない。
しばらくして、個室から出る。
鏡で自分の顔を見る。
目が赤い。
泣いた跡が残っている。
「……最悪」
水で顔を洗う。
冷たい水が、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
ハンカチで顔を拭いて、もう一度鏡を見る。
まだ少し赤いけど、ごまかせる範囲。
「大丈夫……」
自分に言い聞かせる。
「私は、大丈夫」
笑顔を作る。
でも、その笑顔は――どこか歪んでいた。
放課後。
一人で帰る道。
いつもは元樹と一緒だったのに。
今は、一人。
寂しい。
胸が空っぽ。
「……」
黙々と歩く。
周りには、カップルや友達同士で楽しそうに話している人たちがいる。
それを見るたびに、胸が痛む。
(私も……元樹と一緒に歩きたかった)
(ずっと、二人で)
でも、それは叶わない。
元樹は、奈々美さんを選んだ。
私じゃない。
「……っ」
また涙が溢れそうになる。
でも、堪える。
ここで泣いたら、周りの人に見られる。
家に着くまで、我慢しないと。
足を速める。
早く、家に帰りたい。
一人になりたい。
誰にも見られない場所で、思い切り泣きたい。
家に着いて、自分の部屋に駆け込む。
ドアを閉めて、ベッドに倒れ込む。
「……っ」
枕に顔を埋めて、声を殺して泣く。
涙が止まらない。
どれだけ泣いても、胸の痛みは消えない。
「元樹……」
「元樹……」
何度も名前を呼ぶ。
でも、元樹はここにいない。
元樹は、奈々美さんの側にいる。
「悔しい……」
「悔しいよ……」
拳でベッドを叩く。
何度も、何度も。
手が痛くなるまで。
でも、心の痛みは消えない。
「許さない……」
「絶対に、許さないから……」
憎しみの言葉を吐き出す。
でも同時に――
「でも……元樹が幸せなら……」
矛盾した感情。
愛しているからこそ、憎い。
憎いからこそ、愛しい。
その矛盾が、私を苦しめる。
「もう……嫌だ……」
「こんなの……嫌だ……」
泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。
夢を見た。
小学生の頃の夢。
元樹と、公園で遊んでいる。
「玲、鬼ごっこしよう!」
「うん!」
二人で走り回る。
元樹を追いかける。
でも、捕まえられない。
元樹は、どんどん遠くに行ってしまう。
「待って!」
叫ぶ。
でも、元樹は振り返らない。
そして――元樹の隣に、奈々美さんが現れる。
二人は手を繋いで、笑っている。
「やめて……」
「元樹……こっちを見て……」
でも、元樹は振り向かない。
奈々美さんと、どこかに行ってしまう。
「待って……」
「置いていかないで……」
必死に追いかける。
でも、足が動かない。
まるで、地面に縛られているみたい。
「元樹……!」
叫んだところで――目が覚めた。
「……っ」
額に汗が滲んでいる。
心臓がバクバクと鳴っている。
「夢……」
ただの夢。
でも――夢の中の光景が、現実のように思えた。
元樹は、私から離れていく。
奈々美さんの方に。
そして――私は、取り残される。
「嫌だ……」
「そんなの、嫌だ……」
また涙が溢れてきた。
時計を見ると、夜の九時を回っていた。
「……寝すぎた」
ベッドから起き上がる。
お腹が空いている。
でも、食べる気力がない。
部屋を出て、リビングに行く。
母が心配そうに顔を上げる。
「玲、起きたの?」
「うん……」
「ご飯、温めておくわね」
「……いらない」
「でも、何も食べてないでしょ」
母が立ち上がる。
「少しでいいから、食べなさい」
優しい声。
でも、その優しさが逆に辛い。
「……うん」
テーブルに座る。
母が温めたご飯を持ってくる。
「はい」
「ありがとう……」
箸を持つ。
でも、喉を通らない。
無理やり口に運ぶけど、味がしない。
「玲……」
母が心配そうに見ている。
「大丈夫? 本当に、何もない?」
その問いに、私は笑顔を作った。
「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけ」
「そう……?」
母は納得していない様子だった。
でも、それ以上は聞かなかった。
「無理しないでね」
「うん」
それだけ言って、私は部屋に戻った。
ベッドに横になって、天井を見つめる。
スマホを手に取る。
元樹との思い出の写真を見る。
中学の時の写真。
二人で笑っている。
「……あの頃は、楽しかったな」
呟く。
元樹は、まだ私だけを見ていた。
奈々美さんなんていなかった。
「戻りたい……」
「あの頃に、戻りたい……」
でも、戻れない。
時間は流れて、状況は変わった。
元樹は、奈々美さんを選んだ。
私は――捨てられた。
「……っ」
スマホを投げ出す。
枕に顔を埋める。
「何で……」
「何で、こんなことに……」
涙が止まらない。
胸が苦しい。
息ができない。
「助けて……」
「誰か……助けて……」
でも、誰も助けてくれない。
この苦しみは、私一人で抱えるしかない。
ずっと、ずっと。
そして――今。
放課後。
私は一人、教室に残っている。
窓の外では、部活の掛け声が聞こえる。
日常は続いている。
でも、私の日常は――あの日から、止まったまま。
「元樹……」
小さく名前を呼ぶ。
「許すって言ったけど……嘘だから」
誰にも聞こえない声で、本音を吐き出す。
「絶対に……許さないから」
憎しみの言葉。
でも同時に――
「でも……幸せになってね」
矛盾した願い。
私の心は、引き裂かれている。
愛と憎しみの間で。
幸せを願う気持ちと、不幸を願う気持ちの間で。
「元樹……」
また、その名前を呼ぶ。
でも、元樹は答えてくれない。
元樹は今、奈々美さんの側にいる。
私の側じゃない。
「……っ」
涙が溢れる。
でも、もう泣き疲れた。
涙も、枯れてきた。
ただ――心の痛みだけが、残っている。
消えない痛み。
ずっと、ずっと。
夕日が沈んでいく。
オレンジ色が、徐々に紫色に変わっていく。
夜が近づいてくる。
「帰らないと……」
重い体を持ち上げる。
カバンを持って、教室を出る。
廊下は誰もいない。
静かで、寂しい。
階段を降りて、昇降口に向かう。
靴を履き替えて、外に出る。
秋の冷たい風が、頬を撫でる。
「寒い……」
体を抱きしめる。
でも、寒いのは体だけじゃない。
心も、凍えている。
元樹がいない世界は――こんなにも寒い。
「……」
黙々と歩く。
家に帰る道。
いつもの道。
でも、今日も一人。
寂しい。
空っぽ。
「元樹……」
その名前を呼ぶ。
でも――もう、答えは返ってこない。
元樹は、私のものじゃない。
奈々美さんのもの。
「許さない……」
小さく呟く。
「絶対に……許さないから……」
その言葉だけが、暗い道に消えていった。
家に着いて、部屋に入る。
ベッドに倒れ込む。
「……疲れた」
体も心も、ボロボロ。
でも――明日も、学校に行かないといけない。
笑顔を作り続けないといけない。
「大丈夫」って、言い続けないといけない。
「……辛い」
呟く。
でも、誰も聞いていない。
この辛さは、私一人で抱えるしかない。
ずっと、ずっと。
スマホを見ると、未菜からメッセージが来ていた。
『玲ちゃん、明日一緒にお昼食べよ?』
優しい誘い。
『うん、ありがとう』
短く返信する。
未菜は、ずっと私を支えてくれている。
光明も。
みんな、優しい。
でも――その優しさが、逆に辛い。
私は、優しくされる資格なんてない。
だって――心の中では、元樹と奈々美さんを恨んでいるから。
「……っ」
自己嫌悪に陥る。
こんな醜い感情を抱いている自分が、嫌い。
でも、止められない。
憎しみは、日に日に大きくなっている。
「どうすればいいの……」
答えは、出ない。
ただ――この苦しみの中で、もがき続けるしかない。
ずっと、ずっと。
窓の外を見ると、月が出ていた。
綺麗な満月。
でも、その輝きは――私の心には届かない。
「元樹……」
また、その名前を呼ぶ。
「いつか……」
「いつか、この気持ち……伝わるかな……」
でも、それは叶わない願い。
元樹の心は、もう奈々美さんのもの。
私の入る隙間は、ない。
「……っ」
枕に顔を埋める。
涙は、もう出ない。
ただ――心の痛みだけが、残っている。
消えない痛み。
癒えない傷。
ずっと、ずっと。
そして――私は、決意する。
(表向きは……「許した」ことにする)
(元樹の幸せを、願っているふりをする)
でも――心の奥底では。
(絶対に、許さない)
(元樹も、奈々美さんも)
その憎しみを、ずっと抱き続ける。
いつか――その憎しみが、形になる日まで。
「元樹……」
最後に、もう一度名前を呼ぶ。
「私のこと……忘れないでね」
その願いだけを胸に。
私は――暗闇の中で、目を閉じた。
憎しみと愛情が交錯する―
読んでくれて、ありがとう。
私、上野玲です。
この物語の中で、私は「負けヒロイン」って呼ばれるんでしょうね。
幼馴染で、主人公の側にずっといたのに、転校生に負けた女の子。
よくある話です。
でも――現実って、そういうものなのかもしれません。
どれだけ一緒にいても。
どれだけ愛していても。
選ばれないことがある。
私は、小学生の頃から元樹のことが好きでした。
一緒に遊んで、笑って、時には喧嘩もして。
元樹が引っ越したときは、本当に辛かった。
戻ってきてくれたときは、心の底から嬉しかった。
「ずっと一緒にいられる」
そう思っていました。
でも――奈々美さんが現れて、全てが変わりました。
元樹は、彼女を選びました。
私じゃなく。
正直に言います。
許せません。
「許す」って口では言ったけど、嘘です。
元樹のことも、奈々美さんのことも、今でも恨んでいます。
でも同時に――元樹の幸せを願っている自分もいます。
矛盾してますよね。
愛と憎しみは、表裏一体なんです。
この物語を読んでくれた人に、一つだけ伝えたいことがあります。
恋愛って、努力だけじゃどうにもならないことがある。
どれだけ頑張っても、報われないことがある。
それが現実です。
辛いけど、それが現実。
でも――それでも、前を向かなきゃいけない。
私は今、必死に前を向こうとしています。
元樹への気持ちを断ち切って。
新しい自分を見つけようとしています。
……まだ、うまくいってないけど。
いつか、この痛みが癒える日が来るのかな。
わからないけど――そう信じるしかない。
最後に。
元樹、聞いてる?
私は「許す」って言ったけど、心の奥底では許してないから。
あなたが幸せになればなるほど、私の心は痛む。
それでも――幸せになってね。
矛盾してるけど、それが私の本音。
奈々美さん、あなたにも言いたいことがある。
元樹を大切にしてね。
私ができなかったこと、あなたにはできるかもしれない。
でも――忘れないで。
元樹の側には、ずっと私がいたってこと。
あなたより、ずっと長く。
……未練がましいですね。
ごめんなさい。
でも、これが私の本音です。
読んでくれて、ありがとう。
私の物語は、ここで終わり。
でも、私の人生は続いていく。
いつか――この痛みを乗り越えて、笑える日が来るといいな。
そう信じて、前を向きます。
たとえ、元樹がいない世界でも。
上野玲




