第22話 「二人目のヤンデレ」
翌週。
元樹は重い足取りで学校に向かっていた。
あの夜から、数日が経った。
玲との関係は表面的には順調だった。毎朝一緒に登校し、昼休みも一緒に過ごす。放課後も時々デートをする。
でも――
「元樹、おはよう!」
玲が笑顔で手を振る。
「……おはよう」
元樹は笑顔を作るが、どこか力がない。
玲は元樹の表情を見て、少し心配そうにする。
「元樹、大丈夫? 最近、元気ないよね」
「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」
元樹は嘘をついた。
本当は、奈々美のことが頭から離れないのだ。
あの夜、涙を流しながら去っていった奈々美の姿。
「さようなら、元樹くん。本当に幸せになってね」
その言葉が、何度も脳裏に蘇る。
「元樹?」
玲が元樹の顔を覗き込む。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
元樹は慌てて視線を戻す。
「本当に大丈夫? 何か悩み事があるなら、聞くよ」
玲の優しさが、逆に元樹を苦しめる。
「大丈夫。心配しないで」
元樹は玲の頭を撫でる。
しかし、その手には温かみがなかった。
玲もそれを感じ取っているようだった。
教室に入ると、隣の席――奈々美の席が空いている。
もう一週間以上、誰も座っていない席。
元樹は自分の席に座り、その空席を見つめる。
「……」
胸が痛む。
奈々美は今、どうしているんだろう。
あの夜から、一度もメッセージは来ていない。
電話をかけようかと何度も思ったが、できなかった。
「元樹」
光明が声をかけてくる。
「お、おう」
「最近、元気ないな。玲と上手くいってるのか?」
光明の問いに、元樹は曖昧に答える。
「まあ、普通だよ」
「普通って……」
光明は何か言いかけて、やめた。
「まあ、何かあったら言えよ。友達だからな」
「ああ、ありがとう」
元樹は光明の言葉に少し救われる。
授業が始まり、元樹は教科書を開く。
でも、文字が頭に入ってこない。
窓の外を見ると、秋の空が広がっている。
もう10月の終わり。
季節は確実に冬に向かっている。
「元樹くん」
不意に、奈々美の声が聞こえた気がした。
慌てて周りを見回すが、当然誰もいない。
「……幻聴か」
元樹は頭を抱える。
奈々美のことを考えすぎているのかもしれない。
でも、考えずにはいられなかった。
昼休み。
元樹は玲と一緒に屋上で弁当を食べていた。
「今日のお弁当、美味しい?」
玲が嬉しそうに聞く。
「ああ、美味しいよ」
元樹は一口食べて答える。
しかし、味はよくわからなかった。
「元樹……」
玲が箸を置く。
「最近、私に対してよそよそしいよね」
その言葉に、元樹は動揺する。
「そんなことないよ」
「嘘」
玲の目が真剣だった。
「私、わかるもん。元樹の様子がおかしいって」
「玲……」
「奈々美さんのこと……まだ考えてるの?」
その問いに、元樹は答えられない。
沈黙が流れる。
それが答えだった。
「やっぱり……」
玲の声が震える。
「私じゃ……ダメなの?」
「そんなことない!」
元樹が慌てて否定する。
「玲のことは好きだよ。それは本当だ」
「じゃあ、なんで……」
玲の目から涙がこぼれる。
「なんで、そんなに辛そうな顔してるの?」
元樹は言葉に詰まる。
「俺も……わからないんだ」
元樹は正直に言った。
「玲のことは好き。でも……」
「でも?」
「奈々美のことも……気になってしまうんだ」
その告白に、玲の表情が凍りつく。
「そう……」
玲が俯く。
「私は……二番目なんだね」
「違う! そうじゃない!」
元樹が玲の肩を掴む。
「玲は二番目なんかじゃない!」
「じゃあ、なんなの?」
玲が顔を上げる。
その目には、怒りと悲しみが混ざっていた。
「元樹は、私と付き合ってるのに、他の女の子のことを考えてるの?」
「それは……」
元樹は何も言えない。
玲の言う通りだった。
「ごめん……」
元樹は謝るしかなかった。
「謝らないで」
玲が立ち上がる。
「謝られても、嬉しくない」
「玲……」
「一人になりたい。ごめん」
玲はそう言って、屋上を出て行った。
残された元樹は、一人で空を見上げる。
「俺は……何をしてるんだ」
自己嫌悪が込み上げる。
玲を傷つけた。
奈々美も傷つけた。
どちらも大切なのに、どちらも守れない。
「俺は……最低だ」
元樹は拳を握りしめた。
その日の夕方、元樹は重い足取りで家に帰った。
玲とはあの後、気まずい雰囲気のまま別れた。
「ただいま」
元樹が玄関で靴を脱ぐと、母が出迎えた。
「おかえり、元樹」
母の表情が、いつもと違う。
何か真剣な雰囲気を纏っている。
「母さん、どうしたの?」
「元樹、ちょっと話があるの」
母がリビングに向かう。
元樹も後に続く。
リビングには、母だけがいた。由美はまだ部活から帰っていないようだ。
「座って」
母が促す。
元樹はソファに座る。
母も向かいに座り、真剣な表情で元樹を見つめる。
「元樹、奈々美ちゃんのこと……覚えてる?」
その名前を聞いて、元樹の心臓が跳ねる。
「え……母さん、奈々美のことを?」
「ええ」
「今朝、昔の事を思い出したの」
母は頷く。
「実は……あなたに話しておかなければならないことがあるの」
母の声が震える。
「奈々美ちゃんのこと」
「?」
元樹は首を傾げる。
「奈々美の両親が亡くなった事故のこと?」
「それは知っているのね」
母は深呼吸をする。
「あの事故で奈々美ちゃんのご両親は無くなり、あなたに対して依存するようになった」
母は続ける。
「その後、元樹も体を悪くして入院したの」
その言葉に、元樹は混乱する。
「どういうこと?」
「あなたが小学3年生の時のこと……覚えてる?」
母が静かに語り始める。
「あなたが苦しんでいるときにあの子、ずっと手を握って泣いていたのよ」
「??」
元樹の脳内にその時の光景がふっとよぎる。
「でも、奈々美が?……」
元樹が顔を上げる。
「ずっと言っていたのよ。元樹を連れて行かないでってね」
元樹は思い出す。
泣いていた奈々美。
そして、約束。
「ずっと一緒にいる」という約束。
「奈々美さんは……あなたに償いを求めたのかもしれない」
母が言う。
「でも、それ以上に……」
母の声が優しくなる。
「あなたに救いを求めたんだと思うわ」
「救い……?」
「両親を失った8歳の女の子が、どれだけ孤独だったか」
母が涙を拭く。
「そんな時、優しく接してくれたあなたが……彼女にとって唯一の光だったんでしょう」
その言葉に、元樹の心が揺れる。
「でも、俺たちは引っ越してしまった……」
「ええ」
母が頷く。
「お父さんの転勤が急に決まって」
「あなたに依存する奈々美ちゃんを見ていられなくて」
母の表情が苦しそうになる。
「あの時、私も悩んだの」
「あなたに奈々美ちゃんと別れの挨拶をさせるべきかって」
「でも……」
母が俯く。
「結局、やめさせた」
元樹が言う。
「そうか」
母が頷く。
「お父さんは、あの事故のことをずっと引きずっていたの」
「自分の職場で起きた事故」
「自分の息子が原因だったかもしれない事故」
母の声が震える。
「それが……お父さんを追い詰めていった」
「そして、離婚して私たちはこの町に戻ってきた」
元樹は拳を握りしめる。
「母さん、なんで今まで黙ってたの?」
「忘れてたのと、あなたに言わないほうがいいと思って、ごめんなさい」
母が頭を下げる。
「あなたを傷つけたくなかったの」
「でも……」
母が顔を上げる。
「奈々美ちゃんが転校してきたって聞いた時、気づいたの」
「彼女が、あの時の女の子だって」
母の目が真剣になる。
「そして、彼女があなたに執着する理由も……」
「彼女は……」
母が続ける。
「7年間、あなたを探し続けたのよ」
「養護施設を転々としながら、ずっと」
その言葉に、元樹の心が激しく揺れる。
「7年間……ずっと……」
「ええ」
母が頷く。
「それだけ、あなたが彼女にとって大切だったの」
元樹は立ち上がり、窓の外を見つめる。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
「奈々美……」
元樹の目から涙がこぼれる。
「俺は……何をしてたんだ」
「彼女を傷つけて、捨てて……」
「元樹」
母が元樹の肩に手を置く。
「あなたが悪いわけじゃない」
「でも、彼女の気持ちを知った今……」
母が言う。
「どうするかは、あなたが決めなさい」
元樹は母の言葉を噛みしめる。
「俺……どうすればいいんだ」
「それは、あなたの心が知ってるはずよ」
母は優しく微笑む。
「本当に大切な人は誰なのか」
元樹は自分の胸に手を当てる。
心臓が激しく鼓動している。
奈々美の顔が浮かぶ。
束縛されて苦しかった日々。
でも、彼女の優しさも確かにあった。
風邪をひいた時、看病してくれた奈々美。
水族館で楽しそうに笑っていた奈々美。
そして――
涙を流しながら去っていった奈々美。
「俺は……」
元樹の心の中で、何かが動き始めた。
「奈々美のことが……好きなのか?」
その問いに、自分でも驚く。
でも、心は正直だった。
「ああ……そうだ」
元樹は気づいた。
「俺は、昔も今も、奈々美のことが……好きだ!」
玲のことも好きだった。
でも、奈々美への想いは、それ以上だった。
俺自身にこんな熱い感情があることを知らなかった。
「母さん」
元樹が振り返る。
「俺……決めた」
母は優しく頷く。
「そう。なら、後悔しないようにね」
元樹は決意を固めた。
明日、玲に会って、話をする。
そして――
奈々美に会いに行く。
翌日、放課後。
元樹は玲を屋上に呼び出した。
「元樹……話って?」
玲が不安そうに聞く。
元樹は深呼吸をする。
「玲……話があるんだ」
元樹の真剣な表情を見て、玲の顔が青ざめる。
「まさか……」
「ごめん」
元樹が頭を下げる。
「俺たち……別れよう」
その言葉に、玲の体が硬直する。
「え……?」
玲の声が震える。
「何言ってるの、元樹?」
「俺……気づいたんだ」
元樹が顔を上げる。
「本当に好きなのは、奈々美だって」
その告白に、玲の顔が歪む。
「嘘……」
玲が後ずさる。
「私と付き合っておいて……今更そんなこと……」
「本当にごめん」
元樹が玲に近づこうとする。
「来ないで!」
玲が叫ぶ。
「あなたが……あなたが私を選んだんでしょ!?」
玲の目から涙が溢れる。
「あの日、私の誕生日に……一緒にいてくれたじゃない!」
「ペアリングもくれた!」
玲が指のリングを見せる。
「『ずっと一緒にいる』って約束したじゃない!」
「玲……」
元樹の胸が痛む。
「でも、俺は間違ってたんだ」
「間違ってた……?」
玲が呆然と呟く。
「私と一緒にいたのが……間違いだったの?」
「そうじゃない!」
元樹が否定する。
「玲と過ごした時間は、本当に楽しかった」
「でも……」
元樹が続ける。
「奈々美のことが頭から離れないんだ」
「昨日、母さんから聞いたんだ」
元樹が語り始める。
「奈々美の両親が亡くなった事故のこと」
「そして、奈々美が7年間俺を探し続けたこと」
その話を聞いて、玲は唇を噛む。
「それで?」
玲の声が冷たくなる。
「それで、可哀想だから戻るって言うの?」
「違う!」
元樹が強く言う。
「可哀想だからじゃない」
「俺が……本当に好きだからだ」
その言葉に、玲の心が砕ける。
「そう……」
玲が俯く。
「私じゃ……ダメなんだね」
「玲……」
「いいよ」
玲が顔を上げる。
その目は、涙で潤んでいた。
「わかった。別れよう」
玲がリングを外す。
「これ……返すね」
リングを元樹に差し出す。
「玲……」
「受け取って」
玲の声が震える。
「もう……いらないから」
元樹はリングを受け取る。
「ごめん……本当に……」
「謝らないで」
玲が背を向ける。
「謝られても……辛くなるだけだから」
玲が歩き出す。
「玲!」
元樹が呼び止める。
「なに?」
玲が立ち止まるが、振り返らない。
「友達には……戻れないよな?」
元樹の問いに、玲は答えない。
ただ、小さく首を振った。
そして、屋上を出て行った。
残された元樹は、手の中のリングを見つめる。
「玲……ごめん」
その言葉は、秋の風に消えていった。
それから一週間が経った。
元樹と玲は、学校で顔を合わせても、言葉を交わさなくなった。
玲は元樹を避けるようになり、朝も別々に登校するようになった。
元樹は罪悪感を抱えながらも、毎日奈々美に電話しても繋がらない。
前に住んでいたアパートに戻ったと聞いていたが、毎日留守なので桜ヶ丘に戻っているのかもしれない。
元樹は会いに行く準備をしていた。玲の事も心配していた。
しかし――
玲の様子が、おかしくなっていた。
「ねえ、玲ちゃん、最近元気ないね」
未菜が心配そうに声をかける。
「大丈夫……」
玲が力なく答える。
「元樹くんと別れたって聞いたけど……」
その言葉に、玲の表情が変わる。
「誰から聞いたの?」
玲の声が低くなる。
「え……光明くんから」
未菜が戸惑う。
「そう……」
玲が俯く。
「私、大丈夫だから。心配しないで」
しかし、玲の目には、何か危険な光が宿っていた。
放課後、玲は一人で元樹の後をつけていた。
元樹は気づかず、いつもの道を歩いている。
「元樹……」
玲が小さく呟く。
「あなたは……私のものなのに」
玲の手が、カバンの中の何かを握る。
小さなナイフ。
「奈々美さんのところに行くなら……」
玲の目が、狂気に染まる。
「いっそ……二人とも……」
その時、元樹が立ち止まった。
玲は慌てて物陰に隠れる。
元樹がスマホを見ている。
「……」
しばらくして、元樹が歩き出す。
玲も後を追う。
元樹は駅に向かっているようだった。
「奈々美さんに会いに行くのね……」
玲が呟く。
「許さない……」
玲の目から涙がこぼれる。
「元樹は……私のものなのに……」
駅に着くと、元樹は切符を買った。
行き先は――桜ヶ丘。
奈々美が住んでいる町。
「やっぱり……」
玲も切符を買う。
同じ行き先。
電車に乗り込むと、玲は元樹から離れた車両に乗った。
元樹に気づかれないように。
電車が動き出す。
玲は窓の外を見つめながら、涙を流す。
「元樹……」
「なんで……なんで私じゃダメなの?」
玲の手が、再びカバンの中のナイフを握る。
「あなたが奈々美さんのところに行くなら……」
玲の瞳が、暗く光る。
「私も……一緒に」
電車は、桜ヶ丘に向かって走り続ける。
玲の心も、暗闇に向かって走り続けていた。
桜ヶ丘駅に到着した元樹は、改札を出て、奈々美の家に向かった。
以前来た時の道を、記憶を頼りに歩く。
心臓が激しく鼓動している。
「奈々美……会ってくれるだろうか」
不安と期待が入り混じる。
住宅街に入ると、見覚えのある家が見えてきた。
奈々美の家。
元樹は深呼吸をして、インターホンを押す。
ピンポーン――。
しばらく待つが、反応がない。
もう一度押す。
ピンポーン――。
また、反応がない。
「いないのか……?」
元樹は困惑する。
その時、隣の家から声がかかった。
「あの……柊さんをお探しですか?」
振り返ると、中年の女性が立っていた。
「はい、奈々美さんを」
「ああ、奈々美ちゃんなら……」
女性が言う。
「昨日、出て行ってから見てないわね」
「え……?」
元樹の顔が青ざめる。
「引っ越し……?」
「わからないわ」
元樹は言葉を失う。
「そんな……」
奈々美は何処に行ったのか?
もう、ここにはいない。
「ありがとうございました」
元樹は女性に頭を下げて、その場を離れた。
公園のベンチに座り、頭を抱える。
「奈々美……どこに行ったんだ」
絶望が込み上げる。
やっと気持ちに整理がついて、会いに来たのに。
もう、会えない。
「俺は……」
元樹の目から涙がこぼれる。
「俺は、何をしてるんだ……」
その時、背後から声がかかった。
「元樹」
冷たい声。
振り返ると、玲が立っていた。
「玲……?」
元樹は驚く。
「なんでここに……」
「あなたを追ってきたのよ」
玲が近づいてくる。
「奈々美さんに会いに来たんでしょう?」
その瞳には、狂気が宿っていた。
「玲……」
元樹は警戒する。
玲の様子が、明らかにおかしい。
「でも、無駄だったわね」
玲が笑う。
「奈々美さん、いないんでしょう?」
「お前……聞いてたのか」
「ええ」
玲が頷く。
「全部、聞いてたわ」
玲が元樹の隣に座る。
「元樹……」
「なんだ」
「あなたは……私のものよ」
玲が元樹の腕を掴む。
「玲、痛い……」
元樹が顔をしかめる。
「奈々美さんなんて、もういないの」
玲の声が震える。
「だから……私のところに戻ってきて」
「玲……」
元樹は玲を見つめる。
その瞳には、奈々美と同じ狂気があった。
「お前……」
「私は……」
玲が涙を流す。
「元樹のことが好きなの」
「だから……離れたくない」
玲が元樹にしがみつく。
「ずっと……ずっと一緒にいて」
その姿は、かつての奈々美と重なる。
「玲……落ち着けよ」
元樹が玲を落ち着かせようとする。
「落ち着けない!」
玲が叫ぶ。
「あなたは私を捨てて、奈々美さんのところに行こうとした!」
「でも、奈々美さんはもういない!」
玲が元樹を見つめる。
「だから、私のところに戻ってきて!」
「玲……」
元樹は困惑する。
「お前……おかしいよ」
「おかしくなんかない!」
玲が元樹を抱きしめる。
「私は……ただ元樹のことが好きなだけ!」
その言葉と、抱きしめる力の強さ。
元樹は、玲が奈々美と同じ道を歩み始めていることに気づいた。
「玲……お前……」
「元樹」
玲が顔を上げる。
その目は、正常ではなかった。
「私だけを見て」
「他の女の子のことは、忘れて」
玲が元樹の頬に手を添える。
「私だけの……元樹」
その言葉は、まさに奈々美が言っていた言葉と同じだった。
「玲……お前は……」
元樹は恐怖を覚える。
玲が、奈々美のようになってしまった。
いや――
奈々美以上に、危険かもしれない。
「元樹」
玲がカバンに手を入れる。
「もし……あなたが私を拒否するなら……」
玲が取り出したのは、小さなナイフだった。
「玲!?」
元樹は驚愕する。
「何するつもりだ!?」
「わからない……」
玲が呟く。
「でも……あなたを他の人に渡すくらいなら……」
玲の手が震える。
「いっそ……」
「やめろ!」
元樹が玲の手を掴む。
ナイフが地面に落ちる。
「玲、目を覚ませ!」
元樹が玲を抱きしめる。
「お前は……こんなことをする子じゃないだろう!」
その言葉に、玲の体から力が抜ける。
「元樹……」
玲が泣き崩れる。
「私……どうしちゃったの……」
「わからない……自分でも……」
玲が元樹の胸で泣く。
「ただ……元樹を失いたくなくて……」
「怖くて……」
元樹は玲を抱きしめたまま、何も言えなかった。
玲も、奈々美と同じように、元樹を愛するあまり、狂気に囚われてしまった。
「俺は……」
元樹は空を見上げる。
「俺は……呪われてるのか」
愛する人を、次々と狂わせてしまう。
奈々美も、玲も。
「俺が……悪いんだろうな」
その問いに、答えはなかった。
ただ、秋の風が冷たく吹いているだけだった。
その夜、元樹と玲は、それぞれの家に帰った。
元樹は部屋で一人、考えていた。
「玲も……奈々美みたいになってしまった」
自分を愛する人を、狂わせてしまう。
「俺は……どうすればいいんだ」
答えの出ない問いを、何度も繰り返す。
スマホを見ると、由美からメッセージが来ていた。
『お兄ちゃん、部屋にこもって大丈夫?』
元樹は返信する。
『大丈夫じゃない』
すぐに由美から電話がかかってきた。
「もしもし」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
由美の心配そうな声。
「玲が……おかしくなった」
元樹は正直に話した。
奈々美のことを選ぼうとしたこと。
玲が自分を追ってきたこと。
そして、ナイフを持っていたこと。
「そんな……」
由美は言葉を失う。
「お兄ちゃん……どうするの?」
「わからない」
元樹は正直に答える。
「奈々美にも会えないし、玲もおかしくなってしまった」
「俺は……どうすればいいんだ」
「お兄ちゃん……はっきり答えを出さないからだよ!」
由美の声も震えている。
「ちゃんと自分の言葉には責任を持たなきゃ」
「由美……」
「こんな事言っても今更か……けど何か方法があるはずだから」
由美の言葉に、元樹は少しだけ救われる。
「ありがとう、由美」
「うん。頑張ってね、お兄ちゃん」
電話を切った後、元樹はベッドに横になった。
「奈々美……」
「玲……」
二人の顔が、交互に浮かぶ。
「俺は……誰を選べばいいんだ」
そして――
「誰かを選ぶことで、また誰かを傷つけてしまうのか」
その恐怖が、元樹を縛り付ける。
「俺は……」
元樹の心は、深い闇に沈んでいった。
一方、玲は自分の部屋で鏡を見つめていた。
「私……何をしようとしたの」
ナイフを持ち出した自分。
元樹を脅そうとした自分。
「おかしい……私、おかしくなってる」
でも――
「でも、元樹を失いたくない」
その気持ちは、本物だった。
「元樹……」
玲は机の引き出しを開ける。
そこには、元樹の写真があった。
文化祭の時の写真。
体育祭の時の写真。
そして――
二人で撮った、デートの時の写真。
「私だけの……元樹」
玲の目が、再び危険に光る。
「奈々美さんがいないなら……」
玲は立ち上がる。
「チャンスね」
玲は決意した。
元樹を、完全に自分のものにする。
どんな手段を使ってでも。
「明日……学校で」
玲は計画を練り始めた。
その瞳には、もはや正常な輝きはなかった。
奈々美と同じ――
いや、それ以上の狂気が宿っていた。
翌日、学校。
元樹は重い足取りで教室に入った。
玲の姿を探すが、まだ来ていないようだった。
「元樹」
光明が声をかける。
「お前、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「ああ……ちょっとね」
元樹は力なく答える。
「それで、奈々美のところに行ったんだろ?」
光明の問いに、元樹は驚く。
「なんで知ってるんだ?」
「未菜から聞いた。玲が言ってたらしい」
光明が続ける。
「それで、奈々美とは会えたのか?」
「いや……」
元樹は首を振る。
「奈々美はいなかった。何処に行ったんだろうな」
「そうか……」
光明は同情的な表情を見せる。
「で、玲は?」
その問いに、元樹の表情が曇る。
「玲が……俺を追ってきた」
「追ってきた?」
「ああ。そして……」
元樹は言葉を選ぶ。
「おかしくなってた。奈々美みたいに」
その言葉に、光明は眉をひそめる。
「まずいな……」
「ああ」
元樹は頷く。
「俺、どうすればいいんだ」
その時、教室のドアが開いた。
玲が入ってくる。
元樹と目が合う。
玲は微笑む。
でも、その笑顔は――
どこか、壊れていた。
「おはよう、元樹」
玲が近づいてくる。
「お、おはよう……」
元樹は警戒する。
「昨日は……ごめんね」
玲が謝る。
「私、ちょっとおかしくなってた」
「でも、もう大丈夫」
玲が元樹の手を握る。
「私たち……やり直せるよね?」
その瞳には、狂気の光が宿っていた。
「玲……」
元樹は言葉に詰まる。
「やり直せるよね?」
玲が再び聞く。
その声には、拒否を許さない圧力があった。
「いや、俺は……」
元樹が答えようとした時――
チャイムが鳴った。
「あ、授業だ」
玲が席に戻る。
「また後でね、元樹」
その言葉を残して。
元樹は、深いため息をついた。
玲も、奈々美と同じ道を歩み始めている。
そして、元樹にはそれを止める方法がわからなかった。
「俺は……どうすればいいんだ」
その問いは、誰にも答えられないまま、空に消えていった。
昼休み、元樹は一人で屋上にいた。
考えをまとめるために。
「奈々美はどこか行ってしまった」
「玲はおかしくなってしまった」
「俺は……どうすればいいんだ」
その時、屋上のドアが開いた。
玲が入ってくる。
「やっぱり、ここにいたんだ」
玲が微笑む。
「玲……」
元樹は警戒する。
「元樹、逃げないで」
玲が近づいてくる。
「私、あなたのことが好きなの」
「だから……一緒にいて」
玲が元樹を抱きしめる。
「玲、離してくれ」
元樹が玲を引き離そうとする。
「嫌」
玲が強く抱きつく。
「私、もう離さない」
「あなたは……私だけのものなの」
その言葉は、奈々美が言っていた言葉と全く同じだった。
「玲……お前……」
「私が何?」
玲が顔を上げる。
その瞳には、もはや正常な輝きはなかった。
「奈々美さんみたいになってるって言いたいの?」
玲が笑う。
「違わないわよ」
「私も……あなたを愛してる」
「だから……束縛するの」
その言葉に、元樹は恐怖を覚える。
「玲……お前は……」
「私は……」
玲が元樹の頬に触れる。
「あなたの奴隷にも、主人にもなれるわ」
「だから……一緒にいて」
その瞬間、元樹は理解した。
玲は、もう戻れないところまで来てしまった。
奈々美と同じように。
「俺は……」
元樹は玲を見つめる。
「俺は……お前を愛せない」
その言葉に、玲の表情が凍りつく。
「え……?」
「はっきりとわかったよ。俺が愛してるのは……奈々美だ」
元樹は正直に言った。
「たとえもう会えなくても……」
「俺の心は、奈々美にあるんだ」
その告白に、玲の心が砕ける。
「そんな……」
玲が後ずさる。
「私じゃ……ダメなの?」
「ごめん……」
元樹は頭を下げる。
「でも、これが俺の本当の気持ちだ」
その言葉と共に、元樹は屋上を出て行った。
残された玲は、一人で立ち尽くしていた。
「元樹……」
玲の目から涙が溢れる。
「私を……捨てるの?」
その問いに、答えはなかった。
風だけが、冷たく吹いている。
「許さない……」
玲が呟く。
「絶対に……許さない」
玲の瞳が、暗く光る。
「あなたが私を選ばないなら……」
玲の手が、再びカバンに伸びる。
「いっそ……」
その瞬間、玲の中で何かが壊れた。
理性の糸が、完全に切れた瞬間だった。
その夜、元樹は部屋で一人、考えていた。
「玲に、はっきりと伝えた」
「これで……終わったはずだ」
でも、心は重かった。
玲を傷つけた。
奈々美にも会えない。
「俺は……一体何をしてるんだ」
スマホを見ると、母からメッセージが来ていた。
『大丈夫?』
元樹は返信する。
『大丈夫じゃない。でも、自分で決めた道だから』
母からすぐに返信が来る。
『そう。なら、最後まで責任を持ちなさい』
その言葉に、元樹は頷く。
「ああ……そうだな」
元樹は立ち上がり、窓の外を見つめる。
月が、冷たく光っていた。
「奈々美……」
「どこにいるんだ」
その問いは、夜に消えていった。
そして――
物語は、新たな局面を迎えようとしていた。
玲の狂気。
奈々美の行方。
元樹の決断。
全てが絡み合い、最終局面へと向かっていく。
「これから……どうなるんだろう」
元樹は自問する。
答えは、まだ見えない。
ただ、確かなことは――
この物語は、まだ終わっていない。
むしろ、これからが本当の始まりなのかもしれない。
月明かりの下、元樹は一人で立っていた。
未来は不確かで、過去は重く。
それでも、前を向くしかなかった。
奈々美を探すために。
そして――
玲の狂気から、逃れるために。
皆さん、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
私は上野玲。元樹の幼馴染であり、元恋人です。
今回のエピソードは、私にとって最も辛く、そして最も大切な記憶となりました。
元樹は私を選んでくれた。あの誕生日、確かに私を選んでくれたはずでした。
でも、彼の心は常に奈々美さんにあった。
それを認めるのは、とても辛かったです。
奈々美さんの過去を知った時、私は嫉妬と同時に、深い同情を覚えました。7年間も元樹を探し続けた彼
女の想い。
それは、私には真似できないものでした。
そして、私は気づいたのです。
自分が奈々美さんと同じ道を歩み始めていることに。
元樹を失いたくない。独占したい。他の誰にも渡したくない。
その想いが、私を狂わせていきました。
ナイフを持ち出した自分を、今でも信じられません。
でも、それほどまでに元樹を愛していたのです。
愛と執着の境界線。
それがどこにあるのか、私にはもうわかりません。
これから私がどうなるのか。
元樹は奈々美さんを見つけられるのか。
物語はまだ続きます。
最後まで、見届けてください。
私の、歪んでしまった愛の行方を――。
上野玲




