第2話 「教室の視線」
翌朝。
「……ん……」
重いまぶたを無理やり持ち上げる。視界にまず飛び込んでくるのは、古い木造の天井。
節目の浮き上がった板の模様は、子供のころから何度も見てきたはずなのに、今朝はやけに不気味に思えた。
カーテンの隙間から、白々しい朝の光が差し込んでいる。
目を細めると、視界の奥でぼんやりと影が揺れた気がして、胸がざわついた。
(……夢か……?)
ゆっくり上体を起こし、乱れた布団を払いのける。
眠ったはずなのに、体は重く、鉛を抱えたように動かない。
昨夜、なかなか寝付けなかったせいだ。
原因は分かっている。
「……ずっと一緒に帰れるといいな」
夕暮れの帰り道で奈々美さんが口にした、あの言葉。
耳元で囁かれたように、頭の奥で繰り返し反響し続けていた。
その声は優しいようでいて、冷たい。
甘やかすようでいて、縛りつけるようでもある。
枕元の時計を見ると、針はすでに七時を回っている。
ため息をひとつ落として立ち上がり、洗面所へ向かう。
鏡に映る顔は、どこか疲れ切っていた。
目の下にはうっすらと影――クマが浮かんでいる。
「……なんで、俺……」
水道の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。
何度も繰り返しても、頭にこびりついたざわめきは落ちてくれない。
◇ ◇ ◇
制服に着替えて家を出ると、まだ朝の空気はひんやりとしていた。
黒峠町の通学路は、古い商店や古民家が点々と並び、細い石畳の道を抜けていく。
ここでの暮らしは長い。子供のころから、ほとんど景色は変わっていない。
けれど今朝は、どこか異質に見えた。
(……昨日のことが、頭に残ってるせいだろ……)
肩にかけた鞄を持ち直しながら歩いていると、不意に首筋をなぞる感覚が走った。
風のせいではない。
確かに――“視線”だ。
反射的に振り返る。
だが、そこには誰もいない。
ただ、まだ開いていない商店のシャッターと、規則正しく並ぶ民家の窓だけがある。
人影も、猫の姿さえもない。
(気のせい……か?)
そう思い込もうとした矢先。
「おはよう」
耳元に近いほどの距離から、声が落ちた。
胸の奥が跳ね、足が止まる。
振り返ると、そこには奈々美さんが立っていた。
制服の襟元はきちんと整い、黒髪は朝日に淡く光っている。
普通の女子高生らしい姿なのに彼女は笑わず、ただ無表情でこちらを見つめていた。
「……柊?」
「一緒に行こうと思って」
穏やかな口調。
でも、それは友達を誘う自然な響きではなく、どこか既に“決定されている事実”を告げるような重さを帯びていた。
「いや、たまたま同じ道だっただけだろ?」
俺は努めて軽く返す。だが、声は微かに震えていた。
奈々美さんは、小さく首を横に振った。
「……偶然じゃないよ」
一瞬、空気が固まった気がした。
その言葉が意味するものを問いただそうとしたが、彼女はすでに歩き出していた。
並んで歩く足音が、石畳に規則正しく響く。
俺の歩幅に合わせるように、ぴたりと寄り添ってくる。
ほんの数十センチの距離。
けれど、その近さが不思議と息苦しかった。
(……本当に偶然じゃないのか?)
胸の奥で、昨日から疼いている“記憶の断片”が、また疼き始める。
――夕暮れの坂道。
――誰かに手を握られ、振りほどこうとしても離れない。
――「置いていかないで」と泣きながら繰り返す声。
足が止まりかける。
けれど、隣を歩く奈々美さんは気づかないふりをして、淡々と歩みを進めていた。
まるで、最初から「一緒に登校すること」が決められていたかのように--。
教室の前まで来ると、奈々美さんは一瞬だけ足を止めた。
隣に立っているはずなのに、彼女の存在はやけに濃く、まるで背中に影が貼りついているようだった。
俺が引き戸に手をかけると、彼女も同じ動作をしそうになって――けれど寸前で止まり、静かに俺の後ろへ下がった。
小さな気配の変化なのに、なぜか妙に心臓が早鐘を打つ。
「……入るね」
誰に言うでもなくそう呟いて、俺は戸を開いた。
ギィ、と乾いた音が廊下に響く。
朝の教室は、すでに何人かの生徒でざわついていた。
椅子を引く音、談笑する声、ペンを走らせる音――それらがごちゃ混ぜになった空気に、奈々美さんと並んで入っていく。
その瞬間、空気がわずかに張り詰めた気がした。
視線がちらりとこちらへ流れる。
「転校生と一緒に来た」という事実が、ほんの数秒でクラス全体に伝わってしまったかのように。
俺は努めて何も気にしないふりをして、自分の席へ向かう。
すると、背後から静かな足音。
奈々美さんはためらうことなく、自分の机の前まで来て――ぴたりと足を止めた。
「……それじゃあまたね」
短くそう言った。
声は小さいが、明確に俺に向けられたものだった。
俺を見ているわけでもないのに、妙に印象だけが濃い。
そして彼女は軽く会釈すると、静かに椅子を引いて座った。
無表情の横顔。そこには感情の色が一切浮かんでいない。
ただその仕草だけが、不可解な余韻を残した。
◇ ◇ ◇
俺が席に腰を下ろしたとき、すぐ隣から柔らかい声がした。
「おはよ、元樹」
顔を上げると、玲がこちらを覗き込んでいた。
部活の朝練を終えてきたのか、髪が少し乱れていて、額にうっすら汗が光っている。
その姿は健康的で、奈々美さんの静けさとは対照的だった。
「……お前、もう来てたのか」
「うん、朝練終わったから先に戻ってきてたんだよ」
玲は軽く肩をすくめて笑うと、少し身を乗り出してきた。
「ねえ、さっきの子と一緒に来てたでしょ? 柊さんだよね?」
俺は一瞬言葉に詰まったが、すぐに取り繕う。
「……たまたま道が同じだっただけ」
「ふぅん?」
玲は首をかしげる。けれど、その表情はどこか楽しげで、からかうような色を含んでいた。
「偶然にしては、息ぴったりに見えたけどなぁ。だってほら、二人して同じタイミングで教室入ってきたじゃん」
「だから違うって」
思わず声が少し強くなる。
玲はくすっと笑って、椅子の背にもたれた。
「……そっか。元樹がそう言うならそうなんだろうけどね」
彼女は頬杖をつきながら、目だけを細める。
幼馴染だからこそ分かる――その目はまだ納得していない。
「でもさ……あの子、なんか雰囲気ちょっと違わない?」
玲は小声で言った。
「悪い意味じゃなくてね。ただ……普通の転校生って感じじゃなくて……なんか、暗いっていうか。目がすごく印象的でさ」
胸がちくりと反応する。
昨日から続く、説明できないざわめき。
それを玲に指摘された気がして、心臓が微妙に跳ねた。
「……普通、だと思うけどな」
乾いた声で返すと、玲は「そっか」とだけ言って、それ以上は追及しなかった。
ただ、机に肘をつきながら俺をじっと見ていた。
◇ ◇ ◇
そのやり取りの最中。
――視線を感じた。
ゆっくり振り返ると、隣の席の奈々美さんが、静かにこちらを見ていた。
感情の読めない黒い瞳。
無表情なのに、その視線は妙に鋭く、突き刺さるようだった。
俺と玲の間に流れた会話を、すべて聞いていたかのように。
観察し、測り、記録しているかのように。
玲は気づいたのか、少し居心地悪そうに視線を逸らした。
その仕草が、余計に空気を重くした。
俺は息を詰めながら、机の上に視線を落とした。
手のひらが汗ばみ、心臓の音だけが耳の奥で響いていた。
奈々美さんは――やはり、ただの転校生ではない。
そう思わされるには、十分すぎるほどの一瞬だった。
キーンコーンカーンコーン――。
乾いたチャイムの音が、教室全体を揺らした。
その瞬間、ざわついていた声が波のように引いていく。
前の扉が開き、佐々木先生が教科書を小脇に抱えて入ってくる。
「はい、席につけー。今日はここからな」
黒板にチョークが走る音が、やけに乾いて耳に響いた。
俺は教科書を机に出しながら、ちらりと隣に目をやった。
奈々美さんはすでにきちんと教科書を開き、姿勢を正して座っている。
その横顔は真剣そのもの。
――普通の生徒と、なんら変わらない。
けれど。
ふと、視線がぶつかった。
彼女の瞳が、わずかにこちらへ向いていた。
ほんの一瞬だけかと思ったが、違う。
黒板に目を戻しているようで――視線の先は確かに俺だ。
(……気のせいだろ。黒板と俺の席がたまたま重なってるだけ)
自分にそう言い聞かせる。
だがページをめくるたび、ノートに文字を書こうとするたびに、視線がついてくる感覚があった。
授業の声は耳に入っている。
だが、頭に残らない。
ただ、隣から突き刺さるような気配だけが、脳裏を占めていく。
ペンを握る手にじわじわと汗が滲む。
ページにインクの跡が歪んだ。
◇ ◇ ◇
「渡部。……渡部!」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
「えっ、あ、はい!」
立ち上がると、教室中の視線が一斉にこちらに向かう。
担任が眉をひそめた。
「……板書の途中でぼんやりするな。ここ、読んでみろ」
「……はい」
教科書を開き、なんとか声を出す。
つっかえながらも読み進める間、隣の奈々美さんがどうしているのか気になって仕方がなかった。
ちらりと横目をやる。
彼女は教科書に目を落としていた。
――けれど、口元にかすかな笑みが浮かんでいるように見えた。
それが何を意味するのかは分からない。
ただ、不思議な寒気だけが背中を這い上がってきた。
◇ ◇ ◇
読み終わって席に座る。
担任は黒板に再び文字を書き始め、教室に緊張が薄れていく。
けれど俺の耳には、まだ自分の鼓動だけが大きく響いていた。
(……やっぱり気のせい、なのか? それとも……)
視線を落としたノートの文字は、震えて読めないほど歪んでいた。
読んでくださり、ありがとうございます。
今回は教室での視線や静かな緊張を中心に描きました。
奈々美さんの不穏さ、玲の優しさ……二人の対比を楽しんでいただけたら嬉しいです。
物語はまだ始まったばかり。
次回も元樹の不安と、奈々美さんの裏の顔にご注目ください。




