第八話
幻術の森を抜けた先、黒い石は赤黒く脈動を始めた。
紫の光ではなく、血のような紅に近い。
それはまるで「血の監視者」という存在の名を肯定するかのように、不気味な光を放ち続けていた。
アルフレッドはその石を見つめ、低く呟いた。
「……次は、西か」
西へ進む街道は、荒れ果てた荒野と黒鉄色の河に沿って伸びていた。
かつて交易都市があったというが、今は廃墟が点在するばかり。
旅人や商隊の姿はなく、見かけるのは打ち捨てられた荷車や、赤黒く染まった石畳。
川沿いの村に立ち寄ると、人々は怯えた顔で彼に囁いた。
「夜になると川が……血に変わる」
「水を汲んだ娘が、翌朝には干からびた屍で見つかった」
「川辺には、いつも黒衣の影が立っているのを見た」
川面を覗き込むと、アルフレッドの影が揺らぎ、その隣にもう一つの影が現れた。
それは人の形をしていたが、頭部には顔がなく、代わりに無数の赤い眼が縫い付けられていた。
視線を逸らすと消えるが、再び水面を見れば必ず隣に立っている。
(……これが監視か。目そのものが呪いとなり、人々を見張っている)
村の外れに崩れかけた祠があり、その石板には血のような赤で刻まれた文字があった。
〈血を流し 血を縫い 血を供せ 監視者は常に見ている〉
その碑文の下には、生贄とされたかのように乾ききった遺体が横たわっていた。
アルフレッドは祠を背に、夕暮れの荒野を見渡した。
黒い石はさらに強く脈動し、西の地平の向こうを指し示している。
「血の監視者……セイセス=セイセスの次なる幹部。お前が見張っているのは、人の命か、それとも世界そのものか」
赤く沈む太陽の下、彼の影は長く伸び、その中で剣が稲妻のように鈍く光った。
西方の荒野を進むアルフレッドの前に、ついに「血の河」と呼ばれる大河が現れた。
水面は濁った赤黒色に染まり、時折、泡のように血塊が浮かんでは流れていく。
川面に映る空は曇り空にもかかわらず、赤く燃える夕暮れのようであり、まるで川そのものが血を吸い込んでいるかのようだった。
村人の言葉は誇張ではなかった。この河は、確かに「血」を流していた。
河岸を辿ると、霧の奥に石造りの砦が現れた。
高く積み上げられた黒い石壁は、所々が血のような赤で染み込み、鉄扉には無数の「眼」の刻印が彫り込まれている。
その瞳はまるで生きているように瞬きをし、砦に近づく者を見張っていた。
(……これが監視者の領域か)
砦の手前には崩れかけた祭壇跡があり、石畳には乾いた血が層となってこびりついていた。
生贄の儀式に使われていたのだろう。
祭壇の中央には巨大な鉄製の「針」が突き立てられており、その周囲に転がる骨は糸で繋ぎ合わされていた。
黒い石を近づけると、赤黒い光が強烈に脈打つ。
間違いない、この場所こそ血の監視者の支配する拠点だった。
砦の上空にはカラスの群れが渦を描き、どれほど追い払っても再び戻ってくるかのように旋回していた。
その目もまた赤く爛れており、砦と同じ「監視の眼」に縫い付けられている。
アルフレッドは魔剣を抜き、静かに息を整えた。
「……ここで待つか、血の監視者」
血の匂いと不気味な視線に包まれながら、彼は砦の鉄扉へと歩みを進めていった。
砦の鉄扉を押し開いた瞬間、内側から生臭い霧が押し寄せてきた。
暗がりの中で蠢いたのは、人の形をしたもの――だが、皮膚は剥がされて血そのものが肉体を形作っていた。
兵のごとく槍を構え、動くたびに血潮が飛び散る。
「……血を縫い、血を捧げる……」
不気味な声を重ね、異形の兵たちが一斉に襲い掛かる。
アルフレッドは魔剣を抜き放ち、蒼光の稲妻で突進した。
刃が閃くたびに血の兵は裂かれるが、倒れても血が再び縫い合わされ、形を取り戻す。
奥から這い出してきたのは、さらに禍々しい存在だった。
人の胴体を基にしながら、頭部は失われ、その代わりに無数の「眼」が縫い付けられている。
それぞれの眼は独立して動き、赤い光を放ち、アルフレッドの一挙手一投足を監視していた。
その怪物が咆哮すると、血の兵たちの動きが一斉に鋭くなった。
(……あの眼が、監視と制御を兼ねているのか!)
「断雷剣――裂閃!」
稲妻が奔り、血の兵を一掃する。
しかし血が壁に散った瞬間、その血が糸のように動き、怪物の眼へと集まって再び兵を生み出す。
眼の怪物は低く唸り、血を吐き出すようにして新たな兵を呼び出した。
砦の内部は、瞬く間に赤黒い兵と監視の眼で埋め尽くされていく。
アルフレッドは血と眼の連鎖に気付き、刃を構え直した。
(血を斬っても意味はない……眼を断たなければ!)
蒼光の剣を握る手に力を込め、彼は眼の怪物を目指して駆け出した。
稲妻の光が砦を裂き、眼の群れが一斉に彼を睨み返す――。
砦の奥にそびえる眼の怪物が、赤黒い光を放った。
縫い付けられた無数の眼が一斉に見開かれ、アルフレッドの動きを捉える。
その瞬間、全身に重圧がのしかかり、筋肉が鉛のように硬直した。
「見ラレテイル……」
声が頭の奥で木霊し、呼吸すら制御されていく。
足を動かそうとするたび、眼の視線が鋭く突き刺さり、血管を凍らせるかのようだった。
血の兵が怪物の命令で一斉に突進し、槍の雨がアルフレッドを襲う。
彼は蒼光を纏った剣で迎え撃つが、視線の圧迫で反応が遅れ、肩口を裂かれる。
血が流れると、床に染み込んだ血が糸のように動き、兵の肉体へ吸い込まれ、さらに強化されていく。
(……このままでは視線に縛られて押し潰される!)
アルフレッドは歯を食いしばり、霊視術を最大限に解放した。
すると、全ての眼から糸のような魔力が伸び、怪物の中心核に収束しているのが見えた。
(……眼は数多くとも、すべては一つの核に縫い付けられている! そこを断てば……!)
導師ゼムの声が脳裏に蘇る。
「恐怖を斬れ。視線を恐れれば、己を見失う」
アルフレッドは深く息を吸い、視線の圧力に抗って剣を振り上げた。
「俺は見張られない――俺の心は、俺の剣だ!」
稲妻が刃を走り、雷鳴が砦を揺るがす。
「断雷剣――絶閃!」
蒼光の斬撃が眼の怪物を直撃し、縫い合わされた眼を一斉に焼き裂いた。
眼の群れは悲鳴を上げるように光を散らし、怪物の中心核が露わになる。
眼の怪物が断雷剣に貫かれ、縫い合わされた無数の眼が焼け裂かれる。
血と光の奔流の中、その中心に黒赤く脈打つ結晶核が姿を現した。
そこからは絶えず血の糸が溢れ、兵を生み出していたのだ。
「これが……根だな」
アルフレッドは歯を食いしばり、剣を高く掲げる。
全身の魔力を刃に注ぎ込み、雷鳴を収束させる。
「断雷剣――滅閃!」
稲妻の奔流が結晶核へと突き立ち、轟音と共に核は粉々に砕け散った。
砦全体が揺らぎ、血の兵たちは糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
眼の怪物は最後に耳を裂くような絶叫を上げ、血と闇の塊となって四散した。
戦場に静寂が戻る――かに見えたその時。
砦の壁一面に刻まれた眼の刻印が、一斉に開いた。
赤い光が溢れ、砦そのものが「巨大な眼」と化した。
アルフレッドは息を呑む。
「……まだ終わっていないのか」
崩壊する核から溢れ出た血が地を覆い、その中に一つの「影」が浮かび上がった。
それは人の形を保ちながらも、全身を血で編んだ鎧に覆われ、頭部には無数の眼が縫い付けられていた。
その眼は一斉に瞬き、低い声が砦に響き渡る。
「我は血を見張る者……供物を監視し、世界を縫い合わせる眼」
「剣士よ……お前の一挙一動を、我が千の眼は見逃さぬ」
砦全体が血に濡れた舞台のように赤黒く染まり、空気は粘つくほど重くなった。
黒い石が熱を帯び、今まで以上に激しく脈動する。
アルフレッドは魔剣を構え直し、血の監視者の影を睨み据えた。
(これが……幹部血の監視者。ここからが本当の戦いだ)
砦の中心で顕現した血の監視者は、全身の眼を一斉に見開いた。
「視ル……」
その声と共に、千の眼から赤黒い光が放たれる。
光を浴びた瞬間、アルフレッドの身体は金縛りに遭ったかのように硬直し、呼吸までもが奪われた。
(……動けない……これはただの視線じゃない。存在を縫い留める力か!)
監視者が掌を広げると、砦の床に溜まった血が一斉に盛り上がり、蛇のように形を成して襲い掛かってきた。
「血ハ逃ゲナイ……血ハ常ニ縫イ合ワサレル……」
赤黒い鞭のような血の触手が何本も伸び、アルフレッドを絡め取ろうとする。
彼は辛うじて剣を振るい、蒼光の斬撃で血を裂いた。
だが裂かれた血は瞬時に縫い合わされ、より強靭な触手となって迫ってくる。
アルフレッドは視線の圧迫に抗いながら、稲妻のように跳んだ。
「断雷剣――裂閃!」
稲妻が奔り、血の触手を吹き飛ばす。
だが次の瞬間、砦の壁に刻まれた「眼」が赤く光り、裂かれた血が空間そのものから再び溢れ出す。
監視者の声が轟いた。
「見張ラレル限リ……血ハ尽キヌ」
その圧倒的な監視の中で、アルフレッドの脳裏に過去の光景が浮かんだ。
血に沈む村、救えなかった命、無力だった自分。
それらは監視者の眼が心に突き刺さり、罪と恐怖を抉り出しているのだった。
(……また幻とは違う……これは俺の血そのものに刻まれた記憶を暴かれている!)
膝をつきかけたアルフレッドは歯を食いしばり、声を張り上げた。
「見張られても構うものか! 俺は俺の剣で進む!」
雷鳴が刃を奔り、血と視線の束を押し返す。
監視者は初めて笑い声を漏らした。
「面白イ……ダカラ、斬ッテミロ。我ガ真ノ眼ヲ!」
その額に、他の眼よりも巨大な紅の眼が開いた。
砦全体が震え、血が滝のように流れ出す。
血の監視者の額に開いた巨大な紅の眼が、深淵のような光を放った。
「我ガ真ノ眼ハ、血脈ヲ遡リ、魂ヲ縫イ止メル……」
その瞬間、砦の壁に刻まれた無数の眼が一斉に開き、血の河が逆流するように砦内部へ流れ込む。
床も壁も天井も、赤黒い血と視線に覆われた。
砦そのものが監視者の肉体と化し、逃げ場はどこにもなかった。
アルフレッドが一歩踏み出すたび、床の血が足首を絡め取り、赤い眼がその動きを封じる。
視線は全身に突き刺さり、思考を鈍らせる。
「逃ゲ場ハナイ……オ前ノ血ハ、既ニ我ガ眼ニ記サレタ」
アルフレッドは剣を振るい、稲妻を奔らせて血を焼き払う。
だが焼け焦げた血はすぐに縫い合わされ、別の場所から再び現れる。
(……視線の圧迫に、血の再生……正面から押し切れば必ず押し潰される!)
肩口を裂かれ、血が滴る。
その血すらも砦の床に吸い込まれ、監視者の眼へと届いていく。
「見エタ……オ前ノ過去、オ前ノ罪、オ前ノ死」
監視者の声が心臓を締め付け、全身が鉛のように重くなった。
アルフレッドは膝をつきかけながら、歯を食いしばる。
(……奴は俺の血そのものを使って縫い止めている。ならば――!)
アルフレッドは深く息を吸い、霊視術を最大限に研ぎ澄ませた。
すると、血と眼が繋がる糸が網のように張り巡らされている中で、ただ一筋――監視者の「真の眼」と砦を繋ぐ太い糸が浮かび上がった。
(……あれが核……真の眼と砦を縫い合わせている縫糸。
あれを断てば、この支配は崩れる!)
視線に押し潰されながらも、彼は剣を構え直した。
「突破口は……見えた!」
砦全体が唸り声を上げるかのように震え、床からは血の柱が噴き出した。
その柱には眼が浮かび、アルフレッドの一挙一動を追い続ける。
「見逃サヌ……オ前ノ動キ、オ前ノ心、オ前ノ血……」
監視者の低い声が重なり合い、空気そのものを縫い止めるかのように重苦しかった。
アルフレッドは縫糸を霊視術で捉え、その一点を見据える。
砦と監視者を繋ぐ太い血の糸――真の眼から伸びるそれが、この支配の根幹だった。
「……ここを断たねば終わらん!」
視線が突き刺さる。血の鞭が四方から襲う。
だがアルフレッドは一歩も退かず、雷鳴を纏った剣を振り上げた。
「断雷剣――穿閃!!」
稲妻の光刃が奔り、血の触手を次々と焼き裂く。
しかし真の眼が開かれるたびに新たな視線が突き刺さり、体の動きが鈍る。
肩を裂かれ、膝をつきかけても、彼の目は縫糸を逸らさなかった。
「俺は……縫われない! この命が裂けても……糸を断つ!」
全身の魔力を刃に注ぎ込み、雷鳴そのものと化したアルフレッドが縫糸へ突進する。
血の監視者は吼え、砦全体の血を操って壁のように立ちはだかせた。
血の壁からは無数の眼が開き、赤い光で剣士を縫い止めようとする。
「見張ラレル限リ……進メヌ!」
「見張られても進む――それが俺の剣だッ!」
アルフレッドは吼え、雷光を迸らせて血の壁を突き破った。
刃先はついに縫糸へ届き、蒼白の光が闇を裂いた。
縫糸が断たれた瞬間、砦全体を覆っていた血と眼が狂ったように悲鳴を上げた。
「視線ガ……途切レル……」
血の監視者が大地を揺らすような声を漏らし、その影が揺らぎ始めた。
だが、その紅の真の眼はなおもぎらつき、完全な消滅を拒んでいた。
アルフレッドの剣が縫糸を断った瞬間、砦全体を覆っていた赤黒い血と眼が一斉に悲鳴を上げた。
砦の壁に刻まれた眼は潰れ、血は乾き、支配の糸は断ち切られていく。
だが同時に、血の監視者の身体は震え、異様な膨張を始めた。
「縫糸ガ……断タレタ……ナラバ……」
血の監視者の肉体は崩れ落ち、床に散った血と砦の残骸に刻まれた眼が蠢き出す。
血と眼が一つに溶け合い、再び繋ぎ合わされていく。
やがて立ち上がったのは、もはや人の形を超えた異形。
巨大な躯体は血の甲殻に覆われ、全身に数百の眼が散りばめられていた。
その眼はそれぞれ独立して動き、ありとあらゆる方向からアルフレッドを睨みつけている。
「我ハ――血ノ海ナリ」
声は幾重にも重なり、砦の壁そのものが唸っているかのようだった。
真の眼は額から胸に移動し、巨大な紅の光を放ちながら鼓動のように脈打つ。
その度に血の波が砦を覆い尽くし、戦場全体が生き物の体内のように脈動した。
アルフレッドは剣を構えたまま後退し、息を呑んだ。
(……縫糸を断ったはずが、奴はさらに深い存在へと変じた……!)
監視者の眼が一斉に開かれ、視線の奔流が彼を貫く。
その圧力は先ほどまでとは比べ物にならず、身体どころか魂そのものが縫い止められるようだった。
「視ル……視ル……オ前ノ死、オ前ノ未来、オ前ノ全テヲ……」
血の監視者が咆哮を上げると、砦全体が震え、床や壁の隙間から赤黒い血が滝のように溢れ出した。
その奔流はただの液体ではなく、意思を持つかのように触手を伸ばし、牙を備えた獣の形へと変じていく。
「血ハ尽キヌ……供物ハ全テ、血ニ還ル」
アルフレッドは稲妻を纏いながら跳躍し、迫る血の獣を一閃。
雷鳴が轟き、獣は霧散したが、砦全体が新たな血を吐き出し、次々と怪物を生み出す。
同時に、監視者の全身を覆う数百の眼が一斉に見開かれた。
「視ル……視ル……視ル!」
視線が突き刺さるたびに身体が鉛のように重くなり、心臓が締め付けられる。
アルフレッドの動きは鈍り、幻のように救えなかった者たちの影が視界に現れては消えた。
(……また心を縫い止めようとするのか!)
アルフレッドは歯を食いしばり、蒼光を刃に凝縮させた。
「断雷剣――轟閃!!」
雷鳴の奔流が血の獣をまとめて吹き飛ばし、幾つもの眼を焼き裂いた。
だがすぐに他の眼が開き、赤い光を放つ。
「……っ、このままでは押し潰される……!」
監視者の圧迫が増す中、アルフレッドの脳裏に導師ゼムの声が甦る。
――「迷いを斬れ。罪を抱えたままでも進め。それがお前の剣だ」
(俺は……まだ立てる! 血に呑まれても、視られても、進むしかない!)
膝を突きかけた身体を叱咤し、再び立ち上がる。
その刃はもはや光ではなく雷そのものとなり、砦の血の空気を震わせた。
血の監視者が巨大な腕を広げ、砦全体の血を集めて一つの大津波を形成した。
「血ノ海ニ沈メ……!」
視線と血の奔流が重なり、戦場全体が死の渦と化す。
アルフレッドは剣を構え直し、雷鳴と共に咆哮した。
「俺は縫われない! 断ち切るまで、何度でも立つ!」
蒼光と紅の奔流が衝突し、砦全体を揺るがす決戦が幕を開けた。
血の監視者が両腕を振り上げると、砦全体の血が一斉に沸き立ち、巨大な津波となって押し寄せた。
その赤黒い奔流の中には無数の眼が蠢き、光を放ちながらアルフレッドを捕らえようとする。
「血ノ海ニ沈メ……オ前ノ魂、最後ノ一滴マデ視尽クス!」
アルフレッドは剣を振り抜き、雷鳴を奔らせたが、波の規模はあまりにも巨大だった。
蒼光は一瞬だけ血を割ったが、すぐに縫い合わされ、波はさらに膨れ上がる。
血の津波が彼を飲み込み、全身に冷たく粘ついた感触がまとわりついた。
数百の眼が肉体に張り付き、心臓を縫い止めるように圧迫してくる。
「……ぐっ……!」
視線の重みが骨を砕き、血の重圧が呼吸を奪う。
幻のように、彼の脳裏に過去の罪と敗北の光景が次々と映し出される。
(……また、ここで……終わるのか……?)
その時、導師ゼムの声が鮮烈に甦った。
「恐怖を斬れ。縫い止められるのは心だ。ならば、心ごと斬り開け」
アルフレッドは全身を締め付ける血を押しのけ、剣を胸に引き寄せた。
「……俺は縫われない! 俺の剣は、血をも、視線をも断つ!」
刃に蒼白の稲妻が凝縮し、周囲の血と眼を焼き払う。
その輝きは砦を貫く灯火となり、監視者の真の眼を照らし出した。
血の奔流に呑まれながらも、アルフレッドは己を稲妻そのものと化して突き進む。
血と視線の束が彼を縫い止めようとするが、蒼光の刃はそれらを断ち裂き、ただ一点――
監視者の「真の眼」へと狙いを定めた。
「断雷剣――終閃!!」
叫びと共に、彼の刃は紅の眼を目掛けて閃光のように突き刺さった。
蒼光に包まれたアルフレッドの剣が、紅に輝く「真の眼」へと突き刺さった。
刹那、紅と蒼の光が衝突し、砦全体が爆ぜるような轟音に包まれる。
眼は苦悶のように震え、数百の眼が一斉に絶叫を上げた。
「見ル……見ル……視ル……視エナイ……!」
監視者の巨体は血の奔流となって崩れ落ち、縫い付けられていた眼は次々と潰れ、赤黒い液体を撒き散らした。
砦の壁に刻まれていた眼の刻印も次々と裂け、血の河は逆流し、やがてただの濁流へと戻っていく。
真の眼が割れる最後の瞬間、監視者の声が大地に響いた。
「見張ル……世界ハ……未ダ……縫ワレ……」
その言葉を残し、巨影は轟音と共に四散した。
砦は崩れ、赤黒い血は乾き、ただ廃墟と化した石の残骸だけが残った。
アルフレッドは荒い息を吐きながら剣を収め、瓦礫の上に立ち尽くす。
黒い石は手の中で脈動を止め、沈黙していた。
だが彼の胸には、不穏な余韻が焼き付いていた。
(……奴は最後に言った。世界はまだ縫われると……)
沈みゆく夕日が血の河を鈍く照らし、その光景はなおも赤黒い不吉さを残していた。
アルフレッドは拳を握り、次なる闇への覚悟を固める。
「セイセス=セイセス……糸がどこまで張り巡らされていようと、俺が断ち切る」
血の監視者との戦いは終わった。
だがその断末魔に潜んだ言葉は、新たな幹部の影と、より深い闇を予感させるものであった。
血の監視者が消滅した後、砦は不気味な静寂に包まれていた。
赤黒い血はすでに乾き、眼の刻印も砕け落ちている。
しかし瓦礫の間からはなお微かな瘴気が立ち上り、完全な浄化には至っていないことを示していた。
アルフレッドは瓦礫をどけ、いくつかの遺物を見つけ出した。
血で濡れた石板:古代文字で〈東の影、西の血、南の獣、北の火〉と刻まれていた。四方に散らばる幹部を示唆しているようだった。
糸巻き状の黒鉄片:血を吸った糸の残滓。霊視術で視ると、まだ微かに縫合の気配を残している。
供物の帳簿:捕らえられた村人の名が記されており、その幾人かはすでに姿を消していた。
彼はそれを見て、次なる標的が単なる偶然の遭遇ではなく、計画的に仕組まれていることを悟った。
砦の外へ出ると、血の河はすでに濁流へと戻り、赤黒さは消えていた。
川辺で剣を収め、アルフレッドは膝をつき、深く息を吐いた。
「……終わったか。だが、まだ糸は続いている」
夜風が吹き抜け、瓦礫の上に月明かりが差し込む。
彼は焚火を起こし、静かにパンを裂きながら体力を取り戻した。
その瞳には疲労が滲んでいたが、同時に次の戦いへの覚悟も宿っていた。
黒い石は沈黙を保っていたが、霊視術で視ると石の奥底に南を指すかのような赤い光が揺らめいていた。
(次は……南か。獣、そして火……)
アルフレッドは目を閉じ、短い休息を自らに許した。
明日には再び歩みを進め、さらなる闇へと向かわなければならない。




