第六話
修道院跡を後にしたアルフレッドは、黒い石の脈動に導かれるまま東方へと歩を進めた。
道は険しい山岳地帯へと続き、切り立った崖や深い谷が旅人の行く手を阻む。
時折吹き抜ける山風は鋭く、外套を引き裂くような冷気を伴っていた。
遠くには、白雪をいただいた峰々の背後に、巨大な城郭都市の影が見え隠れしている。
それこそがルクレア・エルザナ――古来より交易と信仰の中心であり、今なお繁栄を誇る山岳都市だった。
山道には隊商の列が行き交い、荷駄を運ぶラバや馬の足音が絶えない。
彼らはアルフレッドの旅装を一瞥し、その背に負われた魔剣に畏怖の視線を向けた。
「……最近は妙な噂ばかりだ」
「都市の地下で行方不明になる者が増えている。役人は口を閉ざしたままだ」
そんな囁きが荷馬車の陰から漏れ聞こえる。
アルフレッドは耳を傾け、黒い石を確かめた。
脈動は確かに強まっている。――この都市に、セイセス=セイセスの幹部が潜んでいる。
道すがら、山肌に穿たれた洞窟の入り口に紫色の染みが残されているのを見つけた。
近寄ってみると、それは血ではなく、結晶が粉末となって壁面に擦り付けられたものだった。
縫合の儀式に使われる印。
(……やはり奴らは、この都市を狙っている)
冷たい風が吹き抜け、霧の中からルクレア・エルザナの石造りの城門が姿を現した。
山肌に築かれた要塞都市は荘厳でありながら、どこか異様な静けさを漂わせていた。
城門の前には列を成す旅人や商人たちが検問を受けていた。
「……近頃、都市内部で人影の消失が頻発している。警戒を強めているのだ」
兵士の言葉にざわめきが走る。
アルフレッドは列に加わりながら、黒い石の脈動がさらに強くなっているのを感じ取った。
(……この都市こそ、次の闇の舞台か)
やがて門が開かれ、アルフレッドは山岳都市ルクレア・エルザナへと足を踏み入れた。
石造りの門を抜けた瞬間、アルフレッドの視界に広がったのは、荘厳な山岳都市の光景だった。
急峻な斜面に沿って階層状に広がる街並み。石畳の坂道は迷路のように入り組み、上層へ行くほど貴族や大商人の館が建ち並び、下層には市場や職人の工房がひしめいていた。
広場では香辛料や絹布を売る商人の声が飛び交い、香ばしい焼き肉の匂いが漂う。
旅人や商人、聖職者に巡礼者――多様な人々が行き交い、街の賑わいは山岳の寒気さえ和らげているようだった。
しかし、繁栄の裏には不穏が潜んでいた。
路地の奥に目を凝らせば、壁に紫色の印が刻まれている。
それはセイセス=セイセスの紋章に酷似していたが、表面には上塗りされた痕跡があり、住民たちは見て見ぬふりをして通り過ぎる。
酒場では噂が飛び交っていた。
「最近、夜になると鐘の音が聞こえるんだ」
「行方不明者が増えてるのに、都市警備は口を閉ざしたままさ」
「……誰かが地下を支配してるんだろう」
アルフレッドは黒い石を取り出し、その脈動を確かめた。
石は強く震え、確かにこの都市の地下から闇の気配を示していた。
日が暮れると、上層から下層へ降りる道は薄暗い霧に覆われた。
霧の中に立つ石像の顔は削がれており、代わりに縫い糸の模様が刻まれている。
そして霧の奥、地下へ続く水路の入り口で、黒い石は今までにないほど激しく鼓動した。
(……やはり、この都市の地下に幹部がいる。だが、街全体が何かに覆われているようだ)
アルフレッドは剣の柄に手を添え、夜霧に沈む都市を見渡した。
繁栄の仮面を被ったルクレア・エルザナは、すでにセイセス=セイセスの影に蝕まれつつあった。
アルフレッドは山岳都市の下層、石畳の路地にある小さな酒場へ足を踏み入れた。
中は煙草の煙と香辛料の匂いが立ち込め、荒くれた鉱夫や商人たちで賑わっている。
だが話題は陽気なものばかりではなかった。
「……また地下で仲間が消えた」
「警備隊に言っても取り合ってくれねぇ。上層の連中は知らん顔だ」
「鐘の音を聞いたって奴がいる。夜中、誰もいないはずの水路から……」
その言葉に、黒い石がかすかに脈動した。
市場を歩けば、露店の老婆が声を潜めて語ってくる。
「最近、下層で妙な巡礼者を見かけるんだよ。黒い縫糸で飾った法衣を着てね。あれは神への祈りなんかじゃない……別のものを崇めてる目をしてたよ」
また、若い商人は怯えた顔で囁いた。
「上層の大商人の一人が、裏で影の集会を開いてるって噂です。失踪者が集会に連れて行かれて……戻ってきた者はいない」
夕刻、石畳の広場で休んでいると、一人の青年が近づいてきた。
身なりは粗末だが、瞳は怯えよりも決意を宿している。
「……あんた、よそ者だな。だが噂は聞いた。修道院の闇を斬った剣士だと」
アルフレッドが目を細めると、青年は続けた。
「俺の姉が行方不明になった。最後に見たのは、地下水路へ入る黒衣の巡礼者たちと一緒だった。もし本当に闇と戦うつもりなら……案内する。命は惜しいが、このまま見ているのは耐えられない」
黒い石は、青年の言葉を裏付けるように強く脈打った。
「……案内を頼む」
アルフレッドは静かに答えた。
青年の瞳にわずかな光が宿り、二人は夜の街を歩き出した。
向かう先は――地下水路。
山岳都市の繁栄を支える水脈の底に、闇の巣が潜んでいた。
青年の案内でアルフレッドが辿り着いたのは、都市下層の裏通りにある古びた石門だった。
かつては水路の整備用に使われていた出入口だが、今は封鎖され、鎖で固く閉ざされている。
だが鎖の表面には奇妙な紫の模様が浮かび上がり、まるで中から誰かが刻んだように脈動していた。
青年が震える声で告げた。
「姉さんが消えたのは、この先だ……」
アルフレッドは頷き、魔剣を一閃。鎖は雷光に焼かれて砕け散った。
内部は湿った石造りの回廊が続き、頭上からは絶えず水滴が落ちていた。
流れる水の匂いに混じり、血と腐臭が漂う。
壁一面に祈りの文字が刻まれていたが、その多くは逆さに書かれ、意味を歪められていた。
〈神ハ虚ロナリ 救済ハ無シ 闇ニ縫ワレヨ〉
その文を見た青年は青ざめ、震える声で呟いた。
「これ……姉さんが通っていた修道会の祈りだ……だが、これは……」
アルフレッドは言葉を遮り、前方に意識を集中させた。
黒い石が、今までにない強烈な脈動を放っていた。
進むごとに水路の壁や天井には、肉のような塊が縫い付けられていた。
それは人の皮膚や臓器を繋ぎ合わせたような異形の装飾で、紫光が脈打っている。
青年は吐き気をこらえ、必死に目を背けた。
アルフレッドは冷ややかに睨み、魔剣で塊を焼き払った。
だが焼け残った欠片が呻くように「救ワレヨ」と呟き、闇に消えていった。
水路の分岐点に差し掛かると、遠くから鐘のような音が響いてきた。
だがそれは金属ではなく、肉を叩くような湿った響きだった。
青年の顔から血の気が引き、アルフレッドは剣を構え直した。
(……ここが奴らの巣窟か)
黒い石が激しく震え、次なる幹部の存在を告げていた。
闇に覆われた都市の心臓部へ――アルフレッドは、ついに足を踏み入れようとしていた。
アルフレッドと青年がたどり着いた先は、水路が大きく広がった空洞だった。
石壁には肉のような塊が無数に縫い付けられ、紫光を脈打ちながら広間を淡く照らしている。
中央には祭壇が据えられ、その周囲を黒衣の巡礼者――セイセス=セイセスの構成員たちが取り囲んでいた。
彼らは一斉に逆さ言葉で祈りを唱え、空気は歪み、鼓膜を裂くような響きが広間を満たしていた。
青年は口を押さえ、今にも叫び出しそうに震えている。
アルフレッドは彼を背に庇い、祭壇の奥へ視線を向けた。
祭壇の上には、巨大な繭のようなものが安置されていた。
それは人の皮膚を縫い合わせたかのように膨らみ、内部で何かが蠢いている。
やがて縫合が裂け、そこから現れたのは――人とも怪物ともつかぬ異形の幹部。
全身を黒糸で覆い、両腕には幾重にも縫い込まれた人間の手が揺れ動いていた。
その顔は仮面で隠されていたが、眼窩からは紫光が漏れ、口元からは絶え間なく祈りの言葉が洩れていた。
「我が名はクラウス=ヴァルニエル。魂を紡ぎ、都市を縫い直す者なり」
クラウス=ヴァルニエルが声を発すると、周囲の黒衣の巡礼者たちが一斉に自らの胸を裂いた。
血が祭壇に注がれ、紫光の水流となって繭の残骸を染め上げる。
「この都市は祈りを失った。ならば我が手で真なる聖都へと縫い直す。生者も死者も区別はない。全てを縫い合わせ、新たなる永遠の民を生むのだ」
青年は震え、必死に抑えた声を漏らした。
「……姉さん……!」
その瞬間、祭壇の脇で操り人形のように立たされた女性の姿が目に入った。
虚ろな瞳で立つその女性――青年の姉だった。
アルフレッドの黒い石が、狂ったように激しく脈動を始めた。
クラウス=ヴァルニエルの存在は、これまでの幹部とは異なる核を持っている。
都市全体を覆うほどの力が、この地下に集約されていた。
アルフレッドは青年を振り返り、低く言った。
「……ここから先は地獄だ。ついて来るなら覚悟しろ」
青年は蒼ざめた顔で、それでも頷いた。
「……姉を、取り戻したい」
闇に沈む広間で、幹部と剣士の視線が交錯する。
次なる戦いの幕が、今まさに上がろうとしていた。
広間を覆う紫光の瘴気が渦を巻き、祭壇に立つクラウス=ヴァルニエルが仮面越しに声を放った。
「この都市は祈りを失った。富に溺れ、権力に酔い、神を忘れた。……だが我が糸は、その綻びを縫い直す。生者も死者も、老いも若きも……すべてを縫い合わせ、永遠の聖都を築くのだ」
その言葉に応じるように、周囲の黒衣の巡礼者たちが口々に逆さ祈祷を唱え、血を吐くように喉を裂いた声が広間に響いた。
アルフレッドは一歩、祭壇へと踏み出す。
その瞳は冷え切り、言葉は刃よりも鋭く響いた。
「永遠だと? お前が縫っているのは命ではない。魂を奪い、祈りをねじ曲げ、死をすらも道具にした――ただの屍の操り人形だ」
彼は魔剣を抜き放ち、蒼光が瘴気を裂いた。
「都市を縫うだと? お前が縫うものは、この大地に新たな傷を刻むだけだ」
クラウス=ヴァルニエルは仮面を外した。
その下から現れたのは――縫い合わされた幾十もの顔。
都市で行方不明になった者たちの面影が、目も口も糸で結ばれ、無理やり一つの顔面を構成していた。
「彼らは選ばれし供物。忘れられ、朽ち果てるはずの命を、私は永遠へと縫い直した。恐怖するな、剣士よ。いずれお前も、この顔の一部となろう」
無数の口が一斉に動き、祈りとも呪詛ともつかぬ声が重なり合った。
「闇ニ縫ワレヨ……永遠ニ祈レ……」
アルフレッドは剣を構え、蒼光を強めた。
「……俺は縫われない。恐怖も迷いも、この剣で斬り払う。俺の心は俺自身のものだ――お前の糸に繋がれることはない!」
雷鳴のような響きが広間を震わせ、紫光と蒼光がぶつかり合った。
次の瞬間、地獄のような戦場が幕を開けようとしていた。
クラウス=ヴァルニエルは祭壇に立ち、糸の束を指先から解き放った。
縫糸は広間に散らばる黒衣の巡礼者たちの体に絡みつき、まるで操り人形のように動きを統一させる。
彼らの口からは逆さ祈祷が零れ、その声が響くたびに空気が震え、血の臭いが濃くなっていった。
「彼らは意思を持たぬ。祈りに縫い込まれた駒――私の手足だ」
幹部の声が広間に響く。
巡礼者たちの瞳は虚ろに光り、仮面の下からは縫い糸が頬を這い、肉を繋ぎ止めていた。
十数人の巡礼者が一斉にアルフレッドへと向かってくる。
剣を振るう者、短杖から紫光の炎を放つ者、自らの喉を裂き瘴気を撒き散らす者――。
その一つ一つが単なる攻撃ではなく、クラウスの糸で組み合わされ、連携した猛攻と化していた。
「都市の民を、己の糸に……!」
アルフレッドは歯を食いしばり、魔剣を抜き放つ。
蒼光が広間を照らし、闇に抗う孤独な閃光となった。
クラウス=ヴァルニエルは腕を組み、余裕ある声で告げる。
「さあ、斬ってみせよ。斬れば斬るほど、この都市の血が流れる。そして祈りは深まり、我が核はさらに肥大する」
巡礼者たちが次々と突撃し、広間は蒼光と紫光が交錯する地獄と化す。
アルフレッドは必死に剣を振るい、だが一人斬るごとに、背後の祭壇に紫光が集まっていくのを目にした。
(……巡礼者を斬ることすら、奴の力を肥やす……!)
雷鳴のような剣閃が巡礼者の群れを裂き、瘴気が爆ぜる。
その中でクラウスの仮面の下から、無数の声が重なり笑った。
「抗え、剣士よ。その抗いさえ、我が祈りに縫い込んでやろう――!」
闇と狂気の饗宴が、ついに幕を開けた。
黒衣の巡礼者たちが一斉に駆け出した。
その動きは人間らしいものではなく、糸に引かれた操り人形のようにぎこちなく、それでいて速い。
剣を掲げる者、鉄槌を振り下ろす者、そして素手のまま喉を裂き、瘴気を吐き出す者。
広間は瞬く間に地獄絵図と化した。
アルフレッドは前へ踏み込み、魔剣を閃かせる。
「はああっ!」
蒼光の剣閃が直線を走り、三人の巡礼者を一度に両断。
だが斬り伏せられた体からは紫光の糸が迸り、倒れたまま別の者の肉体と縫い合わされ、さらに異形へと変じて立ち上がった。
背後に控えた巡礼者たちが、一斉に逆さ祈祷を唱える。
声が重なり、広間全体が脈動するように震えた。
その響きはアルフレッドの頭蓋を揺さぶり、目から血を流させる。
「……ぐっ!」
意識が一瞬霞む中、槍を持った巡礼者が突進。
アルフレッドは反射で身を翻し、魔剣で槍を叩き折ると同時に、雷撃を纏わせて敵を吹き飛ばした。
だが吹き飛ばされた巡礼者は壁に叩きつけられながらも、四肢を逆に折り曲げ、蜘蛛のように這い寄ってくる。
最前列の数人が突然自らの胸を掻き裂き、血を祭壇に捧げた。
その血は紫光に変じ、糸となってクラウス=ヴァルニエルの核に吸い込まれていく。
幹部の体が大きく震え、背後の縫合された顔々が歓喜の叫びを上げた。
「……! 巡礼者を斬ることすら、奴の糧か!」
アルフレッドは歯を食いしばり、戦況を見極めた。
群がる巡礼者たちを切り伏せ、雷撃で薙ぎ払う。
しかし敵は死を恐れず、むしろ己の命を供物にして幹部を強化していく。
倒せば倒すほど、背後のクラウスが力を増していく悪循環。
青年が背後で震えながら叫んだ。
「姉さんが……あの中に……!」
その声にアルフレッドの心臓が強く打つ。
(迷っている暇はない……だが巡礼者をただ斬るだけでは、状況を悪化させる……!)
紫光と蒼光が交錯し、血と瘴気が渦巻く戦場の中、アルフレッドの判断が試されていた。
黒衣の巡礼者たちは次々と群がり、倒してもなお瘴気と血を捧げ、クラウス=ヴァルニエルの力を高めていった。
広間は祈祷の逆唱と絶叫に満ち、耳を塞いでも意味をなさない。
アルフレッドは蒼光の剣を振るい、雷鳴で巡礼者を薙ぎ払うが――敵を斬れば斬るほど、背後の幹部が肥大していく悪循環だった。
(……このまま数を減らしても埒が明かん。核を――核を砕くしかない!)
アルフレッドは霊視術を発動した。
視界の中で、巡礼者たちを繋ぐ縫糸の全てが、一点へと集まっているのが見える。
クラウスの胸奥に脈打つ、黒紫の結晶核――そこから力が巡礼者全員に流れ込んでいた。
「やはり……全ての糸は、そこに通じている!」
しかし巡礼者たちはただの駒ではない。
青年の姉をはじめ、多くは都市の失踪者たちだった。
彼らを救わずして幹部を討てば、命ごと核に縫い込まれ消えてしまうだろう。
青年が必死に叫ぶ。
「姉を……姉を殺さないでくれ! でも、でもあの怪物を止めないと……!」
アルフレッドは歯を食いしばり、決断を迫られる。
「救う……方法は一つだけだ」
アルフレッドは魔剣を振り上げ、全身に蒼光を集中させた。
「幹部の核を断ち、その糸を絶つ。そうすれば巡礼者は解放される……はずだ!」
巡礼者の群れを斬り抜け、広間の奥へと突進する。
雷光を纏った剣閃が紫光の糸を切り裂き、道を開いた。
クラウス=ヴァルニエルが仮面越しに嗤う。
「愚か者……糸を断つことは、祈りそのものを否定することだ! お前の剣ごときで、この核を斬れるか!」
次の瞬間、広間全体が震え、幹部自らが動き出す。
クラウス=ヴァルニエルは祭壇の上からゆっくりと歩み出た。
その歩みと共に、床に刻まれた縫糸の模様が紫光を放ち、広間全体が不気味に震える。
仮面の奥から響く声は、百人が同時に語るかのように重なり合っていた。
「核を狙うか……ならば、この祈りの総体を斬り伏せてみせよ!」
幹部の腕が振り上げられると同時に、祭壇から伸びる縫糸が嵐のように放たれた。
それはただの糸ではなく、刃のように鋭く、蛇のようにしなやかにうねり、アルフレッドの四肢を絡め取ろうとする。
アルフレッドは疾風のごとき反射で剣を振るい、雷光を纏った斬撃で次々に糸を切り裂く。
「断雷剣――裂閃!」
蒼光の軌跡が幾筋も走り、糸は焼き切れた。
だが切断面からは新たな糸が生え、倍の数で襲い掛かる。
クラウスの胸に埋め込まれた結晶核が脈打ち、背後に縫い合わされた顔々が呻き声を上げる。
「救エ……祈レ……縫ワレヨ……!」
その叫びが精神を蝕み、アルフレッドの視界が歪む。
壁や天井に縫い付けられた顔が動き出し、無数の眼が一斉に彼を睨んだ。
(……ここで怯めば、心まで縫われる!)
アルフレッドは歯を食いしばり、瞳に蒼光を宿す。
「俺は縫われない――俺の心は俺の剣だ!」
蒼光の剣が閃き、縫糸の嵐を打ち払いながら前へと突進する。
雷鳴が轟き、広間を蒼白に照らした。
「核を――砕く!」
クラウス=ヴァルニエルは腕を広げ、結晶核を守るように全身を縫糸で覆い尽くす。
「来い、剣士よ! 我が祈りと共に沈め!」
蒼光と紫光が正面から激突し、修道院跡を揺るがすほどの衝撃が走った。
クラウス=ヴァルニエルは胸の結晶核を守るように両腕を広げ、全身から無数の縫糸を放った。
糸は瞬く間に幾重もの層を織りなし、鎧のように彼の肉体を覆っていく。
それは布でも鉄でもなく、魂の断片と血肉を縫い合わせた生きた防壁。
壁の中から無数の口が呻き声を上げ、アルフレッドに「近寄るな」と叫び続けた。
「これが私の信仰の鎧だ……斬ることはできぬ!」
アルフレッドは一気に距離を詰め、雷光を纏った魔剣を振り下ろす。
「断雷剣――轟閃!」
稲妻が走り、縫糸の鎧を焼き裂いた。
だが、切れた糸はすぐに別の肉片を繋ぎ合わせて再生し、傷口を覆う。
(……斬撃では埒が明かん!)
糸の壁はまるで生き物のように動き、剣の軌跡を予知したかのように絡みついて刃を受け止めた。
クラウスが低く呟くと、鎧の一部が槍のように伸び、アルフレッドの胸を狙って突き出される。
アルフレッドは寸前で身を捻り、剣で逸らすが、その衝撃で石床が砕け、背中にまで衝撃が走った。
さらに鎧から伸びた無数の腕のような縫糸が四方から襲いかかり、彼を取り囲む。
「祈りは永遠……斬っても斬っても縫い直される……!」
アルフレッドは息を荒げながらも剣を強く握りしめた。
「ならば……祈りそのものを断ち切る!」
霊視術で縫糸の流れを視ると、核から発せられる光が鎧全体を循環させているのが見えた。
核を砕けば、鎧もまた崩れる――だがその一撃を放つためには、束の間でも鎧を突破する必要がある。
雷光が刃に集まり、蒼光はかつてないほど強く燃え上がった。
次なる一撃は、彼のすべてを賭けた突破の刃となるだろう。
縫糸の鎧はまるで生き物のように脈動し、アルフレッドの全ての攻撃を受け止め、再生し続けていた。
斬っても斬っても、糸は血肉を繋ぎ直し、呻き声と共に壁のように立ち塞がる。
「剣士よ、祈りは永遠……お前の一撃で切れるものか!」
クラウス=ヴァルニエルの声は重なり合い、広間全体を震わせた。
追い詰められながらも、アルフレッドの脳裏に導師ゼムの言葉が甦る。
「恐怖を斬れ。迷いを斬れ。己の心が澄み渡れば、雷は必ず応える」
胸の奥で、熱が爆ぜるように膨れ上がった。
(……俺は迷わない。この剣は俺の心そのものだ!)
アルフレッドは魔剣を両手で握りしめ、全身に魔力を叩き込んだ。
蒼光が爆発し、雷鳴が轟く。
その姿はもはや人の域を超え、剣と体が一体となった稲妻の化身。
「断雷剣――絶閃!!」
刃から放たれた雷撃が縫糸の鎧を貫き、重ねられた顔々の叫びを一斉に掻き消した。
紫光と蒼光がぶつかり合い、轟音と共に鎧が裂ける。
縫糸の壁に大きな裂け目が走り、その奥に黒紫の結晶核が露わになった。
核は生き物のように鼓動し、紫光を吐きながら必死に縫糸を再生させようとする。
「そこだ……!」
アルフレッドは一瞬の隙を逃さず、裂け目へと踏み込み、魔剣を振り上げた。
「終わらせる――!」
雷光が刃を奔り、蒼白の閃光となって結晶核へと叩きつけられる。
衝撃が広間を揺らし、紫光と蒼光が炸裂して交錯した。
幹部クラウス=ヴァルニエルの絶叫が、縫い合わされた百の声と共に轟いた。
アルフレッドの一撃を受けた結晶核は、激しい震動と共に大きな亀裂を走らせた。
紫光が噴き出し、核を縫い止めていた縫糸が断ち切られ、広間にばら撒かれる。
幾重にも重なった呻き声が悲鳴へと変わり、壁に貼り付けられた顔々が次々と崩れ落ちていった。
クラウス=ヴァルニエルは膝をつき、仮面の奥から滲む無数の瞳を剥き出しにした。
「……斬ったか……核を……」
その声は百の声が重なり、やがてひとつに収束していった。
「だが……無駄だ……」
口から血ではなく、黒紫の光が吐き出される。
「私は縫い師にすぎぬ……この都市を縫い直すための一本の糸にすぎぬ……」
結晶核が崩れ落ちる瞬間、クラウスの全身を縫っていた糸が暴走し、肉を引き裂きながら広間に散乱した。
その苦痛の中で、彼はなおも狂気に満ちた声を叫ぶ。
「糸は途切れぬ! 我らの祈りは幾重にも張り巡らされ、世界を覆う! セイセス=セイセスは、都市ひとつを失おうとも……次の聖都を縫い直す! お前は……ただの断ち切る者。いずれその剣も……我らの布の中に縫い込まれるのだぁぁぁ!!」
その絶叫を最後に、結晶核は粉々に砕け散り、紫光は闇の霧となって消え去った。
残されたのは瓦礫と、意識を取り戻し崩れ落ちる巡礼者たち。
青年は姉の名を呼びながら駆け寄り、震える声で涙を流す。
アルフレッドは魔剣を収め、静かに広間を見渡した。
(……またひとつ、幹部を斬った。だが奴らの言葉が正しいなら――闇はまだ、各地に縫い込まれている)
崩壊した結晶核の影響で、黒衣の巡礼者たちは次々と意識を取り戻し、その場に崩れ落ちた。
虚ろだった瞳から光が戻り、彼らは自分が何をさせられていたかを理解する間もなく、涙や嗚咽を漏らした。
「……夢を見ていた……いや、夢じゃなかった……!」
「縫われていた……身体も、心も……!」
アルフレッドは剣を収め、人々が失われた時を取り戻すように泣き崩れる様を静かに見守った。
青年は姉のもとに駆け寄り、彼女の肩を抱きしめた。
姉はまだ衰弱していたが、かすかに弟の名を呼び、震える手でその頬に触れた。
「……戻った……本当に……」
青年は嗚咽をこらえきれず、涙を流しながら頷いた。
「もう大丈夫だ……お前は俺が守る……!」
アルフレッドは二人の姿を見て、わずかに息を吐いた。
(守られるべきものを、少なくともひとつは取り戻せた……)
地上に戻ると、ルクレア・エルザナの都市は混乱に包まれていた。
地下の崩落が響き、下層の人々が逃げ惑う。
「鐘が消えたぞ!」「祈祷の声が止んだ!」と叫ぶ声が飛び交い、誰もが恐怖と安堵の狭間で揺れていた。
都市警備隊も駆けつけたが、何が起こったのか把握できず、ただ怯えた目でアルフレッドを見つめるばかりだった。
彼は何も語らず、人々の波を背にして歩き出す。
黒い石を取り出すと、その脈動は弱まりつつも、まだ微かに鼓動を刻んでいた。
セイセス=セイセスの糸は、ここで途切れたわけではない。
クラウス=ヴァルニエルが最後に残した狂気の言葉が、耳にこびりついて離れなかった。
――「次の聖都を縫い直す……」
アルフレッドは夜空を仰ぎ、冷たい山風を受けた。
休息を得た都市の人々とは対照的に、彼の旅はさらに深い闇へと続いていくのだった。
戦いの翌晩、アルフレッドはルクレア・エルザナ下層の小さな宿屋に身を落ち着けていた。
都市は混乱を徐々に収めつつあり、人々は「鐘の呪いが消えた」と安堵の声を漏らす。
だがその安堵の裏で、消えた家族を探す者、祈祷に巻き込まれ心を病んだ者の声も絶えなかった。
アルフレッドは窓辺に腰を下ろし、魔剣を膝に置いて黒い石を取り出す。
淡い脈動は止んではいない。次の闇を探すように、鼓動を刻み続けていた。
戦闘で得られた断片を、アルフレッドは頭の中で組み立てる。
クラウス=ヴァルニエルの言葉。
「我は一本の糸にすぎぬ。次の聖都を縫い直す……」
セイセス=セイセスは都市単位で儀式を行い、複数の聖都を影で築こうとしている。
巡礼者の存在。
都市の失踪者がセイセス=セイセスに組み込まれ黒衣の巡礼者として再利用されていた。
幹部が各地で人々を拉致・洗脳し、儀式の駒とする仕組みが確立されている。
黒い石の反応。
依然として弱く脈動している。
この都市の闇を断っても、さらに東方か、あるいは大陸南部に別の核が存在する。
宿を訪れた青年とその姉が、簡素な食料を持って現れた。
姉はまだ衰弱していたが、かすかに笑みを浮かべていた。
「あなたが剣を振るってくれなければ……私たちは永遠に縫われていたでしょう」
青年は頭を下げる。
「俺たち兄妹にできることは少ない。でも、街の人々から噂を集めてみます。あの組織の痕跡がどこへ向かっているか――きっと手掛かりになるはずです」
アルフレッドは短く頷き、視線を黒い石へ落とした。
「……俺の旅は続く。だが、その情報は必ず役に立つ」
翌朝、山岳都市に薄い霧が漂う中、アルフレッドは出立の準備を整えた。
黒い石は東方を指し示すように微かに震えている。
(次なる糸を追う……セイセス=セイセスを根絶やしにするまで、この剣を収めることはない)
人々が再び祈りを取り戻しつつある都市を背に、アルフレッドは静かに歩き出した。




