第四話
坑道から戻ったアルフレッドは、再び街へ降りた。
山麓の町グラーヴェンは、鉱山で働く人々の拠点だったが、今では人口も減り、活気は乏しい。
だが酒場にはなお噂話が集まり、人々の恐怖や不安が形を変えて流れていた。
「ヴェリアス……? ああ、聞いたことがある」
老商人が低く呟いた。
「北の戦乱で名を上げた魔導戦士さ。人の軍を指揮するより、死者や魔鉱を自在に操るのが得意だと聞く。今はセイセス=セイセスの幹部のひとりだ」
別の鉱夫は酒に酔いながら、もっと不気味な話を口にした。
「奴は魂を縫うって噂だ。死者をつなぎ合わせ、新しい怪物を作るんだと……」
断片的な証言ではあったが、アルフレッドの手にした羊皮紙の記録とも符合していた。
宿へ戻ると、アルフレッドは坑道から持ち帰った羊皮紙を広げた。
術式の断片や印章は確かにセイセス=セイセスのもの。
そして署名の下に小さく刻まれた符号が、ある港町の名と一致することに気づいた。
フェルゼン港――鉱山から北東に半日の距離にある交易拠点。
ヴェリアスが次に現れる可能性が高い場所だった。
黒い石を掌に載せると、脈動は再び強くなった。
今度ははっきりと東方、フェルゼン港の方向を指し示している。
その鼓動はまるで「追え」と命じているかのようだった。
「……よかろう。次はお前を斬る」
アルフレッドは剣を携え、港町フェルゼンを目指すことを決めた。
ヴェリアス――死者と魔鉱を縫い合わせる闇の工匠。
次なる戦いは、より深い恐怖と対峙することになるだろう。
グラーヴェンの宿を後にしたアルフレッドは、東へと馬を進めた。
街道は比較的整備されているが、人通りは少なく、途中で出会うのは行商人か巡礼者くらいだった。
皆どこか落ち着きがなく、闇に脅えるような眼差しをしていた。
「フェルゼンへ行くのか? ……なら気をつけろ」
行商人の一人が小声で言う。
「最近あの港には、正体の分からない荷が夜中に運び込まれてる。役人は黙認してるが、あれは普通の商売じゃない」
途中の村の旅籠で休んだ夜、炉端で老人が語った。
「港に着いた友人から手紙が来たがな、どうやら夜ごとに霧が濃くなるらしい。そして、その霧の中から歌声が響くそうだ。若い者はその声に惹かれ、朝には姿を消す……」
酔客たちは「馬鹿げてる」と笑い飛ばしたが、アルフレッドは眉をひそめた。
(歌声……ヴェリアスの術か、それとも手下の仕業か)
港へ近づくにつれ、空気は湿り、冷たい潮風が肌を刺した。
黒い石を取り出すと、紫光の脈動は以前よりも強く、激しく鼓動している。
まるで「もう近い」と告げているかのようだった。
その時、街道脇の森から腐臭が漂ってきた。
警戒して覗き込むと、木の根元に馬車の残骸と死体が横たわっていた。
商人らしき者たちの亡骸は干からび、胸に奇妙な刻印が焼き付けられている。
それは坑道の祭壇で見た紋様と同じものだった。
(ヴェリアス……既に港へ根を伸ばしているのか)
やがて夜、遠くにフェルゼン港の灯が見えてきた。
普段なら交易で賑わうはずの港町だが、今はどこか沈黙に覆われている。
灯台の光は霧に呑まれ、波止場の明かりだけが点々と揺れていた。
アルフレッドは街道を進みながら、心の奥で確信していた。
――ヴェリアスはこの港にいる。
港町フェルゼンに足を踏み入れた瞬間、アルフレッドは違和感を覚えた。
昼間だというのに市場は閑散としており、行き交う人々の顔には笑みがない。
漁師たちは視線を合わせるのを避け、口を開こうとしない。
まるで、誰かに監視されているかのようだった。
港の一角にある古びた酒場に入ると、外とは違い、低いざわめきが満ちていた。
アルフレッドが麦酒を頼んで腰を下ろすと、隣の席の船乗りたちが小声で囁いていた。
「……夜中に倉庫から歌声が聞こえるんだ。甘くて、妙に心を揺さぶる声さ」
「実際、あれを聞いた仲間は次の日には姿を消した。役人に訴えても、取り合ってくれねぇ」
「むしろ役人の方が、歌に惹かれて……」
そこまで言ったところで船乗りは言葉を止め、怯えたように酒を煽った。
アルフレッドは港の倉庫街を歩いた。
波止場に並ぶ倉庫は古びているが、一部の建物だけが新しい鎖と錠で固く閉ざされている。
その周囲には黒衣の見張りが立ち、通りすがる人々に無言の圧力をかけていた。
黒い石を取り出すと、紫光はひときわ強く脈打ち、倉庫の方角を指し示した。
(やはり……ヴェリアスはここに)
倉庫街を離れ、港の裏路地を通っていると、小さな声が彼を呼び止めた。
「……あんた、旅の人だろ?」
顔を煤で汚した少年が、怯えながらも必死に言葉を紡いだ。
「夜になると、あの倉庫から光が漏れるんだ。紫の光だよ……父さんは止めたけど、僕、見ちゃったんだ。中には、人じゃない何かが並んでた」
少年はそれ以上話すと震え上がり、路地の奥へと駆けて行った。
アルフレッドは外套の下で魔剣の柄を握り、冷たい潮風を受けながら思った。
(夜が来れば、姿を現すか……ヴェリアス)
港の街灯が灯り始める頃、空には厚い霧が漂い始めていた。
歌声と紫光が導く先、倉庫街での決戦の時は近い。
夜が更けると、フェルゼン港は静まり返った。
普段なら船乗りたちの歌や酒場のざわめきが聞こえるはずだが、この夜ばかりは潮騒さえ沈んでいる。
港一帯を厚い霧が覆い、灯台の光も霞んで揺らめいていた。
アルフレッドは黒衣をまとい、倉庫街の陰に身を潜めた。
黒い石を取り出すと、紫光はこれまでにないほど激しく脈動している。
(……確かにここだ)
やがて霧の中から、低く響く旋律が流れ出した。
それは人の声に似ていながら、どこか金属的で、耳に触れるたびに心を揺さぶる。
アルフレッドは咄嗟に耳を塞ぎ、霊視術を展開して耐えた。
(精神を侵す魔声……これが人を倉庫へ誘うのか)
霧の中をよく見ると、港の若者たちが夢遊病者のように歩き出し、倉庫の扉の前に並び始めていた。
その瞳は焦点を失い、歌声に操られていることは明らかだった。
倉庫の扉が軋みを上げて開いた。
中から紫の光が漏れ、そこには儀式陣が輝いていた。
陣の中心に立つのは、黒衣をまとった影。
顔はフードで覆われているが、圧倒的な瘴気が空間を支配していた。
「……来たな」
その声は、坑道で聞いた女の声とは異なる。低く、重く、まるで岩を砕くような響き。
アルフレッドは魔剣を構えた。
「ヴェリアス……」
影はゆっくりと手を掲げた。
すると、陣の光が激しく脈動し、倉庫の床から次々と異形がせり上がってくる。
それは死んだ船乗りや商人の肉体を繋ぎ合わせた、歪な縫い人形。
関節は逆に折れ曲がり、口からは紫の瘴気を吐き出していた。
「……私の工房へ足を踏み入れるとは、大した度胸だな」
影が低く呟く。
「だが貴様も、この歌に溶けて新たな素材となるがいい」
アルフレッドは一歩踏み込み、魔力を剣へと込めた。
「残念だが――俺は斬る側だ」
その瞬間、縫い人形たちが一斉に襲いかかり、倉庫は闘技場と化した。
倉庫の床から這い出てきたのは十を超える縫い人形。
死者の四肢を無理やり繋ぎ合わせたその姿は歪で、歩くたびに骨がきしみ、肉が裂ける音が響いた。
彼らの瞳は空洞でありながら、紫光がぎらつき、操る者への忠誠を示していた。
「さあ、我が素材たちよ……その剣を試せ」
ヴェリアスの声が響いた瞬間、軍団は一斉に飛びかかった。
アルフレッドは迷わず前へ。
超常の身体能力で床を蹴り、縫い人形の群れに突入する。
魔剣が蒼光を放ち、一閃。
最前列の二体が同時に両断され、肉片が床に散った。
だが残りは止まらない。
背後から四肢が伸び、掴みかかろうとする。
アルフレッドは身を翻し、壁を蹴って宙に舞うと――。
「雷槍撃!」
稲光の槍が放たれ、縫い人形を三体まとめて貫いた。
焼け焦げた肉と骨が崩れ落ち、焦臭さが倉庫を満たす。
しかし、それでも数は減らない。
残った縫い人形たちは連携するかのように取り囲み、四方から襲いかかる。
その手には錆びた鉤爪や折れた刃が握られ、獣のような速度で突き立ててきた。
アルフレッドは魔剣を水平に振り抜き、火花の連撃で受け流す。
だが一体が背後を取った瞬間――その口が異様に裂け、霧のような瘴気を吐き出した。
「……っ!」
肺を蝕もうとする瘴気を吸い込む寸前、アルフレッドは咄嗟に魔力を練り上げる。
「魔防結界・月映!」
蒼光の陣が展開し、瘴気を押し返すと同時に視界に全ての動きを映し出す。
光の輪に映る敵の動きを見切り、アルフレッドは踏み込んだ。
蒼光の刃が縫い人形の首を次々と刎ね飛ばし、残る者たちを一体ずつ屠っていく。
肉と骨の断片が床を埋め尽くし、倉庫は惨劇の舞台と化した。
最後の一体を斬り捨てた時、紫の瘴気は霧のように散り、静寂が戻った。
だが、その奥でヴェリアスの影がゆっくりと立ち上がる。
「……やはり、ただの剣士ではないな」
低い声が倉庫を震わせる。
「ならば――私自身が試そう」
影のフードが上がり、そこに現れたのは縫い合わされた仮面の顔。
幹部ヴェリアスが、ついに姿を現した。
縫い人形の残骸が散乱する倉庫の中央。
紫光の陣の中心に立つヴェリアスは、仮面の下から低い笑い声を漏らした。
「見事だ。私の素材どもをここまで容易く屠るとは……お前の肉体は、ぜひとも縫い合わせる価値がある」
アルフレッドは魔剣を構えたまま、冷たい声で返す。
「縫い合わせる? 死者を弄び、怪物に変えることを誇りに思うのか」
ヴェリアスの瞳孔の奥が紫に輝き、声が重く響く。
「誇りだと? 愚かだな。これは進化だ。弱き人の器を超え、新たな形に昇華させる……私こそ創造主だ」
アルフレッドは一歩踏み込み、霊視術で彼の本質を見据えた。
「創造主を名乗るには――お前はあまりにも歪みすぎている」
ヴェリアスは仮面を歪め、笑い声を響かせる。
「ならばその剣で証明してみろ。お前が斬れるのは死体だけか、それとも……」
彼の背後で魔鉱の結晶が共鳴し、倉庫の壁を震わせた。
「創造主たる私自身か!」
紫光が爆ぜ、倉庫全体を揺らす。
次なる戦いの幕が、いよいよ開かれようとしていた。
紫光が弾け、ヴェリアスの周囲に瘴気の奔流が広がった。
アルフレッドは魔剣を正眼に構え、疾風のように踏み込む。
蒼光の一閃が仮面の幹部を狙うが、ヴェリアスは掌をかざして受け止める。
「――縫合障壁」
紫の縫糸が空間を走り、刃を阻む。
火花が散り、倉庫の床が震えた。
ヴェリアスは大地に掌を叩きつけ、死者の断片を再び呼び起こす。
床に転がっていた肉片と骨が縫糸で結ばれ、即席の怪物が立ち上がった。
「死は終わりではない――私がいる限りな」
アルフレッドは即座に跳躍、頭上から雷撃を叩き込む。
「雷閃破!」
蒼白の雷が倉庫を駆け、縫い合わされた怪物を灰に変えた。
しかし、その隙を狙ってヴェリアスが迫る。
彼の腕から無数の縫糸が走り、アルフレッドの四肢を絡め取ろうとした。
「甘いな!」
アルフレッドは常人を超えた膂力で糸を引きちぎり、前傾姿勢から一気に突進する。
魔剣に魔力を注ぎ、蒼光を極限まで高めた。
「断雷剣――裂閃!」
刃がヴェリアスの仮面をかすめ、紫火花が飛び散る。
幹部は後退しながらも笑い声をあげた。
「ほう……私を傷つけたか。やはりお前は素材として極上だ」
ヴェリアスは口元から低い呪歌を紡ぎ出す。
それは坑道で聞いた歌声と同じ、精神を侵す旋律。
アルフレッドの視界が揺らぎ、倉庫の光景が歪んでいく。
四肢が重く、心臓が凍るような感覚が襲った。
(……これは……精神支配の術か!)
必死に意識を繋ぎ止め、アルフレッドは霊視術を発動する。
「霊視術・破幻眼!」
蒼光が瞳に宿り、偽りの景色を焼き払った。
現実が戻った瞬間、アルフレッドは渾身の一撃を放つ。
魔剣が稲妻のように閃き、ヴェリアスの障壁を裂きながら肩口を抉った。
紫の血が飛び散り、幹部は膝をつく――が、その瞳はなおも狂気の光を失っていなかった。
「……まだだ。私は滅びぬ。この体が崩れようとも……」
彼の周囲に、再び縫糸が走り、今度は自らの肉体さえ縫い合わせて再生し始める。
「不死の縫合」――ヴェリアス本領が牙を剥いたのだった。
肩を斬り裂かれ、紫の血を滴らせたはずのヴェリアスは――崩れ落ちる代わりに笑った。
「フフフ……ハハハハ!」
彼の体を走る縫糸がぎちぎちと鳴り、裂けた肉を無理やり縫い合わせていく。
骨が音を立てて組み直され、肉がねじれ、傷口は瞬く間に閉じた。
「痛みさえ……新たな悦びだ! 死も、敗北も、私には存在しない!」
彼の声は狂気に濡れ、倉庫の空気そのものが震えていた。
ヴェリアスはさらに自らの肉体を切り裂き、その断片を縫合して異形の腕を作り出した。
一本、また一本と増えていく腕は、それぞれが異なる死者のもの。
指先からは鋭い爪が伸び、刃物のように光を反射していた。
「見ろ! これぞ進化だ! 弱き肉体を超え、幾百もの命をひとつに統べる!」
その姿は人の形を保ちながらも、既に人であることをやめていた。
アルフレッドは魔剣を構え、冷徹に呟いた。
「進化ではない……それは、ただの狂気の継ぎ接ぎだ」
幾本もの腕が同時に振り下ろされ、倉庫の柱を粉砕する。
瓦礫が崩れ落ち、空気が埃で濁った。
アルフレッドは超常の身体能力でその隙間をすり抜け、魔剣で反撃する。
「断雷剣――滅閃!」
蒼光の刃が幾本もの腕を斬り飛ばし、紫の血飛沫が降り注いだ。
だが斬り落とされた腕は地に落ちる前に縫糸で引き戻され、再び彼の体に縫い合わされてゆく。
「無駄だ! お前の刃は私を削ぐことはできぬ!」
ヴェリアスの狂笑が倉庫を満たす。
彼は戦いのさなか、なおも歌声を響かせた。
甘美で、耳を侵す旋律。
瓦礫の陰に隠れていた港の若者たちが再び操られ、恍惚の笑みを浮かべて倉庫へ歩み出す。
「素材は尽きぬ! 生者も死者も、私の手で縫い合わされる!」
アルフレッドはその光景に、怒りを込めて剣を振り上げた。
「その妄執ごと――断ち斬る!」
蒼光と紫光、二つの狂気が倉庫を満たし、戦いはますます凄烈さを増していった。
アルフレッドに斬られた箇所から、ヴェリアスの体はさらに崩れ落ちていった。
だが彼は苦痛の呻きではなく、恍惚とした笑みを浮かべる。
「もっと……もっとだ。人の器を超えねば、真の創造には届かぬ!」
縫糸が全身を走り、肉を裂き、骨を砕きながらも、再び繋ぎ直す。
その度に形は歪み、人であった面影は消え失せていった。
腕は八本に増え、背からは異形の肋骨が翼のように突き出し、口は耳まで裂けて幾つもの声を重ねて笑う。
「人は皆、弱き素材! 死も、苦痛も、私が縫い合わせ、新たな存在へと昇華させる!」
ヴェリアスの声は低音と高音が同時に響き、聞く者の脳を揺さぶった。
その狂気に当てられ、倉庫の壁に潜んでいた人々は恐怖のあまり逃げ出せず、ただ膝をついて震えるだけだった。
アルフレッドは剣を構え直し、眼差しを鋭くした。
「……貴様は創造主などではない。人の尊厳を食らう怪物だ」
ヴェリアスは仮面を砕き、露わとなった顔は縫い合わされた幾つもの顔が重なり合ったものだった。
眼孔からは瘴気が噴き出し、笑みは絶望そのものを嘲笑うかのように歪む。
次の瞬間、ヴェリアスは地を蹴り、異形の腕を一斉に振り下ろした。
倉庫の床が砕け、支柱が折れ、建物全体が軋む。
攻撃というより、暴走する肉体そのものが災厄となっていた。
アルフレッドは超常の身体能力でその奔流をすり抜ける。
だが空気は瘴気で満ち、呼吸をするだけで肺が焼けるような感覚が広がった。
「……なるほど。これが貴様の人であることを捨てた代償か」
ヴェリアスはなおも狂気の声を上げた。
「代償ではない――祝福だ! 見よ、私は死を超えた!!」
ヴェリアスの暴走する異形の肉体が床を叩き割り、支柱を粉砕した。
倉庫全体が大きく揺れ、壁に走った亀裂から紫光と瘴気が溢れ出す。
「ハハハハ! 見よ、この身が都市すら呑み込むさまを!」
ヴェリアスの狂笑とともに、天井が崩れ落ち、梁が火花を散らして落下する。
港の人々が外から悲鳴を上げ、混乱が広がった。
霧に包まれた夜の街に、紫光の閃光と轟音が響き渡り、逃げ惑う足音が交錯する。
恍惚の歌に操られた若者たちが倉庫の奥へと吸い込まれていく。
倒壊の瓦礫が迫る中、彼らは逃げることすらせず、紫光に手を伸ばしていた。
「くそっ……!」
アルフレッドは魔剣を振るい、瓦礫を斬り払って人々の通路を切り開く。
だが救い出せたのはほんの一握り。残る者はヴェリアスの縫糸に捕らえられ、怪物の素材として飲み込まれていった。
倉庫の外壁が崩れ、波止場へと瓦礫が流れ出した。
紫光の瘴気は港全体へと広がり、海面すら不気味に泡立っている。
漁船が次々と転覆し、船員たちの絶叫が夜霧に響いた。
ヴェリアスはその光景に酔いしれ、八本の腕を広げて宣言する。
「死よ、広がれ! この街すべてを縫合の工房とするのだ!」
瓦礫が降り注ぐ中、アルフレッドは魔剣を握り直した。
「これ以上は……許さぬ」
彼の眼には怒りと覚悟の光が宿っていた。
たとえ不死であろうとも、この狂気の幹部を止めねば街ごと呑まれる。
蒼光が刃に宿り、稲妻のように唸りを上げる。
瓦礫と悲鳴の中、アルフレッドとヴェリアスの決戦は新たな局面を迎えた――。
ヴェリアスの暴走する肉体は、もはや人とも魔物とも呼べぬ異形と化していた。
八本の腕がうねり、紫光の瘴気が街を覆い尽くす。
斬っても再生、焼いても縫合――まさに不死。
だがアルフレッドの眼は、その狂気の奔流の中にわずかな「綻び」を捉えていた。
(……縫合の糸。すべての再生は、あの魔鉱の糸を媒介にしている……!)
霊視術・破幻眼によって、ヴェリアスの体を縫い繋ぐ紫光の糸が浮かび上がって見える。
それは彼の胸部、心臓の位置にある結晶核へと集中していた。
「……そうか。お前の進化は核に依存している」
アルフレッドが呟くと、ヴェリアスの狂笑が止まる。
「ほう? 気づいたか。だが遅い! 糸を断とうとも、私は無限に繋ぎ直す!」
八本の腕が一斉に振り下ろされ、倉庫の残骸が爆ぜ飛ぶ。
アルフレッドは雷のごとき速さで駆け、瓦礫の上を駆け抜けて核の位置を狙う。
「断雷剣――穿光!」
蒼光の突きが奔り、縫糸の束を貫いた。
ヴェリアスの体が大きく仰け反り、異形の腕が一瞬動きを止める。
「やめろぉぉぉぉ!!」
ヴェリアスは咆哮を上げ、己の肉体をさらに裂いてまで糸を増殖させた。
切り裂かれた皮膚から新たな顔が覗き、絶叫を重ねる。
「死はない! 死は敗北だ! 敗北は私に許されぬ!!」
その姿はもはや人間を超え、狂気の象徴そのもの。
だがアルフレッドは剣を下ろさない。
「許されるかどうかは――この剣が決める!」
蒼光の刃が、紫光の核を目指して再び振り下ろされた。
倉庫を覆う紫光と瘴気の渦の中、アルフレッドは魔剣を振りかざした。
刃に宿る蒼光はこれまで以上に眩しく輝き、雷鳴のような轟音を伴って走る。
狙うはヴェリアスの胸に縫い込まれた――魔鉱の核。
「断雷剣――絶閃!!」
一瞬、世界が白光に包まれた。
蒼と紫が激突し、爆ぜ、倉庫そのものを揺るがす閃光が走る。
ヴェリアスの絶叫が響いた。
「やめろぉぉぉ――! 私は……死を……拒む……!」
だが核は砕け、縫糸が次々と解けていく。
彼の肉体は再生することなく、崩れ落ちるように分解を始めた。
腕が、背骨が、縫い合わされた顔が、バラバラに剥がれ、紫光と共に虚空へと散っていく。
「……不……滅……こそ……我が……」
最後の言葉は瘴気に呑まれ、やがて完全に消え失せた。
紫光が消え、重苦しい瘴気も次第に霧散していく。
残されたのは瓦礫と、恐怖に震える人々の姿だけだった。
アルフレッドは魔剣を下ろし、深く息を吐いた。
(幹部ヴェリアス――討滅)
だが心の奥には、安堵よりも重苦しい確信があった。
ヴェリアスほどの狂気の幹部が一人にすぎないのなら……セイセス=セイセスの闇は、まださらに深い。
外套の奥で黒い石が脈打った。
その光はなおも消えず、次なる「影」を指し示している。
(次は……どこだ)
港の人々の悲鳴と嗚咽が夜に響く中、アルフレッドは静かに歩みを進めた。
闇との戦いは、なお始まったばかりである。
倉庫は無残に崩れ落ち、紫光の瘴気もようやく霧散していた。
港の住民たちは恐る恐る瓦礫の中へ戻り、家族や仲間の姿を探していた。
泣き叫ぶ声、再会の喜びの声、そして絶望に沈む声が入り混じり、夜の港に広がった。
アルフレッドはその光景を静かに見つめていた。
彼は救えなかった命の重みを背に、ただ剣の柄を握りしめる。
一人の漁師が近づき、深く頭を下げた。
「……あんたがいなければ、この街はもうなかった。本当に、ありがとう」
その言葉に周囲の人々も次々と感謝を述べるが、その眼差しの奥には恐怖が潜んでいた。
「だが……あんな怪物と渡り合えるあんたは、一体……」
アルフレッドはそれ以上答えず、ただ短く告げた。
「俺は旅人だ。闇を斬る旅人にすぎない」
港の長老格の男が、震える手で古びた地図を差し出した。
「ヴェリアスが出入りしていたのは、この港だけではない。北の修道院跡地にも闇の客人が集っていると聞く。我らには調べる力はない……だが、あんたなら」
アルフレッドは地図を受け取り、瞳を細めた。
(修道院……また別の幹部か。あるいは、奴らの拠点の一つだな)
外套の奥で黒い石が再び脈打った。
今度は北――修道院跡地の方向へと、確かに導きを示していた。
「……次はそこか」
港の人々の祈りを背に、アルフレッドは夜明けの街を後にした。
次なる闇の幹部が待つ修道院へと、彼の旅は続く。