第三話
翌朝、港町レーヴァンは何事もなかったかのように活気を取り戻していた。
市場では漁師が大声を張り上げ、商人たちが荷馬車を連ねて行き交う。
だがアルフレッドは、人々の賑わいの中にいながら、昨夜の戦いの余韻を胸の奥に重く残していた。
宿の一室で机に置いた黒い石は、淡く紫光を脈打っていた。
見た目は魔鉱の欠片に似ているが、その輝きはただの魔力残滓ではない。
アルフレッドは呪文を唱え、術式を展開する。
「霊視術・透魂眼」
視界が深い層に沈み込み、石の奥に絡みつくような魔力の糸が見えた。
それはどこか遠くの方角へと伸び、見えざる者同士を結んでいる。
(これは……中継石。セイセス=セイセスの幹部同士が連絡や儀式に用いる媒介だな)
つまり、この石を追えば次なる幹部の所在に近づける。
だが不用意に魔力を流し込めば、逆探知されかねない危険な代物でもあった。
港の酒場で情報を集めると、妙な噂を耳にした。
「最近、北方の鉱山地帯に奇妙な隊商が出入りしている」
「鉱山は閉鎖されたはずなのに、夜中だけ荷を運び出す影を見た」
アルフレッドは黒い石とその情報を重ね合わせる。
石の魔力の糸も、北方――鉱山の方向を指しているように感じられた。
(次の幹部は北方の鉱山に潜んでいる……)
霧の港を後にし、アルフレッドは新たな旅路の支度を整えた。
旅立つ前、港町の小さな広場で子どもたちが木剣を振るって遊んでいるのを見かけた。
「おれはアルフレッドだ! 闇の怪物を斬るんだ!」
「じゃあ私はセイセスだ!」
笑いながら遊ぶ声に、アルフレッドは思わず微笑む。
(……守るべきものは、確かにここにある)
その思いを胸に、彼は北方の鉱山へと向かう決意を固めた。
レーヴァン港を出発したアルフレッドは、北方へ向かう街道を進んでいた。
道は次第に荒れ、港町の賑わいから離れるほどに、風は冷たく乾いたものへと変わっていく。
沿岸の湿った空気は薄れ、代わりに岩肌と砂利の匂いが漂ってきた。
荒野に点々と立つ枯木は、北方の厳しい気候を物語っている。
馬車もほとんど通らず、道中ですれ違うのは稀に鉱山帰りの商人くらいだった。
彼らの話では、鉱山周辺の村々は次々と人が消え、今は廃墟に近いとのことだった。
夜、山裾の宿場町に立ち寄る。
酒場の片隅では、旅人たちが焚き火代わりの炉を囲んでいた。
「北の鉱山か? やめておけ。あそこはもう人の土地じゃねぇ」
老いた鉱夫が酒をすすりながらそう告げる。
彼は、夜になると坑道から紫の光が漏れ、呻き声のような音が響くのを聞いたという。
アルフレッドは静かに耳を傾け、礼を言って立ち上がった。
彼の背に向けて、若い鉱夫が小さく呟いた。
「……あんたが闇を斬るって奴なら、どうか……村を救ってくれ」
翌朝、まだ夜明けの霧が残る中、アルフレッドは峠道を進む。
遠くには鉱山地帯の山並みが連なり、雪解け水が谷を走っていた。
黒い石を手に取ると、紫の脈動は北の山へと強く引かれるように鼓動を増している。
(やはり、次の幹部はこの先に……)
冷たい風を受けながら、アルフレッドは外套を翻し、足を速めた。
鉱山の闇が呼んでいる――次なる戦いの地へ。
峠を越えてしばらく歩くと、かつて鉱山労働者たちが暮らしていた小さな村が現れた。
だが今は家屋の大半が崩れ、窓には板が打ち付けられ、人気の気配はない。
広場には壊れた荷車が放置され、井戸は枯れ、風が軋む音だけが響いていた。
アルフレッドは慎重に一軒の家へ足を踏み入れた。
中は荒らされた形跡があり、家具は散乱している。
しかし机の引き出しから、手帳の切れ端が見つかった。
坑道から夜ごと声が聞こえる。仲間が一人、また一人と消えた。……私も長くはもたぬ。もしこれを見つけた者がいるなら、坑道の奥を調べてほしい。
インクは掠れていたが、恐怖と絶望の筆致ははっきりと伝わった。
村の背後の崖沿いに進むと、やがて黒い坑口が口を開けているのが見えた。
入口には古びた柵が設けられていたが、壊されて久しく、周囲には人の足跡すらない。
ただ、土に残る細い溝のような痕跡が気になった。
アルフレッドは膝をついて調べる。
(これは……何か重いものを引きずった跡か。それも最近のものだ)
溝は坑道の奥へと続いていた。
その時、冷たい風とともに低い呻き声のような音が坑道から響いてきた。
人の声にも似ていたが、どこか不自然に途切れ、魔力の気配を帯びている。
黒い石を取り出すと、紫の光が強く脈打ち、坑道の奥を指し示すように揺れていた。
「……間違いない。次の幹部はこの先だ」
アルフレッドは魔剣の柄を握り直し、闇に沈む坑道へと足を踏み入れた。
坑道へ一歩踏み込むと、外の光は一瞬で背後に閉ざされ、闇が全てを飲み込んだ。
松明に火を点けると、赤い光が湿った岩壁を照らし出し、滴る水が不気味な音を立てていた。
古い木の支柱は腐りかけ、ところどころ黒い染みが広がっている。
その染みからは鉄と血の混ざったような臭気が漂い、息をするだけで胸が重くなる。
奥へ進むにつれ、奇妙な音が耳に届いた。
呻きとも嘆きともつかない声――だが、言葉にはならない。
坑道の岩壁に反響して、どの方向から響いているのかも判然としない。
アルフレッドが霊視術を展開すると、岩壁の奥に人影のような淡い光が浮かび、指先を伸ばすかのように蠢いていた。
(……怨嗟の残滓か。それとも――)
声に引き寄せられるように進むと、坑道の脇道に古びた鎖が転がっていた。
鎖には血の錆がこびりつき、その先には割れた頭蓋骨。
かつて捕らえられた鉱夫か、それとも生贄として捧げられた者か。
冷たい風が通路を抜け、骸骨の歯がかちりと鳴った。
さらに奥へ進むと、坑道の壁から紫の光が滲み出していた。
魔鉱の鉱脈が剥き出しになり、その周囲の岩肌は腐った肉のように脈動している。
手を近づけるだけで皮膚が焼けるように熱を帯び、瘴気が体を蝕もうとする。
アルフレッドは魔剣を抜き、刃を床に突き立てて浄化の術を重ねる。
蒼光が広がり、瘴気をわずかに押し返したが、奥からはなおも濃い気配が湧き上がってくる。
その時、不意に松明の火が揺れ、長く影を引いた。
坑道の奥から、石を爪で引き裂くような音が近づいてくる。
ゴリ……ゴリ……と、肉を噛み砕くような音を伴って。
闇の奥に、異形の輪郭が浮かんだ。
それはかつて人だったもの――皮膚は紫に爛れ、眼窩は空洞、口からは瘴気を垂れ流していた。
鉱山の労働者が、魔鉱に取り込まれ異形へと変じた姿。
呻き声が坑道に木霊し、複数の影が闇から姿を現す。
「……魔鉱に呑まれた者たちか」
アルフレッドは魔剣を構え、迫りくる影に刃を向けた。
呻き声を上げながら坑道の奥から現れた影は、三体。
どれもかつては鉱夫だったのだろう、肩に掘削具を突き刺したまま、紫に爛れた肉体を引きずっている。
眼窩は空洞、口から垂れ落ちる瘴気は岩を腐食させ、じゅうじゅうと音を立てた。
最前の一体が突進してくる。
その動きは人のものより速く、しかし歪んでいた。
アルフレッドは左に跳び、魔剣を薙ぎ払う。
蒼光の刃が一閃し、異形の腕を斬り飛ばす。だが血は出ず、黒い液体が飛沫となって散った。
残る二体が同時に襲いかかる。
一体は爪を振り下ろし、もう一体は顎を外れそうなほど開いて噛みつこうとする。
アルフレッドは後退せず、逆に踏み込んだ。
「雷槍撃!」
掌から奔る稲光が坑道を照らし、二体をまとめて貫いた。
電撃で焼け焦げた肉片が岩壁に叩きつけられ、異形の叫び声が坑道に反響する。
しかし、それでもなお立ち上がり、再び襲いかかってきた。
(……ただの魔物ではない。魔鉱が肉体を操っているのか)
アルフレッドは魔剣を振り下ろし、浄化の術式を重ねる。
「断雷剣――浄滅」
蒼光が刃から奔り、爛れた肉を焼き尽くす。
光に貫かれた異形は断末魔の声を残し、やがて灰のように崩れ落ちた。
坑道の闇に再び静寂が訪れる――しかし。
ずるり、と奥から新たな気配。
今度はひときわ強い瘴気を帯び、背丈も二倍はある巨体が姿を現した。
その皮膚は岩と融合し、鉱脈の紫光が血管のように脈打っている。
かつて人だった面影は完全に失われ、ただ魔鉱に造られた「守護者」と化していた。
「……これが幹部の使い魔か」
アルフレッドは魔剣を握り直し、迫り来る巨影を睨んだ。
巨体は坑道の天井を擦りながら迫ってきた。
鉱石と肉が融合した腕は丸太ほどに太く、振り下ろされるたびに地面が割れ、岩片が飛び散る。
その一撃をまともに受ければ、いかにアルフレッドでも粉砕されるだろう。
「……面白い」
アルフレッドは蒼光を纏わせた魔剣を構え、疾駆した。
異形の巨腕が振り下ろされる瞬間、壁を蹴って宙へ跳躍、回転しながら刃を肩口に叩き込む。
肉と岩が弾け、紫の火花が散った。
だが――
「グォォォ……!」
守護者は膝をつくどころか、逆にアルフレッドの身体を払い落とすように腕を振り回した。
衝撃で坑道の柱が崩れ、粉塵が舞い上がる。
巨体は胸を震わせ、咆哮とともに紫光の衝撃波を吐き出した。
アルフレッドは咄嗟に魔剣を突き立て、障壁を展開する。
「雷壁陣!」
稲光が防壁となり、衝撃を受け止めるが、体の奥まで痺れるような重圧がのしかかった。
(……ただの守護者じゃない。幹部の術で強化されている)
アルフレッドは目を細め、蒼光をさらに集中させる。
身体の筋肉が軋み、視界が一瞬、研ぎ澄まされた。
「断雷剣――裂光!」
全身の加速を剣に乗せ、一閃。
蒼白の光が坑道を走り、守護者の右腕を肩ごと断ち切った。
巨体はなおも立ち上がり、残った左腕を振り上げる。
だがその時――
坑道全体に、女の声が木霊した。
「……そこまでにしておきましょう。私の玩具を壊すのは容易ではなかったでしょう?」
声は実体を伴わず、空気に染み込むように響く。
アルフレッドは魔剣を構え直し、声の主を睨む。
「幹部か……」
「ええ、あなたが近づいているのは分かっていたわ。けれど今日は顔を見せるつもりはない。ただの挨拶よ」
守護者の巨体は声に従うかのように後退し、坑道の奥へと崩れ落ちるように沈んでいった。
紫光は霧のように散り、再び静寂が訪れる。
アルフレッドは剣を収め、歯を食いしばった。
「……次こそ直接斬る」
守護者が退いた後の坑道は、不気味な静けさを取り戻していた。
アルフレッドは慎重に奥へ進み、灯した松明をかざした。
最深部には、人工的に削られた広間があった。
岩壁には紫に輝く魔鉱の結晶が並び、その中央に粗末な石壇が設けられている。
石壇の上には黒い布が敷かれ、乾いた血痕がこびりついていた。
周囲の床には複雑な紋様が刻まれており、魔力を循環させる術式の一部が残っている。
(……生贄の儀式か。人を喰わせ、魔鉱と融合させて守護者を生み出した……)
石壇の傍らに、焼け焦げた羊皮紙が散らばっていた。
その一枚を拾い上げ、煤を払い落とすと文字が浮かぶ。
……北方鉱山での供給は順調。次なる段階へ移行する。幹部ヴェリアスの到来を準備せよ……。
(ヴェリアス……)
アルフレッドの眉が僅かに動く。
シェア=アルミナではなく、別の幹部の名。
どうやらこの鉱山は、彼女の勢力ではなくヴェリアスなる幹部の支配下にあるらしい。
広間の片隅には、壊れた檻がいくつも並んでいた。
中には爪痕が残り、床には削れた石片と血が散らばっている。
囚われていた人々が、儀式のために使役され、あるいは守護者に変えられたのだろう。
紫光を放つ魔鉱の結晶はなおも脈動している。
アルフレッドは魔剣を振り下ろし、結晶を次々に叩き割った。
砕かれた結晶から漏れ出た瘴気は、蒼光に焼かれて消え、広間の空気がわずかに澄んでいく。
残された羊皮紙を巻物袋に収めながら、アルフレッドは決意を固めた。
「次は……ヴェリアス」
坑道を後にすると、夜明けの光が山の向こうに差し込み始めていた。
冷たい風が吹き抜け、闇の中で失われた命の哀しみを連れてくる。
だがアルフレッドは、歩みを止めることはなかった。
次なる幹部を追い、セイセス=セイセスの心臓部へ迫るために――。