第二十七話
夜明け前。
空と大地の境界が、まだ曖昧な刻。
アルフレッドは、一度だけ振り返り――そして、もう二度と見なかった。
黒い石が、掌の中で低く、長く鳴る。
先ほどまでの警鐘のような乱れは消え、今は一定の律動だけが続いていた。
――ドクン。
――ドクン。
(追跡……いや、誘導か)
彼は理解している。
この石は“目的地”を示すことはあっても、正解を示したことは一度もない。
それでも、歩く。
山を越え、枯れた街道を外れ、地図から消えた集落跡を横切り――
進むほどに、世界の“厚み”が変わっていく。
風が、風でなくなる。
影が、物体の後ろに収まらなくなる。
因果が、半拍遅れて追いついてくる。
(……この先は)
アルフレッドは足を止め、周囲を見渡した。
視界の端で、遠景が二重に揺れている。
片方は現実。
もう片方は、起こらなかったはずの可能性。
黒い石が、ここで一度だけ強く脈動した。
――選択点。
その瞬間、背後から気配が立ち上がる。
敵意ではない。
殺意でもない。
観測だ。
「……やはり、ここに来たか」
声は、静かで、乾いていた。
振り返ると、岩陰に一人の男が立っている。
旅装ではない。
兵でもない。
だが、その存在は、はっきりと“世界の外側”に半歩踏み出していた。
「名を名乗れ」
アルフレッドは即座に剣へ手を伸ばす。
「記録官代理、とでも言っておこう」
男は、両手を見せて一歩下がった。
「安心しろ。今日は、干渉権限を持たない」
――虚空教団。
アルフレッドは、舌打ちを噛み殺す。
「なら、なぜここにいる」
「君が来たからだ」
あまりに当然のように言われ、言葉が詰まる。
男は続けた。
「この先は、セイセス=セイセスの拠点でも、教団の観測領域でもない。だが――」
視線が、黒い石へ落ちる。
「君の存在が、境界そのものを引き寄せている」
黒い石が、再び鳴る。
今度は、微かに――だが、確実に。
アルフレッドは、剣から手を離した。
「……要するに?」
「この先で、君は」
記録官代理は、慎重に言葉を選ぶ。
「敵を壊すのではなく、役割を壊すことになる」
一瞬の沈黙。
「セイセス=セイセスの次なる拠点は、確かに存在する。だが、そこに“敵”として立っているのは――人ではない」
黒い石が、はっきりと肯定の脈動を返す。
アルフレッドは、目を閉じ、深く息を吸った。
(……なるほどな)
復讐の道は、まだ終わらない。
だが、その形は、確実に変わり始めている。
目を開き、前を見る。
霧の向こうに、
巨大な遺構が、半分だけ世界に食い込んでいた。
――生きている、拠点。
――意思を持つ、戦場。
「行くぞ」
誰に言うでもなく、そう告げる。
黒い石が、強く鳴る。
アルフレッドは、一歩を踏み出した。
次なる旅路は、
世界そのものと刃を交える章へ――
静かに、だが確実に、続いていく。
遺構は、近づくほどに輪郭を拒んだ。
石でできているはずなのに、触れれば脈を打ち、壁であるはずの部分が、ゆっくりと“呼吸”している。
(……拠点、というより)
アルフレッドは剣を抜かない。
ここでは、抜いた瞬間に“敵”と認識されると直感していた。
黒い石は沈黙している。
導きは終わり、選択は彼に委ねられた。
一歩、踏み入れた瞬間。
――世界が、内側に折れた。
音が消え、色が薄れ、時間だけが取り残される。
次の瞬間、彼は“通路”に立っていた。
左右も上下も曖昧な、幾何学的な回廊。
床には文字とも数式ともつかない紋様が流れ、壁には、誰かの記憶が染みついている。
『侵入を確認』
声ではない。
思考の裏側に、直接流し込まれる通知。
『識別中……』
アルフレッドは、静かに名を名乗った。
「アルフレッドだ」
一拍の間。
『……該当多数』
通路の先で、影が重なり始める。
それは人の形をしていた。
だが、顔はすべて――彼自身だった。
剣を持つ自分。
血に濡れた自分。
笑っている自分。
何も感じていない自分。
(なるほど……“役割”とは、そういうことか)
黒い石が、かすかに鳴る。
否定ではない。
警告でもない。
確認だ。
影の一つが前に出る。
『復讐者:アルフレッド』
『観測対象:適合』
『排除権限:付与』
瞬間、回廊全体が赤く染まる。
(排除……俺が、俺を?)
アルフレッドは剣を構えた。
だが、切っ先は影ではなく、床へ向けられる。
「――断る」
剣を、深く突き立てる。
金属音ではない。
悲鳴が、遺構全体を震わせた。
『権限拒否……?』
「俺は、役割じゃない」
アルフレッドは剣を引き抜き、歩き出す。
影たちが、同時に歪む。
輪郭が崩れ、意味を失っていく。
「復讐はする。だが、それに俺を閉じ込めるな」
黒い石が、これまでで最も穏やかに鳴った。
次の瞬間、回廊が崩壊する。
視界が白に塗りつぶされ――
気がつくと、アルフレッドは遺構の中枢に立っていた。
巨大な核。
鼓動する結晶。
そこには、紋章が刻まれている。
――セイセス=セイセス。
だが、その紋章は未完成だった。
欠けている。
「……ここは“拠点”じゃない」
彼は理解する。
「生まれかけの中枢だ」
その時。
結晶の奥で、誰かが笑った。
『正解だよ、アルフレッド』
声は、遠く、甘く、狂気を帯びている。
『だからこそ――ここは壊される前提で作られている』
リリス=ノクティル。
姿はない。
だが、確実に“いる”。
『さあ。君は、これを壊す? それとも――』
結晶が、脈動を強める。
『完成させてから、壊す?』
黒い石が、答えを示さないまま、沈黙した。
選ぶのは、アルフレッド自身。
物語は、ここで――
分岐点を迎える。
「――中枢が何だ」
アルフレッドは、一瞬たりとも迷わなかった。
剣を構え、踏み込み、躊躇なく結晶核へと叩き込む。
黒い石が、悲鳴のような共鳴音を上げた。
刃が触れた瞬間、世界が反転する。
空間が裏返り、上下が消え、因果が裂ける。
完成を待つはずだった中枢は、破壊という行為そのものによって、強制的に意味を失った。
『――あはっ』
リリス=ノクティルの笑い声が、無数に反響する。
『いいねぇ……そう来ると思ってた』
結晶に亀裂が走り、内側から闇の奔流が溢れ出す。
それは魔力ではない。
意志でもない。
――未分化の概念。
セイセス=セイセスが、ここで生み出そうとしていたものの“材料”だ。
アルフレッドは一歩も退かない。
剣を振るう。
叩きつける。
切るのではなく、壊す。
結晶が砕け散る瞬間、空間そのものが叫んだ。
『中枢消失。構造崩壊。再構築不能』
無機質な報告が、遅れて響く。
次の瞬間。
――介入。
砕けた結晶の影から、黒い裂け目が広がり、そこから“立っているだけで場を歪める存在”が現れた。
「……やはり、壊したか」
低く、乾いた声。
グラウ=ヴァルツ。
セイセス=セイセス幹部。
この場の保険。
黒衣の奥で、彼の片目が淡く光る。
「完成前に潰す。理性的だが、厄介な判断だ」
アルフレッドは剣を下げない。
「なら止めに来たか」
「いいや」
グラウは、砕け散る中枢を一瞥し、肩をすくめた。
「記録の確認だ。そして――」
彼の背後で、空間に文字列が浮かぶ。
虚空教団ベイリル=オラリオンの紋章。
記録官は姿を見せない。
だが、確実に観測している。
「君が“予定外”であることの、再確認」
リリスの声が、重なる。
『ねえグラウ、どう? 彼、壊し方が綺麗でしょう?』
「……ああ」
グラウは静かに答える。
「綺麗すぎる。世界の都合を、一切考慮していない」
アルフレッドは、砕けた結晶の残骸を踏み越える。
「俺は敵を潰しに来ただけだ」
「だからだ」
グラウは一歩、退いた。
「ここでは殺さない。――まだ、早い」
空間が閉じ始める。
遺構が、完全に崩壊する前兆。
リリスの声が、最後に囁く。
『次はね、もっと“選ばせる”場所を用意するよ。壊すだけじゃ、済まない場所』
視界が暗転し――
気づけば、アルフレッドは荒野に立っていた。
遺構は消え、中枢は完全に破壊され、だが――
黒い石は、以前より強く脈打っている。
(……次があるな)
それも、これまで以上に深い。
セイセス=セイセス。
虚空教団ベイリル=オラリオン。
そして、観測者たち。
アルフレッドは剣を収め、歩き出す。
破壊は終わった。
だが――
戦いは、より鮮明な形で始まったばかりだった。
夜が、遅れて追いついてきた。
荒野に沈む闇は、自然なものではない。
星の配置がずれ、月の輪郭が揺らぎ、影だけが先に伸びていく。
アルフレッドは足を止めなかった。
黒い石は、脈打つたびに方向ではなく「深度」を示している。
距離ではない。
高さでもない。
――層だ。
(地上じゃないな)
彼はそう判断し、迷いなく進路を変えた。
かつて街があったはずの廃野。
地表が崩れ、巨大な裂け目が口を開けている。
底は見えない。
だが、黒い石は確かに――下を指していた。
アルフレッドは崖縁に立ち、剣を地面に突き立てる。
次の瞬間。
地鳴りとともに、裂け目の奥から声が湧き上がった。
『ああ……来ると思っていたよ』
それはリリスの声ではない。
グラウの低い声でもない。
もっと鈍く、もっと粘ついた――
集団の声。
「……中枢を壊した影響か」
アルフレッドが呟くと、裂け目の内部で光が灯る。
無数の魔術陣。
それらが連動し、円環を描いて回転している。
『違う』
声は、はっきりと否定した。
『想定内だ』
裂け目の奥から、ゆっくりと人影が浮かび上がる。
いや――正確には、人の形を借りているだけの存在。
顔が、一定しない。
過去に滅びた信徒たちの面影が、次々と重なっては剥がれていく。
『我らは“下層運用班”』
『セイセス=セイセスが捨てても構わないと判断した側』
アルフレッドは剣を引き抜く。
「……雑魚の自己紹介にしては長いな」
『ほう』
声が、わずかに愉快そうに歪む。
『君は、本当に選別をしない』
『だから上は、君を欲しがる』
空間が、歪んだ。
裂け目の周囲に、半透明の壁が立ち上がる。
逃げ場を断つための結界。
だが――
アルフレッドは、踏み出した。
「上だろうが下だろうが関係ない」
剣が振るわれる。
結界が、斬れるはずのない概念ごと裂ける。
『――なっ』
悲鳴が重なり、次の瞬間、裂け目そのものが爆ぜた。
光と闇が交錯し、魔術陣が焼き切れ、“下層運用班”は形を保てず、崩れ落ちていく。
だが、完全には消えない。
『記録……継続……』
『観測者に――』
その言葉が終わる前に、アルフレッドは裂け目へと跳んだ。
落下ではない。
侵入だ。
暗転。
そして――
次の瞬間、彼は巨大な地下都市の縁に立っていた。
逆さまに積み重なった建造物。
空を覆うのは岩盤ではなく、黒い結晶の天蓋。
黒い石が、これまでになく強く脈動する。
(……ここが、次か)
遠くで、鐘の音が鳴った。
それは警告でも、歓迎でもない。
開幕の合図。
アルフレッドは剣を構え、歩き出す。
セイセス=セイセスは、まだ奥にいる。
虚空教団の視線も、確実に重なっている。
そして――
この地下都市そのものが、敵になる予感がしていた。
地下都市は、生きていた。
石畳を踏むたび、かすかな鼓動が靴底に返ってくる。
壁に刻まれた文様は文字ではなく、神経の走行図のように脈動し、ゆっくりと形を変えていた。
アルフレッドは眉一つ動かさない。
(都市型魔術炉……いや、違うな)
黒い石が示すのは、炉心ではない。
意思の集積点。
通りの奥で、影が剥がれる。
人影が現れた。
だが歩き方が、人ではない。
関節の数が合わず、視線が前後にずれている。
「侵入者確認」
声は一人分。
だが、同時に複数の高さと距離から響いた。
「観測不要。排除を優先する」
影が裂け、闇の眷属が顕現する。
かつて人だったもの。
だが、魂はすでに用途別に分解されている。
アルフレッドは剣を振り抜いた。
一閃。
眷属の上半身が消失する。
しかし――倒れない。
残った下半身が、床と融合し、別の個体として立ち上がる。
「……増えるタイプか」
次の瞬間、天蓋の結晶が光った。
無数の魔術式が都市全体に走り、重力の向きが反転する。
アルフレッドの身体が宙に浮く。
だが彼は、空中で踏み込んだ。
何もない場所を蹴り、剣を突き立てる。
刃が、空間そのものを固定する。
反転した重力が破綻し、眷属たちが壁と床に叩きつけられた。
「……相変わらず、理屈が嫌いだね」
拍手の音。
建物の上層、歪んだバルコニーに――グラウ=ヴァルツが立っていた。
黒衣。
笑みは薄く、だが目だけが異様に輝いている。
「この都市、気に入っただろう? “中枢を破壊する者”への、予行演習だ」
「お前が管理者か」
「部分的に、ね」
グラウは肩をすくめる。
「本命は、もっと奥だ。だが君は――必ずここを壊す」
その声に、別の響きが重なる。
『――壊しては、困るのよ』
空間が、薄く歪む。
姿はない。
だが、確かにそこにリリス=ノクティルの気配があった。
『ここは“実験場”。まだ完成していない』
「……声だけか」
アルフレッドが呟く。
『ええ。今回はね』
くすり、と笑う気配。
『でも安心して。あなたが何を壊すか――ちゃんと全部、見てる』
グラウが低く笑った。
「ほらな。君はもう、独りじゃない」
アルフレッドは、剣を構え直す。
「勘違いするな」
視線が、都市の奥――
黒い石が示す“核心”へ向く。
「邪魔なものが増えただけだ」
次の瞬間、都市全体が悲鳴を上げた。
アルフレッドが踏み出したことで、この地下都市は、初めて――
“敵として認識された”のだから。
核心へ続く回廊は、拒絶していた。
壁が閉じ、床がずれ、天井が牙のように噛み合う。
都市そのものが、侵入者を“理解”し、排除しようとしている。
――だが。
アルフレッドは立ち止まらない。
剣を逆手に持ち替え、黒い石を左手に握る。
脈動が、これまでで最も強く打った。
(ここだな)
踏み込む。
衝撃と同時に、回廊が割れた。
物理的に、ではない。
概念の層が裂け、奥に隠されていた“中枢室”が露わになる。
そこにあったのは――
巨大な脳状結晶。
無数の魔術式と魂の断片が絡み合い、都市全体の判断・生成・増殖を司る中枢。
「……芸術品だ」
グラウ=ヴァルツが、感嘆混じりに呟く。
「都市を兵器にするなら、これ以上はない。君も、そう思わないか?」
「思わない」
アルフレッドは即答した。
「壊すだけだ」
その瞬間、結晶が強く発光する。
人格模倣。
中枢が、アルフレッドの記憶を引きずり出し、“彼にとって最も効果的な存在”を生成しようとする。
空間に、影が立ち上がる。
――アルフレッド自身。
だが、その目は空虚で、口元だけが歪んだ笑みを作っている。
「無意味だ」
アルフレッドは、偽物を見据えた。
「俺は、自分に期待しない」
一歩。
二歩。
三歩目で、剣が閃く。
偽物は抵抗することすらできず、霧散した。
中枢が、混乱する。
判断基準が崩れ、演算が追いつかない。
『……ああ、やっぱり』
リリス=ノクティルの声が、わずかに弾んだ。
『あなた、本当に“壊す側”ね』
その声には、嘲笑よりも――
興味が滲んでいた。
グラウは一歩、後ろへ下がる。
「これ以上は、介入しない。君がそれを壊すなら――その結果を、見届けるのも仕事だ」
アルフレッドは答えない。
剣を、中枢へ突き立てる。
黒い石が共鳴し、刃に黒光りが走った。
次の瞬間――都市全体の鼓動が、止まった。
結晶が砕け、魂の断片が光となって散っていく。
崩壊は、静かだった。
悲鳴も、爆発もない。
ただ、機能が終わる音だけが残る。
瓦礫の中で、アルフレッドは剣を引き抜く。
黒い石は、再び脈動する。
「……まだ終わらないか」
彼は踵を返す。
背後で、グラウが小さく呟いた。
「本当に厄介だよ、君は。セイセス=セイセスにとっても……虚空教団にとってもね」
返事はない。
――代わりに、空気が軋んだ。
アルフレッドの足が止まる。
振り返るより早く、黒い石が警告するように脈を強めた。
「……来るか」
その一瞬後、瓦礫が内側から弾け飛んだ。
「いい反応だ」
グラウ=ヴァルツの姿が、崩れた床の上に現れる。
影を引きずるような立ち姿。
その全身から滲み出るのは、戦意というより――試す視線。
「中枢を壊されて、はい撤収、じゃ面白くないだろう?」
指を鳴らす。
次の瞬間、空間そのものが歪み、黒い刃の群れがアルフレッドを包囲した。
反射で剣を抜く。
金属音が連なり、刃と刃がぶつかるたび、火花ではなく影が散る。
「っ……!」
踏み込み、切り払う。
だが、刃は実体を持たず、斬った先から再構成される。
「影を斬ってるつもりかい?」
グラウは笑う。
「これは“意思”だ。セイセス=セイセスが、君を排除すべきだと判断した結果さ」
「……判断が遅い」
アルフレッドは低く言い、地面を蹴った。
一気に距離を詰める。
狙いは本体――グラウ本人。
だが、剣が届く直前、グラウの輪郭が溶けるように崩れた。
「残念。僕は前線要員じゃない」
背後。
殺気。
振り向きざまに防御するが、
衝撃が重い。
吹き飛ばされ、瓦礫に叩きつけられる。
「ぐ……」
「それでも、君と刃を交える価値はある」
グラウは静かに腕を広げる。
周囲の影が一斉に立ち上がり、
戦場そのものが閉じていく。
「さあ、アルフレッド。復讐者としてじゃない」
狂気を孕んだ声。
「――“破壊者”として、どこまで行ける?」
黒い石が、かつてないほど強く脈動した。
戦闘は、ここから本番だった。
影が、呼吸するようにうねった。
瓦礫だったはずの床は境界を失い、空間そのものが“闇の側”へと引きずられていく。
「結界か」
アルフレッドは短く呟く。
剣を構え直すと同時に、黒い石の脈動が彼の心拍と重なった。
「正解。でもただの結界じゃない」
グラウ=ヴァルツは宙を歩くように一歩踏み出す。
「これは観測領域だ。君の戦い方、判断、癖――全部、記録させてもらう」
――虚空教団ベイリル=オラリオンの名が、一瞬、アルフレッドの脳裏をよぎる。
(……あいつも、どこかで見ている)
次の瞬間。
影が形を持った。
獣。兵。歪んだ人影。
かつてアルフレッドが斬った存在の“残滓”が、次々と現れる。
「過去を素材にするか」
「嫌いかい? 自分の歴史を突きつけられるのは」
返事の代わりに、アルフレッドは踏み込んだ。
一閃。
最初の影が霧散する。
だが、その断面から別の影が生える。
「……厄介だな」
「だろう?」
グラウの声が、四方から響く。
「君はいつも“正解”を選ぶ。だからこそ、分岐が生まれない」
影が一斉に襲いかかる。
アルフレッドは剣を振るい続ける。
無駄を削ぎ落とした動き。
感情を切り捨てた刃。
それでも――
足元の影が、一瞬だけ絡みついた。
「っ!」
その隙を逃さず、
グラウの本体が背後に出現する。
掌が突き出される。
「――虚無穿ち」
衝撃が、内側から来た。
骨ではない。
筋肉でもない。
存在そのものが削られる感覚。
アルフレッドは歯を食いしばり、そのまま高速で反転した。
「……甘い」
至近距離。
剣が、グラウの肩を斬り裂く。
血は出ない。
だが、影が焼けるように歪む。
「ほう……」
グラウの表情が、初めて変わった。
「黒い石と同調しているな。なるほど、これは――」
彼は距離を取り、影を収束させる。
「中枢破壊者として、十分すぎる」
結界が、きしみ始めた。
遠くで、女の笑い声が重なる。
『ふふ……壊し方が、荒いわねぇ』
リリス=ノクティル。
実体なき干渉。
グラウは舌打ちする。
「……介入が早い」
アルフレッドは剣を下ろさない。
「まだ終わりじゃない」
「もちろん」
グラウは笑う。
「でも、今日はここまでだ。“記録”は十分に取れた」
影が、一斉に引いた。
結界が崩れ、現実が戻る。
瓦礫の中に、二人は立っている。
グラウの姿が、薄くなる。
「次に会う時は、もう少し深い場所で――“中枢の奥”で会おう」
そう言い残し、彼は完全に消えた。
静寂。
黒い石は、なおも脈動を続けている。
「……次か」
アルフレッドは剣を収め、
その脈動が示す方角へと歩き出した。
戦いは、確実に深層へ向かっていた。
アルフレッドが数歩進んだ、そのときだった。
黒い石の脈動が、一拍だけ乱れる。
(……違う)
彼は立ち止まる。
今まで追ってきた“導き”とは質が異なる。
――逆向きの共鳴。
背後の瓦礫の山、その奥。
崩壊したはずの中枢残骸が、わずかに光を宿していた。
「残響か……」
剣を抜く。
次の瞬間、
空間に文字が浮かび上がった。
刻印。
魔法陣ではない。
――記録式言語。
「……虚空教団」
低く呟いた直後、声が“直接”脳裏に届く。
『介入は終了している』
感情のない、整った響き。
『だが、観測は継続中だ。破壊者アルフレッド』
ベイリル=オラリオン。
記録官。
姿は現れない。
だが、視線だけが存在している。
「静観するんじゃなかったのか」
『静観している。これは“結果確認”だ』
文字が組み替わる。
『君が破壊した中枢は、セイセス=セイセスの末端構造に過ぎない。だが――』
一拍。
『その破壊行動は、想定以上に早かった』
瓦礫の下で、何かが砕ける音がした。
アルフレッドは視線を落とす。
そこには、黒い石の欠片がある。
今までのものより、小さい。
だが――異様に“澄んでいる”。
『それは、次の階層への鍵だ』
「教える義理が?」
『ない』
即答。
『だが、記録官として興味がある。君が――それを壊す側か、使う側か』
アルフレッドは、欠片を拾い上げる。
冷たい。
しかし、拒絶はない。
「……どちらに見える」
『まだ、判別不能』
声が、少しだけ“揺れた”。
『だからこそ、観測は続く』
文字が消え、視線の気配も薄れていく。
完全な沈黙が戻った。
アルフレッドは欠片を握りしめ、最後に一度だけ、この場所を振り返る。
「……ここは終わりだ」
黒い石の脈動が、再び前方を指し示す。
だが今度は、その奥に――複数の重なった反応があった。
セイセス=セイセス。
虚空教団。
そして、名を持たぬ“中枢のさらに奥”。
アルフレッドは歩き出す。
この場所に残ったのは、
壊れた機構と、
記録されてしまった“事実”だけだった。
アルフレッドは、ためらわずに踏み込んだ。
中枢の残骸――そのさらに奥。
崩壊で終わったはずの空間の“裏側”に、黒い石の脈動が細い糸のような道を描き出す。
床でも、空でもない。
概念の継ぎ目。
(……なるほど。ここが“奥”か)
一歩進むたび、世界が静かに書き換わる。
色は抜け、音は距離を失い、因果だけが、ぴんと張りつめて残る。
そこは、部屋ですらなかった。
円でも、直線でもない。
思考が折り畳まれた空間。
中心にあるのは、巨大な構造体――だが、結晶でも脳でもない。
それは――“空席”だった。
王座のようで、制御席のようで、
しかし誰も座っていない。
周囲を取り巻くのは、無数の未起動の紋章。
セイセス=セイセスの紋。
虚空教団の記録符。
そして、どちらにも属さない、歪んだ第三の記号。
黒い石が、ここで初めて――躊躇するように脈動した。
(……“中枢の奥”ってのは)
アルフレッドは理解する。
ここは装置ではない。
敵でもない。
――役割を押し付ける場所だ。
その瞬間、空席の背後で、影が“立ち上がった”。
「やはり、辿り着いたか」
低く、冷えた声。
グラウ=ヴァルツではない。
リリス=ノクティルでもない。
仮面をつけていない――だが、顔が存在しない男。
輪郭だけが、人の形を保っている。
「……誰だ」
アルフレッドが剣を構える。
「名は、もう捨てた」
男は空席の横に立つ。
「かつては、セイセス=セイセスの“設計官”。今は――中枢の残骸」
黒い石が、警告とも肯定ともつかぬ反応を示す。
「君に、選択肢を与える役目だ」
「要らない」
即答。
男は、かすかに笑った。
「そう言うと思った。だが――聞くことは止められない」
空席が、淡く光る。
「ここに座れば、セイセス=セイセスの“中枢”を終わらせられる」
「代償は?」
「君が、“壊す側”でなくなる」
沈黙。
「壊すだけの存在は、ここまで来られない」
男の声は淡々としている。
「君はもう、破壊者でありながら、選択を壊してきた」
黒い石が、強く脈動する。
アルフレッドは、空席を見る。
そこに座る自分の姿が――一瞬だけ、見えた気がした。
だが、彼は剣を下ろさない。
「……座らない」
男は、少しだけ目を見開く。
「では、どうする」
アルフレッドは、剣先を空席そのものへ向けた。
「壊す」
空間が、凍りつく。
「役割ごとだ」
黒い石が、これまでで最も激しく鳴った。
それは警告ではない。
拒否でもない。
――完全な同意。
男は、静かに息を吐いた。
「……やはりな」
次の瞬間、空席が敵として起動する。
中枢の奥。
役割を押し付ける場所で――
アルフレッドの戦いは、
世界の“席”そのものを巡る戦闘へと突入する。
――起動音は、存在しなかった。
音の代わりに、意味が立ち上がる。
空席の周囲に浮かんでいた紋章が、一斉に回転を始める。
セイセス=セイセスの紋は支配を示し、虚空教団の記録符は固定を示し、第三の歪んだ記号は――代替を示していた。
(座らせる気か)
アルフレッドが一歩踏み出すと、空間が反発する。
床は床であることをやめ、距離は距離であることを拒む。
「抵抗するのは当然だ」
名を捨てた設計官が、淡々と言う。
「ここは“選ばれた者”が座る場所だ。君は選ばれていない――選びに来た側だからな」
空席が、形を変えた。
王座だったものが歪み、無数の腕と背もたれの影が絡み合い、人の形に近づいていく。
座るための席ではない。
――座らせるための存在。
「……悪趣味だ」
アルフレッドは剣を構える。
次の瞬間、空席が動いた。
踏み込みはない。
斬撃もない。
役割の押し付け。
視界が揺れ、アルフレッドの脳裏に、いくつもの未来像が流れ込む。
世界を管理する自分。
敵を選別する自分。
破壊を“必要悪”として計算する自分。
『これが最適解だ』
声が、直接思考に触れる。
『君が座れば、セイセス=セイセスは終わり、虚空教団は満足し、世界は安定する』
黒い石が、わずかに鈍る。
――迷い。
アルフレッドは、歯を食いしばった。
「……ふざけるな」
剣を、自分の足元へ突き立てる。
世界が震えた。
「最適解なんて、誰かが座って決めるものじゃない」
剣を引き抜き、そのまま空席へと投げ放つ。
刃は途中で止まらない。
防がれない。
概念に、直接突き刺さる。
空席が、初めて――
悲鳴に似た歪みを上げた。
「な……!」
設計官が一歩、退く。
「君は、壊すだけの存在ではなかったのか……!」
「違う」
アルフレッドは、拳を握る。
「俺は――座らない存在だ」
黒い石が、完全に呼応する。
砕けた中枢、破壊された都市、拒絶された役割。
それらすべてが、一本の線で繋がる。
アルフレッドは前に出た。
剣を掴み直し、空席の“中心”を、真正面から貫く。
轟音はない。
爆発もない。
ただ――
座るという前提が、消えた。
紋章が崩れ、役割が解体され、空席は、ただの“空間”へ戻っていく。
設計官は、静かに膝をついた。
「……これでいい」
その輪郭が、霧のように薄れる。
「誰も、もう座らない」
最後に残ったのは、黒い石の脈動だけだった。
だが――それも、少し変わっている。
導く音ではない。
命じる音でもない。
並走する鼓動。
アルフレッドは剣を収め、深く息を吐く。
「……行くぞ」
誰に向けた言葉でもない。
中枢の奥は、完全に沈黙した。
そして同時に――
セイセス=セイセスも、虚空教団も、
“彼をどう扱うか”を、考え直さねばならなくなった。
中枢が沈黙してから、時間という概念だけが戻ってきた。
崩壊は止まり、再生も始まらない。
瓦礫は瓦礫のまま、空間は空間のまま。
――そして、誰も“座らなかった”。
アルフレッドは、しばらくその場に立っていた。
黒い石の脈動は、かすかに、しかし確かに続いている。
(終点ではない……分岐点、か)
その時だった。
空間の奥、中枢のさらに奥――存在しないはずの場所に、歪みが生じる。
音はない。
姿もない。
だが、観測される前提だけが、先に立ち上がった。
「……なるほど」
声が、遅れて届く。
それは女の声でもあり、複数の声が重なったようでもあった。
「やはり壊したか。座らず、従わず、置き換えも拒む」
空間が、薄く染まる。
闇ではない。
光でもない。
夜そのもの。
「リリス=ノクティル……」
アルフレッドが名を口にすると、
声は愉快そうに笑った。
「正解。――と言いたいところだけれど」
夜の向こうで、何かが“こちらを見ている”。
「私はここにいない。でも、いないからこそ――干渉できる」
黒い石が、わずかに熱を持つ。
「中枢を壊したのは、正しい。でもね、アルフレッド」
声が、近づく。
「壊された中枢は、必ず“代替”を生む」
空間に、細かな亀裂が走る。
それは構造ではなく、因果の裂け目。
「セイセス=セイセスは、もう一度同じ過ちを犯す。虚空教団は、記録という名でそれを肯定する」
一拍。
「そして――君は、また呼ばれる」
アルフレッドは答えない。
ただ、剣の柄に手を置く。
「ふふ……その顔」
夜が、満足げに揺れる。
「安心して。次に会う時は――ちゃんと“実体”を用意するから」
夜は、ふっと消えた。
残されたのは、再び静まり返った中枢跡と、黒い石の、変質した脈動。
それは、以前のように目的地を示さない。
代わりに――複数の方向へ、微細な共鳴を発していた。
「……選択肢が増えた、か」
アルフレッドは小さく息を吐き、歩き出す。
出口へ向かう途中、瓦礫の陰で、誰かが記録符を閉じる音がした。
ベイリル=オラリオン。
彼は姿を現さず、ただ一言だけ残す。
「……今日の出来事は、“記録不能”として扱われるだろう」
アルフレッドは立ち止まらない。
「それでいい」
地上へと続く通路に、光が差す。
世界は、まだ壊れていない。
だが、もう元には戻らない。
黒い石が、静かに脈打つ。
次の旅路は――誰かが用意したものではない。
アルフレッド自身が、踏み込むことで決まる場所だった。




