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第二十六話

 谷を離れ、焦げた大地の縁に立ったとき、アルフレッドは一度だけ振り返った。


 そこに、もう敵はいない。

 リリス=ノクティルの狂気も、闇の円環も、世界を殴るような圧力も――すべてが、確かに「過去」になっていた。


 だが、残滓は消えていない。


(……次は、もっと深い)


 懐の奥で、黒い石がはっきりとした意思を伴って脈動する。

 これまでのような微かな誘導ではない。方向も、距離も、危険度さえも――伝えてくる。


 北東。

 山脈を越えたさらに先。


 アルフレッドは外套を直し、剣を背負い直した。


「行くぞ」


 誰にともなく、そう言う。


 黒い石は応えるように、一定のリズムで鼓動を刻む。

 まるで――心臓が二つになったかのように。


 道は、すぐに消えた。

 獣道も、街道もない。あるのは、岩と風と、空の低さだけ。


 だが、足取りに迷いはない。


 彼はすでに理解していた。


 黒い石は、単なる道標ではない。

 敵が動いた結果として生じる“歪み”を指し示している。


 つまり――


 次に辿り着く場所は、セイセス=セイセスか、虚空教団ベイリル=オラリオンか、あるいはその両方が関与する“臨界点”。


 戦場である以前に、世界が破綻しかけている場所だ。


 山影に、陽が沈む。

 空は赤く、雲は低く垂れ込める。


 アルフレッドは歩き続ける。


 復讐のためでもない。

 正義のためでもない。


 ただ――


 壊すべき歪みが、そこにあるからだ。


 こうして、黒い石の導きのまま、アルフレッドの戦記は、次なる物語へと踏み出していく。


 次の敵は、まだ名を持たない。

 だが確実に、彼を待っている。


 ――脈動は、止まらない。



 山脈を越えた先、風の質が変わった。


 冷たい。

 だが、それ以上に――軽い。


 空気が薄いわけではない。重さそのものが削ぎ落とされ、物も音も、現実感を失いかけている。


(……ここは、既に“削られている”)


 アルフレッドは歩みを止め、黒い石を取り出した。

 脈動は一定だが、その響きは鈍く、まるで厚い布越しに聞く心音のようだ。


 前方に見えるのは、巨大な盆地。

 かつては湖だったのだろう。今は水はなく、白く干上がった底に、幾何学的な塔群が立ち並んでいる。


 自然物ではない。

 都市でもない。


 配置されたものだ。


 塔はどれも半透明で、内部に何かが封じられているのが見て取れる。

 人影。

 獣影。

 あるいは、形容しがたい概念の塊。


「……収容区画か」


 セイセス=セイセスか、虚空教団か。

 どちらにせよ、ここは保管庫だ。


 アルフレッドが一歩踏み出した瞬間、足元の地面が音もなく沈んだ。


 罠――ではない。

 受け入れだ。


 空間が、ゆっくりと彼を盆地の底へと降ろしていく。


 やがて、塔の間の通路に立つ。


 静かだ。

 あまりにも。


 その沈黙を破ったのは、背後からの拍手だった。


「やはり、来たか」


 振り返る。


 そこに立っていたのは、白い外套の男。

 仮面はない。顔立ちは整っているが、目だけがどこか空っぽだ。


「歓迎しよう。ここは――虚空教団ベイリル=オラリオンの第二観測保管区」


 アルフレッドは、剣に手をかける。


「観測者か」


「いや」


 男は首を振る。


「私は記録官。見る者ではなく、残す者だ」


 男は、塔の一つに手を触れる。


 内部で、何かが蠢いた。


「ここには、君と似た“変数”が眠っている。破壊しきれなかった者。殺すには惜しかった者」


 男の視線が、アルフレッドに戻る。


「君は、その続きを見に来た」


 黒い石が、強く脈動した。


 拒否ではない。

 警告だ。


「用件を言え」


 アルフレッドの声は、低い。


「簡単だ」


 記録官は、静かに告げた。


「ここで、選べ」


 塔が、一斉に光を帯びる。


「壊すか。引き継ぐか」


 アルフレッドは、盆地を見渡す。


 無数の封印。

 無数の可能性。


 彼は理解する。


 ここは戦場ではない。

 分岐点だ。


 剣を抜くかどうかで、世界の形が変わる場所。


 黒い石の脈動が、さらに強まる。


 次の一歩が、これまで以上に重い意味を持つことを、アルフレッドは嫌というほど理解していた。


 それでも――


 彼は、足を止めなかった。



 塔の光が、ゆっくりと強まっていく。


 半透明の壁越しに見える“中身”が、より鮮明になる。

 それは単なる捕虜ではなかった。


 剣を持つ者。

 魔法陣に縛られた者。

 人の形をしていながら、どこか世界と噛み合っていない者。


 ――アルフレッドと同質の存在。


「君は、気づいているはずだ」


 記録官は淡々と語る。


「黒い石が導くのは、敵ではない。歪みだ」


 アルフレッドは、最も近い塔の前に立つ。

 中に封じられているのは、彼と同じ年頃の男。

 だが、その胸には――雷に焼かれた痕跡があった。


「……俺の、可能性か」


「正確には」


 記録官は訂正する。


「君になり得た存在だ」


 男は微動だにしない。

 眠っているのではない。

“保留”されている。


「彼は、君と同じ場所に立ち、違う選択をした。結果、世界に適応しきれず、破綻しかけた」


 アルフレッドの拳が、わずかに握られる。


「だから、閉じ込めた?」


「保護した」


 記録官の声に、感情はない。


「壊せば済む話だ。だが、虚空教団は“可能性”を無駄にしない」


 沈黙。


 塔の奥で、封じられた男の指が、わずかに動いた。


 それだけで、黒い石が鋭く脈動する。


(……呼んでいる)


 アルフレッドは理解する。


 これは誘導ではない。

 共鳴だ。


「選択肢は二つだ」


 記録官が告げる。


「この区画を破壊し、すべてを終わらせる。あるいは――」


 一拍、置く。


「“引き継ぐ”」


「引き継ぐ、だと?」


「そう」


 記録官は初めて、僅かに笑った。


「彼らを解放し、世界に再配置する」


「君の意思を、君の責任で」


 アルフレッドは、剣の柄に手を置く。

 だが、抜かない。


「……それは」


「君が最も嫌う形だろう?」


 記録官は見抜いている。


「守るわけでもない。救うとも言えない。ただ、“選ばせる”だけだ」


 塔の光が、不安定に揺らぐ。


 遠くで、何かが軋む音がした。

 ここが、完全な安全圏ではないことを示す兆候。


 ――セイセス=セイセスか。

 ――あるいは、リリス=ノクティルか。


 誰かが、近づいている。


 アルフレッドは、静かに息を吐いた。


「……質問だ」


「答えよう」


「俺が全部壊したら?」


 記録官は、少しだけ考えた。


「世界は、単純になる。だが――」


 視線が、塔群へと向く。


「君は、より孤独になる」


 アルフレッドは、目を閉じる。


 短い沈黙。


 そして――


 彼は、剣を抜いた。


 だが、その切っ先は、塔ではなく、地面へ向けられる。


「俺は、観測者にも管理者にもならない」


 雷が、低く唸る。


「引き継ぐ気もない」


 記録官の目が、わずかに見開かれる。


「……なら、何をする」


 アルフレッドは、剣を地面に突き立てた。


「全部、叩き起こす」


 雷が、地脈を走る。


 塔群の術式が、一斉に悲鳴を上げた。


「選ばせる時間すら、与えない。目覚めた瞬間に――」


 視線が、正面を射抜く。


「自分で立てるかどうかを、試させる」


 塔のひとつが、ひび割れる。


 次の瞬間、封じられていた“可能性”が、この世界へと――解き放たれようとしていた。


 虚空教団の保管区は、静かな分岐点から、制御不能の戦場へと変わり始める。


 そして遠くで、確かに――狂気じみた気配が、笑った。



 ひび割れは、連鎖した。


 一つの塔が鳴いた瞬間、盆地全体がそれに呼応する。

 半透明の壁に走る亀裂は、蜘蛛の巣のように広がり、封じられていた“可能性”たちの鼓動が、空気を震わせた。


「……君は、本当に」


 記録官の声に、わずかな揺らぎが生じる。


「最も厄介な選択をする」


 アルフレッドは答えない。

 剣を地面に突き立てたまま、雷を抑え込んでいる。


 放てばいい。

 破壊すればいい。

 だが、そうしない。


(壊すだけなら、今までと同じだ)


 彼は歯を食いしばり、雷の流れを細分化する。

 塔を砕くためではない。

 術式の“拘束条件”だけを焼き切るために。


 最初の塔が、静かに崩れ落ちた。


 中から現れたのは、雷痕を胸に刻んだ男。

 地面に膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。


「……ここは……」


 次々と、塔が解かれていく。


 剣士。

 魔術師。

 名も形も定まらない、歪な存在。


 彼らは皆、同じ目をしていた。


 ――混乱と、怒りと、恐怖。

 そして、その奥にある生への執着。


「立て」


 アルフレッドの声が、盆地に響く。


「ここは安全じゃない」


 記録官が、低く息を吐いた。


「無責任だ」


「違う」


 アルフレッドは、剣を引き抜きながら言う。


「責任を分散しただけだ」


 その瞬間、空間が歪んだ。


 盆地の縁――塔の影に、闇が滲む。

 粘つくような瘴気。

 よく知った、狂気の質。


「あは……やっぱり」


 闇の中から、声がした。


「君、そうすると思ってた」


 現れたのは、リリス=ノクティル。


 以前よりも、輪郭が曖昧だ。

 完全な顕現ではない。投影に近い。


「虚空教団の保管庫を、強制解放? 最高だよ、ほんと」


 彼女は、楽しそうに拍手する。


「ねえアルフレッド。その人たち――」


 視線が、解放された者たちへ向く。


「今、誰の味方か分かる?」


 解放された者たちの中で、何人かが、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞳に、黒い光が宿り始めていた。


 セイセス=セイセスの瘴気。

 すでに、染み込んでいる。


「……来たか」


 アルフレッドは、一歩前に出る。


「来たよ」


 リリスは、愉快そうに言う。


「君が起こした“目覚め”の結果。選択させないって、こういうこと」


 闇が、盆地に広がる。

 解放された者たちの中から、叫び声が上がる。


 ある者は剣を抜き、ある者は魔力を暴走させ、ある者は――闇に膝をついた。


 戦場が、完成した。


 記録官が、静かに後退する。


「ここから先は、観測外だ」


 その姿が、光に溶けて消える。


 アルフレッドは、剣を構え直した。


 敵は、セイセス=セイセスだけではない。

 虚空教団でもない。


 ――選択を与えられなかった可能性そのものだ。


 リリス=ノクティルの笑い声が、谷に反響する。


「さあ、どうする?」


「壊す? 守る? それとも――」


 彼女は、囁く。


「全部、背負う?」


 アルフレッドは、雷を纏う。


 答えは、言葉ではない。


 踏み出す一歩が、彼の選択だった。



 雷が走ろうとした、その刹那――世界が、一段低く沈んだ。


 重力ではない。

 圧でもない。


“階層”が落とされた。


「……っ!」


 アルフレッドの踏み込みが、半拍遅れる。

 足元の地面が、彼の存在を拒むように軋んだ。


 その中心で、拍手が鳴る。


「いやあ……これはこれは」


 乾いた音。

 楽しげで、どこか芝居がかった声。


「実に素晴らしい混沌だ」


 闇が裂け、そこから男が現れた。


 長身。

 黒と灰の外套。

 そして、首元に刻まれた――セイセス=セイセス幹部位階の紋章。


 グラウ=ヴァルツ。


 かつてアルフレッドと刃を交え、彼の“値”を測ろうとした狂気の分析者。


「虚空教団の保管区を解放するとはねぇ……」


 グラウは、ゆっくりと周囲を見渡す。


「これはもう、実験じゃない」

「災害だ」


 リリス=ノクティルの投影が、くすくすと笑う。


「今さら何を言ってるの、グラウ。あなたが好きそうな状況じゃない」


「好きだとも」


 グラウは即答した。


「だが、制御不能なのは趣味じゃない」


 彼の視線が、アルフレッドへと向く。

 先ほどまでの軽薄さが、すっと消える。


「久しぶりだね、アルフレッド」


「……また来たか」


「来るさ」


 グラウは両腕を広げる。


「君が“想定外”を起こす限り、私は必ず現れる」


 解放された可能性たちの中で、闇に膝をついていた者たちが、一斉に硬直した。


 次の瞬間――糸が張られる。


 見えない糸。

 だが確かに、彼らの“選択”を縛る糸。


「……っ、何をした」


 アルフレッドが低く問う。


「簡単な再分類だよ」


 グラウは指を鳴らす。


「暴走個体、利用価値あり。自我保持、観測対象。危険度過剰――」


 彼は、笑って言った。


「処分枠」


 闇に沈みかけていた数体が、悲鳴すら上げられず、その場で“折り畳まれた”。


 存在が消えるのではない。

 使われる前に、無効化された。


 リリスの笑みが、わずかに歪む。


「あー……それ、私の獲物なんだけど?」


「分かっている」


 グラウは視線も向けずに答えた。


「だが、今は“舞台”を整える方が先だ」


 そして、改めてアルフレッドを見る。


「君のやったことは、面白い。だがね――」


 一歩、踏み出す。


 その一歩で、盆地の歪みが安定する。


「世界を起こすなら、倒れる順番も決めないといけない」


 アルフレッドは、剣を構えた。


「……俺の邪魔をするなら」


「するとも」


 グラウは、心底楽しそうに笑った。


「君は、今“選択の神”みたいな顔をしている。それはね――」


 指先が、アルフレッドを指す。


「一番、殺したくなる顔だ」


 雷と闇と、観測と制御が、この盆地で交錯する。


 リリス=ノクティルは、愉快そうに囁いた。


「いいねぇ……。三つ巴だ」


 こうして、戦場は新たな段階へ入る。


 アルフレッド、セイセス=セイセス幹部グラウ=ヴァルツ、同じくセイセス=セイセスのリリス=ノクティル。


 誰も、退く気はない。


 そしてこの瞬間、黒い石の脈動は――警告音のように、速く、強く鳴り始めていた。



 盆地の空気が、三層に割れていた。


 最前線――

 アルフレッドと、グラウ=ヴァルツが向かい合う場所。


 中間層――

 実体を持たぬまま、影と呪理だけを差し込むリリス=ノクティルの干渉領域。


 そして最外縁――

 時間と記録だけが存在を許される、虚空教団ベイリル=オラリオンの観測層。


 記録官は、その境界に立っていた。


 いや――

 立つことしか、許されていなかった。


「……なるほど」


 彼は、誰にともなく呟く。


「この状況では、私は“手を出す”と消される」


 観測者でも、管理者でもない。

 ただ“記録するための存在”。


 アルフレッドが剣を振るえば、グラウが因果を編めば、リリスが意味を歪めれば――


 その瞬間瞬間を、残す役目。


 それ以上の干渉は、虚空教団の規範に反する。


(……皮肉だ)


 記録官は、内心で思う。


(最も世界に影響を与える瞬間に、最も無力でいなければならないとは)


 だが、目は逸らさない。


 この戦いは、後に“参照される戦争”になる。


 そう確信していた。


「さて」


 グラウ=ヴァルツが、愉快そうに手を打つ。


「改めて整理しようか」


 彼は、盆地に散らばる解放された可能性たちを一瞥する。


「暴走因子。不安定な変数。そして――君だ、アルフレッド」


 視線が、真っ直ぐに突き刺さる。


「この場にいる“最大の不確定要素”」


 アルフレッドは、雷を纏ったまま動かない。


「……お前は、制御するつもりか」


「制御?」


 グラウは肩をすくめた。


「違う。整形だ」


 指を鳴らす。


 空間に、無数の数式と魔導符が浮かび上がる。

 それは攻撃術式ではない。


 戦場そのものを、計測可能な形に押し込める構造。


「この混沌はね、リリス」


 グラウは、虚空を見て語りかける。


「君の趣味に近すぎる。だが、それは長く保たない」


 闇が、くすりと笑う。


「怖いの?」


「いいや」


 グラウは即答した。


「壊れる前に、使い切りたいだけだ」


 その瞬間、リリスの干渉が走る。


 空間の“意味”がねじ曲げられ、グラウの数式の一部が、別の解釈を強制される。


「グラウ、あなたはいつも急ぎすぎ」


 声だけが、甘く響く。


「測定途中で切り刻んだら、一番美味しいところ、逃すよ?」


「分かっているさ」


 グラウは笑う。


「だから――」


 一歩、踏み出す。


 その瞬間、アルフレッドとの距離が、無意味になる。


 近い、遠い、という概念が消えた。


「まずは、彼自身を測る」


 アルフレッドは即座に斬り込む。


 雷が、因果の数式を焼き切る。


「測るな」


 低い声。


「俺は、試される側じゃない」


「そう言うと思った」


 グラウは、楽しそうに迎え撃つ。


 剣と、構造式がぶつかる。

 火花ではなく、定義の破片が散る。


 リリスの影が、そこに絡みつく。


 攻撃ではない。

 選択肢を増やす干渉。


 斬撃が、三通りの結果を持つ。

 回避が、五つの未来へ分岐する。


「ほらほら、アルフレッド」


 声が、頭の奥で囁く。


「あなた、どれを選ぶ? それとも――」


 アルフレッドは、雷を一つに収束させる。


「全部、潰す」


 選択肢そのものを、破壊する一撃。


 雷が落ち、盆地の一角が、可能性ごと消失する。


 グラウの目が、わずかに見開かれた。


「……やはり、規格外だ」


 記録官は、その瞬間を逃さず刻む。


《対象アルフレッド、分岐破壊型の選択行動を確認》


 だが、彼は理解していた。


 この戦いは、まだ均衡している。


 リリスは実体を持たぬまま、意味と選択に触れられる。


 グラウは現地に存在し、戦場を“制御可能な実験場”に保っている。


 アルフレッドは、そのどちらにも属さず、壊すことで均衡を拒絶している。


 記録官は、静観するしかない。


 だが――


(この均衡は、長く続かない)


 黒い石の脈動が、もはや“導き”ではなく警鐘として鳴り響いていた。


 次に崩れるのは、誰の立場か。


 それを知る者は、この場には――まだ、いない。



 警鐘のような脈動が、アルフレッドの胸奥で反響する。


 速い。

 乱れている。

 まるで――黒い石そのものが、この場を嫌悪しているかのようだ。


(……均衡が、限界か)


 アルフレッドは、剣先をわずかに下げたまま、視線だけで戦場を測る。


 グラウ=ヴァルツは健在。

 構造式は崩されても、即座に再編される。

 制御の精度が異常だ。長期戦になれば、確実に不利。


 リリス=ノクティルは実体を持たない。

 だが、意味・選択・因果の分岐に触れられる以上、放置すれば戦場は無限に歪む。


 そして――

 解放された“可能性”たちは、もはや爆弾だ。


「いい顔してるよ、アルフレッド」


 リリスの声が、柔らかく囁く。


「迷ってる顔。壊すだけじゃ、済まないって気づいた顔」


「黙れ」


 アルフレッドが吐き捨てる。


「……だが、否定はしない」


 グラウが、くつくつと笑った。


「ほら、見ろ」

「君はもう、単なる破壊者じゃない」


 彼は、指先で空間をなぞる。


 すると、盆地の各所に安定化ノードが浮かび上がった。

 解放された可能性たちの動きが、目に見えて鈍る。


「君が“全部叩き起こす”なんて真似をしたからだ。世界は、君を無視できなくなった」


 グラウは、はっきりと告げる。


「つまり――君はもう、局地変数じゃない」


 その言葉に、記録官の筆が一瞬止まる。


 そして、静かに記す。


《対象アルフレッド、世界影響度、臨界値突破》


 リリスが、愉快そうに声を弾ませる。


「やだ、もう“世界案件”? ねえグラウ、これ虚空教団に渡したら、また仮面増えるんじゃない?」


「それは困るな」


 グラウは即答する。


「私は、君を“完成前”で管理したい」


 その視線が、鋭くアルフレッドを射抜く。


「だから提案だ」


「……提案?」


「そう」


 グラウは、戦場に立ったまま、両手を広げた。


「この場は、引く」

「君も、私も、リリスも」


 空気が、張り詰める。


「何を企んでいる」


「企み?」


 グラウは笑った。


「次の段階へ進むための準備さ」


 彼は、リリスの影を一瞥する。


「君の遊び場は、もっと深層に用意しよう。ここじゃ、浅すぎる」


 リリスは、しばらく黙った後――

 くすりと笑った。


「……ふふ。珍しく意見が合うね」


 闇が、わずかに引く。


「アルフレッド。次は、“壊すだけ”じゃ足りない場所で会おう」


 アルフレッドは、剣を構えたまま動かない。


「……逃げる気か」


「撤退だ」


 グラウは、あっさり言った。


「逃走とは、意味が違う」


 彼の背後で、構造式が逆回転を始める。

 安定化ノードが、次々と収束し、盆地の歪みが急速に沈静化していく。


 リリスの投影が、薄れていく。


「次はね」


 声だけが、残る。


「あなたが“何を背負うか”ちゃんと決めてから来て」


 闇が消える。


 続いて、グラウが外套を翻した。


「アルフレッド」


 最後に、真剣な声で言う。


「君はもう、私たちの敵である前に、素材だ」


 光が走り、グラウ=ヴァルツの姿が消失する。


 盆地に残されたのは、静まり返った空気と、解放されたまま立ち尽くす可能性たち。


 記録官は、ゆっくりと息を吐いた。


「……この場は、終わった」


 そして、アルフレッドを見る。


「だが、君の戦争は――今、始まった」


 アルフレッドは、剣を下ろし、黒い石を握りしめる。


 脈動は、まだ止まらない。


 だがその響きは、これまでとは違っていた。


 導きでも、警告でもない。


 問いだ。


 ――次に壊すのは、敵か。

 ――それとも、選択そのものか。


 答えは、まだ出ない。


 だが、歩みは止まらない。


 アルフレッドは、ゆっくりと盆地を後にした。


 その背後で、

 世界は静かに――

 次の章の準備を始めていた。

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