第二十五話
夜明け前の空は、鉛色に沈んでいた。
ヴァル=ネアを離れて半日。
アルフレッドは、かつて街道だった痕跡を辿りながら、無言で歩き続けていた。舗装は砕け、道標は倒れ、ここが「道」であったという記憶だけが、地面に薄く残っている。
黒い石は懐の奥で静かだ。
脈動はある。だが、これまでのように急かすものではない。
(……待っている、か)
追え、とも。
殺せ、とも。
今は語らない。
それが逆に、アルフレッドの神経を研ぎ澄ませていた。
丘を越えた先で、風向きが変わる。
乾いた匂いに、鉄と油の気配が混じった。
人の営み――だが、街ではない。
アルフレッドは足を止め、低い岩陰から様子を窺う。
見えたのは、仮設の集落だった。
天幕、荷車、簡易炉。だが兵士の配置は整いすぎている。物資の運び方も、退路の確保も、戦場を前提にした動きだ。
(傭兵団……いや、違う)
黒晶製の杭が、地面に等間隔で打ち込まれている。
それは防壁ではない。術式の基点だ。
「セイセス=セイセスの前線か」
だが、規模が小さい。
拠点というより――中継点。
アルフレッドがそう判断した、その瞬間。
空気が、わずかに歪んだ。
「……見つかっているな」
背後ではない。
上だ。
岩壁の上に、いつの間にか人影が立っていた。
長衣に、素顔。
だが、目だけが異様に澄んでいる。
「警戒しなくていい。今は撃たない」
男は両手を見せた。
「私はセイセス=セイセスではない。だが、あれに属していた」
アルフレッドは剣に手をかけたまま、視線を逸らさない。
「裏切り者か」
「追放者だ」
男は苦く笑う。
「君の噂は、内部にも届いている。“黒い石に選ばれた破壊者”。グラウが高揚した理由も、理解できる」
その名に、アルフレッドの目が細くなる。
「……用件は」
「忠告だ」
男は真剣な顔になった。
「この先にあるのは、拠点ではない。実験場だ。都市でも、施設でもない」
一拍、置いてから告げる。
「――人間を素材に、世界構造を書き換えるための場所だ」
風が、天幕を揺らす。
遠くで金属音が鳴った。
アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。
「場所は」
男は一瞬、逡巡し――指をさす。
「黒い石が、もう示しているだろう」
確かに。
懐で、石が脈打った。
男は続ける。
「そこには、セイセス=セイセスだけじゃない。虚空教団も――深く噛んでいる」
「観測者とは、別口だ」
アルフレッドは、剣を完全に抜いた。
「……十分だ」
男は安堵したように頷く。
「やはり、止める気はないか」
「止める?」
アルフレッドは岩陰から立ち上がる。
「潰す」
その言葉に、男は目を閉じた。
「なら、せめて――これを」
投げ渡されたのは、小さな黒晶片。
だが、質が違う。歪みが少なく、純度が高い。
「内部通行符号だ。完全じゃないが、深部まで潜れる」
「借りは?」
「生き延びろ」
男は、それだけ言って背を向けた。
次の瞬間、姿が消える。
追跡の痕跡は、最初から存在しなかったかのように。
アルフレッドは黒晶片を握りしめる。
(実験場……か)
復讐だけでは、足りない段階に来ている。
それを、否定する気はなかった。
黒い石が、はっきりと鼓動を強める。
進め、と。
アルフレッドは、仮設集落を迂回し、
さらに奥――世界が歪み始める地点へと、歩を進めた。
次の戦いは、
もう「戦場」ですらない。
――世界の裏側だ。
地平が、歪んでいた。
進むほどに、距離感が狂う。
一歩が十歩に延び、十歩が半歩
……と感じた瞬間、アルフレッドは立ち止まった。
足元の影が、微妙に遅れて動いたのだ。
光源は一定、影だけが半拍ずれる――空間の位相が捻じれている証拠。
(ここから先は、普通の場所じゃない)
黒い石が、低く唸るように脈打つ。
導くというより、共鳴している。
前方に、構造物が現れた。
都市でも、砦でもない。
地面から突き出た無数の柱――黒晶と金属、骨と肉が混ざり合ったような材質。柱同士は宙に浮いた線で結ばれ、網目状の術式が空間そのものに刻まれている。
――実験場。
男の言葉は誇張ではなかった。
柱の間を、何かが歩いている。
人の形だが、動きが揃いすぎている。首の角度、歩幅、視線の高さ。個体差がない。
(操られている……いや)
アルフレッドの目が細まる。
(同期している)
個々が命令を受けているのではない。
一つの“意思構造”を、複数の肉体が共有している。
その中心――最も高い柱の下で、空間が折り畳まれた。
音もなく、人物が“組み上がる”。
仮面はない。
だが、顔はどこか均整が崩れている。左右が微妙に噛み合っていない。人を模した像が、後から調整されたような歪み。
「来たか」
声は、複数の方向から同時に響いた。
「黒い石の担い手。いや――変数」
アルフレッドは剣を抜かなかった。
代わりに、一歩踏み出す。
「セイセス=セイセスか」
「その名も、もう一つの殻だ」
人物は、胸に手を当てる。
「私は管理者。観測者が“見る”存在なら、私は“調整する”側」
黒晶の柱が、一斉に低鳴りを上げる。
同期体たちが、ゆっくりとこちらを向いた。
「君は予定外だった。だが――」
管理者の口元が、歪に吊り上がる。
「使える」
その瞬間、アルフレッドの背後で空間が崩れた。
退路が、消える。
前方の柱が、人型へと再構成されていく。
肉体ではない。
術式そのものが敵になる。
黒い石が、鋭く脈動した。
(やはり、ここか)
アルフレッドは、剣を構える。
「忠告しておく」
管理者が言う。
「ここでは、力を振るうほど――君自身が素材になる」
アルフレッドは、静かに笑った。
「なら、都合がいい」
雷光が、剣身を走る。
「素材が壊れれば、実験は失敗だ」
次の瞬間、世界の裏側で、
戦いが始まった。
雷光が走った瞬間、空間そのものが悲鳴を上げた。
剣が振るわれたのではない。
世界の継ぎ目が、斬られた。
管理者の足元から、幾何学的な紋様が砕け散る。柱から再構成されかけていた人型が、形を保てず、黒晶の破片と情報の残滓へと分解された。
「……なるほど」
管理者は一歩も退かない。
だが、その声には明確な高揚が混じった。
「物理破壊ではない。構造理解の上で、位相を壊している」
同期体が、一斉に動く。
四方八方から踏み込む動きは、無駄がなく、感情もない。
だが――
(浅い)
アルフレッドは、迎撃ではなく踏み込んだ。
雷を纏った剣が、最初の一体を切り裂く。
肉体は存在しているが、魂がない。斬った感触が軽すぎる。
次の瞬間、その個体が崩壊するより先に、背後の同期体が同じ動作を再現した。
「学習速度が異常だな」
アルフレッドは回転しながら斬撃を重ねる。
「いいデータだ」
管理者が、両腕を広げた。
柱が鳴動し、空間に“層”が生まれる。
重なった世界の断面が、刃の軌道を歪めた。
斬ったはずの敵が、半拍遅れて存在を主張する。
(時間操作じゃない……順序の再配置)
アルフレッドは瞬時に理解し、剣を止めた。
次の瞬間、雷光が剣から離れ、空中で爆ぜる。
同期体の一群が、まとめて吹き飛んだ。
「――分離か!」
管理者が、初めて一歩下がる。
「通常、君たちは“武器=肉体”という前提で戦う。だが君は、魔力を独立した存在として扱っている」
「分析は終わったか」
アルフレッドは、低く言った。
「次は、こちらの番だ」
黒い石が、強く脈動する。
柱の一本が、震えた。
「……?」
管理者の視線が、わずかに揺れる。
柱が、拒絶したのだ。
「共鳴を、奪った?」
アルフレッドは踏み込む。
「お前は“調整者”だ。だが――」
剣が、管理者の目前まで迫る。
「世界の持ち主じゃない」
雷光が、爆発的に解放された。
管理者の身体が、光に包まれ、
輪郭が、ほどける。
だが――完全には消えない。
「はは……!」
歪んだ笑いが、複数の方向から響く。
「いい! 実にいい!」
管理者の姿が、柱の影へと分散する。
「ここでは終わりだ、変数。だが、次は条件を揃える」
柱が一斉に沈み、実験場が収縮を始める。
空間が、畳まれる。
(強制排除か)
アルフレッドは舌打ちし、後退する。
最後に、管理者の声が響いた。
「セイセス=セイセスは、もう“組織”じゃない。虚空教団も同じだ」
一拍。
「――君が壊すまで、形を変え続ける」
世界が反転し、アルフレッドの足が、再び大地を踏んだ。
荒野の夜。
実験場の痕跡は、跡形もない。
だが、黒い石は――
これまで以上に、はっきりと脈動していた。
次の戦場は、近い。
アルフレッドは剣を収め、前を見据える。
「……追いかける」
復讐は、もはや個人へのものではない。
世界の歪みそのものが、次なる敵となっていた。
夜明け前の風が、荒野を横切った。
実験場の名残はない。地面はただの砂と岩に戻り、黒晶の柱も、歪んだ空間も、最初から存在しなかったかのように消えている。だが――感触だけが残っていた。
アルフレッドは片膝をつき、掌で地面に触れる。
(完全には消えていない)
微弱だが、確かな違和感。
世界が“修正された”痕跡。
黒い石が、胸元で脈打つ。
先ほどまでの導きとは異なる、指差すような衝動。
西ではない。
北――山脈の向こうだ。
アルフレッドは立ち上がり、外套を整える。
そのとき、背後で小さな音がした。
砂利を踏む音。
人の気配。
剣を抜くには至らない。だが、全身の感覚を張り詰める。
「……出てこい」
数拍の沈黙の後、岩陰から姿を現したのは――子供だった。
十にも満たない少女。
薄汚れた外套に身を包み、痩せた手には短い杖。魔力はほとんど感じられない。
だが、目が違った。
焦点が、合っていない。
いや――合いすぎている。
「あなた……壊した人?」
少女は、躊躇なく言った。
「“柱の世界”」
アルフレッドは、動きを止めた。
(見えていた……?)
「ここには、もう何もない」
「ううん」
少女は首を振る。
「“何もない”っていう形に、なっただけ」
短い沈黙。
風が、二人の間を通り抜ける。
「君は何者だ」
アルフレッドの問いに、少女は少し考えたあと、素直に答えた。
「私は……余白」
その言葉に、黒い石が一瞬、強く反応した。
「見られなかった未来の端っこ。観測者が捨てた可能性」
アルフレッドは、少女から目を離さない。
「ベイリル=オラリオンの関係者か」
「ちがう」
即答だった。
「でも、あの人たちは私を“誤差”って呼ぶ」
少女は、アルフレッドを見上げる。
「あなたは、誤差を壊す?」
アルフレッドは、少しだけ考えた。
「壊すかどうかは、選ぶ」
少女の口元が、わずかに緩む。
「……よかった」
彼女は、杖で地面を指した。
そこに、薄く光る線が浮かび上がる。
山脈へと続く、古い街道。
「次は、あそこ」
アルフレッドは、その線を見つめる。
「何がある」
「“形を持とうとしている戦場”」
少女は、淡々と告げた。
「セイセス=セイセスの残骸と、虚空教団の先触れが、重なる場所」
夜明けの光が、地平を染め始める。
アルフレッドは歩き出した。
「来るか」
少女は、少し驚いたように瞬きをしてから、頷いた。
「……うん」
二人は並んで、街道へ向かう。
戦いは、終わっていない。
むしろ――輪郭を持ち始めただけだ。
そしてその輪郭の中心には、アルフレッドという“変数”が、確かに存在していた。
街道は、山へ近づくにつれて不自然なほど静まり返っていった。
風はある。雲も流れている。
だが、生き物の気配がない。鳥も、虫も、獣も――最初から存在しなかったかのように、世界が空白を保っている。
アルフレッドは歩みを緩めない。
隣を歩く少女の足取りも、疲れを知らぬかのように一定だった。
(……子供の歩幅じゃない)
違和感は、最初からあった。
だが彼は、あえて口にしなかった。
やがて、街道は途切れ、谷へと続く石段に変わる。
谷の底には、霧に包まれた盆地が広がり、その中心に――黒い祭壇が見えた。
黒い石。
古い術式。
そして、地脈を歪めるほどの瘴気。
セイセス=セイセスの拠点。
それも、ただの前線ではない。
「ここだよ」
少女が、立ち止まって言った。
「“形を持とうとしている戦場”」
アルフレッドは祭壇を見据えたまま、静かに問う。
「……最初から、ここへ連れてくるつもりだったか」
「うん」
少女は、あっさりと頷いた。
その瞬間、空気が変わる。
谷を覆っていた霧が、一斉に沈む。
地面に刻まれていた無数の符文が、血のような赤黒い光を放ち始めた。
――結界の完全起動。
「歓迎するよ、アルフレッド」
少女の声は、もう幼くなかった。
澄んでいたはずの声音が、深く、重く、複数の層を持った響きに変わる。
彼女は、ゆっくりと振り返る。
痩せた身体が、軋むように変質していく。
影が引き伸ばされ、背後に角のある獣の輪郭が重なり、瞳が深い紫へと染まった。
外套が裂け、内側から現れたのは、黒晶と肉が融合した紋章。
――セイセス=セイセス幹部位階の証。
「名を、聞かせておこうか」
少女――否、“それ”は微笑んだ。
「私はリリス=ノクティル。闇の眷属を束ねる者。観測でも、調整でもない――供給側だよ」
アルフレッドは、剣を抜いた。
雷が、即座に刃を走る。
「……やはり、餌だったか」
「餌?」
リリスは首を傾げ、楽しそうに笑った。
「ちがうよ。君は触媒」
祭壇の周囲で、地面が割れる。
黒い泥のような影が湧き上がり、人型、獣型、歪んだ翼を持つ影へと変わっていく。
闇の眷属。
瘴気の集合体であり、セイセス=セイセスが“世界の裏側”から引きずり出した存在。
「君が動くたび、世界が歪む。その歪みを糧に、私たちは次の段階へ進む」
リリスの背後で、闇が翼のように広がる。
「虚空教団は“見る”だけ。でも私たちは――使う」
アルフレッドは、低く息を吐いた。
「……ガキの皮を被る趣味、悪いな」
「効率的でしょ?」
無邪気な口調のまま、リリスは手を掲げる。
「さあ。ここからは――実演だ」
闇の眷属たちが、一斉に動き出す。
空間が沈み、重力が歪み、雷光すら飲み込もうとする黒が迫る。
アルフレッドは一歩、前へ出た。
「誘いに乗ったのは、俺だ」
剣を構え、雷を圧縮する。
「――後悔するなよ」
雷鳴が、谷を引き裂いた。
こうして、セイセス=セイセス幹部リリス=ノクティルとアルフレッドの戦いが、正式に幕を開ける。
これは罠ではない。
幹部自らが選んだ、決戦の舞台だった。
雷鳴が谷を震わせた瞬間、闇が笑った。
「――あは。いい音」
リリス=ノクティルは両腕を広げ、歓喜に身を委ねるように仰け反った。
闇の翼が脈打ち、空間そのものが彼女の呼吸に合わせて収縮と拡張を繰り返す。
「ねえ、アルフレッド。分かる?」
「今ここで起きてるの、戦闘じゃないよ」
次の瞬間、雷が落ちる。
一直線の閃光が、彼女の心臓を正確に貫――
貫かなかった。
雷は彼女に触れる直前で、黒い虚空に“溶けた”。
「――ほら」
リリスの指先が、軽く弾かれる。
雷光が、逆流した。
アルフレッドは即座に剣を振り抜き、雷を切断する。
だが切り裂かれた雷は霧散せず、無数の黒い文字へと変質し、空中に固定された。
「雷を“現象”として扱ってる……?」
アルフレッドが低く呟く。
「正解。でも半分」
リリスは楽しげに指を鳴らす。
「私はね、因果を食べるの。魔法が起きる“理由”そのものを、闇に落とす」
空中の黒い文字が、一斉に崩れ落ちる。
それは文字ではなかった。呪文の成立条件だ。
次の瞬間、谷全体が裏返る。
上下の感覚が反転し、空が地面になり、地面が奈落へと変わる。
アルフレッドは踏み込み、無理やり空間を蹴った。
「……ッ、重力操作じゃない!」
「うん。意味の入れ替え」
リリスの声が、四方八方から降り注ぐ。
「落ちる、って概念をね。“生きる”と交換しただけ」
闇の眷属たちが、再び湧き上がる。
だが今回は、数ではない。
一体一体が、異なる死に方を内包している。
斬れば呪い、焼けば腐り、砕けば時間が歪む。
「……狂ってるな」
アルフレッドは、しかし笑った。
「だが、制御している」
雷が、剣ではなく足元に落ちる。
自分自身を中心に、円環が形成される。
「だったら――」
雷が爆ぜ、円環が世界を押し返す。
「制御ごと、叩き割る」
闇の眷属が、一斉に蒸発した。
存在が消えたのではない。成立しなかった。
その中心で、リリスが拍手する。
「最高……! ねえ、ねえ、ねえ!」
彼女の瞳が、狂気に輝く。
「君、壊すのが上手すぎるよ。普通はね、“壊す”って発想すら出てこないの」
リリスは一歩、前に出る。
その足取りで、谷の地脈が悲鳴を上げた。
「だから殺さない。壊れ方を、もっと見たい」
彼女の背後に、巨大な闇の円環が展開する。
そこには、無数の“可能性の死”が渦巻いていた。
アルフレッドは、剣を強く握り直す。
黒い石が、灼けるように脈打つ。
「……上等だ」
雷が、今までとは違う音を立てて走る。
「お前は、ここで終わらせない。だが――」
一歩、踏み出す。
「主導権は渡さない」
雷と闇が、真正面から激突する。
光が、黒に呑まれ。
黒が、光に裂かれる。
勝敗は決まらない。
だが確実に――
この戦いは、
世界の深部にまで爪痕を刻み始めていた。
雷と闇がぶつかり合い、谷の中心で音のない爆発が起きた。
光も衝撃も、外へは広がらない。
代わりに、空間そのものが軋み、引き裂かれた紙のように歪んでいく。
「……いい、いいよそれ!」
リリス=ノクティルは、爆心の中で笑っていた。
身体は確かに裂かれている。肩口から闇が溢れ、片翼は形を失いかけている――それでも、致命には程遠い。
彼女は“削られている”だけだ。
「君、ちゃんと私を“敵”として扱ってる。観測でも、素材でもなく……対等に!」
歓喜に満ちた声と同時に、彼女は両手を地面へ叩きつける。
谷が応えた。
地脈が逆流し、瘴気が噴き上がる。
それは闇の眷属の形を取らない。純粋な“圧”として、アルフレッドを押し潰しにかかる。
剣が悲鳴を上げる。
雷が、押し返される。
「……ッ」
アルフレッドは膝を沈めながら、歯を食いしばった。
(魔法じゃない……世界への要求か)
「そう!」
リリスは即座に肯定した。
「私はね、術式を使わない。“こうなれ”って、世界にお願いするだけ」
その言葉と同時に、圧がさらに増す。
空気が鉛のように重くなり、視界の端が暗転していく。
「でもね」
リリスは、楽しそうに首を傾げた。
「お願いって、拒否されると……ちょっと傷つくんだ」
アルフレッドは、ゆっくりと立ち上がった。
膝が震える。
筋肉が軋む。
それでも、倒れない。
「だったら――」
彼は、剣を地面に突き立てた。
雷が、空ではなく地下へと流れ込む。
「世界に頼むな。叩き起こせ」
雷が地脈を走り、瘴気の流れを強制的に反転させる。
谷が、悲鳴を上げた。
「……っは!」
リリスの表情が、初めて歪む。
歓喜ではない。純粋な興奮だ。
「やっぱり……! 君、世界を“殴れる”側だ!」
彼女は片翼を捨てるように闇を切り離し、後方へ跳ぶ。
致命を避けるための退避――だが、逃走ではない。
空中で、闇が再構築される。
今度は翼ではなく、巨大な円環。
無数の術理、呪詛、失敗した世界の断片が渦を巻く。
「ねえ、アルフレッド。ここで殺し合うの、やめよ?」
その言葉は、あまりにも唐突だった。
「……何?」
アルフレッドが眉をひそめる。
「だって、ここで死んだら――」
リリスは、にやりと笑う。
「次がなくなる」
円環が、ゆっくりと収束を始める。
周囲の闇の眷属が、次々と溶けて吸い込まれていく。
「今日はね、顔合わせ。力量確認。それと――」
一瞬、彼女の視線が鋭くなる。
「合格判定」
空間が、再び歪む。
転移の兆候。
「セイセス=セイセスの“闇”は、君を歓迎する。敵として。壊し甲斐のある存在として」
アルフレッドは、剣を構え直す。
「次は、逃がさない」
「いいねぇ……!」
リリスは、心底嬉しそうに笑った。
「その顔、次に会うまで覚えておくよ」
闇が、彼女を包み込む。
円環が閉じ、痕跡すら残さず、リリス=ノクティルの存在は消えた。
谷に残ったのは、破壊された地脈と、焦げた大地。
そして――
まだ、完全には収まらない黒い石の脈動。
アルフレッドは、深く息を吐く。
「……厄介なのが、出てきたな」
だが、その声に、怯えはなかった。
あるのは、確かな手応え。
セイセス=セイセスは、虚空教団は、そしてリリス=ノクティルは――彼を脅威として認識した。
戦記は、次の段階へ進む。
今度は、彼が“追われる側”ではない。
――狩る側として。




