第二十四話
夜明けは静かだった。
丘を越えた先に広がるのは、かつて街だった場所――旧交易都市ヴァル=ネア。
石畳は割れ、建物は半ば地中へと沈み、風が吹くたびに乾いた金属音のような残響が漂う。人の営みは途絶えて久しいが、それでもなお、この地は“使われている”。
アルフレッドは、黒い石を掌の中で転がした。
脈動は、これまでよりも明確だった。
迷いがない。躊躇もない。まるで――ここが正解だと断言している。
「……随分と分かりやすい誘導だな」
独り言は、崩れた門柱に反響して消える。
セイセス=セイセスは、隠す段階を終えたのだろう。あるいは――隠す意味がなくなったか。
都市に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
瘴気ではない。
魔力でもない。
“意図”だ。
誰かが、この都市全体を「装置」として扱っている。
通りの配置、倒壊の方向、瓦礫の積み上げ方――すべてが偶然を装った必然で組まれている。
「結界じゃない……誘導陣か」
踏み込んだ者を、中心へ導くための構造。
つまり、歓迎されている。
アルフレッドは剣を抜かない。
代わりに、歩みを止めない。
やがて、都市の中央――かつて噴水広場だった場所に辿り着く。
そこには、砕けた女神像と、その下に設えられた黒い祭壇があった。
祭壇の前に、人影が一つ。
黒衣。仮面なし。
だが、その胸元には――セイセス=セイセスの紋章。
「来たか」
低く、落ち着いた声。
狂信者特有の熱はない。理論家の冷静さだけが滲んでいる。
「歓迎しよう、アルフレッド。
君が来る確率は……八七%だった」
アルフレッドの視線が、わずかに細くなる。
「計算ごとか。グラウの趣味か?」
「いや。彼は“実地派”だ。私は――調整役だよ」
男は両手を広げ、微笑む。
「名を名乗ろう。セイセス=セイセス中枢観測補佐官――リュカ=ヘルヴェイン」
その名に、黒い石が一度だけ、強く脈打った。
「安心していい。今日は君を殺さない。むしろ――話をしに来た」
アルフレッドは一歩、前へ出る。
「悪いが、交渉の気分じゃない」
「分かっている」
リュカは、どこか愉快そうに肩をすくめた。
「だからこれは交渉じゃない。警告だ」
その瞬間、広場の地下から、重低音が響いた。
石畳が震え、噴水跡の底が割れる。
露わになるのは、巨大な円形構造――黒い石を核とした起動炉。
「虚空教団が、観測段階を一段階引き上げた。そして我々も、それに対応する」
リュカの目が、真っ直ぐにアルフレッドを射抜く。
「君はもはや“個体”じゃない。現象だ。この先は――世界が君をどう扱うかの実験場になる」
アルフレッドは、ゆっくりと剣を抜いた。
雷が、静かに刃を這う。
「なら――実験は失敗する」
その言葉と同時に、起動炉が唸りを上げる。
都市全体が、戦場として目を覚ました。
次なる物語は、ここから始まる。
観測と破壊。
理論と意志。
そして――
アルフレッドが“観測される存在”であることを、拒絶する戦いが。
起動炉の唸りは、鼓動のようだった。
低く、重く、都市の地下深くから伝わってくる振動が、瓦礫に埋もれた建物の壁を鳴らし、空気そのものを震わせる。黒い石を核に据えた円形構造は、ゆっくりと回転を始め、その表面に刻まれた古い術式が、次々と淡い光を帯びて浮かび上がっていった。
アルフレッドは一歩も退かない。
雷を宿した剣を低く構え、リュカ=ヘルヴェインと、その背後で目覚めつつある“都市装置”を同時に視界へ収める。
「実験場、か」
吐き捨てるように言う。
「随分と回りくどい。結局、俺を殺せない理由を並べてるだけだろう」
リュカは即座に否定しなかった。
それどころか、わずかに口角を上げる。
「正確だ。君を“今ここで”殺すのは、得策じゃない」
彼は起動炉へと視線を投げる。
「君が戦えば、反応が出る。黒い石がどう増幅され、君自身がどう変質するか――その全てが記録される。虚空教団は“観測”を望む。我々は“再現性”を望む」
言葉を区切り、リュカは再びアルフレッドを見る。
「だが、目的は同じだ。世界を、制御可能な形に落とし込む」
その瞬間だった。
起動炉の中心から、複数の光柱が天へと伸びる。
光は都市の各所へと分岐し、地表に埋め込まれていた黒晶片を次々と起動させていく。
瓦礫の下、倒壊した建物の影、地下水路の奥――
そこから、同時に“起き上がる気配”が立ち上った。
「来るな……数は多い」
アルフレッドは即座に判断する。
これはリュカ個人との戦いではない。都市そのものが敵だ。
「安心しろ。君の力量は、すでに大枠で把握している」
リュカは後退しながら、淡々と告げる。
「これは本命じゃない。前座だ」
次の瞬間、地面を突き破って現れたのは、人型の影だった。
灰喰らいとは違う。瘴気に侵された肉体ではなく、黒い石を骨格代わりに組み上げた、歪な“兵器”。
眼孔に光はない。
だが、動きに迷いがない。
「……セイセス=セイセスらしい」
アルフレッドは、深く息を吸う。
雷が剣身を覆い、周囲の空気を焼く。
最初の一体が踏み込んだ瞬間、彼は一歩前へ出た。
横薙ぎ。
雷光が弧を描き、兵器の胴体を寸断する。
砕け散った黒晶片が地面に散らばるが、次の瞬間、それらが蠢き、再結合を始めた。
「再生……いや、再構築か」
理解は早い。
だからこそ、迷いはない。
アルフレッドは踏み込みを止めず、連撃に移る。
一体を斬り伏せるのではなく、核となる黒い石を探し、狙い撃つ。
二体、三体と動きが止まり、崩れ落ちていく。
だが同時に、広場の外縁から、さらに数が増えていく。
高所から、その光景を見下ろしながら、リュカは静かに呟いた。
「……やはり、想定より速い」
彼は掌をかざし、術式を切り替える。
「いいだろう。第二段階へ移行する」
起動炉の回転が、明らかに加速する。
都市全体が、悲鳴のような軋みを上げた。
アルフレッドは、迫り来る新たな敵の気配を感じ取りながら、剣を握り直す。
「前座だろうが、本命だろうが関係ない」
雷が、彼の足元から迸る。
「全部、叩き潰す」
こうして、旧交易都市ヴァル=ネアは完全に戦場へと変貌した。
観測のための実験は、破壊による否定へと書き換えられつつあった。
第二段階――その言葉が、現実になるまでに猶予はなかった。
起動炉の回転が一段階、音を変える。
金属音ではない。低く、鈍い、内臓を叩くような振動だ。広場の石畳に走っていた亀裂が一斉に広がり、地下に隠されていた黒晶の導線が露出する。
それらは脈動し、互いに共鳴を始めた。
「都市全体を……一つの術式に?」
アルフレッドは即座に理解する。
これは兵器の追加ではない。戦場そのものの位相を書き換える準備だ。
次の瞬間、地表に立っていた黒晶兵器たちが、同時に“解体”を始めた。
砕け、溶け、黒い粒子となって空中に舞い上がる。
そして――
粒子は広場の中心へと吸い寄せられ、巨大な輪郭を形作っていく。
人型。
だが、頭部は存在せず、胸部には起動炉と同型の黒い石核が埋め込まれている。
四本の腕が不自然な角度で生え、関節ごとに異なる術式が刻まれていた。
「なるほど……」
アルフレッドは、剣を低く構える。
「個体じゃない。都市の代理体か」
遠くから、リュカの声が届く。
「その認識でいい。君が“現象”なら、こちらは“構造”だ」
代理体が一歩、踏み出す。
その足音だけで、空気が圧縮され、衝撃波が走る。
アルフレッドは跳んだ。
衝撃をやり過ごし、同時に雷を地面へと叩き込む。
雷光が導線を伝い、都市中を駆け巡る。
瓦礫が弾け、黒晶の一部が焼き切れる。
――だが、代理体は止まらない。
四本の腕が展開し、それぞれが異なる魔術を放つ。
重力の歪み、空間の切断、魔力の吸収、純粋な破壊衝動。
「欲張りだな……!」
アルフレッドは歯を食いしばり、間合いを詰める。
遠距離では不利だ。核を叩くしかない。
だが、踏み込んだ瞬間、視界が歪む。
――一瞬、別の光景が重なった。
燃え落ちる街。
救えなかった者たちの影。
灰の中に立つ、剣を持たなかった自分。
「……ッ」
意識への干渉。
虚空教団の手法に近い。
アルフレッドは即座に噛み殺す。
「今さらだ……!」
雷を、自身の神経系へと強制的に流し込む。
痛覚と共に、幻影が引き剥がされる。
その隙を突き、彼は代理体の胸部へと斬り込んだ。
刃が、黒い石核に食い込む。
耳を裂くような金属音。
都市全体が、悲鳴を上げる。
だが――
「浅い」
リュカの声が、冷たく響く。
「君はまだ、“破壊の仕方”を理解していない」
石核が、逆に雷を吸収し始めた。
アルフレッドの剣を通じて、黒い脈動が腕へと流れ込む。
「……吸収特化か!」
即座に剣を手放し、後退する。
だが、代理体の腕が伸び、空間を歪めながら彼を捕らえにかかる。
その瞬間――
アルフレッドの掌の中で、別の黒い石が、鋭く鳴動した。
これまで彼を導いてきた、あの石だ。
雷とは違う。
破壊でもない。
拒絶の感覚。
アルフレッドは、石を握り潰す勢いで、意志を叩きつける。
「……お前らの“構造”に、俺は従わない」
黒い石が、初めて逆位相で脈動した。
代理体の動きが、わずかに――ほんの一瞬、止まる。
その刹那を、アルフレッドは逃さない。
剣を再び掴み、雷を限界まで圧縮する。
「これが――俺の答えだ!」
雷光が、一本の線となって迸る。
狙いは、石核そのものではない。
核と都市を繋ぐ“導線の束”。
斬撃は、構造を断ち切る。
代理体が崩れ落ち、起動炉の回転が乱れる。
広場に、静寂が落ちた。
高所で、リュカは静かに息を吐く。
「……なるほど」
彼の表情に、初めて明確な“興味”が浮かぶ。
「君は、観測対象として……予想以上に厄介だ」
旧交易都市ヴァル=ネアは、まだ完全には沈黙していない。
だが、この戦いは――確実に次の段階へ進んだ。
アルフレッドの戦いは、もはや単なる復讐ではない。
世界の“設計者たち”と、真正面から刃を交える戦記へと変貌しつつあった。
静寂は、長くは続かなかった。
起動炉の回転が乱れたまま、止まらない。
軋むような音が、都市の骨格そのものから響き渡り、断ち切られたはずの黒晶導線が、まるで生き物の腱のように蠢き始める。
「……まだ終わっていない、か」
アルフレッドは呼吸を整えながら、剣を構え直す。
雷の出力は落ちている。石核の吸収による反動が、確実に身体へ残っていた。
だが、立ち止まる理由にはならない。
崩れ落ちた代理体の残骸が、地面に沈み――
都市の“壁”そのものが動いた。
倒壊していたはずの建造物が、音もなく持ち上がり、歪んだ角度で再配置されていく。
通路だった場所は塞がれ、行き止まりだった瓦礫の向こうに、新たな道が開く。
「戦場を……組み替えている?」
アルフレッドは直感する。
これは追撃ではない。囲い込みだ。
その中心で、起動炉の前に立つリュカが、ようやく前進した。
「君は理解が早い」
瓦礫を踏み越えながら、彼は淡々と語る。
「代理体は失敗だ。だが、都市はまだ“学習途中”にある」
アルフレッドは睨み返す。
「そのために、人を殺し、街を潰すのか」
「違う」
リュカは即答した。
「最初から、人は要素に含まれていない」
その言葉には、躊躇も悪意もない。
ただの事実として語られている。
「黒い石は、意思を持たない。だが、環境に応じて“最適解”を導き出す」
「君のような例外が現れた時――我々は、それを“敵”ではなく、“変数”として扱う」
アルフレッドは、ゆっくりと剣先を下げた。
「……つまり」
「殺さない。今はまだ」
リュカの背後で、起動炉が再び強く光る。
今度は、都市全域ではない。
一点集中――アルフレッドの足元だ。
石畳が溶け、黒晶が露出し、即席の円環術式が形成される。
「拘束陣か!」
跳ぼうとした瞬間、重力が裏返る。
身体が地面へと叩きつけられ、視界が一瞬、白く弾けた。
だが――完全ではない。
アルフレッドは歯を食いしばり、黒い石を掌で握り込む。
導かれてきたはずのそれは、今、彼の意思に応じて沈黙していた。
「……俺を、構造の中に閉じ込めるつもりなら」
低く、吐き捨てる。
「最初から、間違ってる」
雷が、地面ではなく内側で爆ぜた。
神経、筋肉、骨――
自身の身体を媒介に、拘束術式へ逆流させる。
術式が悲鳴を上げ、円環がひび割れる。
リュカの目が、わずかに見開かれた。
「……自壊覚悟で、位相をずらしたか」
「覚悟なんて、とうに済んでる」
アルフレッドは立ち上がる。
足取りは重いが、視線は鋭い。
「俺は、実験台じゃない。お前らが作った“最適解”を――否定する側だ」
一歩、踏み出す。
その瞬間、起動炉の光が、突如として遮断された。
闇が落ちる。
都市の音が、すべて止まる。
そして――
「ここまでだ、セイセス=セイセス」
別の声が、虚空から割り込んだ。
空間が歪み、黒い仮面の人物が姿を現す。
虚空教団ベイリル=オラリオンの観測者。
「これ以上の干渉は、観測値を歪める」
仮面の奥から、冷たい視線がリュカへ向けられる。
「彼は――“まだ未確定”だ」
アルフレッドは、二人を見比べる。
理解する。
これは休戦ではない。
均衡の取り直しだ。
戦場は、一度、幕を下ろす。
だが――
黒い石は、再び、微かに脈動を始めていた。
次に刃を交える時は、
もはや誰も、“前座”とは呼ばないだろう。
アルフレッドの戦記は、確実に、次章へと踏み込んでいた。
闇が、ほどけていく。
遮断されていた起動炉の光は戻らない。
旧交易都市ヴァル=ネアは、まるで巨大な獣が息を潜めたかのように、死んだふりをしていた。
アルフレッドは剣を下ろさない。
視線は、セイセス=セイセスのリュカでも、虚空教団ベイリル=オラリオンの仮面でもない――二者のあいだの空白に向けられている。
そこにこそ、次の刃が来ると知っているからだ。
「撤収だ、リュカ」
仮面の人物が淡々と告げる。
「この都市は、もう“舞台”として不適切だ」
リュカは起動炉を一瞥し、肩をすくめた。
「……残念だ。もう少しで、彼の“限界値”が見えたのに」
その言葉に、アルフレッドは低く笑う。
「安心しろ。次は、もっと分かりやすく見せてやる」
リュカは一瞬だけ、口角を上げた。
「それを楽しみにできるのが、君の危ういところだ」
彼の足元で、黒晶が液体のように溶け、魔方陣を描く。
転移術式だ。
同時に、仮面の人物――ベイリル=オラリオンも、空間へと手を伸ばす。
「アルフレッド」
初めて、名を呼んだ。
「君は、我々にとって“敵”ではない」
「だが、味方にもなり得ない」
仮面の奥で、何かが笑った気配がした。
「だからこそ――
君は、観測するに値する」
「ふざけるな」
アルフレッドは即座に返す。
「俺は、お前らの視線の中で生きるつもりはない」
「だろうな」
ベイリル=オラリオンの観測者は、否定しなかった。
「だからこそ、君は危険だ」
次の瞬間、二人の姿は霧散する。
転移の余波だけが、空間に歪みを残した。
完全な静寂。
瓦礫の間を、灰がゆっくりと流れる。
アルフレッドは深く息を吐き、ようやく剣を収めた。
身体中が悲鳴を上げている。雷の逆流、術式破壊の反動、意識干渉の残滓。
それでも――歩ける。
彼は瓦礫の山を越え、崩れた高台へと立つ。
眼下には、沈黙した都市。
そして、そのさらに先――黒い石が示す、次の脈動。
「セイセス=セイセス……」
拳を握る。
「虚空教団……」
どちらも、避けては通れない。
だが、順番は変わらない。
「俺はまず――お前らを潰す」
復讐の炎は、消えていない。
だが今、その炎は世界そのものを照らす光へと変わり始めていた。
アルフレッドは背を向け、歩き出す。
黒い石が、確かに、彼を導いている。
次なる戦場へ。
次なる“設計者”のもとへ。
――戦記は、まだ序盤に過ぎない。




