第二十三話
男が去ったあと、荒原には奇妙な静寂が残された。
雷の残滓はすでに霧散し、灰の海もまた、何事もなかったかのように沈黙を取り戻している。だがアルフレッドには分かっていた――この沈黙は安らぎではない。嵐が去ったのではなく、嵐が進路を変えただけだ。
彼は剣を肩に担ぎ、ゆっくりと息を整えた。肉体の消耗は軽微だが、意識の奥には、先ほどまで“見られていた”感触が、焼き跡のように残っている。視線は消えた。だが、記録は残った。世界のどこかで、あの男は今も数値を整理し、結果を共有しているのだろう。
「……虚空教団、ベイリル=オラリオン」
名を口に出した瞬間、黒い石が微かに脈打った。
拒絶でも警告でもない。方向を示す脈動だ。
アルフレッドは腰元の袋から、その黒い石を取り出す。欠けた表面には、かつて見たことのない紋様が浮かび上がり、灰色の荒野とは異なる“温度”を帯びていた。それはもはや単なる残滓ではない。セイセス=セイセスが築き上げた実験と、虚空教団の干渉、その両方を経て、次の段階へ進んだ導標だった。
石が示す先――
西方街道を外れ、山脈へと向かう古い支路。地図には名も記されていないが、かつて採掘都市が存在した痕跡だけが残る場所だ。人は寄り付かず、交易路からも忘れ去られた土地。
「拠点か……それとも、捨て石か」
セイセス=セイセスのやり口を、アルフレッドはよく知っている。
彼らは必ず二重、三重に罠を張る。表の拠点、裏の研究所、そして“観測用の餌”。今回、虚空教団が介入してきた以上、その構造はさらに歪められているはずだ。
だが、迷いはない。
彼は歩き出す。
灰を踏みしめ、風を裂き、脈動の先へ。
復讐のためか、と問われれば、答えは変わらない。
セイセス=セイセスは潰す。必ずだ。
だが今や、それは単なる私怨ではない。
黒い石を巡り、世界を測ろうとする者たちがいる以上、アルフレッド自身がその測定結果となることは許されない。
「……好きに測れ」
低く呟き、剣の柄を握り直す。
「だが、結果は俺が決める」
山影の向こうで、黒い石が強く脈動した。
次なる戦場は、すでに目を覚ましている。
こうしてアルフレッドは、再び歩みを進める。
セイセス=セイセスと、虚空教団ベイリル=オラリオン――
二つの敵を背負いながら、なお前へと。
戦記は、まだ始まったばかりだった。
山脈へ続く支路は、いつの時代に築かれたものかも分からぬほどに荒れ果てていた。石畳は割れ、雑草ではなく、灰と鉱滓が風に運ばれて溜まり、足を置くたびに鈍い音を立てて沈み込む。空気は乾いているが、どこか重く、肺の奥に鉄の味が残った。
アルフレッドは歩みを緩めなかった。
黒い石は、腰の袋の中で確かな鼓動を刻み続けている。先ほどまでの荒原とは異なり、その脈動には微妙な変化があった。一定の周期ではない。近づくにつれて、わずかに速まり、そして――躊躇うように鈍る。
「……罠だな」
独り言は風に吸われ、谷間へ落ちていく。
セイセス=セイセスが拠点を構えるとき、必ず“使い捨ての層”を置く。信徒、実験体、あるいは観測用の犠牲。そのいずれであっても、侵入者を削るための装置に過ぎない。
やがて、視界が開けた。
山肌を抉るように広がる巨大な空洞――かつて坑都と呼ばれた場所だ。無数の坑道口が口を開け、崩れた足場や錆びた昇降機の残骸が、蜘蛛の巣のように絡み合っている。人の気配はない。だが、生きていないとも言い切れない、そんな不穏な静けさが満ちていた。
アルフレッドは立ち止まり、目を細める。
魔力を抑え、周囲を探る。空間に漂うのは、瘴気とも違う、どこか歪んだ反応――人工的に調整された魔力残響だ。新しい。数日前、あるいは数時間前に稼働していた痕跡。
「セイセス……まだ、ここを使っているな」
その瞬間だった。
坑道の奥から、乾いた音が響いた。
金属が擦れる音、骨が引きずられる音、そして、喉の奥で空気を無理やり震わせるような、不格好な呼吸音。
アルフレッドは剣に手を掛けたまま、動かない。
逃げる気配はない。隠れる気配もない。意図的に、こちらを待っている。
「侵入者……侵入者……」
声がした。
だが、それは一人の喉から発せられているとは思えなかった。複数の音程が重なり、言葉の輪郭だけを共有している。
「ここは、棄てられた場所だ……だが、役目は終わっていない……」
坑道の影から、姿が現れる。
それは人の形をしていた。
少なくとも、元は。
鉱夫の作業着を思わせる布切れが身体に貼り付き、皮膚は鉱石のように硬化し、関節の隙間から黒い結晶が覗いている。顔は覆い隠され、目の位置に、赤黒い光が点っていた。
「――実験体か」
アルフレッドは静かに構える。
瞬殺はしない。ここは情報を引き出すべき場所だ。
「セイセス=セイセスの命令か?」
問いかけに、異形は小刻みに震えた。
笑っているのか、拒絶しているのか、判別はつかない。
「命令……ああ、命令だ……だが、主は一つではない……」
その言葉に、アルフレッドの視線が鋭くなる。
「……ほう」
異形の背後、坑道の闇がわずかに揺らいだ。
まるで、誰かが“こちら側”を覗き込んだかのように。
「観測……観測……記録……」
異形はそう呟き、両腕を広げる。
黒い結晶が脈打ち、坑都全体が、それに呼応するように軋み始めた。
アルフレッドは、剣を抜いた。
「なるほど。ここは――」
雷が刃に宿る。
「迎撃用の舞台か」
次の瞬間、坑道という坑道から、同じ“声”が湧き上がった。
異形は一体ではない。十でも百でもない。坑都そのものが、敵だ。
アルフレッドは、ゆっくりと一歩、前へ踏み出す。
新たな戦いは、すでに始まっていた。
坑都が、呼吸を始めた。
空洞全体が低く唸り、岩盤の奥から伝わる振動が、足裏を通じて骨にまで響く。かつて鉱脈を追って掘り進められた坑道は、いまや血管のように脈動し、その内側を満たす何かが、外へ滲み出そうとしていた。
アルフレッドは剣を構えたまま、視線を巡らせる。
敵意は明確だ。だが統一された殺気ではない。ばらばらな意思が、無理やり束ねられている。セイセス=セイセスの手口だが、そこに別の調律が混じっている。虚空教団の観測構造――それが、ここにも組み込まれている。
「……実験場としては、出来が悪い」
呟いた瞬間、足元の岩が弾けた。
坑道の壁から“それ”が這い出てくる。
鉱夫の姿を模した異形、骨格が露出したまま結晶に置換された個体、四足で動くもの、天井を這うもの。形は違えど、中身は同じ。黒い石に汚染され、意識を削られ、命令だけを残された残骸だ。
アルフレッドは後退しない。
一歩踏み込み、剣を振るう。
雷光が刃を伝い、最初の異形を斜めに断ち割った。肉体は抵抗を見せず、だが内部から噴き出した結晶が、即座に別の個体へと流れ込む。
「再利用か……」
読み通りだ。
ここでは、倒すだけでは意味が薄い。核を断たなければ、数は減らない。
アルフレッドは剣を翻し、地面に刃を突き立てた。
雷が、放射状に走る。
坑道の床に刻まれた古い導魔線――採掘用に引かれたものだろう――それを逆流させ、魔力を一気に叩き込む。
轟音。
坑都の一角が崩れ、異形たちの動きが一瞬、揃って止まった。
その隙を、アルフレッドは逃さない。
「――そこだ」
視線の先。
坑都中央、崩れかけた制御塔のような構造物。その基部に、黒い結晶が束ねられた“核”が見えた。無数の細い結晶線が、坑道へと伸び、異形たちと繋がっている。
だが――。
核の前に、ひとつの影が立っていた。
人の形をしている。
異形ではない。意識も、言葉も、まだ残っている。
「……来たか、破壊者」
声は掠れているが、明確な意思を帯びていた。
男とも女ともつかぬ痩せた体躯。顔の半分は結晶化し、残った眼が、執拗な光を宿してアルフレッドを見据える。
「セイセス=セイセスの名で問う。貴様は、どこまで壊すつもりだ?」
アルフレッドは剣を下げない。
「全部だ」
即答だった。
「ここも、黒い石も、使う連中も」
影は、低く笑った。
「……やはり、観測値通りだ」
その言葉に、アルフレッドの内側で、微かな警戒が走る。
「安心しろ。私は“観測者”ではない。だが――」
影は、背後の核に手を触れる。
「ここは、彼らにとって重要な“節点”だ。壊せば、次はもっと派手に来るぞ?」
「来るなら来い」
アルフレッドは一歩、前へ出た。
「どうせ、止まる気はないんだろう」
坑都全体が、悲鳴を上げる。
核が脈動し、異形たちが再び動き出す。
影は後退しながら、なおも笑みを浮かべていた。
「いい……実にいい。ならば見せてみろ」
「黒い石に導かれし破壊者よ――」
次の瞬間、アルフレッドの剣が唸りを上げる。
雷と鋼が交錯し、坑都を舞台にした、本格的な殲滅戦が幕を開けた。
これは前哨戦に過ぎない。
だが、確実に――次の大戦へと繋がる一撃だった。
雷鳴が、坑都の奥で反響した。
アルフレッドが剣を振るうたび、空気そのものが裂け、刃の軌道に沿って白青の稲光が走り、岩壁に食い込んだ魔鉱の結晶を内側から焼き砕いていく。その一撃一撃は単なる斬撃ではなく、剣術・魔術・超常的な身体制御が完全に同期した結果であり、力任せの破壊とは明確に一線を画していた。
突進してきた四足の異形が跳躍する瞬間、アルフレッドは半歩だけ踏み込み、身体を低く沈める。
次の瞬間には視界が加速し、時間が引き伸ばされたかのように周囲の動きが緩慢になる。
(――重心、後脚。核は胸腔内、結晶層の奥)
剣が閃いた。
雷光が点ではなく線となり、異形の胴を貫通する。
表層の結晶が抵抗する前に、内部の黒い核が高温で破裂し、肉体は悲鳴を上げる暇もなく崩れ落ちた。
だが、倒した数よりも、湧き出す数のほうが多い。
坑道の壁、天井、床――あらゆる面から、黒い結晶線が伸び、そこから半ば未完成の異形が吐き出されるように出現してくる。セイセス=セイセスが構築したこの場は、もはや単なる拠点ではなく、生産装置そのものだった。
「……なるほど」
アルフレッドは後退しながら、状況を冷静に観察する。
(核を壊せば全体が止まるが、あの影が守っている以上、正面突破は無駄が多い。なら――)
足元を蹴り、壁面を駆け上がる。
人間離れした動きで天井近くまで跳躍すると、逆さの体勢のまま剣を構え、雷を圧縮する。
「――断雷・連界」
刃から放たれた雷が、網のように広がり、坑都の結晶線へと食らいつく。
次の瞬間、結晶線を伝って魔力が逆流し、異形たちの動きが一斉に鈍った。
悲鳴とも、軋む音ともつかぬ振動が坑都を満たす。
「ほう……」
制御塔の前に立つ影が、感心したように声を漏らす。
「供給網を直接断つか。力任せではない、理性的な破壊だ。だが――」
影の背後で、核がさらに強く脈動する。
黒い結晶が互いに絡み合い、巨大な人型を形作ろうとしていた。
「ここまで来た以上、ただでは終わらせん」
影が手を掲げると、核から引き抜かれるように、異形たちの残骸が吸い寄せられていく。砕かれた肉、割れた結晶、残された意識の欠片――それらが無理やり縫い合わされ、歪んだ巨像が立ち上がった。
アルフレッドは、剣を下ろさない。
むしろ、深く息を吸い、魔力と身体能力の同期をさらに高める。
(質量、魔力反応、制御核……どれも粗雑だ。力はあるが、洗練されていない)
「……試作品か」
低く呟いた瞬間、巨像が咆哮を上げ、拳を振り下ろしてくる。
坑道の床が砕け、衝撃波が走る。
だがアルフレッドは、正面から受けない。
衝撃が来る瞬間を読み切り、拳の影を踏み台にするように跳躍し、巨像の肩へと一気に駆け上がる。その動きは獣のようでありながら、剣士としての精密さを失っていなかった。
「――終わりだ」
雷が刃に収束し、眩いほどの白光となる。
次の一撃は、斬撃ではない。
核のみを狙った、穿つための一閃だった。
刃が結晶の装甲を貫き、内部の黒い核へ到達した瞬間、雷が爆ぜる。
巨像の動きが止まり、次いで全身が内側から崩壊し始める。
結晶が砕け、肉が霧となり、坑都全体に溜まっていた魔力が、一気に解放された。
轟音とともに、制御塔が崩れ落ちる。
影は、その光景を見届けると、小さく息を吐いた。
「……やはり、面白い男だ」
次の瞬間、影の姿は揺らぎ、空間に溶けるように消えた。
残されたのは、砕け散る核の残骸と、静まり返りつつある坑都だけだった。
アルフレッドは剣を下ろし、周囲を見渡す。
異形の気配は、急速に薄れていく。
戦いは、終わった。
だが――。
黒い石が、彼の懐で、再び静かに脈打ち始めていた。
次なる拠点へ。
次なる敵へ。
アルフレッドは、迷いなく歩き出す。
この戦記は、まだ序章に過ぎないのだから。
坑都の崩壊が収まり、粉塵と熱が沈殿していくにつれて、世界はようやく輪郭を取り戻し始めていた。砕けた石材の隙間からは赤く鈍い残光が滲み、地下に張り巡らされていた魔導脈が断ち切られた名残として、低い唸り声のような振動が長く尾を引いて消えていく。アルフレッドはその中心に立ち、剣を肩に担いだまま、静かに呼吸を整えていた。
先ほどまでこの場所に満ちていた敵意は、嘘のように薄れている。セイセス=セイセスの狂信者たちも、虚空教団ベイリル=オラリオンの観測者も、もはやここにはいない。ただ破壊の痕跡だけが残り、まるで世界そのものが「次」を促すかのように、沈黙の圧を放っていた。
アルフレッドは足元に転がる黒い石の欠片を見下ろす。それはもはや力を失ったかのように沈黙しているが、完全に死んだわけではない。微かな脈動が、脈拍と同調するように、遅く、しかし確実に伝わってくる。
「……次はどこだ」
独り言のように呟きながら、彼は黒い石を拾い上げる。石は冷たく、だが触れた瞬間、彼の意識の奥に方向感覚のようなものを流し込んできた。言葉ではない。地図でもない。ただ、進むべき“重さ”だけが示される。西でも東でもない。より深く、より歪んだ場所――人が住む世界の縁に近い方向だ。
虚空教団の観測者の言葉が、脳裏に微かに蘇る。
――干渉は始まっている。
――君がそれを望まなくとも。
アルフレッドは鼻で息を吐き、その残滓を振り払うように歩き出した。観測されようが、干渉されようが、やることは変わらない。セイセス=セイセスを潰す。それが彼の戦いであり、その過程で現れるすべての敵は、斬り伏せる対象に過ぎない。
坑都を抜ける古い昇降路を登りきると、地上には荒涼とした曇天が広がっていた。雲は低く垂れ込め、空そのものが腐敗しているかのように重い。風に乗って、血と鉄と、そして微かな瘴気の匂いが混じってくる。
アルフレッドはその匂いを逃さなかった。
「……まだいるな」
セイセス=セイセスの痕跡だ。組織の主力ではないにせよ、拠点を捨てた残党か、あるいは次の儀式のために配置された別働隊か。いずれにしても、敵であることに違いはない。
彼は剣を軽く引き抜き、刃に魔力を走らせる。雷光が淡く走り、周囲の空気が僅かに震えた。その振動に応えるように、黒い石が一度だけ脈打つ。
戦いは終わっていない。
ただ、章が変わっただけだ。
アルフレッドは歩みを止めることなく、次なる戦場へと向かっていった。そこにはセイセス=セイセスが待ち、虚空教団ベイリル=オラリオンの影が重なり、そして彼自身の戦記が、さらに血と雷で書き足されていくことになる。
――次に剣を抜くとき、それは試し合いではない。
本当の意味での、潰し合いだ。
曇天の下を進むにつれ、大地の様相は徐々に変質していった。坑都の瓦礫地帯を抜けた先には、かつて農地であった痕跡が残る平原が広がっているはずだったが、今や土は黒く硬化し、踏みしめるたびに乾いた骨のような音を立てる。風に乗って運ばれるのは作物の匂いではなく、腐臭と、儀式に用いられた血の残り香だった。
アルフレッドは足を止め、周囲を見渡す。視界の先、歪んだ地平線の向こうに、半ば地中へと沈んだ石造建築が見えた。塔とも祭殿ともつかぬ異様な形状で、壁面には幾何学とも呪符とも判別しがたい刻印が無数に刻まれている。その刻印のいくつかは、黒い石の破片と同質の輝きを帯び、脈動するように淡く光っていた。
「……次の巣か」
低く呟くと同時に、彼は魔力の流れを探る。空気の層の奥に、複数の気配が絡み合っているのがわかる。人のそれに近いものもあれば、明らかに人を逸脱した歪な反応もある。統制は弱く、だが狂信的な熱だけは異様なほど濃い。
セイセス=セイセスらしい。
アルフレッドは剣を鞘に収めたまま、あえて正面から歩み寄った。隠密や奇襲は、この程度の拠点に対しては必要ない。むしろ、敵にこちらの存在を悟らせ、どう動くかを見極める方が有益だった。
案の定、祭殿の影から動きが生じる。
黒衣を纏った人影が二つ、続いて三つ。仮面はつけていないが、顔には狂信者特有の恍惚とした歪みが張り付いている。手には刃物や簡易魔導具が握られているが、その視線は武器ではなく、アルフレッドそのものに釘付けになっていた。
「来たぞ……」
「雷の剣……預言にあった通りだ……」
「黒き導きに逆らう者……だが、ここで捧げれば――」
ぶつぶつとした呟きが重なり、やがて一人が前に出る。痩せ細った身体に、黒い石を無理やり埋め込んだ痕が胸元から覗いており、呼吸のたびに皮膚の下で異物が蠢いているのが見て取れた。
「ようこそ、破壊者よ。ここは“次”を生む場所だ。貴様の血も、その糧になる」
アルフレッドは表情を変えない。ただ一歩、前に出た。
「質問は一つだ。ここはセイセス=セイセスの拠点か」
狂信者は一瞬、虚を突かれたように目を見開き、次いで嗤った。
「そうだと言えば?」
「――潰す。それだけだ」
言葉が終わる前に、アルフレッドの身体が消えた。正確には、視認できない速度で踏み込み、間合いを詰めたのだ。次の瞬間、衝撃音と共に狂信者の一人が宙を舞い、地面に叩きつけられる。その身体は着弾と同時に、内側から雷に焼かれたかのように痙攣し、動かなくなった。
「な――」
「囲め! 儀式を――!」
叫びが広がる前に、アルフレッドは剣を抜いた。刃に宿る雷光が空気を裂き、半円を描く斬撃が前方を薙ぎ払う。魔力を帯びた衝撃波が地面を削り、狂信者たちをまとめて吹き飛ばした。
だが、彼らは倒れきらない。黒い石に侵された身体が無理やり動き、骨の折れる音を響かせながら立ち上がる。その瞳にはもはや理性はなく、あるのは盲信と狂気だけだ。
「……なるほど」
アルフレッドはその様子を冷静に観察し、剣先を下げた。
「ここは“前線”じゃない。実験場だな」
敵の背後、祭殿の奥で、さらに強い魔力反応が脈打った。まだ姿は見えないが、黒い石の核に近い何かが、確実にそこにある。
アルフレッドは雷を纏わせた剣を再び構え、歩みを進める。
この拠点は、ただ潰すだけでは終わらない。
セイセス=セイセスが、次に何を生み出そうとしているのか――それを見極め、根こそぎ断つ必要があった。
狂信者たちが咆哮を上げ、一斉に突進してくる。
雷鳴が、それに応えるように荒野に轟いた。
次なる戦いは、すでに始まっている。
狂信者たちの突進は、統制の取れた突撃ではなかった。恐怖もためらいも欠いたその動きは、もはや戦術ではなく、ただ「捧げる」ための衝動そのものだった。刃を振り上げる者、呪符を噛み砕きながら走る者、胸に埋め込まれた黒い石を露出させ、爆ぜる寸前の魔力を抱えたまま迫る者――そのすべてが、アルフレッドという一点に向かって収束していく。
アルフレッドは深く息を吸い、足元の地面を踏み抜いた。
次の瞬間、彼の姿は狂信者たちの視界から消失する。超常の身体能力による瞬間加速が、空気を置き去りにし、遅れて衝撃波が平原を走った。最前列の狂信者が、その衝撃だけで身体を折り曲げ、宙に浮かぶ。
雷光が走る。
剣が振るわれたのは一度きり。しかし、その一閃は直線ではなく、立体的な断絶として空間を切り裂いた。魔力と剣圧が絡み合い、扇状に広がった雷の刃が、複数の狂信者を同時に貫く。肉体は斬られ、同時に内部から焼かれ、黒い石に依存した魔力回路ごと破壊されていった。
倒れた者たちの身体は、着地する前に崩れ落ち、灰と黒煙へと還っていく。
だが、それでも終わらない。
「来い……来い……」
「まだだ……まだ足りぬ……」
祭殿の奥から、低く粘つくような声が響いた。狂信者たちの動きが一瞬、引き寄せられるように変わり、彼らは無意識のうちに後方へと道を空けていく。
地面が、軋んだ。
祭殿の入口付近で、大地そのものが隆起し、石と土を押しのけるようにして、巨大な影が姿を現す。人型ではあるが、その比率は歪みきっており、両腕は異様に長く、胴体には複数の黒い石が心臓のように埋め込まれている。皮膚は硬化した瘴気に覆われ、ところどころから赤黒い光が漏れていた。
「……やはり出てきたか」
アルフレッドは剣を低く構え、その動きを注視する。敵は速くない。だが、質量と魔力量が異常だ。黒い石を媒介にした疑似的な集合体――セイセス=セイセスが好む「量で質を補う」怪物とは違い、これは明確に戦闘を想定して造られている。
巨体が一歩踏み出すだけで、大地が沈み、衝撃が波のように広がった。狂信者の一人が巻き込まれ、踏み潰されるが、怪物は意にも介さない。むしろ、その犠牲を糧にするかのように、埋め込まれた黒い石が一斉に脈打った。
「捧げよ……力を……」
低い声が、複数重なって響く。
アルフレッドは、その様子を冷静に観察していた。攻撃の兆候、魔力の流れ、石の脈動周期――すべてを視野に収め、瞬時に組み立てる。
「核は……三つ。だが、主導は中央だな」
そう判断した次の瞬間、巨体の腕が振るわれる。単純な薙ぎ払い。しかし、その速度と質量は、並の防御では受けきれない。
アルフレッドは正面から迎え撃たなかった。地を蹴り、斜めに跳躍しながら、剣を振るう。雷を纏った斬撃が腕を削ぎ、瘴気と黒い破片が飛び散る。だが、切断には至らない。再生が始まり、石の輝きが強まる。
「……なるほど、しぶとい」
次は、試す番だ。
アルフレッドは剣を逆手に持ち替え、刃に魔術式を刻むように魔力を流し込んだ。雷光が圧縮され、剣身に細い紋様として浮かび上がる。空気が張り詰め、周囲の灰が引き寄せられるように舞い上がった。
巨体が再び踏み込み、拳を振り下ろす。
その瞬間、アルフレッドは正面から踏み込んだ。
衝突。
雷鳴が爆ぜ、拳と剣がぶつかり合う。通常なら粉砕されるはずの位置で、アルフレッドは踏みとどまり、剣を深く突き立てた。魔術が解放され、雷が内部へと侵入する。
黒い石が悲鳴を上げるように軋み、ひび割れた。
「――まず一つ」
アルフレッドの声は低く、確信に満ちていた。
怪物は咆哮し、暴れ狂う。その背後で、祭殿の奥から、さらに別の気配が動き出すのを、アルフレッドは逃さなかった。
この戦いは、まだ本番ではない。
だが確実に、セイセス=セイセスの「核心」に近づいている。
雷光が再び走り、荒野は戦火に包まれていった。
怪物の咆哮は、声というよりも振動だった。空気が歪み、耳の奥がじくりと痛む。破壊された黒い石の破片が、まるで意思を持つかのように宙を漂い、再び巨体へと吸い寄せられていく。
「……回収、再構築か」
アルフレッドは舌打ちし、即座に距離を取った。雷光を纏った剣を地面に突き立て、魔力を流し込む。地表に走る雷の紋が、円環を描いて広がった。
次の瞬間、地中から噴き上がる雷柱。
怪物の脚部が焼き裂かれ、膝が砕ける。だが、それでも倒れない。上半身が異様に膨張し、残された二つの黒い石が狂ったように脈動し始めた。
「足りぬ……足りぬ……」
「もっと……もっと寄越せ……」
声が、増えている。
怪物の口からではない。祭殿の奥、壁の隙間、地中――至るところから囁きが滲み出してくる。
アルフレッドは、はっきりと感じ取っていた。
「……融合じゃない。これは“重ね書き”か」
人格と人格、意志と意志を無理やり重ね、黒い石を核に固定する禁呪。成功率は極めて低いが、成功した場合、戦闘能力は飛躍的に上がる。代償として、存在そのものが長くは保たない。
だからこそ――狂っている。
怪物は残った腕を天に掲げ、祭殿全体から魔力を引き剥がすように吸い上げた。壁が軋み、天井が崩れ、狂信者たちが次々と倒れ伏す。悲鳴すら上がらない。黒い石が砕け、吸収され、怪物の胴体に新たな核として縫い込まれていく。
「はは……ははははは……!」
笑っていた。
それが誰の笑いなのか、もはや判別できない。
「見ろ……これが……セイセス=セイセスの……到達点だ……!」
「観測者よ……見ているか……!」
「まだ……まだ足りる……!」
その言葉に、アルフレッドの目が細まる。
「……やはり、お前たちは“見せたい”んだな」
誰かに。
何かに。
アルフレッドは剣を構え直し、深く呼吸する。雷の気配が、今までとは違う質を帯び始めていた。荒々しさが削ぎ落とされ、鋭さだけが残る。
「なら、終わらせてやる。――見世物じゃなく、“結果”でな」
怪物が地を蹴り、崩れた祭殿を踏み越えて突進する。質量と魔力の塊が、一直線に迫る。
アルフレッドは動かない。
衝突の直前、彼の足元で雷の紋が反転し、圧縮され――解放された。
世界が、一瞬、白に染まる。
雷は外へ広がらず、すべてが一点へと収束した。剣先から放たれた細い閃光が、怪物の中央核を正確に貫く。
時間が、止まったかのようだった。
次の瞬間、内部から爆ぜるように、黒い石が砕け散る。悲鳴、笑い、祈り、呪詛――重なり合っていた声が、一斉に断ち切られ、虚空へと溶けていった。
巨体は前のめりに崩れ落ち、地面に叩きつけられる。その衝撃で、残っていた祭殿の壁が完全に崩壊した。
静寂。
雷の残響だけが、遅れて消えていく。
アルフレッドは剣を下ろし、崩れた瓦礫の向こうを見る。
そこには、もはや敵意も狂気もない。ただ、黒い石の残骸が、脈動を失って転がっているだけだった。
「……これで一つ、だ」
だが、黒い石――彼が携えるそれが、微かに、だが確かに脈打った。
次を、示すように。
アルフレッドは踵を返す。
戦いは終わった。だが、戦争は続いている。
セイセス=セイセスも、虚空教団も、まだ終幕には程遠い。
雷雲が遠くで唸り、次なる戦場の予感を告げていた。
夜は、思ったよりも静かだった。
瓦礫と化した祭殿の跡地に立つアルフレッドの周囲では、風が灰を転がす音だけが、遅れて現実に戻ってきたかのように微かな存在感を主張している。先ほどまで満ちていた狂気の熱量は嘘のように失われ、ただ、過剰な破壊の名残だけが、地面に刻まれた焦痕や砕けた石柱として残されていた。
アルフレッドは歩き出す。
一歩ごとに、戦闘の余韻が身体から剥がれ落ちていくのを感じながら。
勝利の高揚はない。達成感もない。
あるのは、計算通りに敵を排除したという事実と、それでもなお終わらなかったという確信だけだった。
「……観測者、か」
独り言のように呟いたその言葉は、夜気に溶ける前に、黒い石の微かな振動によって押し返される。まるで肯定でも否定でもなく、“記録された”と告げるような反応だった。
グラウ。
そして、虚空教団ベイリル=オラリオン。
あの二者が、この戦場から退いた理由を、アルフレッドは冷静に理解していた。互いに敵対しながらも、ここで全力を尽くす価値はないと判断したのだ。駒は使い捨てられ、盤面は更新された。それだけの話だ。
だが――。
「俺が、盤上の駒だとでも思っているなら」
アルフレッドは足を止め、闇の向こうを睨む。
そこに誰かがいるわけではない。それでも、確かに“見られている”という感覚が消えていなかった。
「……致命的な誤算だ」
彼は再び歩き出す。黒い石が示す方向は、北西。地図に落とせば、かつて交易路として栄え、今は封鎖された旧都市圏と重なる。セイセス=セイセスの活動記録が断続的に報告されていた場所だ。
道中、アルフレッドは戦闘を反芻していた。
敵の構成、魔力の流れ、黒い石の使用効率、そして――観測の介入。
グラウは分析者だった。
ベイリル=オラリオンは介入者だった。
両者とも、アルフレッドそのものを“測定対象”として扱っている。だが決定的に違うのは、グラウが戦士として彼を理解しようとしたのに対し、観測者は彼を現象として見ているという点だった。
「……気に食わん」
それだけが、今の感情だった。
夜明け前、丘を越えた先で、アルフレッドは立ち止まる。遠方の地平線が、わずかに赤く染まり始めている。その下に、黒い石の脈動が示す“次”がある。
そこでは、また戦いが起こるだろう。
また、狂信と理論が混ざり合い、誰かが何かを証明しようとする。
だが、今回は違う。
アルフレッドは剣の柄に手をかけ、静かに息を吐いた。
「次は……潰すだけじゃない」
セイセス=セイセスの拠点を。
虚空教団の観測線を。
そして、“観測される側”という立場そのものを。
夜が明ける。
雷雲はまだ遠いが、確実に集まりつつあった。
アルフレッドの戦記は、次なる章へと踏み出していく。




