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第二十二話

 拠点の残骸が完全に沈黙したのを確認してから、アルフレッドはその場を離れた。


 振り返らない。


 振り返る理由が、もうそこには存在しなかったからだ。


 歩みを進めるごとに、黒い石は確かな鼓動を取り戻していく。先ほどまでの不規則な脈動ではない。意図を伴った律動。進むべき方向と、通過すべき境界を、言葉よりも明確に示していた。


 アルフレッドはその導きを拒まない。


 だが、従属もしない。


「……都合のいい道案内だな」


 呟きと同時に、周囲の景色がゆっくりと変質していく。灰の荒原は後方へ遠ざかり、地面の色は黒から赤へ、そして鈍い土色へと移ろう。空気に混じる匂いも、硫黄と瘴気から、鉄と湿った土のそれへ変わっていった。


 ここは街道だ。


 だが、人のために整えられた道ではない。


 古代に築かれ、長らく封じられていた“裏の道”。


 黒い石に反応する者だけが、その存在を認識できる。


 アルフレッドの視界の端で、符文が淡く灯る。地面に刻まれたもの、岩肌に隠されたもの、あるいは空間そのものに縫い付けられた痕跡。それらはすべて、同じ思想で刻まれていた。


 ――世界は、分解できる。


 セイセス=セイセスの思想だ。


 だが同時に、虚空教団が好む観測対象としての世界観とも重なる。


「どちらにしても……気に入らない」


 アルフレッドは歩みを止め、遠方を見据える。


 丘陵の向こう、歪んだ雲の下に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がっていた。


 塔。


 あるいは、祭壇。


 黒い石が、ひときわ強く脈打つ。


 次なる戦場。


 次なる因果の結節点。


 アルフレッドは剣の柄に手を添え、深く息を吸った。


 ここから先は、また別の戦いになる。


 狂気だけではない。


 実験だけでもない。


 選択を迫る敵が、待っている。


 そして彼は、歩き出す。


 復讐のために。


 世界の思惑を叩き潰すために。


 何より――自分自身の意思を証明するために。


 黒い石の脈動が、旅路を照らす。


 アルフレッドは、その鼓動と歩調を合わせながら、次なる戦場へと向かっていった。



 夜が、ゆっくりと降りてくる。


 街道を外れた先、丘陵地帯の縁で、アルフレッドは一度足を止めた。

 黒い石の脈動は確かに前方を示しているが、その先にあるものは、これまでとは質が違う――そんな予感が、肌にまとわりついて離れない。


 風が吹き、乾いた草が擦れ合う音がする。

 だが、それだけではない。


 聞かれている。


 耳ではなく、意識の深層で、視線の重なりを感じる。

 セイセス=セイセスの狂信的な監視とは違う。

 虚空教団ベイリル=オラリオンの、冷たく距離を保った観測とも、また異なる。


「……第三か」


 呟いた瞬間、丘の向こうで火が灯った。

 一つではない。二つ、三つ、そしてさらに奥へと連なっていく。


 焚き火だ。

 規則正しい配置。軍勢ではないが、偶然でもない。


 アルフレッドは外套の留め具を締め直し、剣を抜かずに歩き出す。

 気配を消す必要はない。

 すでに、相手は彼が来ることを織り込み済みだ。


 丘を越えた先にあったのは、小規模な野営地だった。

 だが、そこにいる者たちは兵でも盗賊でもない。


 全員が、黒い石の欠片を身につけている。


 首飾り、腕輪、あるいは額に埋め込むように。

 だがその扱い方は、セイセス=セイセスのような崇拝でも、実験でもない。


 ――封印だ。


「……なるほど」


 アルフレッドが姿を現すと、野営地が一瞬だけ静まり返る。

 次いで、一人の男が立ち上がった。


 年の頃は四十前後。

 剣士でも魔術師でもない、だが両方を知っている者の立ち姿。


「来たか、魔剣士アルフレッド」


 名を呼ばれても、アルフレッドは驚かない。


「名乗れ。今夜は、余計な前置きはいらない」


 男はわずかに笑った。


「俺たちはセイセス=セイセスじゃない。虚空教団でもない」

「ただ――後始末屋だ」


 焚き火の光が揺らぎ、周囲の者たちの影が不自然に伸びる。

 その影の中で、黒い石の欠片が一斉に鈍く光った。


「黒い石が世界を壊す前に、壊れた場所を縫い止める」

「そして、壊す側が来たら……止める」


 男の視線が、アルフレッドの胸元――黒い石へと向く。


「お前は、どっちだ?」


 アルフレッドはしばらく沈黙した。

 焚き火の爆ぜる音だけが、間を埋める。


 やがて、低く答える。


「俺は、壊す側だ」


 即座に、殺気が走った。

 だが同時に、男は目を細める。


「……だろうな」


 男は一歩、前へ出た。


「だが、違いもある」

「お前は“壊した後を見ている”」


 アルフレッドの視線が、わずかに鋭くなる。


「セイセス=セイセスは壊すだけだ。虚空教団は壊れる様を楽しむ」

「だが、お前は――次に進む」


 男は深く息を吸い、剣の柄に手をかけた。


「だから、ここで試す」

「お前が、止めるべき災厄かどうかをな」


 周囲の者たちが一斉に動き、陣形を組む。

 黒い石の欠片が共鳴し、空間に重圧が生まれた。


 アルフレッドは、静かに剣を抜く。

 雷はまだ纏わせない。

 身体能力も、抑えたままだ。


「……いいだろう」


 剣先を、男へと向ける。


「なら見せてやる」

「俺が、何を壊し、何を通り過ぎてきたのかを」


 夜の野営地で、焚き火を囲む円環が、戦場へと変わる。

 黒い石を巡る戦いは、新たな局面へと踏み込んでいった。



 次の瞬間、空気が裂けた。


 最初に動いたのは、後始末屋たちだった。焚き火を囲む円環がそのまま魔術陣へと転じ、黒い石の欠片が共鳴音を発しながら宙に浮かび、重なり合うようにして不可視の壁を形成する。防御でも拘束でもない――領域の固定。逃げ場を消し、力の流れを限定するための処置だ。


「……結界か」


 アルフレッドは一瞥しただけで構造を把握し、踏み込みの角度をわずかに変えた。

 次いで、三方向から同時に放たれる魔力弾。炎でも氷でもない、純粋な圧縮魔力の塊が、殺意を帯びて迫る。


 アルフレッドは剣を振るわない。

 身体を沈め、地を蹴り、常人ならば反応すら不可能な速度で射線の隙間を抜ける。魔力弾が背後で爆ぜ、土と火花が舞い上がるが、衝撃が届く前に彼はすでに次の位置にいる。


「動きが……速すぎる」


 後始末屋の一人が息を呑んだ瞬間、アルフレッドは懐へ入っていた。

 剣が閃き、斬撃が放たれる――が、刃は肉を断たない。


 峰打ち。


 骨を砕く衝撃だけを叩き込み、男を地面に沈める。


「殺す気はない」


 低く告げながら、アルフレッドはそのまま回転し、背後から迫る術者の詠唱を蹴りで遮断する。喉元に風切り音が走り、詠唱が途切れ、魔術が霧散した。


 だが、その隙を突いて――

 野営地の中央に立つ男が、ついに動いた。


「いい……実にいい……!」


 男は狂気を帯びた笑みを浮かべながら、一歩、前へ出る。

 黒い石の欠片が、彼の周囲だけ異様に強く輝いていた。


「速さ、判断、力の制御……全部、想定以上だ!」

「だからこそ、試す価値がある!」


 男が剣を抜いた瞬間、地面が鳴動した。

 彼の足元から魔力が噴き上がり、身体強化と空間補正が同時に発動する。


 ――人間の領域を踏み越えた動き。


 次の刹那、男の姿が掻き消え、アルフレッドの視界の端に出現する。


「遅い!」


 斬撃が放たれる。

 だが、アルフレッドはすでにそこにいない。


 剣と剣が衝突し、火花が散る。

 雷を纏っていないにもかかわらず、その一撃は大気を震わせ、周囲の焚き火を一斉に揺らした。


「……なるほど」


 アルフレッドは剣を受け止めたまま、男の目を見据える。


「黒い石を封じたまま使っているな」

「セイセス=セイセスとは、やり方が違う」


 男は歯を見せて笑う。


「当然だ! あいつらは“飲まれる”!」

「俺たちは“縛る”!」


 次の瞬間、男の背後に浮かぶ黒い石の欠片が連結し、幾何学的な紋様を描く。

 それは武器でも盾でもない――観測用の構造体。


「さあ、見せろ!」

「お前がどこまで行けるのかを!」


 アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。


「……観測か」


 剣をわずかに下げ、構えを変える。

 その瞬間、周囲の空気が変質した。


 ――雷が、内側から滲み出す。


 剣身ではない。

 身体そのものが、雷を宿したかのように震え始める。


「後悔するぞ」


 男の笑みが、歓喜へと歪む。


「それを聞きたかった!」


 次の瞬間、二人は同時に踏み込んだ。

 雷と黒い石の魔力が激突し、夜の野営地は、もはや戦場という言葉すら生温い実験場と化していく。


 そしてアルフレッドは、この戦いの先に、セイセス=セイセスでも虚空教団でもない、新たな火種が確かに存在することを、肌で感じ始めていた。



 衝突は、一瞬の静止を挟んで爆発した。


 雷を宿したアルフレッドの踏み込みは、もはや人の動作ではなかった。筋力と魔力が完全に同期し、地面を蹴る力そのものが推進力へと変換され、身体は空気を裂く弾丸のように前へと放たれる。その軌道上で、剣が振るわれる――いや、振るわれる前に、結果だけが先に現れる。


 男の観測構造体が軋んだ。


「――っ!」


 剣と剣が噛み合うよりも早く、男は後退していた。空間補正で距離をずらし、直撃を回避するが、それでも遅い。雷の余波が胸元を掠め、外套が焦げ、皮膚の表層が焼かれる。


「いい……いいぞ……!」


 男は笑っていた。痛みではなく、歓喜に歪んだ笑みだ。


「この密度、この圧力……雷属性を単なる付与じゃなく、身体構造にまで落とし込んでいる!」

「魔剣士というより――現象だ!」


 アルフレッドは返事をしない。

 剣を構えたまま、男の動きを観察している。


 黒い石の欠片が描く紋様は、先ほどよりも複雑になっていた。

 攻撃の予測、魔力の収束、時間差の補正。

 ――未来の数瞬を覗くための構造。


「……観測の精度を上げているな」


「当然だ。でなければ、お前は見えない!」


 男が剣を振るう。

 その斬撃は、直線ではなかった。


 空間そのものが歪み、斬撃が三方向から同時に到達する。

 過去・現在・予測された未来の位置へ、同時干渉。


 だが。


 アルフレッドは、そのすべてを受け止めた。


 剣で一つ、身体を傾けて一つ、踏み込みで一つ。

 まるで、すでに知っていたかのような動き。


「――なっ」


 男の声が、初めて揺れた。


「未来を見ているつもりか?」


 アルフレッドが低く言う。


「違う。読んでいるだけだ」

「お前は“最善”を選ぶ。その癖がある」


 次の瞬間、アルフレッドは一気に距離を詰めた。

 雷が爆ぜ、剣が振り下ろされる――が、致命点は外す。


 剣の腹で、男の観測構造体を叩き潰した。


 黒い石の欠片が悲鳴のような音を立てて弾け、空間に歪みが走る。


「――ぐっ……!」


 男は後方へと吹き飛び、地面を転がる。

 焚き火が倒れ、火の粉が夜空へ舞い上がった。


 周囲の後始末屋たちが、思わず一歩引く。


「隊長……!」


 男――後始末屋の指揮者は、膝をついたまま笑った。


「……なるほど……」

「これは、止めるべき災厄じゃない」


 顔を上げ、アルフレッドを見据える。


「お前は“通過点”だ」

「世界が壊れる前に、もっと厄介な連中とぶつかるためのな」


 アルフレッドは剣を下ろさない。


「知っている名前を言え」


 男は一瞬だけ視線を逸らし、夜の彼方を見た。


「セイセス=セイセスは、もう駒に過ぎない」

「虚空教団ベイリル=オラリオンは……観測の外側で笑っている」


 そして、低く続けた。


「だが、そのさらに奥がある」

「黒い石を“生み出した側”だ」


 その言葉が、夜気に沈む。


 次の瞬間、男の足元に転移陣が展開した。

 後始末屋たちが即座に撤収態勢へ移る。


「次に会う時は――」


 男は消え際に、はっきりと言った。


「戦場じゃなく、世界の縁だ」


 光が消え、野営地には焚き火の残骸と、焦げた大地だけが残された。


 アルフレッドは剣を収め、黒い石を握りしめる。

 その脈動は、先ほどよりもはっきりと、遠くを指していた。


「……いいだろう」


 夜空を見上げ、静かに呟く。


「なら、そこまで行ってやる」


 復讐の旅は、いつの間にか――

 世界そのものを賭けた戦記へと姿を変えつつあった。



 夜は深く、荒野は再び沈黙を取り戻していた。


 だが、その沈黙は休息を許すものではない。焚き火の残骸から立ちのぼる焦げた匂い、地面に残る魔力の焼痕、そして――アルフレッドの掌中で脈打つ黒い石。そのすべてが、次なる戦いがすでに始まっていることを告げていた。


 黒い石は、もはや単なる指標ではなかった。

 鼓動のような律動は、明確な方向性を帯び、遠方の一点へと意識を引きずる。そこには都市の残骸でも、祭壇でもない。戦場そのものが形成されつつある場所がある。


「……誘われているな」


 独りごちる声は低く、冷えていた。

 先ほどの男――観測者の言葉が、脳裏で反芻される。セイセス=セイセスは駒に過ぎず、虚空教団ベイリル=オラリオンは観測の外側で笑っている。そして、その奥にいる“生み出した側”。


 だが、アルフレッドにとって順序は明確だった。


 まず潰す。

 理解はその後でいい。


 彼は野営を畳むこともなく、ただ立ち上がった。荷をまとめる必要はない。武器は剣一振り、魔力は身体そのもの、そして進路は黒い石が示している。余計なものは、最初から持っていなかった。


 歩き出した瞬間、風向きが変わった。


 荒野を吹き抜けていた乾いた風が、湿りを帯び、鉄と血の匂いを含み始める。遠くで雷鳴のような音が響いたが、雲はない。自然現象ではない――大規模な魔力干渉が、地平線の向こうで起きている。


 数刻も進まぬうちに、地形が変わり始めた。


 岩盤が隆起し、ねじれ、まるで大地そのものが内側から掴まれているかのように歪んでいる。裂け目の底からは淡い光が漏れ、無数の紋様が地表に浮かび上がっては消える。それらは結界であり、召喚陣であり、同時に戦場を固定するための枠組みだった。


「セイセス=セイセス……いや」


 アルフレッドは歩みを止め、剣に手を掛ける。


「ここは、もっと雑多だ」


 答え合わせは、すぐに現れた。


 裂けた大地の向こう側――半円状に展開された高台に、人影が立っている。黒衣に身を包んだ者、獣の骨を鎧のように纏う者、そして人の形を保ってはいるが、どこか決定的に“壊れている”者たち。


 統一された装束はない。

 だが、共通点は一つ。


 全員が、何かを信じる目をしていない。


 狂気でも、狂信でもない。

 もっと冷たい、計算された諦観。自分たちは消耗品であり、使い捨てであり、それでも目的のために配置された存在だと理解した上で、そこに立っている目だ。


 その中央に、ひときわ背の高い影があった。


 顔は覆われていない。だが、その表情は仮面よりも無機質だった。

 胸元には、黒い石を粉砕して再構成したような結晶体が埋め込まれ、そこから細い光が脈のように全身へと走っている。


「来たか、魔剣士」


 声はよく通り、感情の起伏がない。


「黒い石の反応は正確だ。ここが、お前の次の通過点になる」


 アルフレッドは一歩、前に出た。

 雷の気配が、空気を震わせる。


「名前を名乗れ」


 男は一瞬だけ、口角を吊り上げた。


「名は要らない。役割だけでいい」

「我々は、実験場を管理する側だ」


 周囲の者たちが一斉に動き、陣形を組む。

 魔力が立ち上がり、大地の紋様が完全に点灯する。


「セイセス=セイセスも、ベイリル=オラリオンも、この場では同列だ」

「誰が生き残るかを見る。それだけのために――ここは用意された」


 アルフレッドは、剣を抜いた。


 雷光が夜を切り裂き、刃が淡く白く輝く。


「……なら話は早い」


 視線を、敵全体に走らせる。


「全員、倒せばいい」


 次の瞬間、戦場が起動した。


 大地が吠え、結界が閉じ、魔力の嵐が吹き荒れる。

 アルフレッドは踏み込み、雷を纏って最初の敵へと突っ込んでいった。


 次なる戦いは、もはや復讐の延長ではない。

 世界の構造そのものを賭けた、選別の戦場だった。


 そして、その中心に立つのは――

 剣を持つ、ただ一人の魔剣士である。



 最初の衝突は、音よりも先に圧として訪れた。


 結界内に満ちた魔力が一斉に収束し、地表の紋様が灼けた鉄のように赤く発光する。敵の一団が同時に踏み込み、剣、鎖、呪符、歪んだ魔術が時間差なく放たれた。統率の取れた連携――だが、それは熟練ではなく、実験手順の再現に近い。


 アルフレッドは一歩も退かなかった。


 踏み出す脚に雷が走り、筋肉の収縮と魔力の放出が完全に一致する。刹那、視界が歪み、次の瞬間には最前列の敵がまとめて吹き飛んでいた。剣は横薙ぎ。だが斬撃そのものより、刃から解き放たれた雷圧が、敵の骨格と内臓を内側から破壊していく。


 悲鳴はない。

 あるのは、砕ける音だけだ。


「……反応速度、想定以上だな」


 中央の男――“管理する側”は動かない。

 腕を組み、アルフレッドの一挙手一投足を見逃すまいと、目を細めている。


「雷属性の身体強化と、剣技の同時運用……いや、違うな。あれは付与じゃない。常時稼働の基盤だ」


 分析の声が、戦場に混じる。


 アルフレッドは二列目へ踏み込み、突きに転じた。

 剣先が敵の胸を貫く前に、魔力が爆ぜる。内部からの破壊。肉体が崩れ、黒い石の欠片が飛び散った。


 その欠片が地に落ちる前に、別の敵が拾い上げ、即座に自らの身体へと押し込む。


 肉が裂け、骨が歪み、形が変わる。


「……自己改変型か」


 アルフレッドは一瞬だけ動きを緩め、変質の過程を見極める。

 敵はそれを好機と見たのか、異形化した腕を振るい、重力を歪める一撃を放った。


 だが。


 アルフレッドは、剣を逆手に持ち替えた。


 雷が刃の背に集まり、次の瞬間、彼は前へ出るのではなく、斜め下へ踏み込む。地面を蹴り、重力場の外縁を滑るように移動しながら、敵の膝関節を正確に断ち切った。


 異形が崩れ落ちる。


 続けて、剣を振り抜く。

 今度は魔術が前に出る。雷が収束し、刃から放たれた閃光が直線となって敵陣を貫いた。


 数体が同時に倒れる。


「……瞬殺しない」


 中央の男が、低く笑った。


「なるほど。潰すより、測っているのか」


 アルフレッドは答えない。

 だが、その通りだった。


 敵はただの狂信者でも、暴走した実験体でもない。

 誰かが用意し、配置し、意図をもって送り込んだ“試料”だ。ならば、その性質を見極める必要がある。


 背後から、魔術陣が起動する気配。


 振り向かず、アルフレッドは剣を後方へ突き出した。

 雷が奔り、起動しかけた陣が内部から焼き切られる。


「……っ、何で分かる!?」


「魔力の流れが、素直すぎる」


 淡々とした声。


「隠す気がない。実験だからだ」


 その言葉に、敵の一部がわずかに動揺した。

 それを見逃さない。


 アルフレッドは一気に間合いを詰め、剣を振るう。

 今度は斬るのではなく、弾く。衝撃と雷圧で敵を吹き飛ばし、陣形を崩す。


 戦場の均衡が、明確に傾いた。


 中央の男は、ようやく腕を解いた。


「十分だ」


 その一言で、残った者たちが動きを止める。

 撤退ではない。次段階への移行だ。


 男の胸元の結晶が強く光り、結界の紋様が書き換わっていく。


「ここからは――」


 男の視線が、アルフレッドを捉える。


「個体戦だ。魔剣士」


 アルフレッドは剣を構え直し、雷をさらに深く巡らせた。


「望むところだ」


 大地が沈み、周囲の敵影が霧のように消える。

 戦場は再構成され、二人だけが残された。


 次なる局面は、試験でも選別でもない。

 意思と意思がぶつかる、本当の戦いが始まろうとしていた。



 霧が引き裂かれるように消え、再構成された戦場が姿を現す。


 円形の闘技場――いや、観測用隔離空間。地面は滑らかな黒曜石で、空には星も雲もない。ただ、無数の数式めいた紋様が、空間そのものに刻まれて脈動している。


 中央の男は、ゆっくりと外套を脱いだ。


「改めて名乗ろう。セイセス=セイセス技術局・外縁試験官、グラウ配下――だが」


 薄く歪んだ笑み。


「ここでは、ただの実行者だ」


 次の瞬間、男の身体が“ずれる”。


 肉体が消えたわけではない。位置情報が書き換えられ、存在が一拍遅れて現れる。視認と実在の誤差――空間干渉型の身体運用。


 アルフレッドは目を細めた。


「観測者の技術か」


「借用だ。君に比べれば、表層に過ぎないがね」


 男の指先が鳴る。

 空間に走る線。斬撃でも魔術でもない、座標指定による破断。


 アルフレッドは即座に後退――しない。

 踏み込み、雷を一点に集中させる。刃を振るうのではなく、空間そのものを殴りつける。


 雷圧が爆ぜ、指定された破断線が歪み、崩壊した。


「……ほう」


 男が、心底楽しそうに息を吐く。


「空間干渉に力で対抗するとは。合理性を捨てた選択だが――嫌いじゃない」


「理屈で殺し合う気はない」


 アルフレッドは低く言い放つ。


「お前たちは、世界を壊す理由を数式で正当化する。俺は違う」


 次の瞬間、男が消え、同時に背後から衝撃。


 アルフレッドの身体が前へと叩き出され、地面に亀裂が走る。

 見えない拳――いや、遅延実体化された攻撃。


 だが、倒れない。


 アルフレッドは地面に剣を突き立て、雷で身体を引き戻す。

 背後へ跳躍しながら、刃を振るった。


 男の肩が裂け、血が宙に舞う。


「……痛みは、あるらしいな」


「当然だ。これは仮想じゃない」


 男は血を見て、愉悦を隠さなかった。


「だからこそ、価値がある」


 胸元の結晶が、これまでとは異なる色に変わる。

 赤でも青でもない、灰色の光。


 空間の紋様が一斉に反転し、重力がねじ曲がる。


「次は、君の“意思”を測らせてもらう」


 アルフレッドは歯を食いしばり、雷をさらに深層へと沈めた。

 黒い石が胸元で激しく脈動する。


 ――導いている。

 ――試されている。


 誰にかは分からない。だが、退く理由はなかった。


「測るなら、覚悟しろ」


 剣を構え、雷が咆哮する。


「俺は――潰す側だ」


 灰色の光が戦場を覆い、世界の法則が一段、書き換えられた。


 試験官と魔剣士。

 観測と意志。


 次の一合で、どちらが“不要な存在”かが決まる。



 灰色の光が濃度を増すにつれ、闘技場――いや、もはやそれは戦場と呼ぶにはあまりに抽象化された観測断面は、物質としての安定を失い、空間そのものが呼吸するかのように収縮と膨張を繰り返し始めていた。


 アルフレッドは足裏から伝わる違和感を即座に理解する。

 地面は存在しているが、同時に存在していない。踏みしめた感触はあるが、次の瞬間には距離情報が再定義され、力の伝達が遅延する。これは単なる重力操作ではない。因果の順序そのものが撹乱されている。


「ほう、適応が早いな」


 試験官――名も告げぬ男は、両腕を広げ、舞台の中心に立ったまま動かない。

 動く必要がないのだ。空間が彼の意思に追従している。


「通常の戦士なら、ここで足を取られ、呼吸を乱し、やがて自滅する。だが君は違う。黒い石……いや、それ以上だ」


 アルフレッドは返答しない。

 代わりに、雷を外へ放つことをやめ、体内で循環させる。筋肉、神経、骨格、そのすべてを一時的な魔術回路として再編成し、外界の法則に依存しない駆動系を構築する。


 世界が歪むなら、自分のほうを世界から切り離せばいい。


 踏み出した瞬間、視界が跳ねた。


 距離が縮んだのではない。距離という概念を飛ばした。

 アルフレッドの剣が、男の喉元へと迫る。


 だが、刃は届かない。


 男の首は、確かにそこにある。

 しかし“切断される未来”が、意図的に除外されている。


「惜しい」


 男の指が動く。

 その瞬間、アルフレッドの背後に“彼自身”が現れた。


 ――いや、違う。


 それはアルフレッドの可能性の一つ。

 雷を選ばず、剣を捨て、復讐を否定した未来の像。


「君が選ばなかった道だ」


 像が語りかける声は、どこまでも静かで、どこまでも優しい。


「戦わずとも、世界は変えられた。血を流さずとも――」


 言葉が終わる前に、雷が炸裂した。


 アルフレッドは迷わない。

 迷わないことを、すでに何度も代償として支払ってきた。


「黙れ」


 雷と剣が同時に振るわれ、可能性の像は霧散する。

 それを見て、男は歓喜に震えた。


「いい……実にいい……!」


 声が歪む。理性の皮膜が剥がれ落ち、内側の狂気が露わになる。


「拒絶する意思! 観測を否定する選択! ああ、これこそがデータだ!」


 空間が軋み、灰色の光が赤黒く変質する。

 もはや試験ではない。執着だ。


 アルフレッドは剣を構え直し、低く息を吐く。


 黒い石が、警告するように脈動する。

 ここから先は、ただの戦闘ではない。世界の側が、彼を排除しようとしている。


 だが、それでも――


「俺は進む」


 たとえ観測されようと、否定されようと、

 復讐という一点を貫くために。


 雷鳴が轟き、二人の存在が同時に加速した。


 次の瞬間、この隔離空間の“外側”で、何者かが静かに笑ったことを、

 まだ誰も知らない。



 雷鳴は一度、空間の縫い目に吸い込まれるようにして失われ、直後、世界は遅れて悲鳴を上げた。


 アルフレッドと男――観測を司る狂気の体現者は、互いに衝突したのではない。

 衝突という結果だけが、後から現実に貼り付けられた。


 剣と不可視の力が交錯した瞬間、隔離空間の輪郭がひび割れ、灰色と赤黒が混じり合った光が、まるで血管の破断のように四方へ走る。地平は反転し、上下の概念が一瞬だけ消え失せた。


「――いい……実に、いい……!」


 男の笑い声は反響ではない。

 世界の側が共鳴している。


 アルフレッドは踏みとどまり、剣を逆手に構えたまま、わずかに膝を沈める。

 筋肉が悲鳴を上げ、神経に微細な遅延が走る。魔力循環は維持できているが、消耗は確実に蓄積していた。相手は肉体を持つ戦士ではない。法則に寄生する異常体だ。


「君は理解していない」


 男は腕を広げ、ひび割れた空間の中心に立つ。

 その背後で、無数の像が揺らめいた。アルフレッドの姿、少女の姿、名もなき戦士たちの姿――すべてが半透明で、しかし確かな重量を持って存在している。


「我々は敵ではない。セイセス=セイセスも、黒い石も、君の復讐さえも……観測対象にすぎない」


 言葉が落ちるたび、像が一つ、二つと歪む。

 誰かの人生の断片が、失敗と後悔だけを抽出されたかのように。


「虚空教団ベイリル=オラリオンはな、世界を“正しく壊れる前”に測っているだけだ。壊れ方を誤れば、すべてが無意味になる」


 アルフレッドは、剣先をわずかに下げたまま、静かに言い放つ。


「測るために、人を使い潰すのか」


「使い潰す? 違うな」


 男は一歩、前に出た。

 その一歩が、距離ではなく意味を詰めてくる。


「君たちは、すでに壊れている。その壊れ方に“価値”を見出しているだけだ」


 瞬間、アルフレッドの背後で、雷が自律的に爆ぜた。

 黒い石が警告ではなく、拒絶として反応している。


「……ふざけるな」


 低く、抑えた声。

 怒りではない。決断だ。


「壊れたかどうかを決めるのは、俺じゃない。だが――」


 剣に雷が収束する。

 今度は外へ放たない。刃そのものが、雷の概念を帯び、周囲の法則を焼き切る。


「俺の歩みを、秤にかける資格は、お前にはない」


 踏み込み。

 今度は因果を飛ばさない。真正面から、世界ごと斬る。


 男は初めて、笑みを歪めた。


「……ああ、だから君は面白い!」


 空間が悲鳴を上げ、観測断面が限界を迎える。

 像が砕け、光が散り、虚空が露わになる。


 だが、その崩壊の最中――

 アルフレッドは感じ取っていた。


 この男は、ここで終わらない。

 そして、この戦いもまた、序章にすぎない。


 隔離空間が破断し、現実への復帰が強制される。

 代償として、アルフレッドの胸奥に、ひとつの“視線”が焼き付いた。


 観測者は去った。

 だが、世界はすでに、彼を見始めている。


 黒い石が、重く、深く脈動する。

 次なる拠点、次なる戦場、その先に待つものを告げるように。


 アルフレッドは剣を収め、灰と雷の残滓が漂う荒野を見渡した。


 復讐は、まだ終わらない。

 だが今、その道は、確実に――より深い戦争へと繋がっていた。


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