第二十話
アルフレッドの戦記は、勝利の数で語られるものではない。
それは、破壊された拠点の数でも、斬り伏せた敵の名でもなく――歩いた距離と、拒み続けた選択の痕跡によって刻まれていく。
西方の荒原を離れ、彼はさらに外縁へと向かった。
街道はすでに道としての機能を失い、石畳は剥がれ、地脈の歪みによって隆起と陥没を繰り返している。ここは世界の縫い目だ。セイセス=セイセスが実験場として好む理由も、虚空教団が観測点を置く理由も、歩けば嫌でも理解できた。
夜、焚き火は最小限に抑えられる。
火は合図であり、敵にも観測者にも等しく届く。
アルフレッドは剣を膝に置き、黒い石を掌に転がしながら、戦いの記録を頭の中で反芻する。
――灰喰らい。
――儀式生体。
――実働核。
――グラウ。
――仮面の観測者、ベイリル=オラリオン。
敵は多様だが、根は一つだ。
人を素材と見なす思想。
「……変わらないな」
誰に向けた言葉でもない独白が、夜に溶ける。
彼は自らの身体を理解している。
常人を超えた筋力、反射、耐久。
魔術を即時展開できる演算速度と、剣技を同時に成立させる制御力。
だがそれらは、彼にとって誇示すべき力ではない。
必要だから使うだけだ。
セイセス=セイセスは、その力を「資質」と呼び、
虚空教団は「例外」として記録しようとする。
どちらも、彼にとっては同じだ。
「……俺は、分類される気はない」
翌朝、黒い石が明確な反応を示した。
微弱だが、連続した脈動。
方向は南西――かつて宗教都市が築かれ、今は廃墟となった地域。
記録に残る名は《カリグナス聖域》。
セイセス=セイセスが初期に関与したと噂される場所であり、
同時に、虚空教団が“観測を始めた最初の地”でもある。
偶然ではない。
アルフレッドは立ち上がり、剣を背に負う。
歩調は変えない。急ぐ理由も、躊躇う理由もなかった。
彼の戦いは、戦場に入った瞬間に始まるのではない。
敵の理屈を見抜いた時点で、すでに始まっている。
この先に待つのが、
狂信者か、実験体か、あるいは“観測の代理人”かは分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
次の戦いは、
これまでよりも――世界の奥に踏み込む。
アルフレッドは歩き続ける。
黒い石の導きと、
自らの意思、その両方を拒まずに。
――そして彼の戦記は、次の章へと進んでいく。
カリグナス聖域へ向かう道は、もはや「道」と呼べるものではなかった。
かつて巡礼者たちが列を成し、祈りの言葉とともに歩いた石畳は、地脈の歪みによってねじ曲がり、崩れ、ところどころで大地そのものに呑み込まれている。風が吹くたび、砕けた石粉が舞い上がり、白い霧のように視界を曇らせた。
アルフレッドは歩調を崩さない。
足裏から伝わる微細な振動、空気に混じる異臭、魔力の流れの乱れ――それらすべてを無意識のうちに拾い上げ、周囲の状況を組み立てていく。
ここは、すでに「生きた土地」ではない。
黒い石は、外套の内側で低く脈打っていた。
以前のような激しい反応ではない。むしろ、呼吸に合わせるかのように、規則正しく、執拗に。
――近い。
その感覚が、確信として胸に落ちる。
やがて、霧の向こうに影が浮かび上がった。
巨大な半円状の外壁。崩れ落ちた聖堂の尖塔。地面に突き刺さったまま折れた鐘楼。
それらは、信仰の残骸であり、同時に実験場の痕跡でもあった。
カリグナス聖域は、静まり返っている。
鳥の声も、虫の羽音もない。
あるのは、遠くで響くような低い共鳴音――まるで、地下で何かが脈打っているかのような、不快な律動だけだった。
アルフレッドは聖域の境界で立ち止まった。
視線を走らせると、外壁の内側、瓦礫の陰、崩れた柱の隙間――
意図的に隠された配置が見えてくる。
「……なるほど」
敵は待っている。
だが、それは待ち伏せではない。
観測だ。
アルフレッドはあえて、足音を殺さずに聖域へ踏み込んだ。
その瞬間、空気がわずかに揺らぎ、結界が反応する。
瓦礫の影から、黒衣の人影が姿を現した。
一人、二人ではない。十を超える数。
顔は覆われ、瞳だけが仮面の奥で鈍く光っている。
セイセス=セイセスの末端――だが、これまでの狂信者たちとは違う。
彼らの動きは揃いすぎており、呼吸の間隔すら一致していた。
「侵入者を確認」
「対象:アルフレッド」
「観測と排除、同時進行」
感情のない声が、重なり合って響く。
アルフレッドは剣に手をかけたまま、動かない。
視線だけで、彼らの配置、距離、魔力反応を測る。
「……人形か。いや、違うな」
言葉にした瞬間、黒衣の一人が一歩踏み出した。
その動きは人間のものだが、内部から漏れ出す魔力は歪んでいる。
外部から無理やり“同期”させられている感触。
「セイセス=セイセスだけじゃない」
アルフレッドは低く呟いた。
「虚空教団……お前たちも、ここに噛んでいるな」
一瞬、空気が張り詰めた。
だが返答はない。
代わりに、地面が軋んだ。
聖域の中央、崩れた祭壇の下から、黒い光が滲み出す。
それは石でも、肉でもない。
複数の黒い石片を、強引に一つの核として束ねた存在。
歪な共鳴が、空間を震わせる。
「起動確認」
「観測段階、第二位相へ移行」
黒衣たちが一斉に距離を取り、包囲陣を形成した。
アルフレッドは、ようやく剣を抜いた。
剣身に魔力が走り、淡い雷光が浮かび上がる。
「……いいだろう」
その声には、焦りも高揚もない。
ただ、確固たる覚悟だけがあった。
「観測でも実験でも好きにしろ。だが――」
彼は一歩、前へ出る。
「生き残れると思うな」
雷光が一段、強く脈打った。
カリグナス聖域の中心で、
アルフレッドと、セイセス=セイセス、そして虚空教団の影が交錯する。
次なる戦いは、
もはや単なる殲滅では終わらない。
世界の裏側で進められてきた思惑が、
ここで、剣と魔の形を取って噛み合おうとしていた。
空気が張りつめたまま、ほんの一拍――世界が息を止めた。
次の瞬間、祭壇の下から滲み出していた黒光が脈動し、まるで呼吸する臓器のように膨張したかと思うと、地面を割ってせり上がった。砕けた石材と骨の粉が宙に舞い、その中心に現れたものは、もはや器と呼ぶべき形すら保っていなかった。
複数の黒い石片が、強引に縫い合わされ、歪な核を成している。
それを支える外殻は、かつて人であった肉体を基材に、金属と呪紋で補強されたものだ。四肢は不均衡に長く、関節は逆向きに折れ、胸部には露出した核が鼓動するたび、黒い稲妻が走る。
――生体兵器。
しかも、未完成。
アルフレッドは即座に理解した。
これは“勝つための存在”ではない。“測るための存在”だ。
「……なるほど。実験台は俺、というわけか」
低く呟いた瞬間、黒衣たちが一斉に動いた。
詠唱も合図もない。ただ同時に、正確に、殺意を帯びた動作。
空間に複数の魔術陣が展開され、重力が歪む。
足元の石畳が引き剥がされ、刃のように舞い上がった。
アルフレッドは踏み込む。
地を蹴る脚力は人の限界を超え、空気が破裂音を立てた。
飛来する石刃を、剣で斬る必要はない。
魔力を流し込んだ瞬間、雷光が剣身から溢れ、周囲一帯を薙ぎ払った。
轟音。
石刃は空中で砕け、塵となって散る。
同時に、左右から黒衣の二体が肉薄した。
動きは速い。だが、均質すぎる。
「……同期しすぎだ」
アルフレッドは身体を半身にずらし、右の一体の喉元へ剣を差し込む。
斬撃ではない。刺突。最小限の動きで、最大の破壊。
雷が内部から炸裂し、黒衣の身体は内側から炭化した。
だが、倒れない。
代わりに、残った黒衣たちの動きが微妙に変わった。
「フィードバック……学習、開始」
感情のない声が、重なり合って響く。
次の攻撃は、より間合いを測ったものだった。
遠距離からの干渉魔術、視覚撹乱、魔力干渉波――
人間の戦闘判断を前提に組まれた、理詰めの殺し。
アルフレッドは後退しない。
むしろ、一歩前へ出た。
魔力を体内で循環させ、剣と身体を同時に強化する。
剣士であり、魔術師であり、そして能力者である彼にとって、これは“切り替え”ですらない。
「甘いな」
視界を覆う幻影を無視し、魔力干渉波を正面から受け止める。
通常の術者なら意識を乱されるが、アルフレッドの精神は揺らがない。
――干渉が来るなら、逆に掴む。
魔力の流れを読み取り、その源へ逆流させる。
次の瞬間、黒衣の一体が不自然に仰け反り、内部で魔力が暴走した。
「観測不能……例外値、上昇……」
その言葉を最後に、黒衣の身体が崩れ落ちる。
中央の生体兵器が咆哮を上げた。
音ではない。空間そのものを震わせる衝撃。
核が激しく明滅し、黒い稲妻が荒れ狂う。
暴走寸前――いや、意図的に限界へ押し上げられている。
アルフレッドは剣を構え直し、視線を核へ向けた。
「……いいだろう。測りたいなら、最後まで付き合ってやる」
彼は深く踏み込み、魔力を剣へ集中させる。
雷光が収束し、刃の輪郭が曖昧になるほどの輝きを放った。
次の一撃は、実験でも観測でもない。
純粋な破壊のための剣。
カリグナス聖域の中心で、
雷と黒光が正面から激突する。
そして、遠く――
人知れず、この戦いを“記録する視線”が、確かに存在していた。
雷光と黒光が衝突した瞬間、音は遅れてやってきた。
空気が引き裂かれ、爆裂音が聖域全体を揺さぶる。崩れかけていた外壁が悲鳴を上げ、瓦礫が雪崩のように崩落した。祭壇の上空では、魔力の奔流が渦を巻き、視界そのものが歪んでいく。
生体兵器の核が露出し、黒い稲妻を噴き上げながら不規則に明滅した。
制御はすでに限界を超えている。だが、それでも止まらない。
――止めさせる気がないのだ。
アルフレッドは一瞬で判断する。
この存在は「倒す」ことよりも、「どう壊れるか」を見せるために用意されている。
「……なるほど。最後まで、趣味が悪い」
彼は一度だけ、深く息を吸った。
体内を巡る魔力の流れを再編し、剣と身体の同期をさらに一段階引き上げる。筋肉の軋みも、骨に走る負荷も、意識の端に押しやった。
生体兵器が跳躍した。
巨体に似合わぬ速度で距離を詰め、歪な腕を振り下ろす。
衝撃波が地面を割り、灰と石片が嵐のように舞い上がった。
アルフレッドは真正面から迎え撃たない。
踏み込み、半身をずらし、刃を滑らせる。
剣が外殻を裂き、雷光が内部へと流れ込む。
だが核までは届かない。即座に再生が始まり、黒い石片が蠢いて傷口を塞いでいく。
「自己修復……いや、自己補正か」
剣を引き戻しながら、次の動きを読む。
核が鼓動するたび、周囲の魔力場が書き換えられている。
この場そのものが、兵器の一部だ。
黒衣の残党が、距離を保ったまま詠唱を始める。
だが、その声は震えていた。
「観測値、逸脱……」
「これ以上は――」
言葉は最後まで続かなかった。
アルフレッドが視線を向けた、その一瞬。
魔力干渉が走り、詠唱が崩壊する。
黒衣の一体が頭を押さえ、膝をついた。
「……戦場で迷うな」
その言葉と同時に、雷光が弧を描いて走り、残党を一掃した。
生きているかどうかは、もはや問題ではない。
この場で役割を終えた。
生体兵器が咆哮する。
核が過剰な光を放ち、暴走が明確になる。
アルフレッドは距離を取らない。
むしろ、一歩、さらに踏み込む。
剣を低く構え、魔力を刃の内側へ極限まで圧縮する。
雷光は外へ漏れず、静かに、しかし確実に収束していった。
「……測りたいなら、核心を見せてやる」
次の瞬間、彼は跳んだ。
速度はもはや人の認識を超え、残像すら遅れる。
生体兵器の攻撃が届く前に、アルフレッドは核の正面へと迫っていた。
剣を振るう。
それは斬撃というより、決断だった。
圧縮された雷が解放され、一直線の光となって核を貫く。
黒い石片が悲鳴を上げ、共鳴が崩壊する。
一瞬の静寂。
そして、内側からの崩壊。
核が砕け、黒光が暴風のように噴き出した。
生体兵器の外殻が弾け、肉と金属と呪紋が四散する。
アルフレッドは着地し、爆風を背で受け止めた。
足元の石畳が粉砕されるが、彼は崩れない。
やがて、光が収まり、聖域には瓦礫と沈黙だけが残った。
――否。
空気の奥に、微かな違和感が残っている。
視線を感じる。
直接的ではないが、確かに“見られている”。
アルフレッドは剣を下ろさず、周囲を睨んだ。
「……まだ、終わりじゃないな」
答えは返らない。
だが、遠くで何かが“記録を閉じる”気配だけが、かすかに消えていった。
カリグナス聖域の戦いは終わった。
だがこの一戦は、確実に次を呼ぶ。
セイセス=セイセスも、
虚空教団ベイリル=オラリオンも、
――そして、世界そのものも。
アルフレッドは剣を鞘に収め、崩れた聖域を後にした。
次なる戦場は、もう動き始めている。
夜が明けきらぬ荒野を、アルフレッドは一人歩いていた。
背後にあるカリグナス聖域は、すでに霧と瓦礫の向こうへ沈んでいる。振り返らない。振り返る理由も、そこに答えが残っているとも思っていなかった。
歩調は一定。
だが、意識は鋭く研ぎ澄まされている。
腰の内側、外套の奥で――黒い石が、微かに熱を帯びた。
「……北西か」
言葉に出す必要はない。
石は方角を示さない。だが“近づいている”という感覚だけは、確かに伝えてくる。まるで獲物の匂いを嗅ぎ取った獣のように。
セイセス=セイセスの次なる拠点。
それが工房なのか、観測施設なのか、あるいは捨て石として用意された処刑場なのか――判断材料は少ない。
だが一つだけ、確かなことがある。
あそこには、戦いがある。
地形が変わり始めた。
乾いた荒野はいつの間にか黒ずんだ岩盤へと移り変わり、地表には奇妙な紋様が走っている。自然に刻まれたものではない。魔力が長期間、強制的に流された痕跡だ。
アルフレッドは膝をつき、指先で岩に触れた。
「……実験場か」
黒い石が、わずかに脈打つ。
肯定だ。
遠く、風に混じって金属音が聞こえた。
打ち鳴らされる鎖。
あるいは、何か巨大なものが動く音。
アルフレッドは立ち上がり、外套を正した。
ここから先は、単なる旅路ではない。
敵は準備している。観測者も、介入者も、彼を“次の段階”へ進めるつもりだ。
だが――
「だからといって、こちらが従う理由にはならない」
剣に手をかける。
感触を確かめるように、柄を強く握った。
その瞬間、視界の端で空間がわずかに歪んだ。
ほんの一瞬。グラウの時ほど露骨ではない。
だが、確実に“誰か”が、距離を測っている。
「……見ているなら、覚えておけ」
誰に向けたとも知れぬ言葉。
「俺は、選ばれた駒じゃない」
前方、岩盤の裂け目の向こうに、巨大な構造物の影が見え始めた。
塔でも砦でもない。
まるで大地に半分埋め込まれた臓器のような、不気味な輪郭。
そこから、低く、重い魔力の脈動が伝わってくる。
セイセス=セイセス。
あるいは、その“代理”。
アルフレッドは足を止めない。
むしろ、わずかに歩みを速めた。
次なる戦場は、すでに彼を待っている。
岩盤の裂け目を越えた先で、世界は歪んでいた。
空は低く垂れ下がり、雲ではない黒い層がゆっくりと循環している。地面には幾何学的な溝が無数に刻まれ、そのすべてが中央の構造物へと収束していた。まるで大地そのものが、そこへ魔力を送り込む血管であるかのように。
アルフレッドは歩を緩めない。
警戒はしている。だが、ためらいはない。
構造物の全貌が明らかになるにつれ、異様さは増していった。
それは塔ではない。砦でもない。
巨大な円環を縦に裂き、内部を露出させたような建造物だった。外殻は黒い石と骨材が混じり合い、内側では脈打つ光がゆっくりと明滅している。
「……培養炉か」
独り言は、静かに空へ溶けた。
ここは前線ではない。
兵を出す場所でも、防衛線を張る場所でもない。
――“造る”場所だ。
次の瞬間、地面の溝が光を帯びた。
一本、二本ではない。無数の溝が同時に反応し、低音の共鳴が荒野全体を揺らす。
アルフレッドは即座に剣を抜いた。
雷光が走る。
だが、それは敵の出現に対する反射ではない。
分析のための構えだった。
溝の先、円環構造の内部から、何かが“せり上がって”くる。
歩くのではない。跳躍でもない。
地面そのものが盛り上がり、形を与えられていく。
最初に現れたのは、腕だった。
人の腕に似ているが、関節の位置が微妙に違う。骨格が内側から再構成された痕跡がある。
続いて胴体。
その表面には、黒い石の欠片が縫い込まれるように埋め込まれていた。
最後に、顔。
人の顔だ。
だが目は閉じられており、口元は縫い止められている。
――発声を許されていない“試作品”。
「……来たか」
アルフレッドは一歩前に出る。
相手が動くより先に、距離と速度を測る。
次の瞬間、試作品の眼が開いた。
瞳孔はなく、代わりに幾何学的な紋様が浮かび上がっている。
同時に、構造物全体が応答するように脈動を強めた。
観測開始。
アルフレッドは理解した。
これは戦闘ではない。少なくとも、相手にとっては。
――測定だ。
試作品が動く。
不自然なまでに正確な踏み込み。無駄のない重心移動。
だが、その速度は意図的に抑えられている。
「……舐められているな」
アルフレッドは迎え撃たない。
半歩だけ位置をずらし、相手の攻撃を“見送る”。
拳が空を切る。
風圧だけが頬を撫でた。
次の瞬間、雷光が走る。
剣は振り抜かれない。ただ、触れただけだ。
だが、それで十分だった。
雷が内部へ侵入し、黒い石を介して全身を巡る。
試作品の動きが一瞬、乱れた。
「反応速度、許容範囲……だが」
アルフレッドは踏み込む。
今度は剣を振るった。
胴体が斜めに裂け、内部から魔力と培養液が噴き出す。
それでも、試作品は倒れない。
耐久性重視。
背後、構造物の奥で、何かが“満足げに”反応した気配があった。
――見られている。
アルフレッドは理解した上で、剣を構え直す。
「いいだろう。好きなだけ見ろ」
雷光が強まる。
地面の溝が逆流し、光が彼の足元へ集まっていく。
「だが、測るなら覚悟しろ」
試作品が再び動き出す。
今度は、先ほどよりも速い。
調整された。
アルフレッドは、わずかに笑った。
次なる戦いは、すでに始まっている。
そしてこれは、ただの一体目に過ぎない。
試作品は速度を上げたまま、今度は迷いなく距離を詰めてきた。先ほどまで見られた抑制は消え、関節の可動域を限界まで使った踏み込みが灰色の地面を削り取り、足元の溝を跳ね越えるたびに、構造物全体がわずかに脈動を強める。
――学習した、か。
アルフレッドは剣を低く構えたまま動かない。
迎撃の姿勢ではない。
次の一手を誘うための静止だった。
試作品の拳が迫る。軌道は単純だが、筋力と速度は人の域を明確に超えている。黒い石を介した魔力循環が一瞬だけ可視化され、衝撃が到達する“前”に、アルフレッドは踏み込んだ。
拳と剣が交差する。
衝突は起きない。
代わりに、雷が炸裂した。
剣身に纏わせた魔力を一点で解放し、衝撃そのものを外側へ逃がす。拳は弾かれ、試作品の体勢が半拍遅れて崩れた。
その隙を、アルフレッドは逃さない。
剣が弧を描き、肩口から胴へと深く食い込む。
だが、斬った感触が鈍い。
「……骨格を入れ替えているな」
内部構造は人型だが、人ではない。
筋繊維の間に、黒い石由来の結晶層が挟み込まれ、衝撃を分散するよう設計されている。
――セイセス=セイセスらしい、悪趣味な合理性だ。
試作品は倒れないまま、無言で反撃に転じた。今度は脚だ。地面を蹴り、低い軌道から膝が跳ね上がる。
アルフレッドは剣を引き、身体をわずかに傾けるだけでそれをかわす。
同時に、空いた脇腹へ掌を押し当てた。
雷ではない。
圧縮した魔力そのものを叩き込む。
鈍い破裂音が内部から響き、試作品の体が後方へ吹き飛ぶ。円環構造の内壁に叩きつけられ、培養液が雨のように散った。
それでも、完全には止まらない。
体表の結晶が再構成され、損傷部位を覆い隠すように広がっていく。
――修復機構まで備えている。
アルフレッドは眉をひそめるが、焦りはない。
むしろ、視線は構造物の奥へと向けられていた。
「……まだ隠れているな」
その言葉に呼応するかのように、円環の内部で低い振動が走る。
次の瞬間、左右の溝が同時に光を帯び、第二、第三の“せり上がり”が始まった。
人型。
だが、最初の試作品とは微妙に異なる。
一体は腕部が異様に肥大化し、もう一体は背中に棘状の結晶を生やしている。
明確な役割分担――近接制圧と、範囲干渉。
「……数で測る気か」
アルフレッドは剣を一度、地面に突き立てた。
雷光が逆流する。
溝を流れていた魔力が引き寄せられ、足元に集束していく。
「いいだろう」
剣を引き抜くと同時に、地面が砕けた。
雷と魔力が爆発的に解放され、三体の試作品を同時に包み込む。
だが、それは殲滅ではない。
制圧だ。
アルフレッドはその中へ踏み込む。
一体目の腕を斬り落とし、二体目の脚を断ち、三体目の棘をまとめて焼き払う。動きは速いが、無駄がない。すべてが計算された一連の流れだった。
試作品たちは倒れ伏す。
完全に停止するまで、数秒。
その静寂の中で、構造物の奥から、はっきりとした“意志”の気配が立ち上った。
――やはり、観測者がいる。
アルフレッドは剣を肩に担ぎ、構造物を見据える。
「次は何だ。改良型か、それとも……」
答えは、言葉ではなかった。
円環構造の中心部が、ゆっくりと開いていく。
中から現れたのは、試作品ではない。
より完成度の高い、人型の影。
そしてアルフレッドは理解する。
この場は、まだ“拠点”ですらない。
――前哨実験場だ。
次なる戦いは、ここから本格的に始まる。
中心部が完全に開いたとき、空気そのものが一段重くなった。
霧状に拡散していた魔力が一斉に引き締まり、視界の奥で輪郭を得ていく。現れた人影は、これまでの試作品とは明確に違っていた。皮膚は人間に近く、四肢の比率も自然だが、その全身には細い刻印が無数に走り、心臓の位置には黒い石を核とした結晶装置が埋め込まれている。
――これは“兵器”ではない。
アルフレッドは一目で悟った。
「……観測用の戦闘体、か」
人影が、ゆっくりと顔を上げる。
瞳には感情がある。だが、それは怒りでも恐怖でもない。
評価する者の目だ。
「解析対象:アルフレッド」
声は抑揚に乏しく、だが明瞭だった。
「前段階試験、完了。次工程へ移行する」
言葉と同時に、空間が震えた。
人影の背後で、魔力の層が折り重なり、複数の干渉領域が形成される。剣術、魔術、身体能力――それぞれに対する“対策”が、同時並行で組み上げられていくのが、アルフレッドにははっきりと感じ取れた。
「なるほど……よく見ている」
だが、口元に浮かんだのは、薄い笑みだった。
「だが、観測だけで勝てると思うな」
アルフレッドは地を蹴る。
一歩。
それだけで距離は消えた。
剣が閃く。雷光が奔る。
しかし、人影は半拍早く身を引き、剣先を最小限の動きで逸らした。反撃として放たれた掌底が、魔力の塊となってアルフレッドの胸元を狙う。
直撃する前に、アルフレッドは腕で受けた。
衝撃が全身を貫く。
だが、後退はしない。
「……今のは、魔術でも純粋な力でもないな」
足元が軋む。
受け流しながら、内部で解析する。
「混成干渉。俺の動きに合わせて、性質を切り替えている」
人影は答えない。
代わりに、次の動きで“肯定”を示した。
空間が歪み、アルフレッドの背後に瞬間的な圧縮域が生まれる。逃げ場を塞ぎ、前方からの打撃で押し潰す――合理的な包囲。
だが、アルフレッドは踏み込んだ。
包囲が完成する“前”に、前へ。
剣を振るのではない。
斬撃そのものを投げる。
圧縮した雷の刃が、直線的に人影を貫いた。
結晶装置が火花を散らし、人影の体勢がわずかに崩れる。
それでも倒れない。
「耐性確認。攻撃パターン、更新」
「……やれやれ」
アルフレッドは肩を回し、呼吸を整える。
疲労はない。限界でもない。
だが、この敵は“削り合い”を狙っている。
勝敗ではなく、情報の取得そのものを目的に。
――セイセス=セイセス。
――そして、その背後で糸を引く観測者たち。
「なら、こちらも一段階上げる」
剣に、雷とは別の魔力が重なる。
質量を持った魔力。
圧倒的な“存在感”そのもの。
「観測したいなら、目を逸らすな」
アルフレッドが踏み出した瞬間、
実験場全体が、戦場としての本性を露わにした。
この遭遇は、拠点制圧では終わらない。
世界がどこまで踏み込んでくるのかを測る戦いが、今まさに始まっていた。
踏み出した一歩が、地面を砕いた。
岩盤がひび割れるより早く、アルフレッドの身体は加速していた。視界が狭まり、音が遠のく。魔力と筋力、そして超常的な身体能力が完全に同期した瞬間、世界は“遅れる”。
人影――観測用戦闘体が反応を開始したのは、その半拍後だった。
迎撃用の干渉層が展開される。重力制御、魔力偏向、衝撃吸収。
だが、それらは“正面から来る攻撃”を想定している。
アルフレッドは、正面にいなかった。
視界の外側、死角から剣が振り下ろされる。
雷でもない、魔力の刃でもない。
純粋な剣撃。
結晶装置の外殻が裂け、火花が散る。
人影は即座に距離を取ろうとするが、遅い。
「観測は好きだろう?」
アルフレッドは追いすがり、剣を返す。
二撃、三撃。
すべてが核を狙っている。
だが、人影は崩れながらも動き続ける。結晶が再構成され、損傷部位を覆い隠す。その速度は、先ほどまでの試作品とは比較にならない。
「再構築速度、想定以上……」
初めて、人影の声に揺らぎが混じった。
「解析継続――」
言葉の途中で、アルフレッドの拳が鳩尾に叩き込まれる。
剣ではない。
超圧縮した身体能力そのもの。
内部から衝撃が爆ぜ、結晶装置に亀裂が走る。
「言ったはずだ」
アルフレッドは低く告げる。
「俺は、見られる側に回る気はない」
人影が後退する。
だが、その動きは撤退ではなかった。
実験場全体が震え、壁面に刻まれた紋様が一斉に発光する。
観測用戦闘体の背後に、複数の影が重なり始めた。
――仮想演算体。
過去の戦闘データ、魔術師、剣士、能力者。
すべてが“アルフレッド対策”として再現されている。
「なるほど……」
アルフレッドは深く息を吸い、吐いた。
「本命は、ここからか」
仮想の剣士が斬りかかり、魔術師が詠唱を始め、能力者が空間を歪める。
それらが同時に襲いかかる。
だが、アルフレッドの動きに迷いはない。
剣で斬り、拳で砕き、魔力で焼き払う。
一体ずつではない。全体を制圧する動き。
仮想演算体が次々と崩壊していく。
だが、観測用戦闘体はその様子を“学習”していた。
「……興味深い」
人影の声が、はっきりと感情を帯びる。
「君は、単一の戦闘様式に依存していない。
ならば――」
空間が、完全に固定された。
逃げ場はない。
干渉領域が、アルフレッドを中心に閉じる。
「次は、“選択”を奪う」
アルフレッドは剣を構え直す。
表情は変わらない。
だが、その瞳には、わずかな興奮が宿っていた。
「……それは、俺の台詞だ」
次の瞬間、
戦場そのものが、限界試験へと移行する。
この戦いは、単なる勝敗では終わらない。
世界が、アルフレッドという存在を“どう扱うか”を決める分岐点だった。
干渉領域が完全に閉じた瞬間、空気の性質が変わった。
圧力でも重力でもない。
選択肢そのものが削ぎ落とされる感覚――動けば、そこに最適化された干渉が待ち受け、止まれば内部から崩される。戦闘体は、アルフレッドという存在を“詰ませる”ための盤面を完成させつつあった。
「……悪くない」
アルフレッドは呟く。
だが、それは評価であって、降伏ではない。
剣を下ろし、あえて構えを解いた。
観測用戦闘体の瞳が細くなる。
理解できない動き――否、理解を拒む動き。
「解析不能行動を確認。警戒レベル――」
言葉が途切れる。
アルフレッドが、踏み出したのは内側だった。
干渉領域の中心へ、自ら身を投じる。
次の瞬間、無数の制御が一斉に発動した。
空間圧縮、魔力封殺、身体拘束。
だが、それらは“外から押さえ込む”制御だ。
アルフレッドは、内側から壊した。
魔力を爆発させるのではない。
雷を放つのでもない。
身体能力そのものを極限まで引き上げ、制御点へ直接踏み込む。
見えない楔を引き抜くような感覚。
干渉領域が悲鳴を上げる。
「……構造的欠陥を確認」
戦闘体が即座に後退する。
だが、遅い。
アルフレッドの剣が、再び閃いた。
今度は、迷いのない一閃。
雷光と魔力が重なり合い、刃が“概念”として振り下ろされる。
防御でも再構築でもない。
切断だ。
観測用戦闘体の胸部、黒い石を核とした結晶装置が、真っ二つに裂けた。
一瞬、静寂。
次いで、制御を失った魔力が暴走を始める。
結晶が軋み、構造物全体に亀裂が走った。
「――撤退判断」
戦闘体の声が、急速に薄れていく。
「観測データ、十分。
対象:アルフレッド――危険度、再定義」
その言葉を最後に、人影の輪郭が崩れ、光の粒子となって散った。
実験場は、もはや持たない。
床が割れ、壁が崩れ、円環構造が自壊を始める。
アルフレッドは剣を収め、崩落する空間を駆け抜けた。
外へ。
爆音とともに、構造物が地中へ沈み込む。
黒い煙が立ち上り、魔力の残滓が夜空へ散っていく。
荒野に、再び静寂が戻った。
アルフレッドは立ち止まり、息を整える。
疲労はあるが、限界には程遠い。
「……観測は終わったつもりか」
黒い石が、微かに震えた。
次の“方向”を示すように。
セイセス=セイセス。
虚空教団ベイリル=オラリオン。
敵は一つではない。
だが、もはや状況は単純ではない。
アルフレッドは夜空を見上げ、外套を翻した。
戦いは、次の段階へ進んだ。
次なる戦場は、すでに――
彼の歩む先に、用意されている。
爆煙が荒野に沈み、魔力の余熱が大地からゆっくりと引いていく中で、アルフレッドは立ち尽くしてはいなかった。
戦いが終わった直後こそ、最も危険だと知っている。
剣を完全に鞘へ戻さず、半歩だけ前へ出る。
感覚を研ぎ澄まし、崩壊した実験場の残骸、そのさらに奥――**視界に映らない“層”**へと意識を伸ばした。
――いる。
だが、先ほどまでのような露骨な干渉はない。
観測用戦闘体が消滅したことで、こちらの出方を測り直しているのだろう。
「……逃げ足は早いな」
吐き捨てるように言い、アルフレッドは足元に転がる破片へと視線を落とした。
砕けた結晶、黒い石の微細な欠片、そして人為的に刻まれた魔術刻印。
その一つを、指先で弾く。
触れた瞬間、微弱な魔力反応が返ってきた。
だがそれは、攻撃性を持たない――座標の残滓だ。
「実験場……いや、標識か」
セイセス=セイセスは、単にここで実験をしていたわけではない。
この場所そのものを、“通過点”として利用していた。
そして――
アルフレッドは、外套の内側から黒い石を取り出す。
石は先ほどよりも明確に熱を帯び、脈動の間隔が短くなっていた。
まるで、次の獲物が近いと告げるように。
「……誘導しているつもりか」
だが、その声には苛立ちはない。
むしろ、静かな覚悟が滲んでいた。
セイセス=セイセスは、彼を“潰す”つもりではない。
虚空教団ベイリル=オラリオンも、同様だ。
――測っている。
どこまで踏み込めば折れるのか。
どこまで力を見せれば、世界の枠組みに組み込めるのか。
「……馬鹿馬鹿しい」
アルフレッドは石を握り潰すほどに力を込めるが、砕けはしない。
それでも、その反発が、意志を確かめるには十分だった。
「俺は、誰の枠にも入らない」
歩き出す。
荒野の向こう、地平線の端で、雲が不自然に渦を巻いている。
魔力嵐だ。自然現象ではない。
あそこに――次がある。
セイセス=セイセスの新たな拠点か。
あるいは、虚空教団ベイリル=オラリオンが用意した“舞台”か。
どちらであろうと、違いはない。
アルフレッドは剣の柄に手を置き、歩調を早めた。
砂と岩を踏みしめる音が、一定のリズムを刻む。
復讐のためだけではない。
観測され、干渉され、選別される世界そのものへの――
拒絶のために。
夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。
新たな戦場は、もう遠くない。
そしてこの戦記は、まだ序章を終えたばかりだった。




