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第二話

 その夜、焚火の残り火がほのかに燻る中、アルフレッドは夢を見た。

 それは過去。彼がまだ力を持たぬ少年だったころの記憶。


 ――場所は、フェンリヴァ村。


 緑深き山あいに抱かれた小さな村だった。谷を流れる清らかな水、豊かな畑、笑い声の絶えない暮らし。アルフレッドは、村の鍛冶屋をしていた父と、薬草師の母のもとで育った。剣にも魔法にも縁のない、ごく普通の少年だった。

 その日も、彼は父の手伝いで鉄の槌を握っていた。暑さに額の汗をぬぐいながら、夕焼けに染まる空を見上げていた――その時だった。


 空が、裂けた。

 稲妻のように走る黒い亀裂が、空を貫いた。

 異変は突如として起こった。空からそれは降ってきた。

 黒い霧を纏った異形の存在。人の形を模しているが、目も口もなく、ただ絶叫のような音を撒き散らしながら村を襲った。


 村人たちは逃げ惑い、次々とその影に呑まれていった。剣は通じず、祈りも届かない。父も、母も、何もできず、ただ守ろうとして倒れた。

 そして、アルフレッド自身もその黒い手に捕らえられた。


 死を覚悟した瞬間――。


 何かが、内側で目覚めた。

 それは熱でも冷気でもない、けれど確かに力だった。心の底に潜んでいた、何か深い闇に縛られた鎖が外れるような感覚。

 そして、彼の身体は燃え上がるように発光し、手にした焼けた鍛冶槌が、雷のように輝いた。

 次の瞬間、黒い影は霧散していた。

 己の手が引き裂いたという実感だけが、残っていた。


 周囲には誰もいなかった。父も、母も、村も、もうすべてが灰だった。


 その後、彼は遺された日記と魔導書、村の遺構を歩き回りながら、自分の異常を受け入れざるを得なかった。体に流れる魔力のようなもの、魔法の詠唱を伴わずとも形になる術式、そして何より、影に触れれば感知できる何か。


 この力がどうして宿ったのか、正確なことは今も分からない。

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 ――あの影は、セイセス=セイセスのものだった。

 やがて夢の中で、アルフレッドは幼い自分と対峙する。少年の目は怯え、涙を湛えていた。


「君は……」

「君こそ、僕だ。だけど君はもう泣かない。僕が泣いてくれたから、君は前に進める」

 目覚めの直前、少年の姿が、静かに微笑んだ。

「剣を、魔法を、すべてを使って。あの影を止めて」

 そして、夢は終わった。


 アルフレッドは焚火のそばで静かに目を開けた。朝日はまだ昇っていない。空は蒼黒く、夜明けの匂いだけが空気を満たしていた。

 彼は一言、呟いた。

「――分かっている。あれは俺の始まりだ」

 だからこそ、終わらせなければならない。

 あの日の夜を。

 そして、あの闇を。



 港町レーヴァンを発って二日、海岸沿いの道は次第に荒れ、断崖と岩礁が交互に現れる景色へと変わっていった。

 潮風は冷たく、波の轟きが足元から響いてくる。遠くには、海霧の向こうに黒い影――カラン砦の尖塔がかすかに見えた。


 砦はもとは沿岸警備の拠点だったが、今は軍の旗ではなく、見慣れぬ黒い旗が翻っている。

 その紋章は、二重の月輪に絡みつく蛇――セイセス=セイセスの印だ。


 アルフレッドは近くの漁村で足を止め、情報を集めた。

「砦の連中は夜になると港に出てきて、何かを積み込んでいるらしい」

「昼間は門を固く閉ざしてる。近づけば、すぐに矢の雨だ」

 老人たちは怯えた様子で口を揃える。


 夕刻、崖道から砦を見下ろす位置まで移動する。

 陽が落ち始め、空が群青に染まる中、砦の内側に灯がともり始めた。

 門の近くには数人の見張りが立ち、外壁を巡回する影が動く。


 正面突破は論外――アルフレッドは視線を外壁の北側へ移した。

 そこは海に面した断崖で、岩肌の中腹に古びた排水口らしき穴が見える。

 幅は人ひとりがぎりぎり通れる程度。古い軍事施設には、こうした裏口が残っていることが多い。


 外套を締め、岩肌を慎重に下る。

 波しぶきが足元を濡らし、冷たい潮が靴底に染み込む。

 排水口は鉄格子で塞がれていたが、潮と錆で歪んでおり、力を込めれば外せそうだった。


 魔剣の切っ先を差し込み、静かに金属をこじ開ける。

 錆びた格子が軋む音とともに外れ、闇の奥から湿った空気が流れ出す。


 アルフレッドは深く息を吸い、狭い通路の中へと身を滑り込ませた。

 カラン砦――セイセス=セイセスの新たな巣窟への潜入が、今始まった。



 排水口の奥は、かつての水路跡らしく、低い天井とぬかるんだ石床が続いていた。

 海水と泥が混ざった匂いが鼻を突き、足音が水面に吸い込まれていく。

 しばらく進むと、通路は二股に分かれ、片方は上りの石段、もう片方はさらに深い地下へと続いている。


 上り階段を選び、ゆっくりと進む。

 数段上がったところで、かすかな灯りが石壁の隙間から漏れていた。

 覗き込むと、格子越しに広い地下倉庫が見える。


 そこでは黒外套の男たちが木箱を運び、中央の長机では二人の指揮官らしき人物が地図を広げていた。

 木箱の側面には、見覚えのある封蝋――港町で噂に聞いた「夜だけ運び込む荷」の印だ。

 蓋が少し開いた箱の中には、黒光りする金属塊がぎっしりと詰まっている。


(武具……いや、これは精錬途中の魔鉱か)

 セイセス=セイセスが魔鉱を大量に集めている理由が、脳裏に不穏な予感を呼び起こす。


 突然、倉庫の奥で警報のような金属音が鳴り響いた。

「南門から侵入者だ!」という怒声がこだまし、兵士たちが慌ただしく動き出す。


 アルフレッドは壁際に身を引き、格子から離れた。

 この混乱に紛れれば、より深部へ進める。

 だが同時に、内部の警戒は急激に高まるだろう。


 短く息を整え、足音を忍ばせて別の通路へと身を滑り込ませる。

 湿った石の匂いの中、どこからか低い唸り声が響き、やがて鎧の擦れる音が近づいてきた――。



 石壁の曲がり角の先、揺れる松明の明かりとともに二人の兵士が現れた。

 黒い外套の下には金属鎧、その胸には二重の月輪と蛇の紋章が刻まれている。

 腰の剣を抜きながら、鋭い目で通路を見回していた。


「おい……今の気配、感じたか?」

「気のせいじゃねぇ。南門の連中を囮にして、誰かが中へ入ったんだ」


 アルフレッドは石壁に背を預け、タイミングを計る。

 松明の光が少し遠ざかった瞬間、足音を殺して影から踏み出した。

 最初の兵士が振り返る間もなく、魔剣の柄で喉元を突き、声を封じる。

 もう一人が驚きの声を上げ、剣を構えた。


 蒼光が閃き、金属音とともに敵の刃が弾かれる。

 反撃の横薙ぎが甲冑の隙間を切り裂き、血が飛沫を上げた。

 兵士は呻き声を上げ、床に崩れ落ちる。


 倒れた兵士から松明を奪い、通路を照らす。

 光の先には、急な階段が上階へと続いていた。

 ――この先は砦の中枢か、それとも別の倉庫か。


 階段を上る途中、上方から怒号と足音が降ってきた。

 影の中から現れたのは、全身を黒鉄の軽鎧で固めた男。

 片手に短槍、もう片手に湾曲した小盾を持ち、動きは獣のようにしなやかだ。


「……侵入者だな。名を名乗れ」

 低く響く声に、アルフレッドは魔剣を構えたまま短く答える。

「名は関係ない。通す気がないなら――斬る」


 短槍が唸りを上げて突き出され、戦いの火蓋が切って落とされた。



 短槍の一突きは、蛇の頭のように鋭く、軌道を変えてアルフレッドの肩を狙った。

 魔剣で受け流すと、すぐさま盾が弾丸のように迫り、脇腹を叩こうとする。

 衝撃を殺すように後退し、間合いを測る。


 相手は間合いの支配に長けていた。

 短槍のリーチで近づく隙を奪い、小盾で反撃の機会を潰す――訓練された戦士だ。


「その構え……ただの傭兵じゃないな」

「聞きたいか? 死ぬ前にな」


 短槍兵は再び踏み込み、槍の石突を床に叩きつけ、その反動で鋭い突きを放った。

 アルフレッドは体をひねってかわし、刃を振り下ろすが、小盾がそれを受け止める。

 火花が散り、金属同士の衝撃が腕に響いた。


 ――正面からでは崩せない。

 アルフレッドは呼吸を整え、槍の先端を誘うように半歩下がった。

 短槍兵が狙いを定め、喉元へ一直線に突き出す。


 その瞬間、魔剣が弧を描き、槍の穂先を強引に弾き飛ばす。

 踏み込みと同時に盾の内側へ潜り込み、切っ先を相手の鎧の継ぎ目――脇下へ突き立てた。


「……ッ!」

 短槍兵の息が詰まり、膝が崩れる。

 アルフレッドは刃を引き抜き、体を押し返すように突き放した。

 倒れた相手は、苦悶の表情のまま動かなくなる。


 松明の炎が揺れる中、階段の上から新たな気配はない。

 アルフレッドは一息だけ吐き、魔剣の刃を布で拭うと、上階へと足を踏み出した。


 ――砦の中枢は、この先だ。



 階段を上りきると、そこは高い天井を持つ広間だった。

 壁には古い軍旗が色褪せたまま掛けられ、中央には魔鉱を積んだ木箱がいくつも並べられている。

 木箱の隙間からは微かな紫光が漏れ、空気は重く澱んでいた。


 その奥――壇上のように一段高くなった場所に、一人の巨躯が立っていた。

 全身を黒鉄の重鎧で覆い、兜の奥からは深紅の光が二つ、静かにアルフレッドを射抜いている。

 背には人の背丈を優に超える大剣。その刃には古代文字の刻印が、血のような色で光っていた。


「……よく来たな、異邦の剣士」

 低く響く声は、鎧そのものが話しているかのように重く、冷たい。


 アルフレッドは魔剣を構え、間合いを測る。

「お前がこの砦の主か」

「否。我は鎧鬼将ドラン・ヴァルグ。この砦は我が主の命により預かっているに過ぎん」


 鎧の巨人は壇上から一歩踏み出し、その足音だけで床が震えた。

「侵入者は、ここで討つ。それが命だ」


 瞬間、ドランが大剣を抜き放つ。

 刃が空気を裂き、赤黒い残光を残す。

 次の瞬間には巨体が目の前に迫り、大剣が横薙ぎに振り抜かれていた。


 アルフレッドは魔剣で受け、衝撃で数歩後退する。

 腕に響く重さは、先ほどの短槍兵とは比べ物にならない。

「……なるほど、鬼将の名は伊達じゃないな」


 ドランは無言のまま踏み込み、再び斬撃を浴びせてくる。

 その一撃一撃が石床を砕き、木箱の魔鉱を震わせる。

 アルフレッドは受け流しながらも、わずかな隙を探った。


 だが、鎧の巨人には隙らしい隙がない。

 攻防の最中、その背後で魔鉱の紫光が不穏に脈動を始めていた――。



 魔鉱の紫光が激しさを増し、まるで心臓の鼓動のように脈打ちはじめた。

 その光が鎧鬼将ドランの背中から、黒鉄の甲冑へと吸い込まれていく。

 次の瞬間、兜の奥の紅光がさらに濃く燃え上がった。


「……これが魔鉱の力だ。異邦の剣士よ、貴様の命で試させてもらう」


 ドランの大剣が再び構えられた瞬間、空気が重く沈む。

 踏み込む動きは巨体に似合わぬ速さで、赤黒い残光を伴った縦斬りがアルフレッドを押し潰さんと迫る。

 魔剣で受け止めた刹那、衝撃波が床を割り、破片が周囲に弾け飛んだ。


「くっ……!」

 腕に痺れが走る。ドランの一撃は、ただの膂力ではなく魔鉱の増幅による質量と速度を帯びていた。


 追撃――大剣が風を裂き、連続の斬撃が迫る。

 アルフレッドは後退しながら受け流し、時に身を翻して回避するが、その度に床や壁が大剣の威力で破壊されていく。


「逃げ回るだけか!」

 ドランが嘲るように吼え、刃に紫の光を収束させる。

 横薙ぎの一閃が放たれ、その衝撃波が半円状に飛び、周囲の木箱ごと魔鉱を粉砕した。

 破片と紫の火花が舞い、空気はさらに澱んでいく。


(……あの魔鉱が奴を強化しているなら、あれを断つしかない)


 アルフレッドは一歩踏み込み、わざと正面からの斬撃を受け止めた。

 火花が散る瞬間、体を捻って刃を滑らせ、力の流れを逸らす。

 空いた左手で床に落ちていた魔鉱の欠片を蹴り上げ、ドランの視線を一瞬逸らす。


「雷槍撃!」

 放たれた稲光が背後の木箱へと走り、紫光を放つ魔鉱を直撃した。

 爆ぜる光とともに、ドランの動きがわずかに鈍る。


「……やるな……だが、まだ終わらん!」

 鈍ったはずの巨体が再び加速し、大剣が頭上から振り下ろされる。

 アルフレッドは魔剣を中段に構え、次の一撃に全てを賭ける構えを取った――。



 大剣が振り下ろされる瞬間、アルフレッドは半歩踏み込み、刃と刃の正面衝突を敢えて受けた。

 衝撃は骨まで響くほど重く、床の石が軋む。

 だが、魔剣に込めた蒼光が衝撃を分散し、刃を押し返す。


「――断雷剣・穿破!」


 渾身の突きがドランの胸甲を貫き、古代文字の刻印が一瞬で蒼光に呑まれる。

 同時に、背後の魔鉱が完全に砕け散り、紫光が霧のように散逸していった。


「ぐ……ぬ……!」

 ドランは膝をつき、大剣を杖のようにして立ち上がろうとする。

 だが、魔鉱の力を失ったその動きは鈍く、鎧の重さに自らが押し潰されていくようだった。


「我が……主は……必ず……」

 最後まで紅光を絶やさなかった兜の奥が、蒼光に照らされて沈黙する。

 巨体は前のめりに倒れ、大剣が床に突き刺さって鈍い音を響かせた。


 静寂。

 砦の広間には、魔鉱の残滓がゆっくりと冷え、紫光を失っていく様だけが残った。


 アルフレッドは魔剣を収め、ドランの亡骸を一瞥した。

「主とやらも……いずれ斬る」


 広間を後にしながら、積まれた木箱を次々と破壊していく。

 封じられていた魔鉱が砕けるたび、空気は軽くなり、紫の気配は消えていった。


 外へ出ると、夜の帳が降り、海霧の向こうに星々が瞬いている。

 冷たい潮風が、戦いの熱を奪っていく。


 ――ラドヴェンに続き、ドランも討った。

 だが、セイセス=セイセスの鎖はまだ途切れてはいない。



 砦を離れる前、アルフレッドは気になる倉庫へ足を向けた。


 広間の奥、鉄扉で閉ざされた一角――昼間は静まり返っていたが、夜になると人の気配と物音が絶えなかった場所だ。

 鍵はすでに壊されており、押し開けると中は薄暗い。


 積み上げられた木箱の封を切ると、中から現れたのは黒い布で覆われた細長い物体。

 布をめくると、光沢のある銀色の筒が現れた。魔鉱を加工して作られた精密な筒――銃身のようだが、通常の火器よりも太く、側面には呪刻が走っている。


(……魔鉱火砲か)

 それはただの武器ではなかった。呪刻によって装填した魔鉱を弾丸として撃ち出し、衝撃波と魔力爆発で広範囲を焼き払う戦場兵器――街ひとつを消し飛ばす力を持つ代物だ。


 別の箱には、まだ未完成の銃身や呪刻板が詰められている。

 これらを港に積み出し、どこか別の拠点へ運んでいたのだろう。


(つまり、この砦は魔鉱を精錬し、兵器化して送り出す中継地……)

 ラドヴェンの領地で集めた資源がここに流れ込み、さらに上の勢力へ供給されている構図が見えた。


 アルフレッドは魔剣で箱を次々と破壊し、中身を使い物にならなくしていった。

 銀色の破片が床に散らばり、魔鉱の紫光は完全に失われる。


 破壊した倉庫の奥を探っていたアルフレッドは、一枚の羊皮紙を見つけた。

 それは港町レーヴァンへの輸送計画と、北方への航路が記されたものだ。

 署名欄には見覚えのない名――

「セイセス=セイセス幹部:シェア=アルミナ」

(……ここで名前を見るとはな)

 羊皮紙には、数日後にシェア=アルミナ本人が港の積み荷を検分する予定が記されていた。

 つまり、今回の魔鉱兵器計画は、直接幹部が関与している。

 ドランはその命令を受けて砦を管理していただけだ。


 倉庫を出る頃、外の海霧はさらに濃くなっていた。


 また戦闘後、砦の外壁近くでアルフレッドは一つの痕跡を見つけた。

 海霧の中、南門の脇の茂みに、黒い外套と半分壊れた短弓が落ちている。

 外套の裏地には、セイセス=セイセスの紋章はない。代わりに、見慣れぬ三つ葉の意匠が縫い込まれていた。


(……この印、どこかで……)

 かつてアメテリシア大陸北部で、セイセス=セイセスと領地を奪い合っていた傭兵同盟の旗印に似ていた。


 つまり南門からの侵入者は、セイセス=セイセスを狙う別の勢力の斥候であり、砦内の混乱は彼らが起こしたものだった。

 彼らの目的はアルフレッドと同じく、砦の物資――特に魔鉱兵器の奪取か破壊。

 ただし、アルフレッドとの直接の接触はなかった。おそらく闇に紛れて撤退したのだろう。


(……偶然か、それとも意図的か)

 もし意図的に行動のタイミングを合わせられていたなら、この傭兵同盟はアルフレッドの行動を把握していたことになる。



 砦の探索を終えたアルフレッドは、戦場の煙がまだ漂う中、ドランの私室らしき一室へ足を踏み入れた。

 豪奢さはなく、整然と並んだ書棚と作戦机があるだけだ。

 机の上には、封蝋の施された羊皮紙が一通置かれていた。


 封を切ると、中から輸送計画書が現れる。

 そこにはレーヴァン港から北方へ向けて魔鉱兵器を積み出す日程が細かく記されていた。

 そして、その備考欄に刻まれた署名――。

「セイセス=セイセス幹部:シェア=アルミナ」


 アルフレッドは視線を細め、かつてこの名を耳にした時の感触を思い出す。

 噂によれば、彼女は情報と暗殺を司る幹部であり、各地の拠点を巡っては成果を監査し、不要と判断した部下は容赦なく切り捨てる女だ。

 今回の魔鉱兵器計画にも、彼女が深く関わっていることは間違いない。


 計画書によれば、三日後の満潮時刻、彼女は直接レーヴァン港の倉庫に現れ、積み荷の検分を行う予定だ。

 つまり、幹部を港で捕らえる機会が訪れる。


 砦を出たアルフレッドは、夜の海霧の中を引き返し、再びレーヴァンへ向かった。

 港町の灯が見え始めた頃、東の空はすでに薄く明け始めていた。


 レーヴァン港は、昼間こそ穏やかだが、夜になれば別の顔を見せる。

 波止場の奥には立ち入り禁止の倉庫街があり、昼間でも黒外套の見張りが巡回している。

 アルフレッドは漁師小屋を借り、そこから港の様子を観察した。


 ――三日後の夜、満潮とともに幹部が現れる。

 潮騒の向こうに、決戦の時が静かに近づいていた。



 三日後の夜、満潮を告げる波音が港全体に響いていた。

 海霧が濃く、灯台の明かりすら霞む中、レーヴァン港の奥にある倉庫街は異様な静けさに包まれている。

 しかし、その静けさの奥には、確実な緊張の気配があった。


 波止場に一隻の小型帆船が音もなく滑り込む。

 甲板から降り立ったのは、黒衣の女――シェア=アルミナだった。

 肩までの銀髪が海霧に濡れ、琥珀色の瞳が周囲を鋭く掃く。

 彼女の背後には、双剣を帯びた護衛が二人、そして数名の黒外套の従者が続く。


「積み荷は奥の三号倉庫か?」

 低く問う声は、命令とも確認とも取れる冷たさを帯びていた。

「はっ、予定通りです」

 護衛の一人が応じ、彼女を先導して倉庫へ向かう。


 その様子を、アルフレッドは漁師小屋の屋根から見下ろしていた。

 魔剣の柄に手をかけ、呼吸を整える。

 ここで仕留めれば、魔鉱兵器の流通は大きく後退する――だが、彼女は幹部だ。ドランのような前線指揮官とは訳が違う。


 倉庫の扉が開かれると、内部の灯りが漏れ、積み上げられた木箱の列が浮かび上がった。

 シェア=アルミナは箱の一つに近づき、封蝋を指先でなぞる。

「……問題なし。予定通り搬出を開始――」


 その言葉を遮るように、屋根の上から影が飛び降りた。

「悪いが、ここで終わりだ」


 着地と同時に、蒼光が闇を裂く。

 護衛が即座に双剣を抜き、シェア=アルミナの前に立ちはだかった。

 彼女は一歩も動かず、ただ薄い笑みを浮かべる。

「……あなたがアルフレッドね。噂は聞いているわ」


「なら話は早い」

 魔剣を構えるアルフレッドに、シェア=アルミナは小さく首を傾げた。

「本当にそうかしら? ――護衛、遊んであげて」


 双剣が交差し、火花が散る。

 港の霧が、嵐の前触れのように渦を巻き始めた。



 双剣の護衛が左右から同時に踏み込んできた。

 片方は低い姿勢から脚を狙い、もう片方は高く刃を振り上げ、首筋を狙ってくる。

 殺意の軌跡が交差し、霧の中に鋭い光を走らせた。


 アルフレッドは一歩も退かず、魔剣を水平に走らせて下段の刃を弾き、その勢いを利用して上段の攻撃を受け流す。

 火花が散り、足元の石畳に金属音が反響した。


「ほう……やるな」

 片方の護衛が口元を歪める。

 すぐに二人は互いの位置を入れ替え、刃の軌道を変えながら猛攻を仕掛けてくる。

 双剣は互いの死角を補い、まるで一つの生き物のように連携していた。


 アルフレッドは回避よりも攻めを選んだ。

 低く踏み込み、魔剣を半弧に振り上げて一人の胸当を裂く。

 護衛が短く息を呑んだ瞬間、もう一人が背後から斬りかかるが、アルフレッドは体を捻り、逆手の斬撃で相手の腕を切り払った。


「ぐっ……!」

 血飛沫が霧に溶ける。


 だが、負傷した二人は退かない。

 むしろ動きが鋭くなり、互いの背中を預けながら円を描くように間合いを詰めてくる。

 アルフレッドは刃の嵐を一つひとつ受け流しながら、呼吸と足運びでわずかな崩れを待った。


 そして――

 片方の護衛の刃が霧で視界を奪われ、ほんの僅かに軌道を外した瞬間、アルフレッドは踏み込み、魔剣を振り抜いた。

 蒼光が一閃し、護衛の双剣を弾き飛ばすと同時に胴を深く切り裂く。


 もう一人が怒声とともに突進してくるが、迎え撃つように魔剣を下から突き上げた。

 刃が胸甲を貫き、衝撃で相手が後方へ吹き飛ぶ。


 石畳に二つの影が倒れ、霧の中に静寂が訪れる。


「……片付いたわね」

 その声とともに、シェア=アルミナが倉庫の奥から歩み出た。

 琥珀の瞳が鋭く光り、腰の曲刀が霧の中で鈍く輝く。


「では――あなたと私、二人きりで踊りましょうか」



 シェア=アルミナはゆったりと曲刀を抜き、刃に沿って指を滑らせた。

 その動きに呼応するように、倉庫の霧が不自然に渦を巻き始める。

「……これは港の霧じゃない。貴様の術か」

 アルフレッドの声に、彼女は唇を歪めた。

「ええ、月影の帳――私の庭に、ようこそ」


 霧が濃くなった瞬間、視界から彼女の姿が消えた。

 耳元をかすめる風と、金属のきらめき。

 アルフレッドは反射的に後方へ跳び、着地と同時に魔剣を横薙ぎに振る。

 蒼光が霧を裂き、その向こうに一瞬だけ彼女の影が浮かぶ。


「……速い」

 だが、それは影にすぎなかった。

 すぐに背後から刃の気配――しかし、アルフレッドの反応は一瞬早い。

 魔剣を振り返らせ、鋼と鋼がぶつかる衝撃が走る。


「超常の身体能力、ね……面白いわ」

 シェア=アルミナの声は笑っていたが、その瞳は獲物を狙う獣の鋭さだった。


 アルフレッドは呼吸を整え、魔力を全身に巡らせる。

 足元から蒼白い光が広がり、体が霧の中でも迷いなく動くための感覚を研ぎ澄ます。

「――霊視術・招来環」

 焚火の炎に映像を浮かべた時と同じ術式だが、今は視覚を超えて相手の気配そのものを捉えるために展開する。


 霧の奥、彼女が次に踏み込む位置が、蒼光の輪郭として浮かび上がった。

 その瞬間、アルフレッドは前へ踏み込み、魔剣を振り抜く。


 刃はかろうじて彼女の外套を裂くにとどまったが、シェア=アルミナは明らかに距離を取った。

「……なるほど、私の動きを見たわけね」

「見えれば斬れる」

 短い応酬の後、二人は再び構えを取る。


 彼女の幻惑と暗殺術、そしてアルフレッドの超常感覚と魔法剣――

 倉庫の霧の中で、静かな殺意がぶつかり合った。



 霧の帳の中、互いの位置を見失えば即座に死が訪れる。

 シェア=アルミナは曲刀を低く構え、足音を殺しながら円を描くように移動する。

 アルフレッドは魔剣を中段に構え、霊視術で捉えた微かな気配を逃さない。


 次の瞬間――

 霧を裂いて疾風のような突進。

 曲刀が水平に走り、喉元を狙う。


「……遅い」

 アルフレッドの身体が残像を残すほどの加速で右へ消え、魔剣が鋭い軌跡を描く。

 蒼光が彼女の左腕を掠め、血の雫が霧に溶けた。


 しかしシェア=アルミナは痛みを無視し、返す刃で足元を狙う。

 アルフレッドは即座に跳躍、半回転しながら右手に魔力を集中させる。


「雷槍撃!」

 稲光が刃先から奔り、霧を一瞬で吹き飛ばす。

 視界が開けた瞬間、彼女はすでに横へ回避し、距離を取っていた。


「やはり厄介ね……その身体能力と魔法の併用は」

「お前の幻惑は見切った。あとは斬るだけだ」


 言葉が終わると同時に、二人の間合いが一気に詰まる。

 蒼光と銀刃が何度も交錯し、火花が暗闇に散った。

 アルフレッドの一撃は重く速く、シェア=アルミナの動きは軽やかで鋭い。

 力と速さ、感覚と策略――両者の技が互いを削る。


 一合、二合、三合――刃の衝突音が止まらない。

 だが徐々に、彼女の呼吸がわずかに乱れていくのをアルフレッドは感じ取った。

 霊視術で見える気配の揺らぎ、それは体力と集中の消耗を示す。


「終わりだ!」

 アルフレッドは魔剣に全魔力を流し込み、刃が白に近い蒼へと輝きを増す。

 渾身の踏み込みとともに、断雷剣の一閃が放たれた。


 シェア=アルミナは即座に曲刀で受けるが、衝撃で体勢を崩し、片膝をつく。

 琥珀の瞳が鋭さを失わぬまま、彼女は息を整えようとした。


「……殺すの?」

「お前次第だ」

 蒼光の刃先が、霧の中で静かに彼女を見据えていた。



 蒼光の刃先が喉元に迫っても、シェア=アルミナの表情は崩れなかった。

「……そう。なら、私はここで死なない」

 低く囁いた瞬間、彼女の足元から淡い光が広がり、倉庫の床に複雑な紋様が浮かび上がる。


「――月影幻廊」


 アルフレッドの視界が一瞬にして歪んだ。

 倉庫の壁も床も溶け、霧の帳が何重にも広がる無限回廊に変わる。

 足音も匂いも方向感覚も、すべてが混ざり合い、敵の位置を掴むことができない。


(……幻術か)

 アルフレッドは霊視術を発動しようとするが、幻術がその感覚さえ攪乱してくる。

 遠くで彼女の声が響いた。

「あなたとは、また会うわ……今度は本気で殺すために」


 次の瞬間、風が霧を裂き、幻廊が崩れ落ちるように消えた。

 だがそこにシェア=アルミナの姿はなく、倉庫の奥の扉がわずかに開き、外の海霧が流れ込んでいるだけだった。


 アルフレッドは刃を収め、深く息を吐く。

「逃したか……いや、次に仕留める」


 足元には、彼女がわざと残したのか、小さな黒い石が落ちていた。

 指で拾い上げると、魔鉱の一種らしく、微かに紫光が脈打っている。

 それは、彼女が次に現れる場所への手掛かりになるかもしれなかった。


 外に出ると、港は再び静まり返っていた。

 満潮の波音だけが響く中、アルフレッドは黒い石を握り締め、霧の中を歩き出した。



 港の倉庫街を離れると、海霧は徐々に薄れ、月明かりが石畳を照らし出した。

 背後では、波が静かに倉庫の壁を叩き、先ほどまでの激闘がまるで幻だったかのような静けさを取り戻している。


 アルフレッドは黒い石を外套の内ポケットにしまい、港近くの古びた宿へと足を向けた。

 階上の一室を借り、扉を閉めた瞬間、戦場で張り詰めていた神経がわずかに緩む。

 ベッドに腰を下ろし、魔剣を膝に置くと、刃は静かに蒼光を失い、ただの鋼の色に戻った。


「……まだ終わらん」

 低く呟き、黒い石を取り出して見つめる。

 紫の脈動は、まるで遠くの何かと呼応しているかのようだった。

 これを調べれば、次なるセイセス=セイセスの幹部の足取りを掴めるかもしれない。


 だが、今は追跡よりも休息が必要だった。

 深く息を吐き、外套を脱いでベッドに身を預ける。

 港の遠いざわめきと波の音が、戦いの余韻をゆっくりと洗い流していく。


 夜明けまでに体力を取り戻し、次の一歩を踏み出すために――。

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