第十八話
崩落する地下拠点を背に、アルフレッドは地上へと抜け出た。
乾いた風が灰を巻き上げ、荒原の空気が肺を満たす。その感触は、地下で味わった瘴気と狂気を洗い流すにはあまりに頼りないが、それでも彼は一度だけ深く息を吸い込んだ。
振り返らない。
瓦礫の下で潰えた拠点も、そこで交錯した理論と狂気も、もはや過去だ。
黒い石――腰に下げた鞘の奥で、それは微かな脈動を続けている。
意思を持つかのように、一定の方向へと魔力の流れを引き寄せ、次なる「点」を示していた。
西ではない。
より南、荒原の縁に沿う古い街道の先。
地図には名が残っているが、今や誰も近づかぬ土地だ。
「……隠す気もなくなってきたか」
アルフレッドは呟き、歩き出す。
足取りは静かだが、速度は常人の域を超えている。
無駄な休息は取らない。疲労も限界も、まだ遠い。
歩みの中で、先ほどの男の言葉が脳裏をよぎる。
“危険だ”。
“世界にとっても”。
その評価を否定するつもりはない。
だが、それでも進むしかないと、アルフレッドは知っている。
セイセス=セイセスは、黒い石を使い、人を壊し、世界の構造を試す。
虚空教団ベイリル=オラリオンは、それを観測し、必要とあらば流れを書き換える。
どちらも、自分の意思で世界を踏みにじる存在だ。
ならば――。
剣を振るう理由は、復讐だけでは足りなくなりつつある。
だが、その核にある感情は変わらない。
奪われたものを、奪い返すために戦う。
やがて地平線の向こうに、崩れかけた城壁の影が見え始めた。
かつては関所として機能していた遺構。
今は誰の支配下にもない、はずの場所。
だが、黒い石の脈動は、そこで一段と強まった。
アルフレッドは足を止めず、剣に手をかける。
まだ気配は遠い。
だが確実に、そこには“待っているもの”がある。
次なる戦いの場は、すでに用意されていた。
選ぶ余地はない。
魔剣士は、再び闇へと踏み込んでいく。
城壁へと近づくにつれ、空気が変質していくのをアルフレッドは感じ取った。
風は吹いている。だが、音がない。
鎧の継ぎ目を擦る微かな金属音さえ、どこかで吸い取られていく。
関所の遺構は、遠目にはただの廃墟だった。
崩れた石垣、折れた見張り塔、苔と灰に覆われた街道跡。
しかし一歩、境界線を越えた瞬間――空間そのものが歪んだ。
足元の石が、わずかに沈む。
物理的な重みではない。
“認識”が引き延ばされる感覚だ。
「……結界か」
アルフレッドは即座に理解する。
セイセス=セイセスの手口だ。
外界から隔離し、内部で起きることを“世界の外”へ押し出すための処置。
黒い石が、低く鳴った。
まるで、帰ってきたと言わんばかりに。
関所の中央広場に足を踏み入れた瞬間、灰が舞い上がった。
否――舞ったのではない。
集まったのだ。
地面を覆っていた灰が、逆流するように宙へと浮かび、渦を描く。
そこから現れたのは、人影。
一体、二体、三体……。
全員、同じ顔をしている。
無表情な青年の姿。
黒衣を纏い、胸元には黒晶の欠片が埋め込まれている。
生きているが、生者ではない。
「……量産型、か」
アルフレッドが剣を抜くと、雷光が静かに刃を走った。
その反応を合図にしたかのように、人影たちが一斉に口を開く。
「観測記録、開始」
「対象:アルフレッド」
「戦闘データ、取得優先」
声は揃っている。
だが、感情がない。
人の声を模した、道具の発声だ。
次の瞬間、地面が砕けた。
一体が音もなく距離を詰め、拳を振るう。
速度は人間の限界を超えている。
アルフレッドは半身をずらし、拳を受け流す。
直後、雷光が走り、その体を貫いた。
――だが、倒れない。
肉体が裂けても、灰と黒晶が即座に補填する。
破壊と再生が、ほぼ同時に起きている。
「なるほど……“兵器”だな」
呟きながら、アルフレッドは踏み込む。
一体を斬り伏せ、二体目を蹴り飛ばし、三体目の魔力核を雷で焼く。
動きは流麗だが、容赦はない。
しかし、敵は学習する。
「回避パターン、更新」
「雷属性、対策フェーズへ移行」
次の瞬間、残った個体の体表を、黒い膜が覆った。
雷光が弾かれ、空気が焦げる。
アルフレッドは口角をわずかに上げる。
「……分析するのは、俺も同じだ」
剣を反転させ、魔力の流れを切り替える。
雷は収束し、刃の内側へと沈む。
代わりに、周囲の“空間”が震えた。
踏み込み。
一閃。
剣は肉体ではなく、存在そのものを断ち切った。
黒晶ごと、人影が崩れ、灰となって地に落ちる。
広場に、再び静寂が戻る。
だが――。
見張り塔の影から、ゆっくりと拍手の音が響いた。
「素晴らしい。やはり君は、実地で見るに値する」
低く、愉悦を含んだ声。
人のものだが、人間的ではない。
アルフレッドは剣を下げず、視線を向ける。
「出てこい。
“拠点”を潰しに来た。前座は終わりだ」
影が動く。
次なる敵が、この場に姿を現そうとしていた。
拍手は、三度目で止んだ。
見張り塔の影が、ゆっくりと“ほどける”。
闇が布のように剥がれ落ち、その奥から姿を現したのは、一人の男だった。
背は高く、痩躯。
黒衣は儀式用のものだろう、過剰なほど幾何学的な刺繍が施され、その中心――心臓の位置には、磨かれていない黒晶が半ば露出したまま埋め込まれている。
顔は素顔だが、表情が異様だった。笑っているのに、瞳がまったく動いていない。
「前座、か。ずいぶんと辛辣だな、アルフレッド」
名を呼ばれた瞬間、空気がわずかに軋む。
結界が、内側から反応している。
「……セイセス=セイセスの人間だな」
「正確には、“残された側”だ」
男は肩をすくめ、愉快そうに息を吐いた。
「グラウほどの権限はない。だが、彼ほど“夢想的”でもない。私はもっと現実的だ。君の戦闘は、資料として非常に価値がある」
アルフレッドは答えない。
剣を構えたまま、男の足運び、呼吸、魔力の流れを観察している。
――戦う気だ。
そして、逃げる気もある。
「……分析屋か」
「そう呼ばれることもある」
男は両手を広げた。
その指先から、細い黒い糸のような魔力が伸び、地面に落ちた灰へと絡みつく。
「君は破壊者だ。だが同時に、極めて“保存価値”が高い。だから――」
糸が、引かれた。
灰が跳ね上がり、形を成す。
先ほどの量産体とは違う。
歪で、粗雑で、しかし明確な“殺意”を帯びた異形。
人の上半身に、獣の下半身。
関節の数が合わず、動くたびに骨が軋む音が響く。
「次は、耐久と継戦能力の測定だ」
異形が吼え、地面を蹴る。
速度は先ほどの倍――いや、三倍。
アルフレッドは迎え撃つ。
剣と爪がぶつかり、火花が散った瞬間、衝撃波が広場を薙いだ。
重い。
単純な力ではない。
“重さ”を魔力で付加している。
アルフレッドは踏み留まり、腕に走る痺れを無視して斬り返す。
刃は肉を裂くが、致命には届かない。
「ほう……いい反応だ」
男の声が、少し弾んだ。
「雷を抑えたまま、純粋な剣技で対応する。合理的だが……それでは、君の本領は見えない」
異形が再び迫る。
今度は、左右から同時に。
アルフレッドは、深く息を吸った。
次の瞬間――世界が、一拍だけ遅れた。
剣が走る。
一太刀で、二つの首が落ちる。
空間ごと断ち切るような一閃。
雷は使っていない。
それでも、異形は“存在を維持できず”崩壊した。
灰が降る。
男の笑みが、はっきりと歪んだ。
「……素晴らしい。やはり、君は壊し方を選べる」
アルフレッドは剣先を下げない。
「次は何だ。測定か、観測か――それとも」
視線を、男の胸元の黒晶へと向ける。
「――実験か」
男は、愉悦に満ちた声で笑った。
「その通りだ。そして安心するといい。これは“最後の段階”だ」
男の背後で、結界が軋み、歪み始める。
空が裂け、黒い文様が浮かび上がった。
セイセス=セイセスの拠点は、今この瞬間――
戦場そのものを、次の位相へと移そうとしていた。
アルフレッドは、剣を握り直す。
「……いいだろう」
雷が、静かに刃へと戻る。
「ここから先は、
俺が“潰す側”だ」
灰の広場が、咆哮するように震えた。
空間の歪みは、ゆっくりと、しかし確実に拡大していった。
結界に刻まれた黒い文様が脈打つたび、重力の向きが曖昧になり、足元の灰が宙へと引き剥がされる。まるで世界そのものが、別の“座標”へと引きずり込まれつつあるかのようだった。
「位相転移か……」
アルフレッドは低く呟く。
逃走でも、防御でもない。
これは戦場の“再定義”だ。
対する男――セイセス=セイセスの分析官は、恍惚とした表情で両腕を広げていた。
「破壊は終わりだ、アルフレッド。ここからは“解剖”の時間だよ。君がどのように世界を切り裂き、どこまで壊せるのか……私は、それを見届ける役目を与えられている」
「なら――」
アルフレッドは、一歩踏み出す。
「見る前に死ぬなよ」
瞬間、踏み込んだ地面が粉砕された。
超常の脚力が生む衝撃が、灰を円状に吹き飛ばし、空気を叩き潰す。
剣はまだ振られていない。
だが、その“気配”だけで、分析官の背後に立ち上がる黒晶装置が悲鳴を上げた。
「――っ!」
分析官が指を鳴らす。
次の瞬間、歪んだ空間の裂け目から、複数の影が這い出してきた。
人型だが、どれも均整を欠き、同じ“失敗作”は一つとして存在しない。
腕が三本のもの、首が二重に折れ曲がったもの、腹部に黒晶を露出させたまま歩くもの。
共通しているのは、瞳の奥に宿る狂信と、命令を待つ獣のような静けさだった。
「量産型ではない。“選抜個体”だ」
分析官は舌なめずりをする。
「君の戦闘に適応するよう、即席で調整してある。痛覚はあるが、恐怖はない。実に扱いやすい」
アルフレッドは剣を横に構え、深く腰を落とす。
雷光が、抑制されたまま刃の内部を循環し始めた。
「……随分と手間をかける」
「価値があるからだ!」
叫びと同時に、異形たちが一斉に動いた。
正面、左右、背後――完全な包囲。
だが、アルフレッドの視界には、すでに“切る順番”が描かれている。
最初の一体が踏み込んだ瞬間、剣が走った。
横薙ぎ。
次いで反転、突き。
踏み替えからの回転斬り。
雷は放たれない。
それでも、斬撃は異形の“核”を正確に断ち割り、肉体を崩壊させていく。
灰と血と黒晶の破片が舞う中、アルフレッドは止まらない。
一歩ごとに、敵が消える。
「馬鹿な……反応速度が、さっきよりも――」
分析官の声が、初めて揺らいだ。
アルフレッドは振り返らない。
「慣れただけだ」
最後の異形が、断末魔を上げる前に沈黙した。
静寂。
結界の歪みが、不安定に震え始める。
制御が追いついていない。
分析官は後退り、胸元の黒晶に手を伸ばした。
「……やはり、直接の戦闘は危険だな。君は――」
言葉の途中で、影が落ちた。
アルフレッドが、目の前に立っていた。
剣先が、分析官の喉元に触れる。
皮膚が切れる寸前で止まっている。
「次は」
低く、確かな声。
「誰が出てくる。グラウか。それとも――」
わずかに、視線を逸らす。
「――虚空教団か」
分析官は、息を詰めたまま、笑った。
「……ああ。やはり、君は“見るべき存在”だ」
次の瞬間、黒晶が砕け、光が爆ぜる。
転移。
分析官の姿は霧散し、結界もまた急速に崩壊していった。
灰が、静かに地へ戻る。
アルフレッドは剣を収め、荒れ果てた戦場を一瞥する。
セイセス=セイセスの拠点は潰えた。
だが――
「……次は、もっと面倒になるな」
黒い石が、微かに脈打つ。
示す先は、さらに西。
復讐の旅路は、まだ終わらない。




