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第十六話

 風が止んだ。


 いや――正確には、止められた。


 カラド荒原を渡っていたはずの灰の流れが、突如として静止し、舞い上がる途中の灰粒が空中で縫い留められたかのように固まり、次の瞬間、目に見えぬ圧力によって一斉に押し伏せられる。


 空気が沈む。

 重力が一段階、深くなる。


 アルフレッドは即座に察知した。

 これは攻撃ではない。

 照準――観測――干渉のための“固定”だ。


 視界の端、遥か彼方。

 崩れた城砦の尖塔、その残骸の影に、黒い輪郭が滲む。


 距離にして数百歩。

 にもかかわらず、その存在感は、剣を突きつけられるよりも鋭く、精神の表層を削ってきた。


 黒い仮面。

 灰色の外套。

 顔は見えない。だが、“見られている”という感覚だけが、異様なほど鮮明だった。


 ――観測者。


 アルフレッドが一歩踏み出した瞬間、視界が歪む。


 地面が、ずれる。

 距離感が、壊れる。


 本来なら十歩先にあるはずの岩が、次の瞬間には足元へと迫り、逆に足元の灰が、遥か遠くへと引き延ばされる。


 空間干渉。


 魔術でも、単なる幻覚でもない。

“認識”そのものを書き換える類の力だ。


 剣を振るう。

 雷光が奔り、歪んだ空間を切り裂こうとするが、刃は虚空を滑り、何かに触れた感触だけが、遅れて返ってくる。


 ――遅延。


 観測者は、直接手を出していない。

 ただ、“世界の応答速度”を操作している。


 遠くで、仮面の男が、ゆっくりと片手を上げた。


 その動きと同期するように、アルフレッドの右手の甲――

 灰の痕跡が、微かに灼ける。


「……来るか」


 次の瞬間。


 灰の海の表層が、波打った。


 地面が隆起し、灰と瓦礫が凝集し、人の輪郭を形作る。

 だが、その顔は、仮面ではない。


 アルフレッド自身の顔――

 いや、正確には“彼と酷似した何か”だ。


 同じ体格。

 同じ剣。

 同じ立ち姿。


 ただし、眼だけが違った。

 感情のない、観測装置のような冷たい光。


 ――灰の複製体。


 観測者の声が、距離を無視して届く。


「抵抗を確認。戦闘パターン、反応速度、判断分岐――再現開始」


 複製体が動く。

 無駄がない。

 踏み込み、斬撃、間合いの詰め方――すべてが、アルフレッド自身の最適解をなぞっていた。


 雷光と雷光が衝突し、荒原に稲妻が叩きつけられる。

 剣と剣が噛み合い、衝撃波が灰を吹き飛ばす。


 だが、違和感があった。


 わずかに、速い。


 複製体の動きは、アルフレッドの“現在”ではない。

 ――一歩先。

 彼が次に選ぶであろう行動を、予測した上で動いている。


 観測者は、解析しているのだ。

 戦いながら。

 遠距離から。


 アルフレッドは即座に戦法を切り替える。

 合理を捨て、あえて隙を作る。

 刃を浅く振り、半拍遅らせ、魔力の流れを乱す。


 複製体が、初めて僅かに躊躇した。


 ――解析誤差。


 その一瞬を逃さず、アルフレッドは雷を圧縮し、剣身に叩き込む。

 轟音と共に、複製体の胸部が穿たれ、灰の塊が崩れ落ちる。


 だが、完全には消えない。


 崩れた灰が、再び集まり始める。


「興味深い」


 観測者の声に、ほんの僅かな温度が混じった。


「拒絶と即応、そして非合理的判断……君は、予測しきれない」


 仮面の奥で、何かが笑った気配がした。


「だからこそ――次は、より深く干渉する」


 その瞬間、空が暗転する。


 灰雲が渦を巻き、荒原全体が巨大な“観測円”の内側へと閉じ込められていく。


 これは試験ではない。

 これは――選別だ。


 アルフレッドは剣を構え直し、静かに息を吐いた。


 遠距離から世界を弄ぶ観測者と、

 その意思を体現する灰の複製体。


 この戦いは、もはや単なる遭遇戦ではなかった。


 ――灰の側が、明確に彼を“敵として定義した”瞬間だった。



 灰が、ゆっくりと地に落ちていった。


 先ほどまで荒原全体を覆っていた歪みは、嘘のように霧散し、空間は再び現実の重さを取り戻す。重力の軋みが消え、風が吹き、硫黄と焦げた灰の匂いが鼻腔を満たした。


 ――観測は、終わった。


 そう直感した瞬間だった。


 城砦の残骸、その地下へと続く崩落した階段の奥から、規則正しい足音が響いてきた。

 重い。

 だが、迷いがない。


 灰を踏みしめる音が複数重なり、やがて黒い影が地上へと現れる。


 人型。

 鎧を着ている。だが、通常の鉄ではない。黒晶を粉砕し、金属と融合させた歪な装甲が、関節や胸部に露出していた。魔力導管が赤黒く脈動し、兵士たちの呼吸と同期して不気味な光を放っている。


 黒晶強化兵。


 そして、その後ろ。


 ゆったりとした足取りで、ひとりの男が姿を現した。


 痩せた体躯。

 白髪混じりの長い髪を後ろで束ね、黒衣の上から外套を羽織っている。顔は理知的で、老成しているようにも見えたが――その眼だけが、異様だった。


 歓喜に近い光。

 抑えきれない期待と、歪んだ執着。


「……素晴らしい」


 男は荒原を見渡し、壊れた異形と灰の残骸を眺めながら、心底愉しげに呟いた。


「本当に、素晴らしい反応だ。回収体を破壊し、灰の意識圧を拒絶し、それでも立っている。ああ……西方に送られた報告が、どれほど歪められていたかがよく分かる」


 男の視線が、アルフレッドを捉える。


「初めまして――いや、こちらは一方的に存じ上げている」


 胸に手を当て、芝居がかった一礼。


「私はグラウ=ヴァルツ。結社セイセス=セイセス、西方工作部隊の現場責任者だ」


 アルフレッドは剣を下ろさない。

 雷光を纏ったまま、距離を測る。


「随分と部下を無駄遣いする」


 低く告げると、グラウは笑った。


「無駄? いいや、誤解だ。彼らは“消費”されたのではない。“観測された”のだよ。君という変数に対して、どこまで耐え、どう壊れるのか――その記録が重要なのだ」


 強化兵たちが、一斉に武器を構える。

 黒晶で補強された槍と剣が、鈍く光った。


 グラウは制止するように片手を上げる。


「待て。まだだ」


 そして、アルフレッドへ一歩踏み出す。


「君は理解していない。黒い石も、灰も、異形も――すべては人が世界に適応するための手段だ。壊れやすい肉体と、遅すぎる進化を補うための、ね」


 その声には、確信があった。

 狂信ではない。

 だが、正気とも言い切れない。


「私は救っているのだよ。選ばれなかった者たちを、可能性の檻から解放している。君のように、偶然“当たり”を引いた存在だけが強くなる世界など、歪んでいるだろう?」


 アルフレッドは答えない。

 代わりに、一歩前へ出た。


 その瞬間、グラウの口角が吊り上がる。


「いい反応だ……! やはり、説得は不要だな。ならば――」


 彼は指を鳴らした。


 強化兵、突撃。


 命令と同時に、兵士たちが走り出す。

 足取りは人間のそれではない。黒晶によって増幅された脚力が灰を爆発させ、距離を一息で詰めてくる。


 アルフレッドは迎え撃つ。


 剣が走り、雷が唸る。

 最前列の兵士の胴が両断され、黒晶装甲ごと内部から焼き裂かれる。だが、倒れた兵の背後から、次が踏み込み、さらにその背後から、別の個体が間合いを詰める。


 統制された波状攻撃。


「ほら、見ろ! 壊れないだろう? 人はここまで“使える”!」


 グラウの声が、戦場に響く。


 アルフレッドは舌打ちし、魔力の流れを切り替える。

 雷から熱へ。

 剣身が赤く輝き、振り抜いた一閃が扇状の灼熱波となって荒原を薙ぎ払う。


 複数の強化兵がまとめて吹き飛び、灰の中へと沈んだ。


 だが、グラウは後退しない。


 むしろ、恍惚とした表情で呟く。


「いい……実にいい……。その力、完全な制御下に置けたなら――」


 彼の視線は、もはや人を見るものではなかった。

 標本を見る目だ。


「さあ、アルフレッド。君自身が証明してくれ。

 私の理論が正しいか、それとも――君が“例外”かを」


 灰の荒原で、

 魔剣士と狂気の指揮官との戦いは、今まさに本格的な局面へと踏み込もうとしていた。



 灰の荒原に、ひときわ濃い瘴気が渦を巻いた。


 アルフレッドが踏みしめる灰の大地が、ぎしりと軋むような音を立て、その中心から“それ”は姿を現した。黒い外套をまとい、仮面すら着けず、剥き出しの笑みを浮かべた男――グラウ。セイセス=セイセスに連なる狂信者たちを束ねる指導者の一人であり、戦場そのものを実験場として扱う異端の戦闘狂だ。


「……はは、やはり君か。噂以上だよ、魔剣士アルフレッド」


 グラウはゆっくりと両腕を広げ、荒原を満たす灰と瘴気を胸いっぱいに吸い込むような仕草を見せた。その挙動一つ一つに、戦いを待ち望む高揚と、理性の縁から滑り落ちかけた狂気が滲んでいる。


「この灰の海で、どれほど生き延びられるか……それを、直に観測できるとはね」


 アルフレッドは剣を下げたまま、相手の魔力の流れを冷静に測っていた。膨大だが、無秩序ではない。意図的に制御された狂気――それがグラウの本質だと直感する。


「観測だと? 随分と余裕だな」


「余裕? 違う違う。これは――興奮だよ」


 次の瞬間、グラウの足元から灰が爆ぜた。身体能力を強化する呪式が即座に発動し、人間離れした速度で距離を詰めてくる。拳が振るわれ、その軌道に沿って瘴気が刃のように凝縮される。


 アルフレッドは一歩も退かず、剣に雷属性の魔力を重ね、真正面から受け止めた。衝突の瞬間、雷鳴が荒原に轟き、灰の波が周囲数十歩にわたって吹き飛ぶ。


「ほう……反射神経、筋力、魔力変換速度――どれも異常値だ」


 グラウは拳を引きながら、愉悦に歪んだ笑みを深める。


「だが、まだ“本気”じゃないだろう?」


 答える代わりに、アルフレッドは踏み込んだ。超常の脚力が炸裂し、視界が一瞬で詰まる。剣が縦に振り下ろされ、雷光が空を裂いた。


 グラウはそれを紙一重でかわし、外套の端が焼け焦げる。だが、避けながらも笑っていた。


「いい……いいぞ……! 剣術と魔術を完全に融合させている……しかも、無駄がない!」


 グラウの背後に、灰と瘴気が集まり、歪んだ魔法陣を描く。次の瞬間、そこから半透明の獣のような影が複数体、呻き声を上げて這い出してきた。


「さあ、次はこれだ。君は――多対一でも、同じ精度を保てるかな?」


 アルフレッドは即座に状況を分析する。召喚体は本体の延長、思考共有型。核を叩くか、術者を斬るか――答えは一つだ。


「……分析しているのは、お互い様だ」


 アルフレッドの剣が唸りを上げ、雷光がさらに濃く凝縮されていく。


 獣影が一斉に襲いかかり、灰の荒原は完全な戦場と化した。剣と瘴気、雷と狂気が激突し、衝撃波が何度も地平線を揺らす。


 その中心で、グラウは戦いながらなお観察をやめない。むしろ、アルフレッドが見せる一挙手一投足に、陶酔すら覚えていた。


「素晴らしい……実に素晴らしい……! 君は――壊すに値する!」


 狂気じみた宣言とともに、グラウの魔力がさらに跳ね上がる。


 灰の荒原に立つ二人の化け物――その激戦は、もはや小競り合いではない。西方戦線の均衡そのものを揺るがす、決定的な衝突の幕が、今まさに切って落とされたのだった。



 灰の荒原を覆っていた瘴気が、二人の衝突に呼応するかのように激しく渦を巻き、砕けた灰が嵐となって宙を舞い上がる。その中心で、アルフレッドとグラウは互いの間合いを一瞬で潰し、剣と拳、魔力と瘴気を叩きつけ合っていた。


 グラウが踏み込む。人の限界を明らかに逸脱した速度で間合いを詰め、拳に瘴気を凝縮させた一撃を放つ。その軌道は単なる打撃ではなく、空間そのものを削る刃のように歪みを伴っていた。


「いい……いいぞ、その反応だ!」


 アルフレッドは半歩退き、重心を落とすと同時に剣を回転させ、雷属性の防護術式を展開する。拳と剣がぶつかった瞬間、雷鳴が炸裂し、瘴気と魔力がせめぎ合い、爆発的な衝撃波が荒原を薙いだ。足元の灰が抉れ、地面に幾重もの亀裂が走る。


「観測ごっこは終わりだ、グラウ」


 低く告げると、アルフレッドは即座に反撃へ転じた。剣に流し込まれた魔力が形を変え、刃の周囲に複数の雷の刃――補助刃が浮かび上がる。剣術と魔術を完全に重ね合わせた魔法剣技だ。


 横薙ぎ。雷光が扇状に広がり、グラウの周囲に展開されていた瘴気の獣影をまとめて切り裂く。断たれた影は悲鳴ともつかぬ音を立てて霧散したが、その様子を見て、グラウはむしろ愉快そうに肩を震わせた。


「はは……! やはり、雑音は要らないか」


 次の瞬間、グラウの身体が不自然に沈み込み、跳ね上がる。脚力を極限まで強化する呪式が発動し、空気を蹴ってアルフレッドの頭上へと躍り出た。上空から振り下ろされる踵が、重力すら巻き込んだ凶器となる。


 アルフレッドは視線だけで軌道を読み取り、真下から剣を突き上げた。雷光が柱となって立ち上がり、両者の攻撃が正面衝突する。火花と雷が散り、灰の嵐がさらに激しさを増した。


「……身体強化、魔力循環、反射判断。どれも一級品だ」


 グラウは空中で身を捻り、着地しながら呟く。その声音は、もはや冷静な分析と、抑えきれない高揚が混じり合ったものだった。


「だが、君は“壊す力”を抑えている。なぜだ?」


 アルフレッドは剣を構え直し、視線を逸らさない。


「無闇に壊すのは、三流のやることだ」


 踏み込み。超常の身体能力が炸裂し、今度はアルフレッドが間合いを制圧する。連撃。剣閃に雷撃を織り交ぜ、斬撃と衝撃波を同時に叩き込む。灰の荒原に、連続した雷鳴が響き渡った。


 グラウは防御術式を展開しながら後退するが、その表情は歪んだ笑みのまま変わらない。


「はは……ははは……! いい、実にいい……!」


 彼の背後で、瘴気が脈打ち、より濃密で禍々しい魔法陣が浮かび上がる。分析は終わり、次は――実験の段階だと言わんばかりに。


 灰の嵐の中心で、二人の応酬はさらに激しさを増していく。剣と魔、理性と狂気が正面からぶつかり合い、西方の荒原は、もはや逃げ場なき決闘の舞台と化していた。



 瘴気が凝縮され、荒原の空気そのものが重く沈んだ。

 グラウの背後に展開された魔法陣は、もはや単なる術式ではなく、彼自身の高揚と狂気を反映するかのように脈打ち、灰と黒光りする粒子を周囲へ撒き散らしている。


「さあ……次は“これ”だ、アルフレッド」


 グラウが指を鳴らすと同時に、魔法陣が歪み、瘴気が肉厚な刃の束となって彼の両腕に絡みついた。刃は生き物のようにうねり、触れた地面を腐食させながら、獣の咆哮にも似た音を発する。


「瘴気を直接、武装化しているな……」


 アルフレッドは一瞬で見抜き、剣に流れる魔力の質を切り替えた。雷だけではない。剣身に沿って淡く輝く術紋が浮かび上がり、魔力循環がさらに高速化する。魔法剣士としての本領――剣と身体そのものを術式として再構築する戦闘状態だ。


 グラウが動いた。

 突進ではない。空間を“削り取る”ような踏み込みで、次の瞬間にはアルフレッドの懐に入り込んでいる。瘴気刃が横薙ぎに放たれ、灰の荒原に黒い裂線が走った。


 アルフレッドは剣を斜めに構え、真正面から受ける。

 雷光と瘴気が衝突し、金属音にも似た衝撃が空を裂いた。だが、そのまま押し返すことはしない。剣を滑らせ、力の流れを受け流しながら、同時に身体を捻る。


「遅い」


 呟きと共に、アルフレッドの膝がグラウの脇腹へ叩き込まれた。

 超常の筋力に魔力を重ねた一撃が、内部から衝撃を炸裂させ、グラウの身体が横滑りに吹き飛ぶ。灰の海を数十歩にわたって削り、ようやく踏み止まったその顔には――歓喜の色が浮かんでいた。


「……はは……! 近接での打撃精度も申し分ない……!」


 血が口元から滲んでいるにもかかわらず、グラウは舌でそれを拭い、笑みを深める。その眼は、敵意よりも観察欲と陶酔に満ちていた。


「君は、ただ強いだけじゃない。戦場で“考え続けている”……素晴らしい」


 次の瞬間、グラウの足元から瘴気が噴き上がり、地面に複雑な幾何学模様が走る。

 それは防御でも召喚でもない。空間干渉――局地的に物理法則を歪める危険な術だ。


 アルフレッドは即座に距離を取らず、逆に一歩、踏み込んだ。


「分析は終わったか、グラウ」


「――ああ。だから、ここからが本番だ」


 歪んだ空間が、アルフレッドの動きを引き延ばそうとする。しかし、彼の身体能力と魔力循環は、その干渉を強引にねじ伏せる。筋肉が軋み、魔力が唸りを上げる中で、剣が閃いた。


 一閃。

 雷と魔力が収束した斬撃が、空間の歪みごと切り裂き、地平線まで一直線に走る。


 爆発的な衝撃が荒原を震わせ、灰の嵐が天へと舞い上がった。


 煙の向こうで、グラウはなお立っていた。外套は裂け、瘴気刃の一部は砕け散っている。それでも彼は、深く息を吸い込み、震える声で笑う。


「……ああ……最高だ……!」


 狂気と興奮が頂点に達し、グラウの魔力がさらに跳ね上がる。

 この戦いは、まだ終わらない。むしろ――互いの“本質”が、ようやく露わになり始めたところだった。



 灰嵐がゆっくりと地に落ち、荒原の輪郭が再び姿を現す。

 その中心に立つグラウは、もはや隠すこともなく、全身から瘴気を噴き上げていた。皮膚の下を黒い脈が走り、呼吸のたびに、まるで内側で何かが蠢いているかのように肉体がわずかに歪む。


「いい……実に、いい……」


 グラウは両腕を広げ、天を仰ぐようにして笑った。その笑みはもはや理性の仮面を失い、研究者の冷静さと狂信者の恍惚が混じり合った、歪んだ歓喜そのものだった。


「ここまで“抵抗”する存在は久しぶりだ。普通はね、私の瘴気を浴びた時点で――恐怖か、陶酔か、そのどちらかに溺れる。だが君は違う」


 視線が、鋭くアルフレッドを捉える。


「恐れず、溺れず、ただ斬るために観察し、考え、選び続けている。……ああ、セイセス=セイセスが君を放置できない理由が、よく分かる」


 アルフレッドは剣を肩に構え、呼吸を整えながら静かに言い返した。


「分析のつもりなら、随分と自分を晒す。狂気が過ぎるぞ」


「狂気? 違うな」


 グラウは一歩踏み出す。その瞬間、地面に走った瘴気の紋様が、まるで応えるかのように一斉に輝いた。


「これは“昂揚”だ。理解が進む瞬間の高揚――君という未知を、骨の髄まで味わうための準備だ!」


 次の瞬間、空気が爆ぜた。


 グラウの姿が、視界から掻き消える。

 否、消えたのではない。瘴気を噴射し、常識外の速度で距離を詰めたのだ。音が追いつく前に、瘴気刃が縦横無尽に振るわれ、斬撃の網がアルフレッドを包囲する。


 アルフレッドは後退しない。

 剣を振るい、雷光で刃を叩き落とし、受け流し、時にあえて掠らせて軌道をずらす。瘴気が鎧を焼き、皮膚を刺すが、彼の集中は揺るがなかった。


「――瘴気の出力、一定じゃないな」


 応酬の最中、アルフレッドは見抜く。


「高揚に任せて増幅している分、制御が甘い。力を使いながら、自分でも測っているだろう」


 その言葉に、グラウは一瞬だけ目を見開き、そして喉を鳴らして笑った。


「はは……気づいたか! そうだ、その通りだ!」


 瘴気刃がさらに肥大化し、刃というよりも黒い獣の顎のような形へと変わる。


「だが、それでいい! 制御された力など、実験には向かない! 私は今、“壊れながら最適解を探している”んだ!」


 狂気の宣言と共に、グラウは地面を蹴った。

 今度は直線ではない。瘴気を足場にし、空中で何度も方向を変えながら、アルフレッドの死角へと回り込む。


 アルフレッドは剣を反転させ、柄で地を打った。


 ――雷が、走る。


 剣を中心に、円状の雷撃が荒原へと放たれ、灰と瘴気を焼き払いながら広がった。視界が一瞬、白に染まる。


 その中で、アルフレッドは踏み込み、拳を放った。


 魔力を圧縮した打撃が、グラウの腹部を直撃する。

 肉体の内部で衝撃が爆ぜ、骨の軋む音が確かに響いた。


 それでも、グラウは倒れない。

 口から血を吐きながら、なおも笑っている。


「……ああ……素晴らしい……! 君は、殺しに来ているのに、殺すためだけに動いていない……!」


 よろめきながらも立ち直り、瘴気に包まれた眼でアルフレッドを見据える。


「君は――敵を“理解した上で”斬る。だからこそ、怖ろしい……!」


 アルフレッドは剣を構え直し、低く言った。


「理解しなければ、止められないからな。……お前の狂気も、ここで終わらせる」


 灰の荒原に、再び沈黙が落ちる。

 次の瞬間、その沈黙は、二人の全力が激突する音によって、無残に引き裂かれることになる――。


 激闘は、なおも続いていた。



 瘴気が低く唸り、荒原を覆う灰が静かに沈降していく。

 互いに間合いを測り合うその刹那、グラウの笑みがふと――意味を変えた。


 それは戦闘の高揚ではない。

 獲物を前にした狂気でもない。

 もっと別の、冷ややかな“理解”を伴う笑みだった。


「……まだ見ているな」


 その言葉に、アルフレッドの背筋がわずかに強張る。

 彼もまた、戦闘の最中から消えない違和感を感じ続けていた。視線でも殺気でもない、しかし確実に“意識を向けられている”という感覚。空気の裏側に、もう一つの焦点が存在するような――。


 グラウは剣先を下げ、わざと隙を晒すように肩をすくめた。


「出てきたらどうだ、仮面。透明化したまま観測する癖は、相変わらず趣味が悪い」


 次の瞬間だった。

 荒原の一角、何もないはずの空間が、ゆらりと歪む。熱でも蜃気楼でもない、概念そのものが剥がれるような揺らぎ。その中心から、音もなく“像”が浮かび上がった。


 黒衣。

 無駄のない直線的な装束に、白磁のような仮面。目も口も刻まれていない、完全な無表情。


 アルフレッドは剣を構え直し、視線を逸らさない。


「……やはり、いたか」


 仮面の存在は、戦意を見せない。だが、そこに立っているだけで、周囲の魔力の流れが微妙に歪んでいる。直接干渉はしないが、世界の“観測点”として存在している――そんな異様な感触だった。


 グラウは、肩越しにアルフレッドを一瞥し、愉快そうに鼻を鳴らす。


「安心しろ。今すぐ君を奪いに来たわけじゃないらしい。だがな……」


 そして、仮面へと向き直る。


「忠告しておく。そいつは“素材”じゃない。君たちの箱庭に放り込んで、都合よく観測できる存在でもない」


 仮面の人物は、微動だにしなかった。

 だが、次の瞬間、周囲の空気が僅かに振動する。


「――その評価は、共有している」


 声は仮面の内側からではなく、空間全体に直接響いた。感情を排した、だが人間的な理知を感じさせる声だった。


「ゆえに、我々は“直接回収”ではなく、“干渉”を選んだ」


 アルフレッドの瞳が細められる。


「我々、だと?」


 仮面の人物は、ゆっくりと首を傾けた。


「虚空教団《ベイリル=オラリオン》。それが、我々の名だ」


 その名が告げられた瞬間、荒原を渡る風が一段低く唸った。

 世界の裏側に名を刻む者たち――干渉者。観測者。均衡を理由に、時に戦争すら“配置”する存在。


 グラウは肩を竦め、どこか皮肉めいた調子で言った。


「聞いたか、アルフレッド。君は今、結社セイセス=セイセスだけじゃなく、世界の外側からも値踏みされている」


「……光栄だな」


 アルフレッドは一歩踏み出す。

 仮面の人物へ、真正面から。


「干渉を認めると言ったな。なら聞こう。俺に何をさせたい?」


 一瞬の沈黙。

 仮面の人物は、否定も肯定もせず、ただ静かに答えた。


「まだ、決まっていない」


 その言葉に、グラウが低く笑う。


「はは……相変わらずだ。観測し、揺さぶり、結果が出るまで責任を取らない」


 仮面は気にも留めず、アルフレッドを見据えたまま続けた。


「だが一つだけ確かなことがある。君は――世界の“予定調和”から外れ始めている」


 アルフレッドは剣を肩に担ぎ、微かに口角を上げた。


「なら、なおさらだ。俺は誰の予定にも従わない」


 灰の荒原に、再び緊張が張り詰める。

 狂気の実験者、世界を覗く観測者、そして予定を破壊する剣士。


 三者の視線が交錯したその瞬間――

 この戦いは、もはや単なる激闘ではなく、世界そのものを巻き込む局面へと踏み込んでいた。



 灰の荒原に、三つの意志が並び立つ。

 それぞれが異なる方向を向きながら、しかし同じ一点――この場、この瞬間――へと収束していた。


 セイセス=セイセスの実験責任者、グラウ。

 虚空教団ベイリル=オラリオンの観測者。

 そして、魔剣を携えた能力者、アルフレッド。


 偶然ではない。必然でもない。

 ただ、歪みが極限まで蓄積された結果としての邂逅だった。


 グラウは両腕を広げ、灰を踏みしめながら愉悦に満ちた声を漏らす。


「素晴らしい……本当に素晴らしい。セイセス=セイセスの“失敗作”が、虚空教団の観測域にまで踏み込むとは」


 その言葉に、アルフレッドの視線が鋭くなる。


「失敗作だと?」


「そうとも。君は計画の枠から外れすぎた。本来なら黒晶に飲まれ、灰の海に還るはずだった存在だ」


 仮面の人物が、静かに口を挟む。


「訂正しよう、グラウ。彼は“失敗”ではない。想定外だ」


 声には感情がない。だが、その一言には明確な線引きがあった。


「我々ベイリル=オラリオンは、世界を安定させるために干渉する。だが彼は、安定でも破壊でもない――“変数”だ」


 アルフレッドは小さく息を吐く。


「俺を数字扱いするのはやめろ」


 そして一歩、前へ。


「俺の目的は単純だ。セイセス=セイセスを潰す。それだけだ」


 その言葉に、グラウは心底楽しそうに笑った。


「復讐、か。いい響きだ。だが、君はもう気づいているだろう? 自分の剣が、もはや私だけを向いていないことに」


 アルフレッドは答えない。

 だが、灰の荒原に吹く風が、その沈黙を肯定していた。


 仮面の人物が、ゆっくりと一歩前に出る。


「アルフレッド。君がセイセス=セイセスを滅ぼせば、世界は一時的に安定する。だがその空白は、必ず別の歪みを呼ぶ」


 その言葉は、忠告であり、同時に宣告だった。


「我々はその“次”を観測している」


 グラウは肩をすくめる。


「聞いたか? 君の復讐は、世界の都合の一部に組み込まれつつある」


 アルフレッドは、ゆっくりと剣を構え直す。

 雷光が刃を走り、灰が足元で舞った。


「――だからこそだ」


 低く、だが確かな声。


「俺は、誰の筋書きにも乗らない。セイセス=セイセスも、虚空教団も、必要なら斬る」


 一瞬、仮面の人物の周囲で、空間がわずかに歪んだ。

 それは驚きではない。興味――いや、確認だ。


「その選択が、どこへ至るのか。我々は見届けよう」


 グラウは舌打ちし、しかし笑みを消さない。


「結構だ。どう転んでも、私は楽しめる」


 三者の視線が交錯し、張り詰めた沈黙が荒原を支配する。


 この瞬間、アルフレッドの戦いは、

 もはや単なる復讐ではなくなった。


 世界の歪み、観測者の思惑、狂気の実験者。

 それらすべてを巻き込みながら、運命は次の局面へと――確実に、動き出していた。



 張り詰めていた空気が、ゆっくりと緩んでいく。

 灰の荒原を覆っていた瘴気はなお重く、だが先ほどまでの殺意と狂気の渦は、確かに終わりを告げつつあった。


 グラウは魔術陣の残光が漂う地面に視線を落とし、満足げに息を吐いた。


「今日はここまで、だな」


 その声音には、敗北も悔恨もない。

 あるのは“収穫を終えた者”の落ち着きだけだった。


「十分だ、アルフレッド。君の力、君の判断、君の“逸脱”――どれも記録する価値がある。次に会う時は、もっと面白い舞台を用意しよう」


 そう言って、グラウは指を鳴らす。

 空間が歪み、彼の背後に黒く脈打つ転移門が開いた。瘴気と魔力が絡み合い、荒原の灰を逆巻きに吸い上げる。


 仮面の人物もまた、一歩退いた。


「本日の観測は終了だ」


 その声は、どこまでも平坦だった。


「アルフレッド。君の存在は、我々の想定を静かに侵食している。それが世界の安定に寄与するのか、破滅を早めるのか――まだ結論は出ていない」


 一瞬、仮面越しに視線が重なる。

 そこに敵意はなく、しかし共感もなかった。


「だが覚えておけ。我々は去らない。見えぬ場所から、常に“観測”している」


 仮面の人物が虚空へと溶けるように消えるのと同時に、転移の光が荒原を貫いた。

 グラウの姿もまた、歪んだ空間の奥へと引きずり込まれ、最後に愉悦を含んだ笑みだけが残像として揺らめく。


 そして――静寂。


 灰の風だけが吹き抜け、すべてが終わったことを告げていた。


 アルフレッドは剣を下ろし、深く息を吐く。

 雷光は収まり、刃は再び静かな鋼へと戻った。


 セイセス=セイセス。

 復讐すべき敵は、まだ生きている。


 だが、それだけではない。


 虚空教団ベイリル=オラリオン。

 世界を外側から眺め、必要とあらば干渉する“観測者”の存在。


 彼らは敵か。味方か。

 あるいは――どちらでもない、もっと厄介なものか。


 アルフレッドは灰の荒原を見渡し、拳をゆっくりと握りしめた。


「……面倒な世界だ」


 だが、その声音に迷いはなかった。


 復讐の道は、もはや単純ではない。

 しかし剣を置く理由にもならない。


 セイセス=セイセスを斬る。

 そして、観測者たちの思惑すら越えた場所へ辿り着く。


 灰の大地を背に、アルフレッドは再び歩き出す。

 その背に、誰にも縛られぬ意志を宿して。


 ――こうして一つの戦場は幕を閉じた。

 だが世界は、すでに次の局面へと、静かに移行していた。


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