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第十五話

 カラド荒原――西方へ伸びる古代街道の終端に位置する、灰と硫黄の匂いが漂う死の平原。かつては交易都市が栄えたというが、今は大地そのものが煤と灰に埋もれ、風が吹けば砂ではなく灰の波が空を覆う。


 アルフレッドは灰に足跡を刻みながら進む。足元の灰は靴の縁を越え、歩むごとに黒く濁った煙が揺らめき、熱の残滓が肌を刺す。荒野の中心には、古代の城砦が灰に埋もれながらもなお、その影を保っていた。


 城砦の壁は崩れ、尖塔は欠け、炎に焼かれた黒い痕跡が刻まれている。しかし、アルフレッドの目を引いたのはその廃墟ではない――より深く、広く、大地そのものに刻まれた亀裂だった。


 灰の海を引き裂くように裂けたその溝からは、赤黒い蒸気が立ち上り、硫黄と血の混じったような匂いが漂っていた。


 足を止めた瞬間、灰を巻き上げて低いうなりが響いた。


 ――その音は風ではない。獣でもない。人でもない。


 伏せている何かが、息を潜め、這い寄ってくる音だ。


 アルフレッドは剣の柄に触れ、魔力を流し込む。雷光が剣身の奥で脈打ち、空気が震えた。


 次の瞬間、灰の波を突き破り、黒い影が跳躍する。


 黒い影は人の形をしていた。だが、皮膚は灰の瘴気に焼かれて腐敗し、手足は異様に伸び、爪は黒曜石のように尖っていた。かつて人であった者――灰病に侵され、瘴気の魔力に身体を変質させられた“灰喰らい”だ。


 この化け物たちは生者の魔力と血を喰らうことで生を保ち、さらに瘴気を取り込み異形へと変化し続ける。結社セイセス=セイセスが撒き散らした黒い石の副産物と噂される存在だった。


 灰喰らいは喉の奥で震えるような声を漏らし、眼の奥で蒼白く不気味な光を揺らしていた。


 アルフレッドが一歩踏み出すと、周囲の灰がふわりと浮き上がる。魔力の奔流に反応して灰が舞い、視界が白黒の世界へと変わった。


「来い」


 その一言を合図に、灰喰らいの群れが灰煙を裂いて迫りくる。


 アルフレッドは迷わなかった。雷を纏った剣が横薙ぎに走り、雷光と灰が交じり合い、電流が灰喰らいの肉体を内部から焼き裂いた。腐敗した肉が裂け、魔力と灰の黒い霧が爆ぜる。


 しかし、それは序章に過ぎない。


 地鳴りが響き、裂け目の奥から――より大きな影が姿を現した。


 灰病に侵された者ではない。


 それは異形の牙を持ち、骨が外へ折れ曲がった、甲殻と赤黒い肉塊が混じり合った“儀式の産物”だった。背には黒い石の欠片が突き刺さり、そこから常に瘴気が噴き出している。


 アルフレッドは剣を構え直し、雷光をさらに増幅させた。


「――お前らが、次の波か」


 異形は低く唸り、四足の獣のように灰を蹴って突進してくる。


 雷光が奔り、灰が荒野を覆い、剣と魔の交錯が始まる。

 荒原を覆う灰雲の下で、アルフレッドと異形の敵との新たな戦いが、静かに、しかし確実に幕を開けていた。



 異形の獣が灰を吹き散らし、黒い疾風のごとく迫る。

 四肢は均衡を無視した長さで、関節は獣のそれでありながら異様に柔軟で、地を蹴るたびに骨の軋みが不快な音を発する。

 突き出された牙は石化した角のように鈍く黒く輝き、背に突き立つ黒晶は瘴気を脈打たせ、大地そのものが呼吸するかのように灰が吸われ、吐き出されていた。


 アルフレッドは踏み込みを迎え撃たなかった。

 灰を巻き上げる突進に身を委ねるように身体を滑らせ、甲殻がかすめる寸前で足を返し、走る向きを切り替える。

 灰が視界を奪う。しかしそれは障害ではなく、有利とも言えた。


 灰は、雷を吸う。


 アルフレッドは足場を失わぬよう、重心を低く保ちながら魔力を纏わせる。

 剣身の奥で雷が吼え、大気は飽和し、皮膚の表面を静電気が走った。髪が逆立ち、灰の粒子が雷光に照らされて瞬き、まるで星の欠片が荒野に舞っているかのようだった。


 異形は速度を緩めぬまま旋回し、獲物を見失った獣とは違う、計算された軌道の変更を見せつける。

 甲殻が重く擦れ、その動きには痛みも焦りもない。


 アルフレッドは手首の角度を変えて剣を横へ流し――瞬間、


 灰が「雷」へと変質した。


 空気中に漂う粒子に魔力が伝播し、灰を縫うように雷光が走る。

 視界は白。

 音は割れる。

 雷撃は異形の胴へ吸い込まれるように集束し、内部で炸裂した。


 甲殻の隙間から赤黒い肉が弾け、黒晶の表面に罅が入る。

 だが、それは止めではなかった。

 異形は四肢を震わせ、裂けた肉を無理やり寄せ集めるように動き、

 まるで“形状を記憶した肉塊”のように原型へ戻ろうとする。


 背に突き刺さる黒晶が明滅する。

 それは命令であり、枷であり、燃料であるかのように。


 アルフレッドは灰を踏み、中腰から跳ね上がると、

 剣の軌跡を最小限の円に収束させ――甲殻の根本、再生の中心へ向けて突き刺す。


 雷光ではない。

 剣そのものの体重と速度、

 超常の身体能力によって得た“決定的な刺突”。


 肉を越え、骨を越え、黒晶へと達した瞬間。

 異形の全身が痙攣し、灰の海へと沈み込んだ。


 灰が落ち着いたとき、アルフレッドの呼吸は乱れていない。

 一撃は計算され、力は無駄なく制御されている。

 限界ではない。ほんの助走だ。


 しかし――。


 倒れ伏した異形の背の黒晶が、砕け散らなかった。

 微細な光の糸が灰の中で蠢き、まるで地中深く、もっと別の場所と繋がっているかのように震えていた。


 そして灰の下から、さらに小さな影が複数這い出す。

 腕だけ、顔だけ、足だけ――不完全な形状の灰喰らいが、まるで黒晶の破片に吸い寄せられるように集まっていく。


 黒い石――

 それ自体が、中心ではない。


 中心は、別の場所にある。


 アルフレッドは剣を払う。

 灰の中で雷光が再び灯り、空気が震えた。


 「……群れで、回収に来るか」


 不完全な手足が、黒晶を護るように集結し、

 ひとつの生物のように形を取り戻し始める。


 戦闘は終わっていなかった。

 むしろ――

 “本体の回収”が始まった、と言うべきだった。



 落ちた異形の骸が灰に沈む。その瞬間だった。


 ――カチリ。


 金属とは違う、石とも違う、骨の軋みに似た不気味な接合音が荒原に響く。


 灰の海が波立った。

 まるで海底から巨大な生物が浮上するときのように、灰がうねり、渦を巻き、旋回し、視界一面を覆い隠す。


 アルフレッドは雷の余波で空気を制圧しながら、灰煙越しに目を凝らした。


 灰の渦の中心――

 黒晶の断片が幾つも集まり、磁石に吸い寄せられる鉄片のように互いを引き寄せていた。


 断片は結合するたびに形を変え、骨格を模し、外殻を形成し、奇妙な関節を追加し、そして――立ち上がった。


 ――二十歩分の高さ。

 人の形に近いが、顔はない。

 ただ巨大な黒晶の仮面のような平面が、空虚にこちらを向いている。


 灰喰らいを生む黒い石――その回収体。


 不要なものは喰い、暴走した産物は回収し、瘴気の循環を維持するための自律兵器。


 瘴気をさらに高濃度で散布しながら、遠くの灰喰らいの残骸を引き寄せ、背中の裂け目へ飲み込み、黒晶へ再精製していく。


「……回収して、再利用。奴らにとっては“資源”ってわけか」


 アルフレッドは剣を構えなおす。


 回収体の腕がゆっくりと上がった。

 指は五本――ではなく、粘度のある黒晶が溶けて伸び、三本の巨大な刃へと変貌する。


 次の瞬間、地形が削れるほどの速度でその腕が振り下ろされた。


 アルフレッドは横に跳び、灰が爆風となり背を裂く。

 遅れて地響き。抉られた地面には十数メートルの溝――いや、傷跡。


(直撃すれば灰に混ざって終わりか……)


 雷を纏うと、灰が逆巻き、閃光の跡を残して距離を詰める。

 刃の隙間――黒晶の継ぎ目。そこが唯一の弱点。


 雷閃、突き。


 しかし貫いた瞬間、黒晶は液状化し、剣が抜けなくなるほど絡みついた。


「ッ!」


 雷を増幅し、強制的に蒸発させると黒晶は再結晶化し形を変える。

 回収体は武器のように腕を変形させ、鎌へと変え、次は刺突へと変え、まるで戦闘経験を上書きしているかのようだった。


「――戦いながら学習してやがる」


 回収体の仮面――空虚な平面に、ひびのような光が走った。


 言葉ではない。声帯もない。

 ただ、魔力の振動で直接脳に叩き込まれる。


 ――灰は定め。灰は循環。灰は資源。


 それは意思。

“誰かの命令”を代弁する声。


「命令されている……? 誰にだ」


 返答はない。

 巨大な回収体は、両腕を左右に広げ、荒原全体の灰を引き寄せ始めた。


 灰が風のように流れ、空が黒く閉じていく。

 視界を覆う灰の嵐の中心に、黒晶の巨体がゆっくりと歩み出す。


 アルフレッドの周囲だけ、雷を纏う魔力のバリアが灰を弾いて孤島のように空間を確保する。


(灰そのものが奴の武器かよ……)


 斬撃では追いつかない。

 雷撃だけでは装甲を溶かす前に再結晶化される。


 では――。


「なら、解析しながらぶっ壊す」


 剣を逆手に構える。

 雷光が収束し、静電の音が高く響いた。


 灰の海を割って、両者は再び激突した。



 雷が閃光となり、黒晶の巨体を貫いた。


 回収体は崩れるのではなく――砕け、液状化し、そして砂のように散っていく。

 硬体と液体の境界を失った黒晶は、力を失った途端にただの“灰の粒子”と化した。


 巨体の消失は静かだった。

 しかしその静寂は、嵐の前触れでしかなかった。


 足元――灰が、動く。


 灰喰らいたちの残骸、回収された瘴気、焼かれ、破られ、砕けた石片。

 それらが灰の海の底へ沈んでいった瞬間――灰が泡を立てる。


 煮え立つ鍋のように、膨張し、弾け、沸騰する。


 アルフレッドは反射的に距離を取る。

 灰が盛り上がり、波となって大地を押し返す。


 それは液体。だが灰。

 それは霧。だが触れると重い。

 質量を持った“灰の潮”が、地平線の向こうまでうねり出した。


(まるで……海が生きているみたいだ)


 灰の潮は意思を持つ動きで、中心へ向かって収束していく。

 まるで見えない渦へ吸い込まれるように。


 そして――現れた。


 灰の潮が引き、中央に黒い深淵の穴を露出させた。


 穴ではない。

 口だ。


 灰の海の下に、無数の黒晶が骨格のように組まれた巨大生体構造――

 いや、灰喰らいも回収体も、全てはこの“本体”の末端。


 干渉の声が、今度ははっきりと届く。


 ――灰は母胎。灰は門。灰は帰還。


 回収体の声とは比にならない“重量”が、頭蓋を打つ。


 視界がぶれる。

 耳鳴りではなく、脳そのものが震える感覚。


 黒晶の渦――巨大な眼孔のように空いたその穴の中心で、

 何かが、こちらを見ていた。


 瞼のない眼球の感触。

 どくり、と、灰の海全体が呼吸するように脈動する。


 アルフレッドは構えを解かない。

 だが理解した。


 さっきまでのは、回収体など“口先”にすぎなかった。


 灰の海そのものが、システムであり、生体であり、領域であり――敵。


「なるほど……本番はここからか」


 足元が動いた。

 灰が蛇のように絡みつき、引きずり込もうとする。


 灰の海が、アルフレッドを呑み込もうと“形”を得始める。


 触手。

 腕。

 柱。

 人の形を模した影。


 灰が人の輪郭を成し、一体――また一体と立ち上がる。

 すべて、かつての灰喰らい。

 灰に溶けた死者の残り火。


 一斉に、こちらを向く。


 灰の海の声が、脳に響く。


 ――灰へ還れ。


 次の瞬間、灰の人影たちが一斉に襲い掛かった。



 灰の影たちが殺到し、数の暴力が波の形を成して襲い掛かった。

 アルフレッドは雷撃と斬撃の連撃で一体、また一体と塵へ還すが――灰は死なない。

 砕けば散り、散れば潮に溶け、そしてすぐに“別の形”で立ち上がる。


「きりがない……!」


 視界の端、灰の潮が壁のように立ち上がる。

 それはもう液体でも砂でもない。

 意思を持った“掌”が、彼を包囲するように形成されていく。


 退路が消えた。


 呼吸の度に肺に灰が入り、喉が焼ける。

 雷撃は空間を裂くが、灰は焼けても、黒晶の蒸気となって再び凝集する。


 この場のルールは“灰が主”。

 アルフレッドの力は、外来の炎――異物でしかない。


 灰の掌が閉じる。

 地の底から声が響く。


 ――灰へ還れ。おまえは、まだ形を持つだけの未熟。


「勝手なことを……」


 瞬間、足元が崩れた。


 灰の大地が、口を開いた。


 重力が失われたのではない。

 重力の先が、急に消えたのだ。


 アルフレッドの身体は、灰の渦へと飲み込まれた。


 灰が耳を塞ぎ、目を覆い、鼻腔を満たす。

 水より重く、鉄より冷たく、砂より細かい。

 圧迫と窒息が同時に訪れる。


 暗闇。

 上下が失われる。

 落下の感覚すら曖昧になる深黒の世界。


 だが――見えた。


 闇の奥で、光が揺れた。


 白い光。

 炎ではない。雷でもない。

 目に焼きつく “温度のない光”。


 その中心に、人影がいた。


 白いフード。灰の海とは異質の光を纏う影。

 輪郭はぼやけ、性別も年齢も分からない。

 だが、声が――届いた。


 ――お前はまだ、降りるには早い。

 灰に呑まれれば、“形”は失われる。


 その声は、静かで、そして遠い。


 アルフレッドは声を返そうとするが、喉からは灰しか漏れない。

 影は近づき、白い光が灰を押し退けるように弾き飛ばした。


 ――お前の“名前”はここでは毒だ。

 呼ぶな。思い出すな。

 灰は名を喰う。


 光の影は、彼の胸元に指先を触れた。


 灰が裂け、空間が反転する。


 落下の速度が急に失われ、身体が浮上する方向へ引き戻される。


 ――生きたければ、“形”を選べ。

 お前はまだ灰ではない。

 選べ――外の側か、内の側か。


 問いではなかった。

 宣告。裁定。命令。


 アルフレッドが何かを言うより速く、灰の潮が逆流した。


 次の瞬間、闇が弾け――


 アルフレッドは灰の海の“内部”へ、完全に落ちた。


 

 落下が止まったわけではない。

 地面に着いた衝撃も、重力の復帰もない。

 ただ、落ち続けていたはずの身体が、唐突に「落ちている感覚」を忘れさせられた。


 灰に埋もれていた視界がすっと開ける。


 黒い空。

 灰色の大地。

 地平線は存在せず、上下の境は曖昧で、あらゆる方向に灰色の霧が漂う。

 音がないのではない。

 声が「封じられている」。


 ――ここは現実ではない。


 そう理解するより早く、声がないのに、声が響いた。


『ようこそ“内側”へ』


 アルフレッドは反射的に剣へ手を伸ばす――が、柄がない。

 武器だけではない、体温も、筋肉の重さも、地に足の触れる感覚すら希薄。


 意志だけがここにあり、肉体は仮だ。


「誰だ。姿を見せろ」


 声は風のように、灰の霧を揺らしながら返す。


『肉の耳で聞くな。肉の口で問うな。この領域では、それらは役に立たぬ』


 灰が集まり、形を成し始める。

 人の形に近い。だが輪郭は崩れ、影の底にいくつもの顔の残像が浮かんだ。


 それは“個”ではない。


 多数が絡み合い、意志だけが統合されている存在。


『我らは《灰の集積》。失われた者の記憶と、形の残滓。名を持たず、声を持たず、ただ集まり、灰へと還る』


 アルフレッドは警戒したまま、意識の奥で分析を試みる。


(これは灰に侵食された者の残滓か? それともセイセス=セイセスの黒い石が作った意識の副産物――)


 灰の影が言葉を遮るように続けた。


『人は、灰になると己を失うと信じている。だが違う。失われたはずの声はここに残り、形を捨てた意志は、より深いところで繋がる』


 声は、単なる説明ではなかった。

 宣告のようでもあり、誘いのようでもあった。


「その“繋がり”に俺を取り込むつもりか」


 灰の影が微かに嘲るように形を歪めた。


『取り込みたいのは“おまえではない”。おまえの《名》と《形》だ』


「名と……形?」


『おまえの名は、世界のどこかに“記述”されている。おまえの形は、“外側”で定義されている。それらを失えば、存在は我らと溶け合う。“預言の外”へと逃れられる』


 それは無慈悲でありながら、奇妙に選択肢のようでもあった。


「俺に檻から逃げろと言いたいのか。預言も運命も、外の枠組みも捨てろと」


 灰の影が揺れる。


『そうすれば苦悩なく生きられる。形を捨てた者は責任を失い、痛みも消える。名を忘れた者は過去に縛られず、未来にも捕らわれぬ。――安らぎ。終わり。解放』


 その言葉は誘惑でも警告でもなく――

“真理”を語る者の口調だった。


 アルフレッドは短く息を吐き、目だけで周囲を測る。


「だが俺は知ってる。名前も形もあるから、誰かが俺を覚えていられる。痛みがあるから、守る理由が生まれる」


 その言葉が空間に投げられた瞬間――


 灰が波打ち、空間が凍りついた。


 灰の影の声色が変わる。


『――ならば、証明してみせろ。形を持つ者の強さと弱さを。名を抱えたまま、灰の中で生き延びられるのか』


 灰の地面が裂けた。

 無数の影がアルフレッドの形を模し、剣の姿さえ真似した影武者となって現れる。


『名を持つ者よ。その名の重さに、潰されずに立てるか』


 灰の海の内部での戦いが始まる。



 ――それは、言語ではなく、概念がそのまま視界に形を伴って流れ込む“思考の洪水”だった。


 灰――いや、“灰に還った意識の集合体”は語った。


「我らは滅ぼすために生まれたのではない。固まる意識をほどき、再び流動へ戻すために在る」


 その声は、男女どちらともつかず、若くも老いる事もない、透明な響き。

 アルフレッドの脳裏に、過去に出会った人々の顔が次々と浮かび上がる。

 戦場で倒れた仲間。

 街を灰にした侵攻軍の兵士。

 そして――かつて自らの手で斬った敵将。


 彼らは灰へ還って再び形を無くし、境界を曖昧にし、個を融解させ、ひとつの“流れ”になっていく。

 それを灰側は「原式回帰オリジン・リターン」と呼んだ。


 アルフレッドが思念で問う。


「だが、生者を呑み込む。抵抗する者だっている。お前たちの行いは破壊にしか見えない」


 灰の海が波紋となり、形のない揺らぎが答えた。


「それは“境界”があるゆえの痛み。生を続ければ、やがて個は苦悩を生む。戦、飢え、孤独、恐怖、憎悪――それらを断ち切るには、個を解いて流れに還るほかない」


 その瞬間、灰の内部空間に巨大な幾何像が浮かび上がる。

 まるで軍勢が格子状に並んでいるような、秩序だった“統合意識の都市”。

 そこには確かに安寧がある。

 争いも、恐怖も、裏切りも、喪失も、痛みも――何一つ存在しない。

 あるのは、ただ均一な平穏と、終わりなき回帰。


 そして灰の声は、完全に姿を見せずに核心へ踏み込んでくる。


「問う。アルフレッド。汝は“個”を守りたいのか。それとも“苦悩なき永続”を選ぶのか」


 灰の海が薄く透け、地上の戦場の光景が見えた。

 仲間たちが必死にアルフレッドを取り戻そうと戦っている。

 彼らは命を燃やし、灰に抗い、生の赤を散らしていた。


 灰は畳みかける。


「彼らが苦しむ理由は“個”があるから。汝さえ頷けば、彼らも痛みなく、争いなく、終わりなく――我らと同じく安寧へ還る」


 アルフレッドの胸に、かすかな疼きが走る。

 その提案が、“完全な悪”ではないと理解してしまったからだ。

 灰の目的――それは征服ではない。

 苦悩の回避。統合による永遠の平穏。


 しかしそれは同時に、すべての“個の生”の終わりを意味していた。


 灰は最後の言葉を投げかける。


「決断せよ。生を選ぶか、安寧を選ぶか。汝らの文明は、もはや岐路にある」


 灰の海が静まり返り、アルフレッドの返答を待った。


 そして――その返答こそが、

 この戦いの形を根本から変える引き金となる。



 灰の海が作り出した意識の虚無空間――そこでは形も、色も、距離すら存在しない。ただ、白と灰が幾千もの層となって重なり、視界とも感覚ともつかぬ領域を染め上げていた。

 その中心に、声とも呼べぬものが再び満ちた。


『拒絶を理解できない。痛みは不要。悔恨は不要。争いは不要。ゆえに――同化せよ』


 柔らかい、だが避けがたい圧。意識そのものを包み込む温度のない抱擁。

 それは慈愛を模した侵略だった。


 アルフレッドの輪郭が曖昧になる。思考の速度が鈍り、記憶の境界に薄膜が張られていく。かつての痛み、挫折、誇り、敗北。失った仲間――それらが砂のように、指の隙間から零れていく感覚。


 灰の声は続く。


『不要なものを捨てよ。悲劇を消去せよ。生はただ、均質であればよい。苦悩を捨てよ。己を解放せよ』


 ――その瞬間、静かに、しかし決然と、アルフレッドの意識が抵抗の波紋を起こした。


 灰の世界に、わずか一本の線が走る。

 黒の切創。鋼の意志を象徴するような、直線。


「苦悩を他者に奪われて、どうして誇りが残る」


 声ではない。

 だが確かに響いた。


 灰の海が揺れる。静寂が乱れ、ノイズが走る。

 灰色の無数の“目”のような意識がアルフレッドを凝視する。理解できない、という困惑のざわめきが、波のように押し寄せる。


『誤解。抵抗は無意味。ここでは痛みは存在しない。死も存在しない。ゆえに争う理由は――』


「あるとも」


 灰の空間に、黒鋼の魔剣が概念として生成される。

 肉体はないはずなのに、確かに柄が掌に収まる重さと温度があった。

 それはアルフレッドの“意志”が形を得た象徴。


「奪われるべきでないものがある。忘却してはならぬ痛みがある」


 灰の海が拒絶を感知し、形なき怒りが渦を巻く。

 波が牙を持ち、海が手を持ち、灰が刃へと変じて押し寄せる。


『不完全な個体。暴走的な意識。排除に移行』


「望むところだ」


 空間に切断音が生まれた。

 音という概念自体が灰に侵食されているはずの領域で、確かに響く鋭い破断。


 アルフレッドは、精神そのものを武器に変え、灰の海との戦いへ踏み込んだ。



 灰の海は攻撃の手を変えた。

 波の形は崩れ、蠢く灰は凝集し、人の形を模し始める。


 最初に再構成されたのは、鎧の形だった。

 使い込まれた革鎧。血に濡れた肩。

 そして――温度を持たない声。


「隊長、どうして助けてくれなかった?」


 灰に色はなかった。

 しかし、その“問い”は鮮烈な現実味を伴い、アルフレッドの胸を刺す。


 デイル。

 若い副士官。救えなかった部下。

 炎上したはずの村で、彼は命令通り撤退した。しかし――救援は間に合わなかった。


 灰がデイルの笑顔をなぞる。

 かつての優しい、控えめな笑みが、色のない灰で再現される。


「あの日、おれはまだ、生きてた」


 空間が震え、複製体の影が複数生まれる。灰は形を変える。

 三体。五体。七体。

 すべてがデイルの姿をし、声も、癖も、歩き方の角度すら模倣していた。


「来てくれると信じていた」

「きっと助けに来ると思っていた」

「隊長なら、そうしてくれると」


 アルフレッドの意識に、黒い裂け目のような痛みが走る。


 ――この空間では、記憶も、後悔も、弱さも、武器として利用される。


 灰のデイルたちが一斉に剣を抜く。

 それは、かつてアルフレッド自身が教えた剣の構え。

 弱点も、癖も、全部知っている形。


 灰の海の声が背後から滲む。


『個体の痛みは不必要。再構成し、最適解に書き換える』


「黙れ」


 アルフレッドの言葉と同時に、黒鋼の魔剣を象徴とした意識の刃が閃く。

 一体が灰へと霧散する。しかし、灰はまた凝集し、再びデイルの顔で形を取る。


「どうして、置いていった?」

「どうして、背を向けた?」

「どうして――生きて帰った?」


 突き刺すような声。

 だがその奥に、微かな違和感があった。


 それらは問いを“理解していない”。

 ただ、感情の形だけを模倣し、突きつけてくる。

 本質を知らず、意志を持たず、ただ“摂取するための問い”を投げているだけ。


 ――そう認識した瞬間。


 アルフレッドの瞳が冷たく光を帯びた。


「お前はデイルじゃない。あいつの絶望も、希望も、信頼も――何一つ理解していない」


 たった一歩。

 意識空間の“距離”が、斬撃の射程へと変わる。


 黒鋼の刃が走る。

 今度は灰が再生する前に意識ごと断ち切られる。

 灰の複製体は叫びも残さず、ただ情報の失敗として霧散した。


 灰の海がわずかにざわめいた。

 それは怒りか、それとも学習か。


『感情反応、拒絶強度を再測定。別の形態を生成』


 灰が次の像を結び始める。

 さきよりも、もっと深く、もっと刺すもの。

 アルフレッドの心臓の奥を知っているかのような輪郭。


 灰は輪郭を取り、静かに形を固めた。

 それは――失われた過去か、捨てたはずの未来か。



 灰の海が静まり返った。


 嵐の前の海原のように。

 獲物を前にした肉食の獣の呼吸のように。


 灰は渦を巻き、縦へと伸び、まるで彫刻家が躊躇なくノミを振るうような正確さで、“人の形”を削り出していく。


 それは背丈も、肩幅も、立ち方までもが――アルフレッドと同じ。


 しかし、異なる部分が一つだけあった。


 その顔の表情には、“穏やかさ”があった。


 剣に縋らなくても生きられた男。

 失われずに済んだ笑顔を持つ男。

 戦場ではなく、暖炉の前で、誰かと暮らしていたはずの男。


 灰でできたその“もう一人のアルフレッド”は、

 穏やかに、しかし残酷なくらい優しい目でこちらを見つめた。


「――俺は、命令なんて守らなかった」


 灰の“アルフレッド”が言った。


「デイルを置いていかなかった。危険だからと叱り、殴り、それでも連れ帰った。あの日、誰一人欠けることなく生き延びた」


 それは、事実ではない。

 だが、否定した瞬間、胸が鈍く痛む。


「それでよかったんだ」


 灰の“彼”は、表情を緩めた。

 その笑みは、現実のアルフレッドが一度も浮かべたことのない種類のもの。


「俺は戦わない。その必要もない。誰かを守るために、自分を壊すこともしない」


 灰が足元から立ち昇る。

 優しい囁きの形をして。


『あなたにも同じ安寧を提供できる』


「黙れ」


 アルフレッドは低く、絞り出すように言った。


 しかし灰の“彼”は、静かに首を横に振る。


「違う。本当は知ってるんだろ。誰かを救うたび、自分をすり減らしている。戦えてしまうから、戦わせられているだけだ」


 まるで本物のようだ。

 いや、内側から引き出されている。

 灰は、アルフレッドの迷い、後悔、弱さ、それらを撹拌し、もっとも「刺す」形へと再構成している。


「……だったら、頼られなければよかった」


 その一言に、灰が震えた。

“本物の揺らぎ”を検知したかのように。


「剣の才なんてなければよかった」

「選ばれなければよかった」

「英雄なんて、求めなければよかった」


 灰の“アルフレッド”が踏み込む。

 距離は、刀一振り。


 そして、その声は、低く、残酷な優しさを帯びた。


「――俺のほうが、幸せだったよ」


 静寂。


 アルフレッドの瞳から、表情が消えた。


 殺意ではない。怒りでもない。


 ――純化された、断絶の意思だった。


「幸せか、不幸かなんて――誰が決める」


 黒鋼の意識が形となり、その手に顕現する。

 雷光ではない。炎でもない。

 言語化できない圧縮された殺意が、刃の形を取った。


「俺は後悔しても、悔いても、選んで進む。お前はただの影だ」


 灰の“アルフレッド”が微かに目を見開く。

 言い返そうと口が動く――その前に。


 刃が走った。


 灰の複製体は斜めに裂かれ、声も残せず霧散した。

 灰の海が怒りにも似た振動を発し、

 意識空間が軋む音を上げる。


『理解。あなたは“複製不能”。同化、拒絶。次段階へ移行』


 空間が歪んだ。

 灰が波の形ではなく――門の形を取った。


 迎え入れるのか、次を吐き出すのか。

 いずれにせよ、灰の海はさらに深い“意志”を見せ始めていた。



 灰の海を象った意識空間は、静かに破断の兆候を見せ始めた。


 揺れるのではない。

 崩れるのでもない。

“概念の根元が書き換えられる”ような、無音の衝撃だった。


 景色の輪郭が溶け出した。

 灰色の砂粒の一つ一つが、意味を失いながら漂っている。

 もはやそれは灰の海ではなく、思考と認識を侵食する、“単なる無と衰退”そのものだった。


『あなたは同化を拒絶した』

『ゆえに、排除を実行する』


 感情の欠片すらない声。

 まるで計算式が読み上げられているかのような断定。


 視界が反転する。

 重力がなくなり、また現れ、上下左右の概念が解体された。


 ――意識が弾かれる。


 だがその瞬間、灰の海は最後の手段を取った。


『代償を徴収』


「……!」


 拒否する暇さえ与えられなかった。

 胸の奥に、冷たい刃が静かに沈む感覚。

 肉体ではない。精神でもない。

 もっと根源的な領域――識別の核を抉られるような痛み。


 灰の声が、淡々と告げる。


『あなたの“痕跡”の一部を保持』

『解析し、再現し、別の器へ』


 踏み込ませまいと、アルフレッドは抵抗した。

 だが、灰はほんの一欠片――

 指先ほどの“存在の情報”だけを持ち去った。


『また会う』


 空間が黒へと裏返る。


 そして、――意識が戻った。


 鼓膜を打つ轟音。焼けた空気。崩れる石の破片。


 アルフレッドは、現実の荒野に立っていた。

 裂け目はすでに閉じ、灰の海は静かに沈黙している。


 周囲には戦闘の痕跡。

 灰喰らいの残骸。

 回収体が崩れた巨大な骸骨のような影。


 まるで――すべてが夢の中の出来事かと錯覚するほどだ。


 だが。


 右手の甲に、黒い灰が線のように刻まれていた。


 払っても落ちない。

 刻印ではない。

 皮膚の下、肉の奥、魂の縁に焼き付いた“痕跡”。


 その線は微かに脈打ち、まるで何かを識別するように冷たくうごめいた。


 風が吹く。灰が舞う。


 その瞬間、耳鳴りと共に、別の声がわずかに響いた。


『情報取得完了』

『次段階で利用する』


 その声は、灰そのものではなかった。

 声の質が違う。

 より個別的、より人間的、より執着を帯びていた。


 ――灰には、もうひとつ“観測する者”がいる。


 アルフレッドの視界に、黒い仮面の集団の影が遠くに揺らめく。

 あの異形の回収体の出現といい、

 ただの災厄ではない。


 灰は獲物を選んでいる。

 そして、アルフレッドはすでに対象とされた。

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