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第十四話

 光柱が天へと伸びた瞬間、世界は一瞬だけ呼吸を止めたかのような静寂に包まれた。

 その静寂は、決して安らぎを含んだものではなく、嵐が吹き荒れる直前の、張り詰めた空気そのものだった。


 次いで、大気が軋むような音が響き渡る。

 まるで空そのものが、強引に別の視界へと書き換えられていくように、色を変え、形を失い、ひとつの巨大な異形の器官となって脈動し始めた。


 瓦礫と化した塔の上部が崩れ落ち、その破片が宙に浮かぶ。

 地面に這う裂け目からは黒い光の瘴気が噴き出し、土と石がまるで液体のように揺らぎながら溶解していく。


 騎士団の聖術師が、震える声で祈りを捧げた。


「……神の御名において封ぜん……」


 その声は空気に吸い込まれる前に、黒い風に吹き散らされる。

 禁忌に触れた術や祈りが、まるで別次元の存在に踏みにじられるように消えていく。


 指揮官が叫ぶ。


「退くぞ! 戦術的後退だ!」


 しかしその叫びは、指示ではなく懇願に近かった。


 街路に立つ建造物は見る間に形を崩し、壁面と瓦礫が重力を忘れたように浮遊し始める。

 瓦礫と石片が空中に停滞し、破壊と創造が同時に進行する異常な空間が形成されていく。


 アルフレッドはその光景を凝視しながら、ただひとつの事実を悟っていた。


 ――この世界の崩壊は、もはや避け得ぬ段階にある。


 騎士団が混乱の中で撤退しようとするその瞬間、光柱の根元がゆっくりと膨張した。

 それは光ではあるが、影でもある。

 世界の法則を無視し、存在そのものを歪めて広がっていく。


 そして、その中心部から――“何か”が姿を現し始めた。


 形を持つのかすら判然としない。

 黒の中に浮かぶ白い点のように見えるそれは、視界に映った者の精神そのものに、無理矢理“形”として認識させようとする意思を持っていた。


 騎士の一人が恐怖に耐え切れず叫ぶ。


「化け物だ……! あれは人が見てよいものではない!」


 その叫びの通り、存在そのものが禁忌だった。


 世界を侵蝕するその“何か”に触れた者から順に、視界が歪み、影が裂け、思考という思考がねじ切られていく。


 聖術師の一人が呆然と呟く。


「これは……“門”ではない。これは……目覚めそのものだ。この世界を縫い止めていた封印が……」


 アルフレッドは破片の熱を押さえ込みながら、その“目覚め”を見据えた。


「封印が解かれたわけではない。封印自体が限界を迎えた――そういうことだろう」


 彼の声は揺らがない。

 目の前で世界が崩れようと、焦りも恐れも見せない。


 なぜなら、彼は初めから理解していたのだ。


 この街に残された痕跡そのものが、すでに“死の前兆”であることを。


 重力を無視して浮遊する瓦礫の中心に、黒い塊が凝縮され、ゆっくりと形を確立しようと蠢いていく。

その輪郭は人間にも獣にも似ていない。

 しかし、確かな意志のみがそこにあった。


 そして“それ”は、初めて言葉を発した。


『――久しいな、能力者』


 空気が震え、世界がその声音を媒介に震動する。

 それは声ではなく、存在の宣告だった。


 その言葉に応じるように、アルフレッドの胸元で破片が脈動する。


 彼は一歩踏み出し、吐き捨てるように言った。


「ようやく出てきたか。“本体”」


 黒い影は微かに揺らぎ、笑ったように見えた。


『ここより先は、侵入者すら許されぬ深淵。だが――お前だけは例外だ。選ばれし者よ』


 瓦礫が、世界が、空と大地が唸りを上げる。


 その瞬間、街そのものが異界へと変質し始めた。



 瓦礫と化した聖堂の内部に、血と灰の匂いが混じり合って漂っていた。崩れ落ちた柱の間を、ゆらりと影が動く。アルフレッドは抜き放った魔剣を低く構え、周囲へと圧を広げていた。全身から発される魔力が空気そのものを震わせ、石壁すら軋ませる。


 そして、ゆっくりと後方の倒壊した祭壇の陰から現れたのは、二人の黒衣の者たち――先程、異形化した狂信者を観察していた第三勢力の者たちだ。彼らは長衣をまとい、仮面をつけている。衣擦れの音すら殺して歩む様は、まるでこの世の理を無視する幽影のようであった。


「……片付いたか、魔剣士殿」


 先頭の仮面の男が低く語る。声には人間らしい湿度がなく、冬の金属のような乾いた響きだけが残っていた。


「貴様ら、何者だ」


 アルフレッドの声は静かだ。しかしその一言に、敵意と評価と、観察を全て含んでいる。魔力が剣の刃に沿って揺らぎ、淡い蒼光が脈動する。


「我らはここに介入する資格を持たぬ。ただ、拾うべきものを拾いに来たに過ぎん」


 仮面の男が、崩れた黒い石の破片へと手を伸ばした。指先から漏れる異質な光が、破片を吸い寄せるようにして舞い上がらせる。先ほどまで狂信者の肉体を支配していた忌まわしい魔核、その残滓だ。


「貴様ら……セイセス=セイセスの下部組織か?」


 アルフレッドは一歩踏み込む。魔剣の切っ先から剣圧が奔流のように走り、周囲の物体を僅かに浮かせる。魔力と身体能力の融合した攻の予兆。それを見た途端、仮面の男の方がわずかに肩を揺らした。――愉悦か、あるいは畏怖か。


「否。我らは常に観測者だ。戦いも血も、ただ記録するだけの」


「ならば黙って立ち去ってもらおうか。次は拾う腕ごと斬り落とす」


 刹那、空気の重さが変わった。アルフレッドの気配に応じ、聖堂に残る魔力の残影までもが剣士へと吸い寄せられていく。無駄な詠唱も要らぬ。超常の身体能力と魔術が互いを補完し、アルフレッドという一人の戦闘者を完成させていた。


 だが仮面の男は、一歩も退かぬまま静かに破片を回収し終えると、背を向けた。


「いずれ、再び会おう。その時には――もっと大きなものが動き出している」


 そう言い残し、黒衣の二人は闇の奥へと溶けるように消えた。まるでその存在自体が幻影であったかのように、足跡すら残さず。


 聖堂に残されたのは、破壊と魔術と血と灰、そしてただ一人立ち尽くすアルフレッドだけだった。魔剣士の眼はまだ熱を持っていた。戦いは終わっても、この夜が終わったわけではない。


 ――これは序章にすぎない。闇の結社セイセス=セイセスを追う旅路は、今しがた新たな影を帯び始めたのだ。



 崩落した天井から微かな月光が差し込み、散乱する瓦礫の一つひとつが銀色の輪郭を帯びていた。アルフレッドは魔剣を収めることなく、剣先を低く構えたまま周囲を歩き、足元の破壊痕を観察する。


 血の跡はすでに乾き始めていたが、異形へと変じた狂信者の肉片は異様な光沢を保ち続け、まるでまだ生きているかのように脈動していた。人間の肉体にあったはずの法則は、もはや何一つ残っていない。アルフレッドは片膝をつき、観察のため指先でそれをつまんだ。


 途端に──かすかに、熱を感じる。まるで黒い石の魔核が残した残滓が、内側から燃え続けているかのように。


「……この反応。生体素材ではないな。魔術回路そのものを置換している」


 思考の結論を口にしたわけではなかった。誰に聞かせるためでもなく、ただ戦士としての本能がつぶやきとなって漏れたのだ。セイセス=セイセスは、単なる儀式魔術の領域を超えている。既存の魔術体系とは異なる法則、それを利用した“何か”を作り出している。


 そこへ、聖堂の奥からかすかな物音が響いた。


 石がこすれ合うわずかな音。ひどく細い呼吸。生者の気配だ。


 アルフレッドは即座に動いた。魔剣を引き抜き、影の濃い祭壇裏へと踏み込む。足音ひとつ立てず、鋭敏な感覚だけで音の発生源を捉える。気配と魔力の流れが一点に収束している。


 そこで彼が見つけたのは──


 黒ずくめのローブ姿の少女だった。歳は十四、いや十五ほどか。白磁のように冷たい肌、血に染まった指先。それでもその瞳は、不思議な意志を湛えてこちらを見上げている。


 少女は震える声で言った。


「……助けて。わたしは……あいつらの生贄にされるところだった」


 アルフレッドの眼が微かに細まった。


「名前は?」


 短く、しかし抑えた声音で問う。


「……リィナ」


 少女はそう名乗ると、力尽きたように床へと崩れ落ちた。アルフレッドはため息ひとつつかず、無言で彼女を抱き上げる。拒絶でも同情でもない。ただ判断と行動だけがそこにある。


 この聖堂はもはや安全ではない。敵の残滓は残り、黒い石の痕跡も散在している。第三勢力はそれを回収済みだが、ここが監視対象であったことも確実だ。


 アルフレッドは少女を抱えたまま、崩れた外壁へと向かって歩き出す。


 夜風が吹き込み、膨大な魔力の残香を押し流す。冷たさが皮膚に刺さる。だが、その風に混じって、アルフレッドは別の匂いを嗅ぎ取った。


 ──遠くから近づく蹄の音。


 馬だ。複数。武装した者たちのものだ。


 敵か、味方か──判断の猶予はない。


 アルフレッドは片手で少女を抱えたまま、もう片方の手で剣を握り直した。術式はすでに展開済み。身体能力を魔術で再加速し、闇の中に潜むすべてを斬り伏せる準備が整っている。


 この夜の戦いは、まだ終わっていない。



 蹄鉄の衝撃が荒野の地面を叩く振動は、遠雷にも似た低い唸りとなって聖堂の外壁を震わせた。夜の濃闇を切り裂きながら近づいてくるその音は、訓練された騎兵の動きであることを雄弁に語っていた。


 アルフレッドは少女の体重を片腕に預けたまま、崩れた壁の影へと歩を移す。外の気配を探るように眼を細めた瞬間、闇の向こうに灯火が揺れた。揺らめく松明の赤光が甲冑の金属面を照らし、複数の騎影が浮かび上がる。


 彼らは確かに軍属の動きだ──だが、軍旗は掲げていない。


 先頭の男が手綱を引き、馬を止めた。年齢は四十に届くか届かぬか、だが身につけた黒革の鎧には実戦の傷が縦横に走り、その眼には夜目の獣のような警戒と判断の光が宿っている。


「その娘から離れろ。魔術儀式に巻き込まれた者は危険だ」


 剣ではなく、命令としての声音だった。アルフレッドは応じず、無言のまま少女を抱えた腕をわずかに固定する。


「それはこちらの台詞だ。身元も素性も示さずに武装して接近とは、穏やかではないな」


 両者がわずかな沈黙を挟んで向き合う。夜風が、焼け焦げた肉の匂いと血の気配を運んでいく。


 数秒の後、先頭の男はわずかに眉根を片寄せた。


「……アルフレッド。王国魔術騎士団の“黒の剣”か。聞き及んではいたが、実在したか」


「名を知っているなら話は早い。こちらが敵なら、すでに斬っている」


 その言葉に騎兵側の空気がわずかに変わる。油断ではなく、覚悟が形を変えたのだ。


「我々は王国の者ではない。だが敵対の意思もない。この地で発生している“石”の回収任務に従事しているだけだ」


「第三勢力の回収者か」


 アルフレッドの声音は冷たいままだった。


 男は応えなかった。だがその沈黙こそが答えに等しい。


 その時、アルフレッドの腕の中で少女リィナが微かに反応した。意識の端を彷徨うように瞼を震わせ、かすれた声で名を呼ぶ。


「アルフレッド……さん」


 その一言だけで、騎兵たちの視線が鋭く揺れた。


 明らかに、彼らはその少女を知っている。


 アルフレッドは視線だけで問う。


 男は、ため息のように小さく呟いた。


「その娘をこちらに引き渡してもらいたい。彼女は我々の“観測対象”だ」


「断る。この少女はこの儀式の犠牲者で、保護対象だ」


 先頭の男はすぐには言い返さなかった。だがその沈黙の奥に、はっきりとした決意が宿っていくのをアルフレッドは見た。


 剣が抜かれ、馬の蹄が踏み締める砂が弾ける。鎧が鳴り、松明の火が戦気を照らす。


 その瞬間、夜の静寂が音を失った。


 闇が、再び殺気を孕む。


 アルフレッドは少女を片腕で抱えたまま、もう片方の手で魔剣の柄を強く握り締めた。


 刃がわずかに光を帯びる。


 剣と魔術と超常の肉体が、今まさに戦闘へと滑り出そうとしている。


 まだ誰も動いてはいない。だが次に息を吸う瞬間には──


 血が、必ず流れる。



 先頭の男が手綱をわずかに引いた瞬間、部下たちの馬が一斉に散開した。円陣にも似た陣形でアルフレッドを包囲し、松明の炎が高く揺れる。その光が剣の刃、槍の穂先、鋼鉄の兜を照らし、全員の視線が一人と一人へと集中する。


 男は馬上からゆっくりと言った。


「解せぬな、黒の剣。君がその娘の保護を主張する理由だ。彼女は王国には属さない。血筋にも紋章にも記録がない。まるで──この世に突然現れたかのような存在だ」


 まるで探りを入れるような口調だったが、アルフレッドの返答は短かった。


「だからどうした。俺は王国の官僚ではない。目の前で救える命を見捨てる理由などない」


「ただの情ではないはずだ。君ほどの男が、無関係の少女のために剣を振るうか?」


 ほとんど詰問だ。だがアルフレッドは感情を見せない。


「敵は明確だ。セイセス=セイセスの残滓を放置するわけにはいかん」


「ならば彼女を渡せばいい。“石”は既に回収した。我々の任務は完了している」


 アルフレッドは首を横に振る。


「いや。ひとつ残っている」


「何を指している?」


 アルフレッドは少女の胸元にちらりと視線を落とした。そこにあるのは──微かな光。目を凝らさなければ見逃すほどの淡い輝き。それは魔石や核ではない。もっと古い、別種の力。


 それを察したのだろう。男の表情に初めて迷いの色が浮かぶ。


「……見えているのか、あれが」


「少女の体内に埋め込まれた“装置”だ。お前たちも把握しているはずだ」


 完全に図星だった。空気が濃密に重くなる。


 次の刹那、騎兵たちの武器が一斉に構えられた。


「――交渉は終わりだ、アルフレッド。彼女は渡してもらう」


「ならば、力づくで奪ってみろ」


 馬上の男が吠え、騎兵が突進する。砂が爆ぜ、金属の震動が闇を切り裂く。槍の穂先が雨のように迫り、断ち切るべき殺意が渦巻く。


 その瞬間、アルフレッドの足元がふっと沈んだ。


 次の瞬間にはもう消えていた。


 大地を蹴る音すらなく、彼は風のように加速していた。少女を抱えたまま、騎兵たちの攻撃の中央へ、まるで自ら飛び込むかのように踏み込む。


 黒革の鎧の兵が叫び、槍が一直線に突き出される。だが──


 剣閃が一つ、夜の闇を照らした。


 魔剣が描いたのは、死神の軌跡にも似た斬撃だった。魔刃の先端が光を帯び、刃を振り抜いた瞬間、騎兵の槍が鈍い音を立てて両断される。


 馬が嘶き、兵が吹き飛ぶ。


 その動きに無駄はない。ただ斬るべきものを斬り落としただけ。少女を抱えた姿勢のまま、アルフレッドは一度も足を止めない。


「退け。まだ警告だ」


 冷たい一言が吐き捨てられる。


 だが敵もまた、簡単に退くほど弱くはなかった。森の方角から、新たな影が現れる。


 黒い仮面をかぶった者たちだ。騎兵とは別組織の──


 武装した暗殺部隊。


 闇はさらに濃く、敵意はさらに重く。


 聖堂の廃墟を包囲する輪が、二重となる。


 夜は、まだ深くなるばかりだった。



 森から現れたのは、黒い仮面で顔を覆い、喉元まで漆黒の布で巻き上げた者たちだった。鎧の重厚な騎兵とはまるで違う。彼らは音もなく地を踏みしめ、まるで夜そのものが形を得たかのような気配を纏っている。


 暗殺者たちは無駄な号令もなく、同時に動いた。


 空気がひとつ、収縮する。


 影が交錯し、次の瞬間には剣ではなく、長大な“符”が放たれた。黒墨によって描かれた魔導印が空中を滑り、無数の刃へと変じる。金属ではない。魔力そのものを凝縮した殺意の塊だ。


 騎兵すら反応しきれず、一人が背中からその刃を受け、馬上から落下した。声を上げる暇さえない。響くのは鎧の打ちつけられる鈍い衝突音だけだ。


 アルフレッドは少女を守るように抱え込み、残った片手の剣をわずかに振るう。


 刃の軌跡が炎のように広がり、魔導刃を切り裂く。火花のような霧散した魔力が視界を白く染め、空気が焼ける。


「……裏から来るか。厄介だな」


 呟きとともに、アルフレッドの足が地を払った。重心が沈む。次の瞬間にはもう、暗殺者の間を風のようにすり抜けていた。


 敵の刃が四方から交差する。まるで蜘蛛の巣に誘い込まれた獣のように。しかしその中心にいるアルフレッドだけは、囚われることなく動き続ける。


 一人が背後から短剣を振り下ろす。刃先には毒の魔術が凝縮され、触れればたちまち肉体を蝕む。


 アルフレッドは一瞬だけ視線を下げ、少女の体重を微調整しつつ踏み込み、自然な流れのまま逆手に剣を返した。


 黒い刃が空を裂いた。


 ――そして、暗殺者の右腕が宙を舞った。


 悲鳴はない。訓練され尽くした戦士は声を上げる代わりに、即座に反撃を選択する。だが、その思考よりも早く、アルフレッドの剣がその男の喉元に突きつけられていた。


「その娘を狙っているのは、お前たちも同じか」


 暗殺者は応えない。ただ刃を受け止めた腕のない体が震えるだけだ。


 その時だ。


 彼らの背後から、低く響く男の声がした。


「やめろ。――アルフレッドを殺すな。彼は“必要な存在”だ」


 新たに姿を表したのは、黒の外套を纏った男だった。仮面はつけていない。年齢は三十前後、だがその立ち姿から発せられる気配は、戦い慣れた兵のそれではない。


 圧倒的な“術者”の風格。


 騎兵も暗殺者も、その男には指示を仰ぐように視線を向ける。


 男は一歩、前へ出た。


 月光が差し込み、彼の黄金の瞳を照らす。


「初めて会うな、アルフレッド。私は“預言の側”の者だ」


「俺の名を知る者が多い夜だな」


 男はわずかに口端を上げる。


「その少女を渡せ。彼女は我々の計画の鍵だ。君一人を敵に回すつもりはない」


「断ると?」


「断れば――世界は、“本当に”変わり始める」


 その言葉は、冗談にも脅しにも聞こえなかった。空気がぴしりと軋む。森の闇が息を潜め、騎兵も暗殺者も一斉に構えを正す。


 男はゆっくりと手を伸ばした。


「さあ、選べ。ヴァリス。ここで抗うか、手を組むか」


 その問いの意味を、アルフレッドはまだ知らない──

 だが、世界が変質を始めている事だけは理解していた。


 剣が、かすかに鳴る。


 そして夜はようやく、“次の幕”へと入ろうとしていた。



 夜風が廃都の石造りの回廊を吹き抜け、崩れた柱に絡まる蔦を揺らす。黒い雲を裂くように月光が射し込み、そこに佇む少女の横顔を淡い銀色に染め上げていた。


 アルフレッドは言葉を失ったまま、その存在を凝視するしかなかった。

 目の前の少女が、ただの村娘や偶然の生存者ではないことを、戦場の直感が告げていたのだ。


「貴方はずっと勘違いしていたのよ」


 少女は微かな笑みを浮かべる。その声音は年齢にそぐわず、研ぎ澄まされた刃のように冷たかった。


「私は人々が語る“預言”を信じた者じゃない。その逆――預言そのものに選ばれた側の者」


 石畳に刻まれた古い紋様が淡く光を帯びる。少女の足元から静かに流れ出した光が、歴史の闇を照らし出した。


「世界には二つの側面があるの。人が歩む《現実の側》と、その根底に沈む《預言の側》」


 預言の側――アルフレッドはその言葉に眉一つ動かさず、ただ黙して聞いた。


「貴方たちの理解する未来予測や予知の書なんて、本質ではないの。“預言”とは、世界を動かすために組み上げられた回路。人や文明の行いさえ、ひとつの道程として最初から組み込まれている」


 彼女は夜空を見上げる。月光は彼女の周囲だけを歪ませ、世界がそこから別の軌道へ滑り出しているようだった。


「私はその回路を監視する者。“世界が破滅へ向かわぬよう”に導かれるはずの存在」


 そこで初めて、少女は名も知らぬ運命の重さを滲ませた。


「でも、ひとつだけ誤算があった。結社セイセス=セイセスが、預言の側に干渉してきた」


 その名を聞いた瞬間、アルフレッドの視線が鋭く変わる。

 少女は続けた。


「彼らは預言を破壊するために動いている。世界を別の形に書き換えようとしている。だから、私はここへ来た」


 風が吹き抜ける。廃都の空気さえ、少女の言葉を否定しなかった。


「私は“預言の側”が遣わした、ただの観測者じゃない。必要ならば――世界を救うために剣となり、敵となり、運命を殺す」


 その言葉に、アルフレッドの心は微かに揺れた。

 少女の存在がもはや、人という枠組みを超えたものであると気づいたからだ。


 しかし、まだ全ては語られていない。

 少女は、あくまでその一端だけを見せたに過ぎないのだから。



 廃都の静寂を破るように、空気が裂けた。

 足音ではない。声でもない。存在そのものが“こちら側”に侵入してくる気配――。


 闇の底から現れたのは十名ほどの異形の兵士であった。黒い外套に身を包み、顔には無機質な鉄の仮面。眼孔から漏れるのは人の理性ではなく、何か別の意思だ。


 少女がすでに構えていた。


「来るわ。彼ら――セイセス=セイセスの“尖兵”」


 アルフレッドは剣を引き抜いた。

 その動きはもはや準備などという段階ではなく、反射の延長に近い。黒衣の兵士たちが刹那、異様な軌跡で動き出す。


 そして、集団の奥から一歩前へ進み出た男がいた。


 仮面を付けていない。

 黒衣は他と同じ、しかしその存在は異質だった。背筋の伸びた姿勢と、言葉の必要を感じさせない威圧だけで理解できる。


 ――こいつが指導者だ。


 男は静かに名乗った。


「我らは《大災刻のクリフト・カタストロフ》」


 低く冷たい声が廃都の柱を反響させる。


「セイセス=セイセス。その主目的は“世界の再配置”だ。既存の秩序を滅ぼし、預言と現実の構造を上書きする」


 少女が警戒を強める。


「預言の側に干渉する禁忌。あなたたちがそれに手を出した理由を聞かせて」


 男は薄く笑った。


「我らは知ったのだよ。世界を導く預言とは、神々の作り上げた檻に過ぎないことを」


 黒仮面の兵たちが武器を構える。

 その武器には魔術紋が刻まれ、青白い光を帯びている。


「我らは檻を破壊する。世界の根幹を書き換え、全てを作り直す」


 アルフレッドが前に出た。 


「そのために街を滅ぼし、民を殺したのか」


 男が言い放つ。


「必要な犠牲だ。旧き世界は崩れ去らねばならぬ。世界を救うためには、生贄が必要なのだ」


 決して狂っているのではない。

 彼らは確信している。為すべきことを、たとえ数万の命でも切り捨てて。


 少女が呻くように呟く。


「大災刻……預言の側にも名前があった。『世界の終わりを先導する者たち』」


 男は剣を引き抜いた。その切っ先が人間離れした透明な輝きを帯びていく。


「アルフレッド。名は聞いている。選ばれし者、預言に記された“境界の剣”」


 その瞬間、アルフレッドの足元の廃石が震えた。


 敵はもうこちらを把握している。

 そして狙っている。


「貴様を排除することで、預言の回路は壊れる」


 黒仮面の兵たちが動いた。

 少女が呪文を構えた。

 そして――アルフレッドが前へ踏み込んだ。



 廃都の瓦礫を蹴散らし、黒仮面の兵たちは一斉に前進したが、アルフレッドの視線は迷わず指導者――男――に定まっていた。

 黒衣の男は、集団の後ろで冷静に剣を握り、わずかに動いただけで空気が振動するかのような威圧を放った。周囲の瓦礫が無言で崩れ、風が彼の周囲にうねる。


 アルフレッドは剣を構え、僅かに魔力を流し込む。雷光が剣身を伝い、空気を焼くような香ばしい臭いが漂った。超常の身体能力を駆使し、瓦礫を踏みしめながら跳躍し、指導者との距離を一気に詰める。

 男はそれを冷静に受け止め、剣先を一閃。光の刃がアルフレッドの軌道を遮る。だが、アルフレッドの足は地を蹴る力を倍化させ、剣を振るう速度は常人の眼では追えない速さに達していた。


 雷光を纏った一撃が、男の剣と交わり、金属と雷鳴の共鳴が廃都に轟く。瓦礫の山が振動し、空気が裂ける音が耳を貫く。男は仮面越しの視線でアルフレッドの魔力の流れを読み取り、戦いながらも言葉を紡いだ。


「剣士よ、貴様の力は知っている。だが、預言を超えることは許されぬ」


 その言葉が空気に溶け込む間もなく、アルフレッドは魔術を込めた剣技――《雷刃連鎖》を放った。剣先から雷の鞭のような軌跡が飛び、男の周囲を裂き、瓦礫を薙ぎ払う。

 男は一歩後退し、壁となる瓦礫を操り、雷の連鎖を跳ね返す。戦場全体が光と闇の奔流となり、二人の存在だけが廃都の中心で神々の戦いのように際立った。


 アルフレッドは跳躍の角度を変え、背後からの突撃に切り替える。空中で魔力を集中させ、剣身を白銀の光に変え、斬撃の速度を最大化する。男は仮面を薄く傾け、光線を視界で追うが、アルフレッドの超常の身体能力がそれをわずかに凌駕する。

 一閃、剣が空気を裂き、男の防御をかすめる音が廃都に響く。小さな衝撃が瓦礫を震わせ、男の肩に亀裂のような魔力の痕が走った。


 しかし、男は動じない。魔力の奔流を自らの剣と融合させ、斬撃を反射する。鋼と雷と魔力の奔流が交錯し、光の奔流が廃都の瓦礫に奔り、熱と金属音と共鳴音が轟く。

 アルフレッドは瞬時に踏み込み、魔剣を振るう角度を変え、雷光と重力の流れを利用して剣を回転させる。男もそれを迎撃し、二人の剣が火花を散らし、衝撃波が空間を震わせる。


 その戦闘はただの力比べではない。

 互いの動き、魔力の流れ、剣の角度、瓦礫の位置――あらゆる要素が戦況に影響を与え、アルフレッドは瞬間ごとに反応を重ねる。男の攻撃は精密で、彼の読心とも呼べる予測力に満ちているが、アルフレッドの魔剣士としての技と超常身体能力はそれを凌駕し、常に一歩先を行く。


 廃都の中心、瓦礫の塔が崩れ落ちる中、アルフレッドは最後の構えに移る。魔力を全身に巡らせ、剣に雷光を凝縮。男の防御の隙間を狙い、廃都全体を震わせるほどの一撃――《雷光断絶斬》を放つ。その光線が廃都の瓦礫を貫き、空間を裂き、指導者の胸元を正確に貫いた瞬間、男の魔力の奔流が爆ぜ、黒衣が光と影に分解される。


 廃都に静寂が戻る。瓦礫の山から漂う塵の中、アルフレッドは剣を握り直し、冷たい風を胸に感じながら、指導者の正体――《大災刻の徒、世界改変の先導者》の存在が消え去ったことを確認する。



 廃都に残る瓦礫の山の間、黒仮面の残党が必死に息を潜めていた。だが、アルフレッドの瞳は見逃さない。超常の身体能力で跳躍し、瓦礫を蹴って空中を飛び回りながら、雷光を纏わせた剣で無数の残影を切り裂く。斬撃の衝撃が瓦礫を振動させ、残党の影は破片と共に闇に還った。


 彼が踏みしめる地面には魔力の余波が残り、雷鳴の残響が瓦礫に反響して、まるで廃都そのものが戦場として息をしているかのようだった。敵は逃げ場を失い、隠れる先も無い。アルフレッドは一切の容赦をせず、剣の一振り一振りに雷と魔力を融合させ、残党を無力化していった。


 戦いの後、廃都の中心に、先ほどまで瓦礫の間に潜んでいた少女が姿を現した。黒衣の残骸の中に、彼女は静かに立っていた。アルフレッドが雷光を消し、剣を鞘に収めると、少女の目が光を帯び、冷たくも確固たる意志を宿して彼を見据えた。


「……あなたが、私の言う者……アルフレッド」


 その声は低く、廃都に響き渡るようでありながら、奇妙に柔らかさも感じさせた。少女の存在は、戦場の荒廃と相反するように静謐で、しかし圧倒的な存在感を放っていた。


 アルフレッドは剣を背に回し、瓦礫の間に散らばる黒仮面の残滓を睨みながら言った。

「……この者たちの背後にあるのは、貴様か。正体を明かせ」


 少女は視線を上げ、廃都の崩れた天井を見つめながら答えた。

「私の本当の名は――まだ言えない。だが、あなたが追う『セイセス=セイセス』とは別の、古よりの契約に関わる者……“預言の側”に属する存在です」


 彼女の言葉に、アルフレッドの心は僅かに固まった。預言の側――それは単なる噂や伝承ではなく、現実に影響を及ぼす力を持つ古き存在のことを指していた。少女は手を空中に掲げると、瓦礫の残滓に魔力を流し込み、光と影が渦巻く幻影を描き出した。


 そこには、遠く西方の地に広がる荒野、滅びた都市、そして黒い結社と戦う者たちの影が重なって映し出されていた。少女の声は、幻影の中の事象を説明するように続く。

「預言の側は、世界の運命を見守り、必要に応じて介入する存在。時には人の手を借り、時には直接力を行使します。あなた――アルフレッド――は、偶然ではなく、運命によってこの場に導かれたのです」


 アルフレッドは膝をつき、剣の柄を握ったまま静かに頷く。

「……運命か……だが俺に出来ることは、常に一つだ。敵を斬る、そして真実を知る」


 少女はうなずき、瓦礫に手を置くと小さな光の結晶を浮かべた。それはまるで、黒仮面の残滓や瓦礫の一片一片を結ぶ糸のようであり、彼女の説明する“預言の側”の存在と世界の関係を示すものだった。

「この結晶は、預言の側が世界に残した痕跡……そしてあなたが今後戦うべき相手の痕跡でもあります。黒仮面の者たちは、その痕跡を追う者の手先であり、彼らを操っていた黒衣の指導者もまた、あなたにとって試練の一環に過ぎません」


 アルフレッドは剣を背に戻し、少女の手元の光を睨みつけた。

「……つまり、戦いは終わったわけではない。黒仮面の残党は消えたが、まだ更なる波がある、と」


 少女はゆっくりと頷く。

「ええ。そして、その波はさらに大きく、深く、世界の秩序そのものに関わるものです。あなたが選ぶ道は、力と知恵、そして決意の全てを試されるでしょう」


 廃都の瓦礫に残る静寂の中、雷鳴のような静けさと重みが空気を支配していた。アルフレッドは剣を握り直し、魔力の流れを確認し、少女の視線に応える。

「……分かった。俺は進む。預言の側の示す道であろうと、何であろうと、俺は剣で切り開く」


 少女の瞳に、わずかな微笑が浮かんだ。

「……では、行きなさい、アルフレッド。あなたの進む先に、世界の未来があるのです」


 瓦礫の間を抜け、廃都の出口へと歩みを進めるアルフレッドの背には、雷光の剣が静かに輝き、少女の示した預言の側の世界と、これから待ち受ける闇の戦いが、廃都の空に影を落としていた。


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