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第十三話

 月光は雲に覆われ、街外れの礼拝堂は闇に沈んでいた。

 その古びた石造りの建物は、かつては祈りの場だったはずだが、今は扉が打ち壊され、内部からは血と焦げた肉の臭いが流れ出している。


 アルフレッドは、瓦礫を踏み越えてゆっくりと中へ踏み込んだ。

 その背には、細身の長剣がひと振り。

 鞘越しにも感じられる魔力の気配が、冷えた空気に淡く波紋を描いている。


「……やはりセイセス=セイセスの仕業か」


 床には刻まれた歪な紋章、血で描かれた儀式円。

 人体が素材とされた痕跡がいくつも転がり、壁際では狂信者と思しき者が震えながら呟いていた。


「祝福を……主の赦しを……」


 アルフレッドが問いただすより早く、男の身体が痙攣した。

 肉が裂け、骨が盛り上がり、皮膚の下を黒い石の破片が蠢くように動き回る。

 叫び声は次第に獣の咆哮へと変わり、男の形はもはや保たれていなかった。


 儀式の残滓が黒煙となって吹き上がり、異形化した肉体に吸い込まれる。

 四肢は不自然に長く伸び、背中からは棘のような突起がいくつも突き破り、礼拝堂の天井を抉った。


「……デーモン化か。完成していない分、暴走しているな」


 アルフレッドがそう呟いた瞬間、異形は床を砕いて飛びかかってきた。

 鈍重な巨体にもかかわらず、その動きは目を疑うほど速い。


 だが、アルフレッドの姿はすでにそこにはなかった。


 床を蹴った彼の身体は、常人では到底追えない速度で横へ滑り抜け、獣の爪は空を裂くだけに終わる。

 そのまま反転し、腰の剣を抜き放つ動作は流れるように滑らかだった。


 刃が月光を受ける。

 同時に、彼の足元から淡い魔法陣が瞬時に展開し、剣身に紫の火花が走った。


「――魔剣技《雷閃》」


 振り抜かれた一太刀は、ただの斬撃ではなかった。

 魔力が稲妻のように迸り、異形の胸部を貫き、その奥に潜む黒い核を露わにする。

 黒曜石めいたそれが脈動し、不快な震動音を発した。


 デーモンは苦悶しながらも腕を振り下ろし、礼拝堂の柱を粉砕した。

 瓦礫が降り注ぐが、アルフレッドは躊躇なく踏み込む。


 足の筋肉が膨張し、魔力によって身体能力が強化される。

 その動きは人のものではない。

 重力を無視したかのように跳躍し、空中で体勢を整えながら剣を構えた。


「終わりだ」


 魔力が刃へ凝縮され、光が収束する。

 彼は核へ向けて一直線に落下し――


 剣が深く突き刺さった瞬間、礼拝堂全体が震えるような爆ぜる音が響いた。


 黒い核が砕け散り、異形の身体は崩れ落ちる。

 肉体は形を保てず泥のように溶け、残ったのは拳大ほどの黒い石の破片がいくつかだけだった。


 アルフレッドは息を整え、剣を振って血と黒い汚泥を払う。


「やれやれ……儀式の残りかすとはいえ、厄介な代物だ」


 そのとき――


 背後の闇がほんの僅かに揺らいだ。


 アルフレッドが振り返るより早く、黒い影が滑り出るように破片へ手を伸ばした。



 アルフレッドが気配に反応し剣を構えたときには、破片のひとつがすでに影の中へと消えかけていた。


 黒い外套をまとった人物が、瓦礫の陰から滑り出てくる。

 その動きは音も気配もなく、まるで空気に溶けていたものが形を得たかのようだった。


 月光が仮面の縁をかすめ、銀色に鈍く光る。

 顔全体を覆うその仮面は、表情を一切読み取らせない無機質なもの。

 ただし胸元に刻まれた紋章だけが、微かに脈動していた。


 ――双蛇が輪を成し、その中心に黒い宝珠。


 セイセス=セイセス。


 アルフレッドの目が細められる。


「やはり、貴様らの仕業か」


 仮面の人物は答えなかった。

 ただ、掌に浮かぶ黒い破片が淡く光ると、破片同士が引き寄せられるように震え始めた。


 周囲の魔力がざわめき、嫌な圧迫感が空気を満たす。


 アルフレッドは一歩踏み込み、剣に魔力を流し込む。

 刃が低く唸り、紫炎が揺らめく。


「逃がす気はない」


 しかし仮面の人物は、まるでその言葉すら意味を成さないとでも言いたげに首を傾けた。


「我々は回収に来ただけだ。ここでの作業は終わった」


 声は異様に平坦で、感情の起伏が一切ない。

 人間というより、儀式で命を吹き込まれた器が喋っているような印象すら与えた。


 アルフレッドはさらに距離を詰めようとしたが、その瞬間、視界が揺らぐ。


 ――重い。


 急激な魔力圧が礼拝堂全体に押し寄せ、身体が鉛のように沈む。

 筋力強化すらかき消されるほどの圧倒的な干渉。


「……重力魔術、か」


 仮面の人物は破片を指先で軽く弾いた。

 音もなく空間が裂け、黒い水面が地面に広がる。


 まるで底の見えない深淵へと穴が開いたようだった。


 破片が吸い込まれていく。


 アルフレッドは歯を食いしばり、足を踏み出そうと力を込めるが、身体が反応しない。

 筋肉は動こうとするのに、見えない鎖が全身を縛りつけているようだった。


 仮面の人物は、淡々と告げた。


「主は興味を抱いている。魔剣士アルフレッド――お前の“適性”にな」


 名を呼ばれた瞬間、アルフレッドの瞳が鋭く光る。


「なぜ俺の名前を知っている」


 仮面の傭兵は答えない。

 代わりに、小さく指を鳴らした。


 結界が破裂するような音とともに押し付けられていた重圧が霧散し、アルフレッドの身体が解放される。

 同時に仮面の人物の姿は、黒い水面へと沈み込み、完全に消えた。


 残ったのは、砕け散った石片のわずかな痕跡と、冷たい沈黙のみ。


 アルフレッドは深く息を吸い込むと、剣を収めた。


「追跡できないか……厄介だな」


 彼は破片があった場所に膝をつき、指先で床に残る魔力の痕跡をなぞる。

 そこにあるのは完全な断絶。

 魔力の波形が途中で切り落とされており、追跡の手がかりは一切残されていない。


 意図的に、徹底的に消されていた。


「……本格的に動き出しているのか」


 礼拝堂の崩れた屋根から冷たい夜風が吹き込み、燭台に残った火が揺らめく。

 その光が血と瓦礫を照らし出し、戦いの痕跡をより生々しく浮かび上がらせた。


 アルフレッドは立ち上がり、外へ向かって歩き出す。

 足取りは迷いなく、しかしその瞳には警戒と怒りが宿っていた。


「追うしかない。奴らが何を企んでいようと、黒い石を使う限り……」


 そこで言葉が途切れた。


 遠く、街の中心部から悲鳴が響いたのだ。


 一つではない。

 複数の叫びが重なり、波のように押し寄せてくる。


 アルフレッドは振り返り、夜空を見上げた。


 赤黒い光が雲を照らし、火柱が上がっているのが見える。


「……別の場所でも儀式か」


 彼の表情に迷いはなかった。


 剣を抜き放ち、魔力が身体を駆け巡る。


 次の戦場へ向かって、アルフレッドは駆け出した。



 石畳を蹴り、アルフレッドは夜の街路を駆け抜けた。

 冷たい風が外套を翻し、足元の影が伸び縮みする。常人では視認すら難しい速度だが、彼の呼吸は乱れない。むしろ戦場へ近づくにつれ、瞳の奥に宿る光は鋭さを増していた。


 街中心部に近づくほど、悲鳴は明確になり、焦げた臭いと鉄錆の匂いが混じり合う。路地を抜けた瞬間、視界が赤黒い炎に染まった。


 広場が地獄と化していた。


 崩れた家屋、倒れ伏す住民。

 その中心には、複数の人影が絡み合うように融合した異形が蠢いていた。

 巨大な肉塊から手足が無秩序に生え、口のような裂け目がいくつも開閉して呻き声をあげる。

 黒い石の破片が血肉に埋め込まれ、脈動する度に新たな肉が膨れ上がっていった。


「……複数融合型か。儀式の規模が上がっている」


 アルフレッドは瞬時に構造を見切り、核の位置を探る。

 中心部奥深く、鼓動のように光る黒い結晶体がひとつ。


 そこを破壊すれば終わる。


 異形が咆哮し、触手のような腕が石畳を砕きながら振り下ろされる。

 周囲の兵士が逃げ惑う中、アルフレッドだけが一歩も引かなかった。


 彼は地面を軽く踏み込む。


 瞬間、足元に複雑な魔法陣が迸り、紫と青の光が身体を包む。

 筋繊維が一気に活性化し、視界の世界が緩やかになるほど認識速度が加速する。


「魔導強化《超加速》」


 触手が迫る。

 だがアルフレッドの身体は、風よりも速く動いた。


 彼は触手の隙間を滑るように抜け、壁面を一度蹴って跳躍。

 空中で軽やかに回転しながら剣に魔力を集中させていく。


 刃が燐光を帯び、稲妻のような紋様が走る。


「魔剣技《雷迅・穿》」


 放たれた一閃は流星の軌跡となり、異形の表面を容易く貫いた。

 だが次の瞬間、肉塊が波打つように変形し、傷口を塞ごうとする。


「自己修復か。だが――遅い」


 アルフレッドはすでに着地しておらず、肉塊内部へと踏み込んでいた。

 常人なら窒息と圧壊で即死する空間でも、彼の身体は揺るがない。

 圧迫する肉を裂きながら突き進み、核の直前まで一気に距離を詰める。


 黒い結晶体が脈動し、内部から呻き声のような共鳴音が響いた。


「終わりだ」


 魔力が刃に収束し、鋭い光が一点に集約する。


「魔剣奥義《雷破・断核》」


 閃光が走り、爆ぜる音とともに核が粉砕された。

 異形全体が痙攣し、崩れ落ちる。

 膨れ上がっていた肉体は急速に萎み、泥のように崩れ散った。


 アルフレッドは破片の飛散を避けながら軽やかに外へ抜け出し、着地する。

 呼吸は乱れず、表情も変わらない。


 周囲の兵士たちが呆然と彼を見つめていた。

 誰もが理解していた――今の戦闘は、彼にとって本気ですらない。


「まだ終わっていない」


 アルフレッドは崩れた肉塊の中心へと歩み寄り、残留する魔力を探る。

 そのとき――


 視界の端を、黒い影がよぎった。


 屋根の上。

 仮面の者とは異なる、黒衣の複数の影が佇んでいた。

 全員が同じ外套と仮面を身につけ、胸元には同じ双蛇の紋章。


 しかし先ほどと決定的に違う点があった。


 彼らの手には、黒い石の破片を収めた容器がいくつも抱えられている。


「……回収班か」


 アルフレッドが剣を構えた瞬間、影のひとりが声を発した。


「観測完了。対象《魔剣士アルフレッド》、規格外の戦闘能力を確認」


 別の影が続ける。


「適合度指数――“最適”」


 その言葉にアルフレッドの眉がわずかに動く。


「評価は済んだ。撤退せよ」


 影たちは一斉に背後の闇へ跳び去り、屋根から屋根へと音もなく移動しながら姿を消していく。

 その速度と統率は、ただの狂信者ではあり得なかった。


 アルフレッドは追うために踏み込もうとしたが――


 地面が低く震えた。


 広場中央に残された瓦礫の下から、低い唸り声が響き、赤黒い光が漏れ始める。


「……まだ仕込みがあるか」


 崩壊した異形の残骸の内部で、別の核が脈動していた。

 今度の光は先ほどとは異質で、より濁り、より強い悪意を帯びている。


 そしてその核には――


 黒い石が三つ融合している。


 アルフレッドの口元に、わずかに戦意を帯びた笑みが浮かんだ。


「面白くなってきたな」


 彼は迷わず踏み込む。



 瓦礫が爆ぜるように吹き飛び、赤黒い光とともに巨大な影が立ち上がった。

 先ほどの肉塊とは比較にならない質量。

 三つの核を中心に、無理やり縫い合わされた肉と骨が塔のように積み重なり、複数の胴体と頭部らしきものが絡み合っている。

 それぞれが異なる方向へ鳴き声をあげ、声が混じり合って不協和音となり広場を震わせた。


 黒い石が脈動するたび、肉体はさらに膨張し、異形の表面には禍々しい紋様が広がっていく。

 その紋様は、人の手によるものではなかった。

 まるで呪詛と契約の刻印が、石の内部から滲み出しているかのようだった。


 アルフレッドは一歩前へ踏み出し、剣を下段に構える。

 視線は淡々としており、恐れも焦りもない。


「三核融合体を即興で作るとは……随分と無茶をする」


 異形は咆哮し、巨大な腕を振り下ろした。

 石畳が砕け、地面が波打つほどの質量と速度。

 周囲の兵士たちは衝撃に吹き飛ばされ、悲鳴が上がる。


 しかし、その中心にいるアルフレッドだけは微動だにせず、まるで落ちてくる影を見上げるだけだった。


 次の瞬間――


 彼の姿が掻き消えた。


 空気が弾け、衝撃波が広場を駆け抜ける。

 誰も反応できない速度で、アルフレッドは異形の腕へと跳び上がり、駆け抜けるように上へと走った。

 筋肉の強化と魔力の補助が完璧に連動し、垂直な肉壁など存在しないかのように足場へ変わっていく。


 上段に到達する頃には、彼の剣はすでに紫電を纏っていた。


「魔剣技《雷迅連断》」


 幾重にも重なる斬撃が奔流となり、異形の表層を切り裂く。

 肉が爆ぜ、黒い血が噴き出し、内部の筋束が露出する。

 だが――すぐに再生が始まった。


「再生速度が上がっているな。核同士が互いを補完している」


 アルフレッドは跳躍し、異形の背から距離をとって着地した。

 破壊の手応えはある。だが、このままでは決定打にならない。


 三つの核を同時に破壊する必要があった。


 異形が地面に叩きつけるように身体を振り下ろし、衝撃波が広場全体を覆う。

 建物の壁が崩れ、瓦礫が降り注ぐ。


 アルフレッドは軽く外套を翻し、その隙間を滑るように回避した。


「派手なだけだな」


 その余裕ある声に、周囲の兵士たちは逆に寒気を覚えた。

 目の前の怪物は街ひとつを壊滅させかねない存在だ。

 だが彼はまるで散歩の障害物程度にしか見ていない。


 異形が再び咆哮をあげたとき、アルフレッドの眉が僅かに動く。


 ――気配。


 屋根の上、複数の仮面の影が静かにこちらを観察していた。

 先ほど撤退した回収班の一部だ。

 彼らは戦闘に介入する気配もなく、ただ核の反応とアルフレッドの動きを測定するように佇んでいる。


「なるほど……これは“試験”か」


 敵の目的は破壊ではなく評価。

 三核融合体という異常な存在すら、彼の能力を測るための材料に過ぎないのだ。


 アルフレッドの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「ならば――期待以上を見せてやる」


 彼は剣を構え直し、魔力を深く沈めて集中させる。

 地面に複雑な魔法陣が展開し、広場全体に雷紋が走った。

 空気が震え、髪が逆立つほどの高密度の魔力が凝縮していく。


 仮面の影たちが一斉にざわめいた。


「魔力濃度異常上昇」

「制御限界を超える可能性――」

「いや、違う。安定している……?」


 アルフレッドの身体から放たれる光は荒々しいものではなく、刃のように鋭く整っていた。

 力任せではなく、完全な制御のもとで生み出される高位魔術。


「魔剣奥義――」


 異形が突進してくる。

 巨体が迫り、地面が裂ける。


 アルフレッドは微動だにせず、静かに息を吐いた。


「《雷天裂刃》」


 次の瞬間、世界が光に包まれた。


 雷光が天へと走り、直後に巨大な斬撃が落雷のように叩き込まれる。

 異形の胴体が一瞬で両断され、三つの核が露わになった。


 アルフレッドは続けざまに地面を蹴った。


「《雷迅》」


 三閃。


 音すら追いつかない速度で三つの核が同時に斬り砕かれ、黒い光が霧散する。

 異形は断末魔をあげる間もなく崩れ落ち、肉体は泥へと還った。


 広場に静寂が満ちる。


 アルフレッドは剣を払って血を落とし、鞘へと収めた。


 その呼吸は――まだまったく乱れていなかった。


 屋根の上の影たちがざわつく。


「……規格外」

「想定を超越」

「対象の評価を更新――」


 そして一人が低く呟いた。


「“主”へ報告せよ。計画は次段階へ移行する」


 影たちは闇へと溶け、姿を消した。


 アルフレッドはその気配が完全に消えるまで目を細めていたが、やがて静かに歩き出した。


「次段階、か。面白い」


 夜風が血と焦げた臭いを運び、遠くで鐘の音が鳴る。


 その音は、救いではなく――さらなる闇の幕開けを告げていた。



 崩れ落ちた肉塊が完全に泥へと溶けきった頃、ようやく周囲の兵士や市民が息を吹き返したように動き出した。

 悲鳴、安堵、嗚咽、ざわめき――混乱が広場を満たす。


 しかしその中心に立つアルフレッドだけは、まるで嵐の後の静かな湖面のように落ち着き払っていた。


 血に濡れた石畳を踏みしめ、彼は瓦礫の中へと視線を巡らせる。


「……核の破片は残っていないか」


 黒い石の破片を第三勢力が回収したことは分かっている。

 だが、もし微細な欠片でも残っていれば、新たな異形化の種となり得る。


 彼が歩み寄り、泥の残骸を指先で払う。


 その瞬間――


 ぬるり、と黒い泥が蠢いた。


 反射的に剣が抜かれるより早く、アルフレッドの足が小さく動き、泥の下へ潜む微かな脈動を踏み潰した。


「……まだ動くか」


 泥の中から、爪ほどの小さな黒い欠片が姿を現した。

 かすかに光を帯び、脈動している。


 アルフレッドは指先に雷を集め、何の躊躇もなくそれを焼き砕いた。

 破片は高音を発し、霧散する。


 その様子を遠巻きに見ていた兵士たちは蒼白になる。


「あれほどの怪物の源が……あれだけの大きさで……」


「触れただけで感染するという噂は本当だったのか……?」


 恐怖が波紋のように広がっていく。


 アルフレッドは興味を示すこともなく、ただ淡々と残骸を確認し続けた。


 ――その時。


「お待ちください、魔剣士殿!」


 甲高い声が響いた。

 振り返ると、豪奢な軍衣をまとった壮年の男が数名の護衛を従えて近づいてくる。


 市警団長、モルゲン・ラウル。


 この街の実質的な軍事責任者であり、政治的権力も持つ人物だ。


 彼は息を荒げながらも、威厳を保とうと胸を張った。


「そなたがアルフレッドとやらか! よくぞこの街を救ってくれた!」


 周囲の兵士が安堵の声をあげる。

 だがアルフレッドはわずかに視線を向けただけで返事をしない。


 モルゲンの笑みがひきつる。


「ま、まあ良い。礼は後ほど正式に――」


 アルフレッドは言葉を遮るように低く問いかけた。


「この街で、黒い石の取引がいつから行われていた?」


 モルゲンの表情が凍りつく。


「な、なにを……」


 アルフレッドの声には怒りも脅しもない。

 ただ事実を確認するだけの冷徹さがあった。


「儀式に使われた痕跡は複数ある。潜伏は短くないはずだ」


 モルゲンは咳払いをし、曖昧に笑った。


「そ、それは……我々も調査中で……」


 アルフレッドはその反応で十分理解した。


 ――この街の権力側は、何らかの形で関与している。


 取引を黙認していたのか。

 あるいは利益を得ていたのか。

 もしくは、恐怖に屈して目を逸らしていたのか。


 結果は同じだ。


 この街はすでに深く侵食されている。


 アルフレッドが口を開こうとしたその時――


 空気が凍りついた。


 広場全体に、説明できない寒気が走る。

 兵士たちが一斉に身を震わせ、誰かが声を失ったようにしゃがみ込む。


 アルフレッドだけが、ゆっくりと空を見上げた。


 高く、暗い夜空。

 その雲の切れ間――


 何かがこちらを“見て”いた。


 形はない。

 目もない。

 だが確かに視線だけが存在する。


 ぞっとするような“観察”の感覚。


 先ほどの仮面たちとは異質。

 もっと深く、もっと古い。


 まるで、異形の核が砕かれた瞬間に目を覚ましたかのように。


 アルフレッドは小さく呟く。


「……呼ばれたな」


 次の瞬間、その気配は霧散した。


 兵士たちは混乱し、何が起きたのか理解できないまま震えている。


 しかしアルフレッドだけは確信していた。


 いま感じた存在――


 セイセス=セイセスの“主”ではない。

 もっと根源的なものだ。


 黒い石の起源に関わる何か。


 そして、それは彼の力を明確に認識した。


 興味を持ったのだ。


 アルフレッドは外套を翻し、歩き出す。


 モルゲンが慌てて呼び止める。


「ま、待て! どこへ行くつもりだ!」


「痕跡を追う。まだ終わっていない」


 短く答え、広場を後にする。


 夜の街路は静まり返っていた。

 しかし、その闇は先ほどよりも濃い。


 まるで――何かが近づいているのを隠すための幕のように。


 アルフレッドの足音だけが、闇の中に響いた。



 アルフレッドは広場を離れ、血と煙の匂いが混じる夜気を吸い込みながら、石畳の路地をゆっくりと進んでいた。

 その歩みには焦りも迷いもなく、むしろ一歩ごとに周囲の気配を丹念に拾い上げ、見えない糸をたぐり寄せるような慎重さがあった。

 彼にとって街そのものがひとつの巨大な死骸のように思えた――表面は灯火で温かく見えても、内部にはすでに腐敗が広がり、黒い石の影響が毛細血管のように広がっている。


 石造りの建物が連なる細い通りを抜けると、夜風が急に冷たくなった。

 建物が途切れ、広い運河へと視界が開ける。

 静まり返った水面には、燃え上がる街の光が歪んだ波紋となって揺れ、まるで巨大な黒い瞳がこちらを覗き込んでいるかのように見えた。


 アルフレッドは運河沿いに並ぶ倉庫群へと目を向ける。

 その一角だけ、灯りが落ち、陰が不自然に濃い。

 魔力の残滓が薄く漂っており、さきほど広場に現れた仮面の人物たちが使用した転移術式の痕跡が、かすかな震えとして空間に残っていた。


「隠すつもりはないのか……それとも、隠せないほど急いでいたか」


 彼が倉庫の扉に手をかけた瞬間、かすかな靴音が背後で鳴った。

 乾いた石畳を軽く叩く柔らかな足音――だが、その歩調には明らかな意図が含まれている。

 逃げる者の気配ではなく、こちらへ向かってくる者のそれだ。


 アルフレッドは振り返りもせず、低く問いかける。


「そこにいるのは誰だ。つけてきた理由を聞こう」


 静寂が降りる。

 風が運河を渡り、旗の破れた布を揺らす音だけが響く。


 やがて気配の主が闇から姿を現した。


 フードを目深に被った青年――いや、少年と言っても差し支えない年齢に見えるが、その瞳だけは年齢に釣り合わぬ冷たさと知性を宿していた。

 手には古びた革装丁の書物が抱えられている。


「……やはり、あなたが動いた」


 声は低く、震えてはいない。

 恐怖ではなく、確信と観察がそこにはあった。


 アルフレッドはその瞳を見て、ただ者ではないと直感する。


「お前は何者だ」


 少年は一歩近づき、運河の闇を背景に静かに答えた。


「この街で黒い石の流通を追っていた者です。名はイグナーツ。職分としては……“記録者”と呼ばれています」


 記録者。

 その言葉には聞き覚えがあった。

 古い文献にわずかに記される、影の情報収集者の一派。

 表向きには存在せず、権力にも属さず、ただ世界の裏側で“起こったことすべて”を記し続ける者たち。


 アルフレッドの目が細くなる。


「記録者が表へ出てくるとは珍しいな。お前たちは常に傍観者のはずだ」


 イグナーツは小さく首を振った。


「今回ばかりは例外です。黒い石――あれはただの禁呪の触媒や悪魔の器ではありません。もっと深い由来があり、放置すればこの街どころか、世界そのものの構造に影響を及ぼす」


 その声音は淡々としていたが、言葉の奥には本物の危機感があった。


「そして……あなたが関わった以上、状況は加速します」


 アルフレッドは皮肉な笑みを浮かべる。


「俺がいるからこそ被害を止められたとも言えるだろう」


 イグナーツは目を細めた。


「それは事実です。しかし同時に――あなたは“門”を開いた」


 その言葉に、空気が張りつめる。


 アルフレッドはゆっくりと倉庫の扉から手を離し、少年へ向き直った。


「説明しろ」


 イグナーツは書物を開き、古い図版を見せる。

 そこには、輪を成す双蛇と黒い宝珠――セイセス=セイセスの紋章に酷似した意匠が描かれているが、その下にある円環の裂け目から、形容しがたい影の触手が世界へ侵食していく様が描かれていた。


「黒い石は“封印の破片”です。本来は門を封じるために存在していたもの。それを逆に利用し、門を開こうとしている者たちがいる」


 アルフレッドは短く息を吐く。


「門の向こうにいるのは何だ」


 イグナーツは即答しなかった。

 沈黙が数秒続き、ようやく口を開く。


「名前はありません。ただ、古い文献ではこう呼ばれています――“始源の観察者”と」


 アルフレッドは眉一つ動かさず、その単語を噛み砕く。


 先ほど広場で感じた視線。

 形を持たず、ただこちらを見つめていた存在。


 あれか。


 その確信が胸に落ちる。


 イグナーツが続ける。


「第三勢力は石を集め、門の開放を進めています。しかし――」


 少年は運河の向こう、闇に沈む倉庫の群れへと視線を向けた。


「彼ら以外にも石を狙う者がいます。もっと古い、もっと危険な一派が」


 その瞬間、倉庫の屋根の上で金属が擦れる微かな音がした。

 イグナーツが息を呑み、アルフレッドの視線が鋭く跳ね上がる。


 闇が揺れ、複数の影が音もなく広がった。


 仮面――だが先ほどとは意匠が違う。

 双蛇ではなく、裂けた円環を模した紋章。


 イグナーツが低く呟く。


「……裂環教団。最悪の方が先に動いた」


 アルフレッドは剣を抜き、魔力が刃を包む。

 その眼差しには恐れではなく、むしろ獲物を前にした獣のような静かな闘志が宿っていた。


「来るなら丁度いい。まとめて斬り捨てる」


 闇が跳躍し、倉庫群の屋根から刃が雨のように降り注ぐ。


 次の瞬間、運河沿いの夜が轟音と閃光に裂けた。



 刃が降り注いだ瞬間、夜気そのものが斬撃と化したかのように鋭く震えた。

 倉庫の屋根から放たれた影の刺客たちの武器は、ただの金属ではない。

 刃の縁から立ちのぼる黒い瘴気が空気を腐蝕させ、触れた木材や石すら暗く変色させながら削り取っていく。


 普通の兵士であれば、反応すらできず細切れにされて終わっていたはずだ。


 だが、アルフレッドは違った。


 降り注ぐ斬撃が彼の頭上に迫ったその刹那、彼の身体がふっと視界から消える。

 地を蹴った音すらなく、ただ風だけが遅れて衣を揺らす。


 次に視認できたとき、彼はすでに刺客の真横、屋根の縁近くに立っていた。


 そして、鋭く吐き捨てる。


「遅い」


 紫電が走り、魔力が剣に収束する。

 刃先がひときわ強く脈動し、まるで生き物のように唸った。


“魔装剣技・断雷”


 振り抜かれた瞬間、雷鳴が倉庫街全体を震わせた。

 斬撃の軌跡は光の帯となり、空間ごと裂くかのように直線的な閃光を描く。


 刺客の仮面が割れ、胸元から腰までを一刀で断たれた身体が重力に従って崩れ落ちる。

 黒い血が噴き上がり、倉庫の屋根を黒く染めるが、その血すら腐蝕性を帯びていた。

 落下した場所の石畳がじゅうじゅうと音を立てながら溶けていく。


 だが、アルフレッドは視線を死体に向けない。


 屋根の影が不自然に揺れ、裂環教団の刺客たちが再び姿を変えながら迫ってくる。

 彼らの身体は関節が逆に曲がり、四肢が異様に伸び、まるで人間という形から剥離していく途中の化け物のようだった。

 仮面の下では骨が軋み、筋が裂け、別の何かが皮膚の下に潜んで蠢いている。


 イグナーツが息を呑む。


「……自己改造型か。黒い石を直接取り込み、身体を書き換えている……」


 その声には恐怖だけでなく、研究者としての冷たい興味が滲んでいたが、アルフレッドは一顧だにしない。


 刺客のひとりが蛇のように身体を折り曲げ、地を這う速度で距離を詰めてくる。

 腕が鞭のように伸び、その指先からは爪ではなく、黒い結晶の針が数十本伸び出し、雨のように射出された。


 それは魔術防御を貫く特性を持つ危険なものだ。


 しかしアルフレッドの表情は揺れない。


 彼は身体をわずかに傾けただけで針の群れをかわし、その回避の流れを崩すことなく踏み込むと、刺客の懐へ滑り込んだ。


 動きが滑らかすぎて、刺客が反応するより早く距離が詰まっていた。


 そして、低く、短く呟く。


「魔導加速・壱式」


 刹那、彼の全身に走った魔力が筋肉と骨格を強制的に制御し、爆発的な瞬発力を生み出した。

 足元の石畳が砕け、破片が弾丸のように四散する。


 一閃。

 

 刺客の首が、胴体から静かに離れた。

 血飛沫は上がらない。

 あまりにも鋭く切断されたため、切断面が一瞬、血を噴き出すことすら忘れたかのように沈黙したのだ。


 だが次の瞬間、断面から黒い煙が噴き出し、切り離された頭部が不気味に笑ったように歪む。


 イグナーツが叫ぶ。


「まだ動きます! 黒い石が核として――」


 言い終わる前に、アルフレッドは足元の死体を踏み砕いた。


 骨が砕け、煙が悲鳴のように噴き上がる。

 その中心に、爪ほどの黒い欠片が脈動していた。


 アルフレッドは指先に魔力を集中し、雷を凝縮する。

 ただの雷撃ではない。

 魔力の振動数を高め、核を分子レベルで破砕するために調整された精密な魔術。


「……動くな」


 黒い欠片が逃げるように震えるが、遅い。


 指先から放たれた紫の閃光が核を包み込み、内部から爆ぜさせた。

 破片は霧となって消え、残滓すら残らない。


 アルフレッドはその場から動かず、残る刺客たちへと視線を向ける。


 その眼光は冷たく、獲物を狩る捕食者のもの。


 屋根の上に残る影たちが一瞬たじろぎ、動きが鈍った。


 イグナーツが小さく震えながら呟く。


「……これが、魔剣士アルフレッド……これほどの近接戦闘能力に、魔術制御まで……」


 だが刺客たちは退かない。

 裂環教団は狂信者だ。

 恐怖より使命が上回る。


 影が一斉に動いた――


 今度は三方向から同時に。

 地を這い、空を走り、壁を蹴って跳躍し、立体的に包囲しての殺到。


 その動きは速く、異形化によって常識では測れない軌道で迫ってくる。


 誰もが直撃は避けられないと感じた瞬間――


 アルフレッドの姿がぶれた。


 その輪郭が揺らぎ、まるで空間ごと切り取られたかのように位置が変わる。


 風が遅れて流れ込み、倉庫街に嵐のような衝撃が走った。


 そして、彼は刺客たちの中心に立っていた。


 魔力が剣に収束し、刃が深い紫の光を宿す。


 その足元から、石畳が蜘蛛の巣状に割れていく。


 アルフレッドが静かに息を吸い――


 放つ。


「魔装剣技・紫電連鎖」


 閃光が走り、雷鳴が夜空を引き裂いた。

 剣から放たれた雷が鎖のように刺客同士をつなぎ、一瞬で全員を貫く。


 悲鳴ではなく、骨の軋む音と魔力の断末魔が重なり、闇夜に響き渡る。


 稲光が収束したとき、屋根の上にいた影たちの身体は炭のように黒く焼け、崩れ落ちた。


 だが――


 その黒い残骸の中心で、複数の核が同時に脈動した。


 イグナーツの顔色が変わる。


「まずい、融合する気だ……!」


 焼け落ちた肉と骨が泥のように溶け合い、黒い欠片同士が互いに引き寄せられながら一つの塊へと収束していく。


 建物が軋み、空気が震えた。


 アルフレッドは剣を構える。


 その眼には、わずかな興味と殺意が交じっていた。


「ならば――まとめて砕く」


 巨大な異形が形を成しつつある闇の中へ、彼は迷わず踏み込んだ。



 黒煙が吹き荒れる瓦礫の海の中央で、異形と化した狂信者の巨体が、焼け焦げた肉を滴らせながらゆっくりと立ち上がった。裂けた胸腔の奥でむき出しになった黒い核が、まるで心臓の代わりに脈動し、低く湿った脈動音を空気に滲ませている。鼓膜を震わせるようなその震動は、音というよりも呪詛の波動のようで、場に残るすべての命に「屈せよ」と命じているかのようだった。


 アルフレッドは、その脈動に対して微塵も怯むことなく、逆にそれを獲物の弱点として冷静に観察していた。その視線は刃物よりも鋭く、戦場の只中にありながら一片の動揺もなく、むしろ状況を楽しむかのような余裕すら漂わせていた。彼の体から漂う魔力は穏やかに揺らめいているようでありながら、実際には剣を振り上げるよりも早く敵を斬り伏せられるだけの凄まじい密度を備えており、ただそこに存在しているだけで空気が震える錯覚すら伴っていた。


 異形は咆哮を上げた。肉が裂け、骨が鳴り、四肢が不自然な方向に伸張し、背中から生えた棘のような骨片が次々と飛び出して地面に突き刺さる。その変異は苦痛ではなく、むしろ歓喜のようであり、狂信者としての最後の祈りが肉体を歪め、戦うためだけの獣へと作り変えていく過程を、まざまざと見せつけていた。


 だが――その異様な光景を目にしてなお、アルフレッドはただ静かに息を吐いた。


「醜悪だが……核が露出している。ならば話は早い」


 その声音には、揺るぎない自信と、長年の戦いで培われた経験に裏打ちされた冷徹な判断が滲んでいた。


 異形が地を割らんばかりの勢いで跳躍し、爪の塊と化した腕を振り下ろした瞬間、アルフレッドの姿は既にそこにはなかった。彼は風を裂く速度で踏み込み、地を蹴った衝撃が遅れて瓦礫を爆ぜさせる。


 魔力が剣身に奔流のように流れ込み、刃が淡い蒼光を帯びる。その光は単なる魔術の付与ではなく、彼自身の肉体能力と魔術が完全な調和を成したときにのみ発現する、彼の真価とも言うべき魔法剣技の証だった。


 踏み込み、捻り、振り抜く――

 それらの動作はひとつの連続した流れとなり、まるで舞のような優雅さと、必殺の精度を兼ね備えていた。


「穿ち砕け――〈蒼刃断層〉」


 低く呟かれた言葉と同時に、剣から放たれた蒼い刃が空間そのものを裂くように走り、異形の胸を正確に貫いた。核を守っていた肉塊が蒸発するように消し飛び、露出した黒核が甲高い悲鳴めいた共鳴音を発しながらひび割れていく。


 異形は抵抗するかのように腕を振り回し、血に濡れた爪が空を引き裂いたが、アルフレッドはその全てを予見しているかのように滑らかに回避し、逆に切り返しの一閃で核の亀裂をさらに深めた。


 破裂音が響き、黒核は光と闇が混ざり合った粘性のある衝撃波を撒き散らしながら爆ぜた。崩れ落ちる肉体から黒い煙が噴き出し、断末魔のような念波が空を震わせたが、その全てはアルフレッドの刃によって断ち切られ、ただの肉塊へと変わっていった。


 戦いは終わった――はずだった。


 しかしアルフレッドが剣を収めるより早く、瓦礫の影から複数の黒いフードの影が滑り出た。彼らは迷いなく核の破片を回収し、何事もなかったかのように背を向ける。その動きは訓練され、恐怖も興奮もなく、目的のためだけに行動している冷たい合理性を感じさせた。


「第三勢力か……セイセス=セイセスの手先ではないな」


 アルフレッドが追撃のため踏み出そうとした瞬間、影のひとりが振り返り、意味深な言葉を残した。


「核は“開門の鍵”となる。次は間に合わぬぞ、魔剣士」


 その声音には嘲りではなく、まるで宣告のような冷たい確信が宿っていた。


 影たちは煙のように姿を消し、戦場には再び静寂が訪れた。


 アルフレッドは瓦礫の中央に立ち尽くし、残された黒い焦げ跡と異形の残骸を見下ろしながら、低く呟く。


「鍵、か……ならば扉の先にいるのは誰だ」


 その問いに答える者は誰もいなかったが、彼の戦いが終わっていないことだけは、余りにも明白だった。



 崩れ落ちた建物の影から吹き込む冷たい風が、血と灰と焼け焦げた油の臭いをかき混ぜながら戦場を撫でていく。遠くで瓦礫が崩れ落ちる音がこだまし、ひび割れた石畳の隙間から黒煙がゆっくりと立ち昇っていた。まるで街そのものが、先ほどまでそこに渦巻いていた異形の存在を吐き出しきれずにうめいているかのようだった。


 アルフレッドは剣についた血糊を払うでもなく、そのまま肩に担ぎ直し、瓦礫の残骸の中心へと歩を進めた。彼にとって戦いの終息は、敵を倒した瞬間ではない。何が起こり、何が残り、何が次へと繋がっていくのか――その全てを把握するまでが戦場であり、剣を収める理由にはならなかった。


「核の破片を回収するとは……目的は封印の解放か、それとも別の儀式か」


 低く呟いた声は、静まり返った廃墟に重く沈み込んだ。


 ふと、瓦礫の奥からかすかな音がした。

 石が転がる乾いた音。

 そしてそれに続いて、小さく、しかし確かな呼吸の気配。


 アルフレッドの視線が鋭くそちらへ向く。


 瓦礫を押し退けるようにして現れたのは、一人の少女だった。服は破れ、血と灰にまみれ、肩は震えている。しかしその瞳だけは、恐怖に染まり切らず、不自然なほど澄んでいた。まるでこの惨劇を理解した上で受け入れているかのような、妙な落ち着きが宿っていた。


 少女はふらつきながら立ち上がると、アルフレッドを見つめ、掠れた声で言った。


「あなた……間に合ったんだね」


 その声音は弱々しいはずなのに、不思議と耳に残る響きを持っていた。

 誰かが意図的に選んだ言葉を、彼女の口を借りて語っているような、そんな違和感。


 アルフレッドは警戒を解かないまま距離を詰め、問いかける。


「生存者か。どうやってこの状況を生き延びた?」


 少女は一瞬だけ視線を伏せ、瓦礫の下に埋もれた黒い焦げ跡を見やった。その表情には、悲しみとも、諦念ともつかない陰が差す。


「私を守ってくれたの。あの人が……」


 聞き慣れない言い回しだった。

 家族でも、仲間でもなく、“あの人”と呼ぶ距離感。

 そして――その直後に少女が口にした言葉が、戦場の空気を再び重く揺らした。


「“石に触れた”人は、皆、ああなる。けど……あの人だけは、まだ形を失ってない。だから、持っていかれたんだと思う」


 アルフレッドの眉が僅かに動く。


「持っていかれた、だと?」


 少女はゆっくりと頷き、その瞳がまるで別の意思を宿したかのように深みを増した。


「石は“門の欠片”。扉が光を飲み込むみたいに、あの人を引きずっていったの。黒いフードの人たちが言ってた……『彼は鍵の器として適性がある』って」


 その説明は断片的ながら、ただの生存者にしては明らかに情報が多すぎた。

 アルフレッドは少女から漂う“何か”を察し、静かに姿勢を改める。


「お前は何者だ」


 問いは短く、鋭かった。


 少女は少しだけ微笑んだ。

 その笑みには幼さとは無縁の、諦めと覚悟が滲んでいる。


「私は――残された“印”」


 その瞬間、少女の足元に淡い黒紫の紋章が浮かび上がった。まるで皮膚の下から押し出されるように地面へ滲み出し、円環と棘を組み合わせた禍々しい術式が形を成していく。


 アルフレッドは即座に魔力を集中させ、剣へと流し込む。

 空気が再び緊張に満ち、灰色の風が巻き起こる。


 しかし少女は攻撃の気配を見せることなく、ただ静かに言葉を続けた。


「聞かされているはずだよ。セイセス=セイセスは“形”を求めているって。私はその一部。開門のための、人柱」


 その言葉は、単なる説明ではなく、宣告のように響いた。


 そして次の瞬間――


 地面の紋章が深く沈み込み、少女の身体が闇に引きずり込まれていく。

 アルフレッドが踏み込んだときには、既に少女の姿は半ば飲み込まれていた。


「待て!」


 剣が闇を裂こうと振り下ろされたが、紋章の中心から伸びた黒い鎖が刃を弾き、火花と魔力の衝撃を散らす。


 少女は最後に、小さな声で言った。


「“門が開く前に”……見つけて」


 闇が閉じ、少女の姿は消えた。


 残されたのは、焦げた石畳と、薄く漂う黒紫の残滓。そして――


 アルフレッドの足元に、掌ほどの黒い破片が転がっていた。


 しかし、その破片は他の残骸とは明らかに異なり、脈動していた。

 まるで心臓のように、規則正しく、静かに。


 アルフレッドはそれを見下ろし、低く呟く。


「門……鍵……器……。セイセス=セイセスだけの話ではないということか」


 風が鳴り、街の残骸が軋む。


 戦いは終わらず、むしろ――これが始まりにすぎないという現実だけが、確かなものとして残った。



 アルフレッドは、脈動する黒い破片を拾い上げた。

 指先に触れた瞬間、その表面は石とは思えないほど滑らかで、冷たいはずなのに微かに体温のような熱を帯びている。それは単なる魔術的反応ではなく、生物的な鼓動に近い律動を宿しており、まるで内部に別の存在が眠り、目覚めの時を待っているかのようだった。


 破片から微かに漏れ出す黒紫の光が彼の皮膚に触れると、鋭い針を突き立てられたような刺激が走った。しかしそれは痛みとして消えることなく、神経を逆撫でするような奇妙な余韻を残した。まるで何者かが意識の奥へ侵入し、記憶の底を探ろうとしている感覚。


 アルフレッドは眉一つ動かさず、意志の力でその侵蝕を押し返す。


「……思考干渉か。小賢しい真似を」


 低く呟きながら魔力を練り上げ、破片に触れている部分へ流し込む。

 淡い蒼光が彼の手を包み込み、黒い鼓動を抑え込むように浄化の波が広がる。


 通常であれば、この程度の瘴気に満ちた魔石は触れた瞬間に使用者の精神を蝕み、衝動を植え付け、人を異形へと変質させる。しかしアルフレッドは微塵も影響を受けない。彼が持つ魔力の質と、異常なまでの肉体・精神の強度が、それらを容易に上回っていた。


 だが――その余裕の背後で、彼はひとつの事実を理解していた。


 この破片は核の残滓ではなく、意図的に残された“媒介”だということを。


「回収した連中が、わざと取りこぼすとは考えにくい。となれば……誘導か」


 彼が破片を懐に収めようとしたその時、遠くから規律正しい足音が複数、瓦礫の間を反響しながら近づいてくるのが聞こえた。金属と革の擦れる音、鎖帷子の揺れる重い響き。それらは無秩序な略奪者のものではなく、訓練された部隊が進軍する際の整然とした足取りだった。


 灰煙の向こうから、白銀の装甲に深紅の外套をまとった騎士たちが姿を現した。胸甲には荘厳な紋章――太陽を象った意匠と、その中心に刻まれた瞳の刻印。


 オルド・ルーメン。

 この地方を実質的に統治する宗教騎士団であり、「光の裁き」を掲げ魔術の監視と規制を担う権力組織。


 騎士団の先頭に立つ男は、兜を外し鋭い灰色の瞳を晒すと、アルフレッドを見据えたまま声を発した。


「この惨状は、あなたの仕業か、魔剣士?」


 問いというよりも審問に近い声音には、疑念だけでなく警戒と――わずかな敵意が滲んでいた。


 アルフレッドは視線を返したが、表情には一切の動揺を見せなかった。


「異形を討っただけだ。遅れてきた者が尋ねるには無粋な質問だな」


 その言葉に、背後の騎士たちが一斉に手を武器へ伸ばしかけたが、指揮官と思しき男が片手を上げて制した。彼はゆっくりと瓦礫の中心へ歩み寄り、散らばった黒い残骸を見下ろすと、低く息を吐いた。


「これは……“禁忌の石”か。報告よりも状況は深刻だな」


 その言葉にアルフレッドの視線が鋭さを増す。


「禁忌、だと? お前たちはこの石について何を知っている」


 騎士はすぐには答えなかった。

 代わりに、地面に転がる黒い斑点を指でなぞりながら、重く口を開く。


「この石は古き契約の遺物。“門を開いた者”の残骸とも、“外側の力”の欠片とも言われている。だが共通しているのはひとつ――人が触れてはならぬということだ」


 その説明は慎重でありながら、核心を避けているようでもあった。


 アルフレッドは静かに告げる。


「ならば問おう。門とは何だ」


 騎士の表情が微かに歪んだ。

 それは驚きにも恐怖にも見える、抑え込まれた反応だった。


「その問いには答えられない。答えてはならないと定められている」


 宗教的禁忌。それとも政治的秘匿。

 どちらにせよ、騎士団がこの問題に深く関わっていることは明白だった。


 アルフレッドがさらに踏み込もうとしたその瞬間――


 騎士の視線が彼の胸元へと向けられ、瞳孔がわずかに開いた。


「魔剣士。その懐にあるものは……何だ?」


 破片が、まるで呼応するように脈動を強めた。

 布越しであるにもかかわらず、黒紫の微光が滲み出し、周囲の空気に重い圧を撒き散らす。


 騎士団の隊列がざわめき、武器を構える者も現れる。


 アルフレッドはゆっくりと視線だけを動かし、騎士団全体を見渡した。


 そして、淡々と告げる。


「これは私が預かる。誰にも渡すつもりはない」


 騎士団指揮官の表情が険しくなり、その手が剣の柄へとかかった。


 戦場の空気が、再び張り詰める。


 だがその緊張が爆発するより早く、瓦礫の上空に黒い影が走った。

 影は一瞬だけ形を成し――仮面と黒い外套をまとった人影が、屋根の上に静かに着地した。


 第三勢力。

 破片を回収していた影のひとり。


 彼は冷たい声で告げる。


「争うだけ無駄だ。門はすでに開き始めている」


 その言葉とともに、遠く――地平線の向こうから、不吉な振動が大地を震わせた。


 まるで巨大な何かが、眠りから身じろぎしたかのように。



 屋根の上から響いた声が沈黙を切り裂いた瞬間、戦場の空気そのものが凍り付いたかのように動きを止めた。

 灰煙の揺らめきすら鈍り、焦げた瓦礫を撫でていた風が息を潜める。まるで世界が、次に訪れる一手を息を詰めて待っているようだった。


 騎士団の兵たちは一斉に上空へ視線を向け、その多くが即座に武器を構えたが、第三勢力の仮面の男は微動だにせず、屋根の縁に立ったまま冷ややかな眼差しをアルフレッドへと向けていた。


「鍵の破片を抱えてなお、騎士と争う余裕があるとは……さすがだな、魔剣士」


 その声音には、嘲りでも賞賛でもなく、評価という冷酷な尺度だけが含まれていた。対象を戦力として測る者の声。個人ではなく駒として扱う者の視線。


 アルフレッドは破片の鼓動を押さえ込みながら、淡々と返す。


「余裕は常に残しておくものだ。戦場ではな」


 騎士団の指揮官が低く唸り、アルフレッドと仮面の男へと鋭い視線を走らせた。


「破片は危険だ。宗教法に基づき押収する。魔剣士、抵抗するならば――」


 言葉の続きを口にする前に、仮面の男が短く笑った。


「押収? 滑稽だな。お前たち光の騎士がその石に触れた瞬間、どうなるか理解していないのか」


 騎士たちの表情が緊張に強張る。


 指揮官は怒りを抑えた声音で問い返した。


「そのような脅しに屈すると思うか」


 仮面の男はゆっくりと首を振った。


「脅しではない。事実だ」


 その言葉と同時に――


 アルフレッドの懐に収められた破片が、強く鼓動した。


 それは先ほどの脈動とは異なる。

 意思を持つ器官が、呼び声に応じたかのような反応。


 黒紫の光が布越しに滲み、周囲の空気が重く沈む。

 地面の石畳に黒い亀裂が走り、灰と血液が震えるように跳ねた。


 次の瞬間、遠くの大地から響いていた振動が、突如として明確な“拍動”へと変わった。


 ドン……ドン……


 それは大地そのものが心臓を持ったかのような律動であり、周囲の建物が軋み、倒壊寸前の壁が崩れ落ちて土煙が舞い上がる。


 騎士たちが動揺し視線を巡らせる中、仮面の男の声だけが静かに響いた。


「門が目覚めた。破片が呼応している。止められる者など、今や存在しない」


 アルフレッドは破片の鼓動を押さえつけながら、低く問いを投げる。


「お前たちの目的は門の解放か。あるいは……その先にあるものか」


 仮面の男はゆっくりと顔を上げ、灰煙の空を見据えた。


「解放では足りない。我らは“形”を迎え入れる。世界が本来の姿を取り戻すために」


 その言葉は教義としてではなく、確信として語られていた。


 騎士団の指揮官が叫ぶ。


「異端だ! その思想自体が禁忌に触れる!」


 仮面の男は視線を向けずに答えた。


「禁忌とは、真実を守るために弱者が設けた壁だ」


 指揮官が剣を抜き放ち叫ぶ。


「全隊、構え――!」


 鋼が擦れる音が一斉に響き渡り、弓兵が矢を番え、魔術師が詠唱を開始する。


 しかし――アルフレッドは動かなかった。


 彼はただ静かに破片を押さえながら、周囲の変化を観察していた。


 その余裕に、仮面の男がふと笑みを漏らす。


「理解しているようだな、魔剣士。今、戦うことに意味はない」


 アルフレッドは短く言葉を返す。


「戦う価値のある敵と、そうでない者の区別くらいはつけている」


 仮面の男は満足げに頷いた。


「ならば良い。これは“予告”だ。門が開ききる時、再び会うだろう」


 その瞬間、彼の足元に黒い円環が広がり、闇が揺らめく。


 騎士団が一斉に攻撃を放とうとした刹那――


 地平線の彼方で、巨大な轟音が響いた。


 空気が震え、視界が揺らぎ、遠くの地平が黒い霧に包まれる。


 仮面の男が静かに告げた。


「始まった」


 闇が閉じ、彼の姿は消え去った。


 残された騎士団とアルフレッドの間に、再び緊張が走る。


 指揮官は剣を構えたまま言い放つ。


「魔剣士。破片を渡せ。これは国家と宗教の命だ」


 アルフレッドはゆっくりと視線を向けた。


 その瞳には怒りも恐怖もなく、ただ冷えた決意だけが宿っている。


「断る」


 その一言は鋼より重く、雷鳴より鋭く響いた。


 風が唸り、灰が舞う。


 遠くで大地の鼓動が高まり続ける中――


 この地で、二つの勢力が初めて真正面から衝突する瞬間が訪れようとしていた。



 指揮官の号令が響き渡った瞬間、騎士団の兵たちは一斉に間合いを詰めた。

 鎧の継ぎ目が軋む金属音と、盾を打ち鳴らす重低音が連続して響き、廃墟と化した街路に戦列が形成される。灰燼と血の匂いに満ちた空気が、剣の冷光と兵の呼気に押されて激しく渦を巻き、まるでその場の大気そのものが刃を剥いているかのようだった。


 最前列の盾兵が半歩踏み込み、厚い鋼の壁を築くと、背後から槍兵が槍先を突き出す。

 さらに後方では、銀糸の刺繍を施した法衣をまとった聖術師たちが複雑な印を刻みながら詠唱を紡ぎ始め、その声は祈りというより呪縛に近い響きを帯びていた。


「この場で拘束する! 抵抗は異端認定と見做す!」


 指揮官の叫びは、怒りではなく恐怖を覆い隠すための仮面に過ぎなかった。

 彼自身、目の前の魔剣士がどれほどの存在であるか理解しているにもかかわらず、宗教と国家の命令という逃れ得ぬ枷に縛られている。

 命令に従う以外の選択肢を持たない者の声だった。


 対するアルフレッドは、戦列が迫る中でなお微動だにせず、風に焦げた外套の端を揺らすだけだった。

 彼の足元には瓦礫が散乱し、血の跡が濃くこびりついていたが、その中心に立つ彼はまるで別の世界から切り出された存在のように静かで、揺るぎなかった。


「面倒だな」


 その呟きは、戦場の中心にあってなお日常の延長にあるかのような、底知れない余裕を孕んでいた。


 次の瞬間――騎士団の前線が一斉に踏み込み、盾が迫り、槍先が突き出される。

 鋼鉄の壁と鋭い穂先が殺意を伴って押し寄せ、視界の大半が鈍色の金属で埋め尽くされた。


 だが、アルフレッドが取った行動は、驚くほど簡潔だった。


 彼はわずかに足を踏み込んだだけで、地面が低く唸りを上げた。

 その踏み込みは単なる筋力に依存したものではなく、魔術と超常の身体能力が複雑に絡み合い、瞬間的に世界へ負荷を与える動作だった。

 石畳が砕け、粉塵が爆ぜ、白い閃光が彼の脚から迸る。


 次の瞬間、彼の姿は視界から消えた。


 盾兵たちの目に映ったのは、空振りした突撃と、前方に広がる空虚な空間だけ。

 理解が追いつくよりも早く、彼らの背後で衝撃音が炸裂する。


 アルフレッドは戦列の中心から一瞬で抜け、指揮官の眼前に立っていた。


 指揮官の瞳が驚愕に開かれ、言葉にならない息だけが漏れる。


 アルフレッドは淡々と告げた。


「殺す気はないが、止めるつもりもない」


 その宣言は慈悲ではなく、圧倒的な実力に裏打ちされた通過儀礼のような響きを持っていた。


 彼の手がわずかに動き、魔力と肉体が融合した打撃が放たれる。

 指揮官の盾が弾け飛び、重厚な鎧ごと衝撃が叩き込まれ、彼の身体は十数歩後方へ吹き飛ばされた。

 兵たちが悲鳴を上げ、隊列が崩れる。


 しかし――その勝利の余韻を飲み込むよりも早く、世界そのものが呻いた。


 地面の奥深くから、先ほどまでの脈動とは比較にならない巨大な振動が響き渡り、廃墟の街区全体が船のように揺れた。

 建物の壁が崩れ落ち、塔が傾き、地面の裂け目から黒い瘴気が立ち昇る。


 大地の鼓動が、明確な“開放”へと変わる。


 ゴゥン……ゴゥン……


 その低い音は鼓膜ではなく骨を直接震わせ、身体の奥底にまで響き渡った。

 破片がアルフレッドの胸元で脈動し、布越しにもはっきりとした熱を帯びる。


 騎士たちが戦意を忘れ、恐怖に支配された叫びを上げる。


「な、何だ……大地が……!」


「門が……開くのか……?」


 アルフレッドは周囲を見渡し、低く呟いた。


「間に合わなかったか」


 その瞬間――


 地平線の先、黒い霧の中心部から、巨大な光柱が天へと伸びた。

 光でありながら影の性質を持つ異質な輝きが空を裂き、雲を吸い込み、世界の色彩を変質させていく。


 騎士団がその光景に呑まれ、動きを停止した中で、アルフレッドの瞳だけは揺らがなかった。

 むしろ、その奥に微かな興味と、戦士としての昂揚が宿る。


「ようやく姿を見せるか」


 大地の裂け目から吹き上がる黒い風が、瓦礫と血と祈りの残滓を巻き上げる中――


 世界の深層に眠っていた“何か”が、確実に目を覚まし始めていた。

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