表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/12

第十話

 咆哮の祭壇は瓦礫と血の泥と化し、森には静寂だけが残っていた。

 アルフレッドはしばし崩壊した戦場を見渡し、剣を腰に戻す。

「……ザルグ=グロア。お前の言葉、血の連鎖……まだ続いているのか」

 その瞳には疲労の色と共に、燃え続ける決意が宿っていた。


 密林を抜ける道は過酷だった。折れた木々、血の雨に晒された土地は死の沈黙に支配されていた。

 道中、村を通れば人々の顔には恐怖の影が残り、彼を英雄と呼ぶ声すらなく、ただ怯えたように見送るばかりだった。

(……誰もが声を潜めている。この沈黙の裏に、『声』の影があるのだろう)


 幹部ザルグの遺した断片の書には、こう記されていた。

「次なる座は『声』にあり」

 その言葉を反芻しながら、アルフレッドは北東へと馬を進めた。

『声』――それは耳に届くものではなく、人の心に侵入し、支配するものだろう。

 もしそうであれば、大陸を乱す戦乱の中で、容易に人々を操ることができるはずだ。


 旅路の夜、焚火のそばで休んでいると、不意に耳に声が届いた。

「……剣士よ……血の鎖は断てぬ……」

 振り向いても誰もいない。焚火の炎だけが揺れている。

 だがその声は確かに、森の奥から、あるいは彼自身の心の奥底から響いていた。


 アルフレッドは焚火に視線を落とし、低く呟いた。

「……ならば、その『声』すら斬る。俺の剣でな」

 剣士は立ち上がり、闇に包まれた東方へ歩みを進めた。

 次なる幹部『声』の影を追って――。



 アルフレッドが最初に辿り着いた小さな村は、一見すると平穏そのものだった。

 市場には果物や穀物が並び、子どもたちの笑い声も聞こえる。

 だが、よく耳を澄ませば、その笑い声に奇妙な響きが混じっていた。

「……セイ……セス……」

 子どもたちが遊びの最中に、意味を持たぬ言葉を口にしていたのだ。


 さらに大きな街に入ると、その異常はより顕著だった。

 広場では商人たちが取引を続けていたが、やがて全員が一斉に動きを止め、低く呟き始める。

「声を……声を捧げよ……声は真理……声は救済……」

 瞳は焦点を失い、操り人形のように揃って同じ言葉を繰り返す。

 しばらくすると、何事もなかったかのように再び取引を再開する。

 誰もその異常を自覚していないようだった。


 街道で出会った旅人は、震えながらこう語った。

「……昨夜だ。酒場で歌っていた吟遊詩人が、突然知らぬ言葉を口ずさみ始めたんだ。客たちも一人、また一人と同じ調子で繰り返し……気づけば酒場全体が『声』で満ちていた。朝になれば、みんな元通り……まるで夢でも見ていたかのように」


 アルフレッドは霊視術を用いた。

 すると、人々の口から漏れる『声』は赤黒い靄となって空に漂い、どこか遠くへ収束していくのが見えた。

(……ただの言葉ではない。意識そのものが、どこかへ供物として送られている……)


 剣を強く握り締めた。

「次の幹部『声』……間違いない。この異変の中心に奴がいる」



 日が沈むと、街は妙な静寂に包まれた。

 酒場も市場も人の気配はあるのに、話し声は妙に抑制されている。

 その代わりに聞こえるのは、かすかな囁き――人々が無意識のうちに呟く『声』の残響だった。

 アルフレッドは外套のフードを深く被り、裏通りへと身を滑らせる。


 霊視術を使うと、通りの先に赤黒い靄が集中している一角があった。

 かつては倉庫だったらしい廃屋。

 扉は閉ざされているが、中からは低く囁くような音が漏れている。

「……声に従え……声に従え……」

 覗き込むと、数人の住民が虚ろな目で膝をつき、見えないものに向かって祈っていた。


 祈りを捧げる住民たちの前には、黒い石の小片が置かれていた。

 ザルグ=グロアの祭壇で見たものに酷似しているが、こちらは音を帯びている。

 耳を近づけると、石そのものが囁いていた。

「声は血を超え、心を繋ぐ……」

 住民たちはその囁きを反復しているだけだった。


 アルフレッドがさらに霊視の集中を高めると、廃屋の影に別の存在が浮かび上がった。

 人の姿をしているが、輪郭は揺らぎ、口元だけがやたらと大きく歪んでいる。

 その存在は住民たちに直接『声』を注ぎ込んでいるようだった。

(……やはり幹部の手が伸びている。だが、これはまだ使徒か……)


 アルフレッドは剣に触れた手を一度握り締め、すぐに離した。

 今はまだ時ではない。

 幹部『声』の本体を突き止めるため、この街の裏で広がる儀式と囁きの正体をさらに探る必要があった。

(……だが確かに、この街は奴の息吹に支配されつつある。長くは猶予がないな)



 廃屋に潜む歪んだ影――その口元だけが異様に大きく裂けた存在が、突如としてアルフレッドに視線を向けた。

「……見ていたな、剣士……」

 低い囁きが直接脳へ響き、全身の血が逆流するような寒気に襲われる。


 瞬間、住民たちが一斉に振り向いた。虚ろな眼のまま、口を開き、同じ声で呟く。

「声を……捧げよ……声を……捧げよ……」


 声の使徒が腕を広げると、囁きが波紋のように広がった。

 その音は耳ではなく、意識そのものに入り込み、心を縫い止めようとする。

 アルフレッドの視界が歪み、思考に偽りの声が混じり始めた。

「お前は孤独だ……この剣に意味はない……屍のように声へ還れ……」


 剣を握る手が震える。まるで己の意志が、声に吸い込まれていくかのようだった。


「……俺の心を、誰に縛らせるものか!」

 アルフレッドは雷の魔力を剣に集中させ、意識を強引に引き戻した。

「雷閃――破声!」

 閃光の斬撃が走り、廃屋の闇を切り裂いた。


 声の使徒は直撃を避けたが、輪郭が大きく揺らぎ、裂けた口から黒い靄を吐き出した。

「……ほう……意志を保つか……だが、その声は必ず、お前を飲み込む……」


 住民たちは再び膝をつき、無心に祈りを続けている。

 アルフレッドの眼前には、声の使徒が影のように揺らめきながら立ちはだかっていた。

 その囁きはなおも戦場を満たし、精神を侵食する力を失っていない。


(……これはただの眷属ではない。幹部『声』の意志を直接繋ぐ器だ……!)

 剣を構え直すアルフレッドの瞳に、決意の炎が宿った。



 声の使徒は口を大きく裂き、息を吐き出すように囁きを放った。

「……声ヲ聞ケ……声ヲ捧ゲヨ……」

 その音は音波ではなく意識の波動。

 瞬く間に廃屋全体が囁きに満たされ、壁や床までもが言葉を反響し始めた。


 アルフレッドの耳に、幾重にも重なった声が流れ込む。

「お前は孤独だ」

「剣を捨てろ」

「お前の歩みは無意味だ」

「仲間はもういない」

 誰の声でもない、だが確かに知った顔の声に似せた幻聴だった。


 視界が歪む。

 焚火の炎が、過去に失った仲間の瞳のように見える。

 廃屋の壁は修道院跡に変わり、導師ゼムの亡霊が「剣を置け」と囁く。

 剣を握る手が痺れ、現実と虚構の境界が削り取られていった。


(……これは幻術じゃない、意識の根そのものを侵す攻撃……!)


 アルフレッドは歯を食いしばり、剣を床へ突き立てた。

 雷光が走り、己の肉体へ痛みを走らせる。

「……痛みは……現実だ。これだけは幻じゃない……!」


 雷が血管を逆流し、心臓を打つ鼓動と同調する。

 声に飲まれそうになるたび、雷鳴が己の存在を引き戻す。


 声の使徒はひたすらに囁きを重ね、虚像を増やし続けた。

 父の声、友の声、かつて斬った敵の断末魔までが混じり合い、現実を覆い隠す。

 だがアルフレッドの剣はなお輝きを失わず、虚構の靄を裂く一閃を準備していた。


「……俺は声に従わない。俺の剣は、俺自身の意志だ!」



 廃屋は囁きに満たされ、現実と虚構の境界は完全に溶け崩れていた。

 アルフレッドの耳には、仲間の声、亡き者の声、敵の断末魔が渦を巻き、思考を削り取る。

 だが彼は剣を握り締め、雷を纏わせることで己の存在を確かめ続けた。

「……俺は俺だ。この刃は、俺の声だ!」


 雷が剣先に凝縮し、視界全体を焼き尽くす白光となる。

「――雷閃絶刀ッ!」

 轟音と共に振り下ろされたその斬撃は、幻聴の靄を一気に切り裂いた。

 廃屋を満たしていた囁きは裂け、虚ろな人影が煙のように散る。


 声の使徒の輪郭が悲鳴のように震え、裂けた口から黒い靄を吐き出した。


「……馬鹿ナ……声ヲ斬ル、トハ……!」

 声の使徒は歪んだ姿を保てず、壁に叩きつけられたように後退する。

 虚ろな住民たちの祈りも止まり、全員が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 アルフレッドはなお剣を構え、雷を散らす。

「お前たちの声に従う気はない。俺の意志を、俺の剣で通す!」


 使徒は苦悶しながらも、裂けた口をさらに広げ、不気味な笑いを漏らした。

「……良イ……剣士ヨ……『声』ノ本体ハ……既ニ……大地ヲ支配シテイル……」

 そう言い残すと、その体は霧のように掻き消えた。


 廃屋には崩れた住民たちと、黒い石片だけが残されていた。

 だがその石は微かに震え、なおも囁きを漏らし続けていた――。



 アルフレッドは床に転がる黒い石片を拾い上げた。

 掌に載せた途端、石は脈動するように震え、微かな声が漏れ出す。

「……声ヲ……聞ケ……塔ニ集エ……塔ニ集エ……」

 その囁きは繰り返されるたびに大きくなり、耳ではなく心を直接叩いてきた。


 アルフレッドは深く息を吐き、霊視術を発動する。

 すると、石片の表面に赤黒い線が浮かび上がり、それはやがて地図のような模様を形作った。

 線は街から東へ伸び、やがて一点に収束する――それは断崖に立つ塔を示していた。


「……やはり、拠点を築いているか」


 さらに視界に映ったのは、塔を取り巻く無数の影。

 その影は人の形をしていたが、全員が顔を持たず、口だけが大きく裂けていた。

 彼らは石片を通じて『声』に繋がれ、囁きを全方位へ拡散しているのだろう。


(……塔が『声』の発信源。そして、使徒はその中継役……)


 アルフレッドは石片を強く握り、雷光を走らせて砕いた。

 砕けた石は耳障りな悲鳴をあげ、黒い靄となって消えた。

「……次はその塔だ。『声』の本体を、この手で斬る」


 彼の背に、夜風が吹き抜ける。

 街の静寂は依然として囁きに支配されていたが、剣士はすでに進むべき道を定めていた。



 アルフレッドは夜明け前の冷たい風を受けながら、東方の街を後にした。

 数日をかけて歩みを進めると、大地はやがて険しい断崖へと変わり、海を見下ろす絶壁に突き当たった。

 その崖の上に――黒い塔が屹立していた。


 塔は異様に細長く、雲を突き抜けるほどの高さを誇っていた。

 壁面には窓も門もなく、ただ幾重にも口の形を象った紋様が刻まれている。

 風が吹くたびに、それらの紋様からは呻き声のような残響が洩れた。


 塔の根元に近づいた瞬間、空気が凍りつくように張り詰めた。

 透明な膜のようなものが大地を覆い、近づく者を拒む壁となっていた。

 アルフレッドが剣で突こうとすると、刃先が触れる前に雷を弾くような抵抗が走る。


 耳に囁きが響いた。

「帰レ……帰レ……お前ノ声ハ不要ダ……」

 結界そのものが意志を持ち、侵入者を退けようとしているのだ。


 霊視を発動すると、結界は無数の口と舌のような模様が絡み合って構成されていた。

 それは塔から漏れ出す『声』の力が物質化したもので、内部の存在が外界を監視している証でもあった。

 結界はただの防御ではない。触れれば精神を侵され、声の糸に絡め取られる危険がある。


 アルフレッドは剣を握り直し、結界を睨んだ。

「……ここを越えねばならない。奴を断つにはな」

 雷光が剣に走り、結界に反響する囁きと拮抗するように大気を震わせた。



 剣先が結界に触れた瞬間、空間が歪み、視界は揺らぎ始めた。

 塔は消え、代わりに懐かしい光景が広がる――かつて共に旅した仲間たちの笑顔。

「アルフレッド、もう剣を置け。十分戦っただろう」

 優しい声が耳を打ち、心を揺さぶる。


 だが、アルフレッドは眉をひそめた。

(……これは現実じゃない。結界が見せる声の幻だ!)


 幻影は次々と形を変えた。

 導師ゼムが亡霊のように現れ、「剣は血を呼ぶだけだ」と囁く。

 失われた戦友たちが現れ、「お前のせいで死んだ」と責め立てる。

 その声は胸の奥に直接突き刺さり、意志を削ぎ落とす。


「帰レ……帰レ……声に従エ……」

 結界の囁きが、無数の声と重なり合い、精神を塗り潰していく。


 アルフレッドは己の頬を爪で切り裂き、痛みで意識を繋ぎ止めた。

「……痛みは現実だ。お前たちの幻には従わない!」

 剣に雷を集中させ、稲光が幻影を焼く。


 雷鳴が轟いた瞬間、幻影の仲間たちは崩れ去り、結界の本質――口の紋様が幾重にも連なる異様な壁――が姿を現した。


 結界の口々が一斉に開き、呪詛のような声を放った。

「声は絶対……声は真理……」

 音そのものが衝撃波となり、アルフレッドを吹き飛ばそうとする。

 だが彼は踏みとどまり、雷を刃に凝縮して叫んだ。


「俺は声に従わない! 雷閃――破声斬ッ!」


 蒼雷の剣閃が結界を貫き、口々は悲鳴を上げながら次々と裂けていった。


 結界は激しく震え、最後にひときわ大きな声を響かせた。

「……オマエノ声モ……イツカ……奪ウ……」

 その残響を残して結界は砕け散り、塔への道が開かれた。


 アルフレッドは荒く息を吐きながらも、確かな眼差しで黒き塔を見据えた。

「……ここからが本番だな、『声』の幹部よ」



 結界を突破したアルフレッドが黒き塔の根元に立つと、石壁がまるで呼吸するかのように蠢いていた。

 壁の隙間からはかすかな囁きが漏れ出し、まるで「中へ来い」と誘っているようだった。

 扉は存在しない――だが剣を掲げると、石が割れて裂け目を生み、彼を呑み込むように口を開いた。


 中へ足を踏み入れた瞬間、音の世界が変わった。

 壁も床も天井も存在せず、無数の口と舌が蠢きながら囁き続けている。

「声を捧げよ……声は救済……声は真理……」

 それらの囁きは方向感覚を奪い、上も下も分からなくしていく。


 足を進めても大地を踏む感触がない。

 それでも落ちることはなく、ただ無限の囁きに囲まれながら歩き続けることしかできなかった。


 アルフレッドの耳に、かつての知己の声が混ざり始めた。

 導師ゼムの声が「お前は弟子として失格だ」と囁き、

 失った仲間の声が「お前に殺された」と責め立てる。

 そして最後に、己自身の声が反響する。

「剣を置け……もう終わりにしろ」


(……また精神を揺さぶる術か。ここは奴の本拠地――幻と現実の境界を試している!)


 アルフレッドは剣を突き立て、霊視術を展開した。

 すると囁きの波の奥に、ひときわ強い声の流れが見えた。

 それは塔の中心へと伸びる黒い管のようなもので、そこから無数の囁きが世界へ拡散していた。

「……あれが源か」


 剣士は雷光を纏い、その闇の管を辿ってさらに深奥へ進んでいった。



 アルフレッドは黒い管を辿り、塔の奥深くへ進んでいった。

 囁きは次第に一つに収束し、耳をつんざくほど強烈な『声』の奔流へと変わっていく。

 壁も床も存在せず、ただ音の波に浮かぶような空間を歩み続ける。


 やがて、眼前に巨大な広間が開けた。

 そこは声の源泉――闇の泉のように無数の口が集まり、中心に一つだけ異様に大きな影が蠢いていた。


 その影は、かつて人であったかのような輪郭を保っていた。

 しかし顔の位置には眼も鼻もなく、口だけが幾重にも連なり、胸から腹にかけては無数の声帯が外に露出して震えている。

 手は枯れ木のように細く、しかし先端は舌のような鞭に変じ、触れるものを絡め取りそうに揺れていた。


 それは塔の『声』を守護する存在――幹部の直下に仕える番犬。


 アルフレッドの足音に反応し、守護者の口々が一斉に開いた。

「……来タ……声ナキ者……声ヲ拒ム者……」

 低く響くその声は、広間そのものを震わせる。


 次の瞬間、空気が刃のような音圧に変わり、アルフレッドの頬を切り裂いた。

 声そのものが武器であり、この空間全体が守護者の領域だった。


 アルフレッドは剣を抜き、稲光を纏わせた。

「……お前を超えて、この塔の核に辿り着く!」



 守護者が無数の口を開いた瞬間、広間全体に衝撃波が奔った。

 声が形を持ち、空気を裂く刃となってアルフレッドに襲いかかる。

 耳を塞いでも意味はなく、鼓膜を突き破るほどの音圧が体を揺さぶった。

 剣士は咄嗟に雷光の壁を展開し、音刃を弾いたが、頬と腕に裂傷が走った。


「……声を武器にするか。厄介だな」


 守護者は胸の声帯を震わせ、低く重い音を響かせた。

 その音は床も壁もない空間に反響し、瞬く間に音の檻を形成する。

 アルフレッドの周囲に無数の声が積み重なり、足を動かすたびに音の鎖が絡みついた。

「逃ゲラレナイ……声ニ従エ……」


 体が縛られる錯覚に苛まれる中、アルフレッドは叫んだ。

「……俺の声は、俺だけのものだ!」

 剣を振り下ろし、雷鳴を響かせて音の檻を打ち破る。


 だが守護者は怯まない。

 口々から放たれる声は今度は幻覚を伴い、アルフレッドの脳裏に直接流れ込んだ。

 かつての仲間の絶叫、導師ゼムの断罪、そして自身の嘲笑――

「お前は剣に呑まれるだけだ」「お前の戦いに意味はない」


 思考が揺らぎかけるその刹那、アルフレッドは自らの心臓に雷を流した。

 痛みと轟音で幻を掻き消し、冷たく呟く。

「……黙れ。俺は、俺の道を斬り開く」


 剣先に雷が集まり、光が広間を裂いた。

 守護者は口々を閉じ、怨嗟の声を重ねて反撃の構えを取る。

 音と雷、声と剣――互いの異能が正面からぶつかり合おうとしていた。



 アルフレッドの剣先から奔る雷光が、広間を切り裂くように放たれた。

 対する守護者は無数の口を開き、重低音から悲鳴のような高音までを重ね合わせた絶叫を解き放つ。

 雷と声――目に見えぬ力と音が正面から衝突し、広間全体が震え上がった。


 稲光は空を裂き、声は空間を揺るがす。

 力と力が重なり合うたび、壁も天井も存在しないはずの空間が歪み、破片のように砕け落ちていく。


 耳をつんざく轟音に、アルフレッドは膝を折りかけた。

 視界の端で、虚空の口々が次々と弾け飛び、代わりに赤黒い液体が滝のように流れ出す。

 それは血なのか、声の化身なのか――分からぬまま足元を浸食していく。


(この空間そのものが……奴の声と俺の雷に耐えられなくなっている……!)


 守護者は全身の口を一斉に開き、塔全体を震わせるほどの咆哮を放った。

「声ハ支配……声ハ救済……声ハ……終焉!」

 その瞬間、広間の壁が完全に砕け、虚無の闇と無数の舌が入り混じる異形の空が姿を現した。


 崩壊は止まらない。

 だがアルフレッドは、剣を握る手を緩めなかった。

「……だったら、この空間ごと斬り裂いてやる!」



 広間はもはや原型を留めていなかった。

 床は裂け、黒い虚無の裂け目が幾筋も走り、血のような液体と音の残骸が滝のように流れ落ちていく。

 上空には口々が浮かび、呻きと叫びを繰り返しながら一斉に崩壊を始めていた。

 守護者はその中心に立ち、声帯を震わせ、空間ごとアルフレッドを押し潰そうとする。


「声ハ絶対……声ハ永遠……声ノナキ者、滅ビヨ!」


 耳を劈く咆哮に、アルフレッドは一歩も引かずに剣を構えた。

 雷が全身を這い、血を焦がすほどの力が剣に集まっていく。

 導師ゼムの教えが脳裏に閃いた。

 ――恐怖を越える時、雷はお前の意思となる。心を縛るものを斬り裂け。


「……俺は声に従わない。俺の道は、俺の声で決める!」


 叫ぶと同時に、アルフレッドは奔流のような雷光を纏って駆け出した。

 崩壊する足場を踏み砕き、虚無の裂け目を跳躍し、声の嵐を切り裂きながら一直線に守護者へ突き進む。


 守護者は無数の舌を鞭のように振るい、空間を震わせる声波を放った。

 だが雷を纏った剣はそれらを次々と弾き飛ばし、轟音を雷鳴で上書きしていく。

 ついに、雷と声が一点でぶつかり合った。


 虚空が爆ぜ、塔そのものが悲鳴を上げる。

 決戦の瞬間が訪れた――。



 雷鳴が剣を走り、アルフレッドの全身を包む。

 守護者の中心――胸の奥に蠢く、巨大な声帯の塊が脈動するのを見据え、彼は全力の踏み込みを放った。

「――終われッ!」


 雷光の斬撃が直撃し、声帯の核を真っ二つに裂いた。

 瞬間、塔全体に響き渡っていた『声』が途絶し、無数の口が断末魔のように開閉を繰り返した。


「アアアア――ァ……」

 守護者は数百の声を同時に発しながら、音そのものが霧散していくように形を失っていった。

 虚空を満たしていた圧迫感が霧散し、血のように溢れていた液体は逆流しながら音もなく消滅していく。


 やがて残ったのは、黒い灰のような欠片と、アルフレッドの雷光に焼かれた深い裂け目だけだった。


 荒い息をつき、剣を地に突き立てて膝を折る。

 だが、耳の奥にはまだ微かな囁きが残っていた。

「……声ハ……一ツ……マダ……果テヌ……」


 消滅したはずの守護者の残滓が告げるように、これは終わりではない。

 幹部『声』自身が、この塔のさらに深部で待ち受けているのだ。



 守護者が消滅した後、広間には奇妙な静寂が訪れていた。

 さっきまで耳をつんざいていた囁きも叫びも消え、ただ瓦解した音の残骸が灰のように舞っている。

 アルフレッドは肩で息をしながら、慎重に周囲を見渡した。


 ――だが、違和感が残る。

 静かすぎる。声が消えたはずなのに、耳の奥にはまだ何かが潜んでいる気配がある。


 崩れ落ちた壁の一部に、黒い結晶が埋め込まれていた。

 それは砕かれた声帯の核の破片で、表面には無数の刻印が走っている。

 アルフレッドが近づくと、破片から微かに囁きが漏れ出した。


『……深部ニ……声ノ主……汝ヲ待ツ……』


 声はまるで血のように重たく、体の奥に沈み込む。

 幹部『声』が、この塔のさらに奥で支配を強めている証拠だった。


 広間の裂け目の下――虚無の暗闇の中から、低い唸りが響いた。

 それは人の声ではなく、数千の声を重ねたようなざわめき。

 まるで塔そのものが生きており、深部へ侵入する者を待ち構えているかのようだった。


 アルフレッドは剣を握り直し、決意を固める。

「……ここからが本番、というわけか。逃げも隠れもしない。必ず斬り裂いてやる」



 崩壊した広間を後にし、アルフレッドは裂け目を越えてさらに奥へ進んだ。

 そこはもはや建築物の内部ではなく、『声』そのものが形成する異界の回廊だった。

 壁は黒い肉のように蠢き、そこに無数の口が浮かんでは囁きを繰り返す。

「来ル……拒ムナ……声ニ従エ……」

 その囁きは優しくも甘く、だが底に濁った狂気を孕んでいた。


 アルフレッドは剣を抜き、雷を纏わせながら前進する。

 雷光だけが、この回廊で唯一の現実を保つものだった。


 進むにつれて、空間の歪みは強まった。

 遠くから聞こえるはずの囁きが、頭の中で直接響き、思考を揺さぶる。

 壁の口々が人間の声色を真似、導師ゼムや過去に倒した敵の声までもが入り混じる。

「アルフレッド……お前の剣は何を守る?」

「お前ノ旅ハ……無意味……」


 それはただの幻聴ではなかった。

 幹部『声』がこの空間全体を通じて、彼の精神を削ろうとしている証だった。


 やがて回廊の先に、巨大な扉のような影が現れた。

 扉には人の顔を模した無数の口が刻まれ、開閉を繰り返している。

 その奥から、圧倒的な存在感が溢れ出していた。


「……来タカ、剣ノ者」

 重く、低い声が空間全体を震わせる。

 それは幹部『声』自身――姿を現すことなく、既にアルフレッドを見据えていた。


 アルフレッドは剣を握り直し、息を整える。

「……やはりお前か。ここで決着をつける」


 扉がゆっくりと開いていく。

 奥に待つのは、声の源、狂気の主――幹部『声』との邂逅だった。



 扉が軋むような音を立てて開いた。

 その奥に現れたのは、人とも怪物ともつかぬ存在だった。

 頭部は顔という形を失い、無数の口だけが重なり合っていた。

 腹部から腰にかけては黒い声帯の束が垂れ下がり、血管のように塔の床へと伸びている。

 声そのものが肉体を形作ったような異形――それが幹部『声』であった。


「……剣ノ者。オ前ハ数多ノ声ヲ斬リ、我ガ守護者ヲ屠ッタ」

 幹部の声は単一ではなく、千の囁きと一つの絶叫が重なったものだった。

「ダガ、声ハ止マラナイ。オ前ノ意思モ、結局ハ声ニ呑マレル……」


 アルフレッドは剣を掲げ、稲光を走らせた。

「俺は声に従わない。俺の道は俺自身の意思で決める」


『声』は嗤うように広間を震わせた。

「意思……? 意思ハ声ダ。声ナキ意思ナド存在セヌ。オ前ガ剣ヲ振ルウノモ、声ノ命ズルガママ」


 アルフレッドの瞳が細く鋭く光る。

「ならば証明してやる――声の支配が絶対じゃないと」


『声』の口々が一斉に開き、重低音が広間を震わせる。

 アルフレッドの雷光と、幹部の声の奔流が交錯する直前――

 決戦の時が訪れようとしていた。



『声』の口々が一斉に開いた。

「滅ベ……声ニ従ワヌ者ヨ!」

 絶叫が衝撃波となり、刃のように鋭い音が広間を覆う。

 床が裂け、空間が震え、音そのものが殺意を帯びて形を持った。


 アルフレッドは瞬時に雷を纏い、剣を振り抜く。

 雷光が奔流となり、音刃の一部を打ち消したが、残りが肩と脇腹を掠め、血が飛び散る。

「……っ、だが――これしき!」


『声』は胸部の声帯を震わせ、低い唸りを響かせた。

 その音は空間全体に共鳴し、アルフレッドの筋肉を痙攣させる。

 体が自分の意思と違う動きをし始め、剣が僅かにぶれる。

「声ハ命令……声ハ鎖……抗ウナ……」


 歯を食いしばり、アルフレッドは自らの心臓に雷を流し込む。

 痛みと轟音が共鳴を打ち消し、足を再び動かすことができた。

「俺の体は、俺のものだ……誰の声にも縛られない!」


 幹部の声がさらに膨れ上がる。

 無数の口から漏れ出す囁きが次々と形を持ち、人影となってアルフレッドに襲いかかる。

 それはかつて斬った敵、失われた仲間、そして己自身の幻影――声が生んだ虚像の軍勢だった。


 アルフレッドは雷剣を振り抜き、幻影を次々と切り裂く。

 だがそのたびに幻影は断末魔を上げ、耳を劈くほどの声で彼を追い詰めた。

「……これはただの幻じゃない……声そのものが敵だ!」


 膝をつきかけながらも、アルフレッドは剣を地に突き立て、雷光を広間全体に解き放つ。

 幻影が一瞬だけ掻き消え、視界が開けた。

 そこに立つ『声』の本体が、無数の口を大きく開き、次の攻撃を準備していた。


「声ハ世界……世界ヲ呑ミ込ム……」

「ならば斬り裂く。お前の世界ごとだ!」



 アルフレッドが雷光を極限まで高め、剣から奔る稲妻が空間を裂く。

 幹部『声』は全身の口を開き、あらゆる音を重ねた絶叫を放つ。

 低音が骨を震わせ、高音が脳を突き破り、声は空気そのものを武器と化した。


 雷と声が正面から衝突した瞬間、広間は白と黒に引き裂かれた。

 閃光が影を消し、音圧が雷鳴を飲み込み、互いの力が相殺しきれずに暴れ狂う。


 足元の床が砕け、塔の壁は波打つ声の膜へと変貌した。

 そこからは呻きや嘆きが漏れ出し、手のような影が伸びてアルフレッドを掴もうとする。

 天井からは稲妻が落ち、声の奔流を焼き尽くすが、同時に空間そのものが悲鳴を上げて崩れていく。


「……っ、限界を越えてる……!」

 雷を纏ったアルフレッドの体も痺れ、血管が裂けるような痛みに苛まれる。

 だが、『声』の狂気はさらに増していた。


「声ハ全テヲ呑ム……声ハ世界……貴様ノ雷モ、声ノ内ニ溶ケル!」

 口々が大地のように震え、空間全体が一斉に崩落を始める。

 裂け目の向こうには、深淵のような黒い空と、無数の声の残骸が渦を巻いていた。


 荒れ狂う崩壊の中で、アルフレッドは歯を食いしばり、剣を掲げた。

「……ならば、世界を斬り裂いてでも前に進む!」

 雷光が剣を走り、破壊と声の奔流を押し返しながら、突破口を狙って突撃する。



 広間はすでに瓦解し、黒い裂け目から虚無と血のような液体が溢れ出していた。

 声の奔流が嵐のように巻き起こり、耳を裂き、脳を抉る。

 その中心に――鼓動する声の核があった。

 それは巨大な喉と声帯が絡み合ったような塊で、ひと息ごとに空間そのものを揺るがしていた。


 幹部『声』はそこに根を下ろし、無数の口を震わせながら狂気の讃歌を放つ。

「声ハ永遠……声ハ世界……オ前モ声ニ溶ケ……!」


 アルフレッドは全身を雷光に包み、裂けるような痛みを無視して前へ進む。

 崩れ落ちる足場を跳び越え、押し寄せる声の波を斬り裂きながら、ただ核だけを見据えて突撃する。

「お前の声に支配されはしない……! 俺は俺自身の声で、未来を切り開く!」


 雷鳴が剣を走り、白い閃光が戦場を照らした。


『声』は最後の抵抗として、全ての口を開き、絶叫を放った。

 広間全体が砕け、虚無と血と声が混じり合った奔流が押し寄せる。

 その奔流に飲まれながらも、アルフレッドは剣を振り下ろした。


 稲妻が轟き、声と声がぶつかり合い――

 刹那、雷の刃が声の核を貫いた。


「アアアアア――――!」

 幹部『声』の断末魔は、塔全体を揺るがすほどの咆哮だった。

 だがその声も、次第に掠れ、途切れ、やがて闇の中に消えていった。

 核は裂け、灰となり、空間を支配していた声の圧力が霧散していく。


 荒い息を吐きながら、アルフレッドは剣を構えたまま立ち尽くした。

 ――決着の瞬間だった。



『声』の核が砕かれた後、広間を支配していた圧倒的な音は消え失せた。

 残されたのは、灰となった声帯の残骸と、虚無のように静まり返った空間だけ。

 アルフレッドは剣を杖代わりに立ち上がり、深く息を吐いた。

 耳の奥にはまだ幻聴の残滓がこびりついていたが、それすら次第に霧散していった。


 足元に、黒く変質した結晶の破片が散らばっていた。

 それは砕けた核の断片であり、近づくと微かに声が漏れ出す。

「……声ハ……途絶エナイ……北ニ……響ク……」

 それは死に際の呟きにも似た残滓であり、『声』の支配が完全には潰えていないことを示していた。


 アルフレッドは破片を拾い上げ、雷の火で焼き封じる。

「……まだ先がある、というわけか」


 広間の奥には、石の壁に刻まれた碑文が残されていた。

 そこには古代文字でこう記されていた。

 ――『血と声と獣、その先に影の主在り』

 セイセス=セイセスの幹部たちは、それぞれの領域を支配しているに過ぎず、そのさらに上に黒幕が存在することを暗示していた。


 静まり返った空間に一人立ち、アルフレッドは剣を握り直す。

「……どれだけ声を並べ立てようと、俺の意思は消えない。必ず斬り裂く」


 崩壊した塔を背に、彼は次の目的地へ向かう決意を固めた。

 残された声の残滓は、新たな戦いの始まりを告げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ