第十話
咆哮の祭壇は瓦礫と血の泥と化し、森には静寂だけが残っていた。
アルフレッドはしばし崩壊した戦場を見渡し、剣を腰に戻す。
「……ザルグ=グロア。お前の言葉、血の連鎖……まだ続いているのか」
その瞳には疲労の色と共に、燃え続ける決意が宿っていた。
密林を抜ける道は過酷だった。折れた木々、血の雨に晒された土地は死の沈黙に支配されていた。
道中、村を通れば人々の顔には恐怖の影が残り、彼を英雄と呼ぶ声すらなく、ただ怯えたように見送るばかりだった。
(……誰もが声を潜めている。この沈黙の裏に、『声』の影があるのだろう)
幹部ザルグの遺した断片の書には、こう記されていた。
「次なる座は『声』にあり」
その言葉を反芻しながら、アルフレッドは北東へと馬を進めた。
『声』――それは耳に届くものではなく、人の心に侵入し、支配するものだろう。
もしそうであれば、大陸を乱す戦乱の中で、容易に人々を操ることができるはずだ。
旅路の夜、焚火のそばで休んでいると、不意に耳に声が届いた。
「……剣士よ……血の鎖は断てぬ……」
振り向いても誰もいない。焚火の炎だけが揺れている。
だがその声は確かに、森の奥から、あるいは彼自身の心の奥底から響いていた。
アルフレッドは焚火に視線を落とし、低く呟いた。
「……ならば、その『声』すら斬る。俺の剣でな」
剣士は立ち上がり、闇に包まれた東方へ歩みを進めた。
次なる幹部『声』の影を追って――。
アルフレッドが最初に辿り着いた小さな村は、一見すると平穏そのものだった。
市場には果物や穀物が並び、子どもたちの笑い声も聞こえる。
だが、よく耳を澄ませば、その笑い声に奇妙な響きが混じっていた。
「……セイ……セス……」
子どもたちが遊びの最中に、意味を持たぬ言葉を口にしていたのだ。
さらに大きな街に入ると、その異常はより顕著だった。
広場では商人たちが取引を続けていたが、やがて全員が一斉に動きを止め、低く呟き始める。
「声を……声を捧げよ……声は真理……声は救済……」
瞳は焦点を失い、操り人形のように揃って同じ言葉を繰り返す。
しばらくすると、何事もなかったかのように再び取引を再開する。
誰もその異常を自覚していないようだった。
街道で出会った旅人は、震えながらこう語った。
「……昨夜だ。酒場で歌っていた吟遊詩人が、突然知らぬ言葉を口ずさみ始めたんだ。客たちも一人、また一人と同じ調子で繰り返し……気づけば酒場全体が『声』で満ちていた。朝になれば、みんな元通り……まるで夢でも見ていたかのように」
アルフレッドは霊視術を用いた。
すると、人々の口から漏れる『声』は赤黒い靄となって空に漂い、どこか遠くへ収束していくのが見えた。
(……ただの言葉ではない。意識そのものが、どこかへ供物として送られている……)
剣を強く握り締めた。
「次の幹部『声』……間違いない。この異変の中心に奴がいる」
日が沈むと、街は妙な静寂に包まれた。
酒場も市場も人の気配はあるのに、話し声は妙に抑制されている。
その代わりに聞こえるのは、かすかな囁き――人々が無意識のうちに呟く『声』の残響だった。
アルフレッドは外套のフードを深く被り、裏通りへと身を滑らせる。
霊視術を使うと、通りの先に赤黒い靄が集中している一角があった。
かつては倉庫だったらしい廃屋。
扉は閉ざされているが、中からは低く囁くような音が漏れている。
「……声に従え……声に従え……」
覗き込むと、数人の住民が虚ろな目で膝をつき、見えないものに向かって祈っていた。
祈りを捧げる住民たちの前には、黒い石の小片が置かれていた。
ザルグ=グロアの祭壇で見たものに酷似しているが、こちらは音を帯びている。
耳を近づけると、石そのものが囁いていた。
「声は血を超え、心を繋ぐ……」
住民たちはその囁きを反復しているだけだった。
アルフレッドがさらに霊視の集中を高めると、廃屋の影に別の存在が浮かび上がった。
人の姿をしているが、輪郭は揺らぎ、口元だけがやたらと大きく歪んでいる。
その存在は住民たちに直接『声』を注ぎ込んでいるようだった。
(……やはり幹部の手が伸びている。だが、これはまだ使徒か……)
アルフレッドは剣に触れた手を一度握り締め、すぐに離した。
今はまだ時ではない。
幹部『声』の本体を突き止めるため、この街の裏で広がる儀式と囁きの正体をさらに探る必要があった。
(……だが確かに、この街は奴の息吹に支配されつつある。長くは猶予がないな)
廃屋に潜む歪んだ影――その口元だけが異様に大きく裂けた存在が、突如としてアルフレッドに視線を向けた。
「……見ていたな、剣士……」
低い囁きが直接脳へ響き、全身の血が逆流するような寒気に襲われる。
瞬間、住民たちが一斉に振り向いた。虚ろな眼のまま、口を開き、同じ声で呟く。
「声を……捧げよ……声を……捧げよ……」
声の使徒が腕を広げると、囁きが波紋のように広がった。
その音は耳ではなく、意識そのものに入り込み、心を縫い止めようとする。
アルフレッドの視界が歪み、思考に偽りの声が混じり始めた。
「お前は孤独だ……この剣に意味はない……屍のように声へ還れ……」
剣を握る手が震える。まるで己の意志が、声に吸い込まれていくかのようだった。
「……俺の心を、誰に縛らせるものか!」
アルフレッドは雷の魔力を剣に集中させ、意識を強引に引き戻した。
「雷閃――破声!」
閃光の斬撃が走り、廃屋の闇を切り裂いた。
声の使徒は直撃を避けたが、輪郭が大きく揺らぎ、裂けた口から黒い靄を吐き出した。
「……ほう……意志を保つか……だが、その声は必ず、お前を飲み込む……」
住民たちは再び膝をつき、無心に祈りを続けている。
アルフレッドの眼前には、声の使徒が影のように揺らめきながら立ちはだかっていた。
その囁きはなおも戦場を満たし、精神を侵食する力を失っていない。
(……これはただの眷属ではない。幹部『声』の意志を直接繋ぐ器だ……!)
剣を構え直すアルフレッドの瞳に、決意の炎が宿った。
声の使徒は口を大きく裂き、息を吐き出すように囁きを放った。
「……声ヲ聞ケ……声ヲ捧ゲヨ……」
その音は音波ではなく意識の波動。
瞬く間に廃屋全体が囁きに満たされ、壁や床までもが言葉を反響し始めた。
アルフレッドの耳に、幾重にも重なった声が流れ込む。
「お前は孤独だ」
「剣を捨てろ」
「お前の歩みは無意味だ」
「仲間はもういない」
誰の声でもない、だが確かに知った顔の声に似せた幻聴だった。
視界が歪む。
焚火の炎が、過去に失った仲間の瞳のように見える。
廃屋の壁は修道院跡に変わり、導師ゼムの亡霊が「剣を置け」と囁く。
剣を握る手が痺れ、現実と虚構の境界が削り取られていった。
(……これは幻術じゃない、意識の根そのものを侵す攻撃……!)
アルフレッドは歯を食いしばり、剣を床へ突き立てた。
雷光が走り、己の肉体へ痛みを走らせる。
「……痛みは……現実だ。これだけは幻じゃない……!」
雷が血管を逆流し、心臓を打つ鼓動と同調する。
声に飲まれそうになるたび、雷鳴が己の存在を引き戻す。
声の使徒はひたすらに囁きを重ね、虚像を増やし続けた。
父の声、友の声、かつて斬った敵の断末魔までが混じり合い、現実を覆い隠す。
だがアルフレッドの剣はなお輝きを失わず、虚構の靄を裂く一閃を準備していた。
「……俺は声に従わない。俺の剣は、俺自身の意志だ!」
廃屋は囁きに満たされ、現実と虚構の境界は完全に溶け崩れていた。
アルフレッドの耳には、仲間の声、亡き者の声、敵の断末魔が渦を巻き、思考を削り取る。
だが彼は剣を握り締め、雷を纏わせることで己の存在を確かめ続けた。
「……俺は俺だ。この刃は、俺の声だ!」
雷が剣先に凝縮し、視界全体を焼き尽くす白光となる。
「――雷閃絶刀ッ!」
轟音と共に振り下ろされたその斬撃は、幻聴の靄を一気に切り裂いた。
廃屋を満たしていた囁きは裂け、虚ろな人影が煙のように散る。
声の使徒の輪郭が悲鳴のように震え、裂けた口から黒い靄を吐き出した。
「……馬鹿ナ……声ヲ斬ル、トハ……!」
声の使徒は歪んだ姿を保てず、壁に叩きつけられたように後退する。
虚ろな住民たちの祈りも止まり、全員が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
アルフレッドはなお剣を構え、雷を散らす。
「お前たちの声に従う気はない。俺の意志を、俺の剣で通す!」
使徒は苦悶しながらも、裂けた口をさらに広げ、不気味な笑いを漏らした。
「……良イ……剣士ヨ……『声』ノ本体ハ……既ニ……大地ヲ支配シテイル……」
そう言い残すと、その体は霧のように掻き消えた。
廃屋には崩れた住民たちと、黒い石片だけが残されていた。
だがその石は微かに震え、なおも囁きを漏らし続けていた――。
アルフレッドは床に転がる黒い石片を拾い上げた。
掌に載せた途端、石は脈動するように震え、微かな声が漏れ出す。
「……声ヲ……聞ケ……塔ニ集エ……塔ニ集エ……」
その囁きは繰り返されるたびに大きくなり、耳ではなく心を直接叩いてきた。
アルフレッドは深く息を吐き、霊視術を発動する。
すると、石片の表面に赤黒い線が浮かび上がり、それはやがて地図のような模様を形作った。
線は街から東へ伸び、やがて一点に収束する――それは断崖に立つ塔を示していた。
「……やはり、拠点を築いているか」
さらに視界に映ったのは、塔を取り巻く無数の影。
その影は人の形をしていたが、全員が顔を持たず、口だけが大きく裂けていた。
彼らは石片を通じて『声』に繋がれ、囁きを全方位へ拡散しているのだろう。
(……塔が『声』の発信源。そして、使徒はその中継役……)
アルフレッドは石片を強く握り、雷光を走らせて砕いた。
砕けた石は耳障りな悲鳴をあげ、黒い靄となって消えた。
「……次はその塔だ。『声』の本体を、この手で斬る」
彼の背に、夜風が吹き抜ける。
街の静寂は依然として囁きに支配されていたが、剣士はすでに進むべき道を定めていた。
アルフレッドは夜明け前の冷たい風を受けながら、東方の街を後にした。
数日をかけて歩みを進めると、大地はやがて険しい断崖へと変わり、海を見下ろす絶壁に突き当たった。
その崖の上に――黒い塔が屹立していた。
塔は異様に細長く、雲を突き抜けるほどの高さを誇っていた。
壁面には窓も門もなく、ただ幾重にも口の形を象った紋様が刻まれている。
風が吹くたびに、それらの紋様からは呻き声のような残響が洩れた。
塔の根元に近づいた瞬間、空気が凍りつくように張り詰めた。
透明な膜のようなものが大地を覆い、近づく者を拒む壁となっていた。
アルフレッドが剣で突こうとすると、刃先が触れる前に雷を弾くような抵抗が走る。
耳に囁きが響いた。
「帰レ……帰レ……お前ノ声ハ不要ダ……」
結界そのものが意志を持ち、侵入者を退けようとしているのだ。
霊視を発動すると、結界は無数の口と舌のような模様が絡み合って構成されていた。
それは塔から漏れ出す『声』の力が物質化したもので、内部の存在が外界を監視している証でもあった。
結界はただの防御ではない。触れれば精神を侵され、声の糸に絡め取られる危険がある。
アルフレッドは剣を握り直し、結界を睨んだ。
「……ここを越えねばならない。奴を断つにはな」
雷光が剣に走り、結界に反響する囁きと拮抗するように大気を震わせた。
剣先が結界に触れた瞬間、空間が歪み、視界は揺らぎ始めた。
塔は消え、代わりに懐かしい光景が広がる――かつて共に旅した仲間たちの笑顔。
「アルフレッド、もう剣を置け。十分戦っただろう」
優しい声が耳を打ち、心を揺さぶる。
だが、アルフレッドは眉をひそめた。
(……これは現実じゃない。結界が見せる声の幻だ!)
幻影は次々と形を変えた。
導師ゼムが亡霊のように現れ、「剣は血を呼ぶだけだ」と囁く。
失われた戦友たちが現れ、「お前のせいで死んだ」と責め立てる。
その声は胸の奥に直接突き刺さり、意志を削ぎ落とす。
「帰レ……帰レ……声に従エ……」
結界の囁きが、無数の声と重なり合い、精神を塗り潰していく。
アルフレッドは己の頬を爪で切り裂き、痛みで意識を繋ぎ止めた。
「……痛みは現実だ。お前たちの幻には従わない!」
剣に雷を集中させ、稲光が幻影を焼く。
雷鳴が轟いた瞬間、幻影の仲間たちは崩れ去り、結界の本質――口の紋様が幾重にも連なる異様な壁――が姿を現した。
結界の口々が一斉に開き、呪詛のような声を放った。
「声は絶対……声は真理……」
音そのものが衝撃波となり、アルフレッドを吹き飛ばそうとする。
だが彼は踏みとどまり、雷を刃に凝縮して叫んだ。
「俺は声に従わない! 雷閃――破声斬ッ!」
蒼雷の剣閃が結界を貫き、口々は悲鳴を上げながら次々と裂けていった。
結界は激しく震え、最後にひときわ大きな声を響かせた。
「……オマエノ声モ……イツカ……奪ウ……」
その残響を残して結界は砕け散り、塔への道が開かれた。
アルフレッドは荒く息を吐きながらも、確かな眼差しで黒き塔を見据えた。
「……ここからが本番だな、『声』の幹部よ」
結界を突破したアルフレッドが黒き塔の根元に立つと、石壁がまるで呼吸するかのように蠢いていた。
壁の隙間からはかすかな囁きが漏れ出し、まるで「中へ来い」と誘っているようだった。
扉は存在しない――だが剣を掲げると、石が割れて裂け目を生み、彼を呑み込むように口を開いた。
中へ足を踏み入れた瞬間、音の世界が変わった。
壁も床も天井も存在せず、無数の口と舌が蠢きながら囁き続けている。
「声を捧げよ……声は救済……声は真理……」
それらの囁きは方向感覚を奪い、上も下も分からなくしていく。
足を進めても大地を踏む感触がない。
それでも落ちることはなく、ただ無限の囁きに囲まれながら歩き続けることしかできなかった。
アルフレッドの耳に、かつての知己の声が混ざり始めた。
導師ゼムの声が「お前は弟子として失格だ」と囁き、
失った仲間の声が「お前に殺された」と責め立てる。
そして最後に、己自身の声が反響する。
「剣を置け……もう終わりにしろ」
(……また精神を揺さぶる術か。ここは奴の本拠地――幻と現実の境界を試している!)
アルフレッドは剣を突き立て、霊視術を展開した。
すると囁きの波の奥に、ひときわ強い声の流れが見えた。
それは塔の中心へと伸びる黒い管のようなもので、そこから無数の囁きが世界へ拡散していた。
「……あれが源か」
剣士は雷光を纏い、その闇の管を辿ってさらに深奥へ進んでいった。
アルフレッドは黒い管を辿り、塔の奥深くへ進んでいった。
囁きは次第に一つに収束し、耳をつんざくほど強烈な『声』の奔流へと変わっていく。
壁も床も存在せず、ただ音の波に浮かぶような空間を歩み続ける。
やがて、眼前に巨大な広間が開けた。
そこは声の源泉――闇の泉のように無数の口が集まり、中心に一つだけ異様に大きな影が蠢いていた。
その影は、かつて人であったかのような輪郭を保っていた。
しかし顔の位置には眼も鼻もなく、口だけが幾重にも連なり、胸から腹にかけては無数の声帯が外に露出して震えている。
手は枯れ木のように細く、しかし先端は舌のような鞭に変じ、触れるものを絡め取りそうに揺れていた。
それは塔の『声』を守護する存在――幹部の直下に仕える番犬。
アルフレッドの足音に反応し、守護者の口々が一斉に開いた。
「……来タ……声ナキ者……声ヲ拒ム者……」
低く響くその声は、広間そのものを震わせる。
次の瞬間、空気が刃のような音圧に変わり、アルフレッドの頬を切り裂いた。
声そのものが武器であり、この空間全体が守護者の領域だった。
アルフレッドは剣を抜き、稲光を纏わせた。
「……お前を超えて、この塔の核に辿り着く!」
守護者が無数の口を開いた瞬間、広間全体に衝撃波が奔った。
声が形を持ち、空気を裂く刃となってアルフレッドに襲いかかる。
耳を塞いでも意味はなく、鼓膜を突き破るほどの音圧が体を揺さぶった。
剣士は咄嗟に雷光の壁を展開し、音刃を弾いたが、頬と腕に裂傷が走った。
「……声を武器にするか。厄介だな」
守護者は胸の声帯を震わせ、低く重い音を響かせた。
その音は床も壁もない空間に反響し、瞬く間に音の檻を形成する。
アルフレッドの周囲に無数の声が積み重なり、足を動かすたびに音の鎖が絡みついた。
「逃ゲラレナイ……声ニ従エ……」
体が縛られる錯覚に苛まれる中、アルフレッドは叫んだ。
「……俺の声は、俺だけのものだ!」
剣を振り下ろし、雷鳴を響かせて音の檻を打ち破る。
だが守護者は怯まない。
口々から放たれる声は今度は幻覚を伴い、アルフレッドの脳裏に直接流れ込んだ。
かつての仲間の絶叫、導師ゼムの断罪、そして自身の嘲笑――
「お前は剣に呑まれるだけだ」「お前の戦いに意味はない」
思考が揺らぎかけるその刹那、アルフレッドは自らの心臓に雷を流した。
痛みと轟音で幻を掻き消し、冷たく呟く。
「……黙れ。俺は、俺の道を斬り開く」
剣先に雷が集まり、光が広間を裂いた。
守護者は口々を閉じ、怨嗟の声を重ねて反撃の構えを取る。
音と雷、声と剣――互いの異能が正面からぶつかり合おうとしていた。
アルフレッドの剣先から奔る雷光が、広間を切り裂くように放たれた。
対する守護者は無数の口を開き、重低音から悲鳴のような高音までを重ね合わせた絶叫を解き放つ。
雷と声――目に見えぬ力と音が正面から衝突し、広間全体が震え上がった。
稲光は空を裂き、声は空間を揺るがす。
力と力が重なり合うたび、壁も天井も存在しないはずの空間が歪み、破片のように砕け落ちていく。
耳をつんざく轟音に、アルフレッドは膝を折りかけた。
視界の端で、虚空の口々が次々と弾け飛び、代わりに赤黒い液体が滝のように流れ出す。
それは血なのか、声の化身なのか――分からぬまま足元を浸食していく。
(この空間そのものが……奴の声と俺の雷に耐えられなくなっている……!)
守護者は全身の口を一斉に開き、塔全体を震わせるほどの咆哮を放った。
「声ハ支配……声ハ救済……声ハ……終焉!」
その瞬間、広間の壁が完全に砕け、虚無の闇と無数の舌が入り混じる異形の空が姿を現した。
崩壊は止まらない。
だがアルフレッドは、剣を握る手を緩めなかった。
「……だったら、この空間ごと斬り裂いてやる!」
広間はもはや原型を留めていなかった。
床は裂け、黒い虚無の裂け目が幾筋も走り、血のような液体と音の残骸が滝のように流れ落ちていく。
上空には口々が浮かび、呻きと叫びを繰り返しながら一斉に崩壊を始めていた。
守護者はその中心に立ち、声帯を震わせ、空間ごとアルフレッドを押し潰そうとする。
「声ハ絶対……声ハ永遠……声ノナキ者、滅ビヨ!」
耳を劈く咆哮に、アルフレッドは一歩も引かずに剣を構えた。
雷が全身を這い、血を焦がすほどの力が剣に集まっていく。
導師ゼムの教えが脳裏に閃いた。
――恐怖を越える時、雷はお前の意思となる。心を縛るものを斬り裂け。
「……俺は声に従わない。俺の道は、俺の声で決める!」
叫ぶと同時に、アルフレッドは奔流のような雷光を纏って駆け出した。
崩壊する足場を踏み砕き、虚無の裂け目を跳躍し、声の嵐を切り裂きながら一直線に守護者へ突き進む。
守護者は無数の舌を鞭のように振るい、空間を震わせる声波を放った。
だが雷を纏った剣はそれらを次々と弾き飛ばし、轟音を雷鳴で上書きしていく。
ついに、雷と声が一点でぶつかり合った。
虚空が爆ぜ、塔そのものが悲鳴を上げる。
決戦の瞬間が訪れた――。
雷鳴が剣を走り、アルフレッドの全身を包む。
守護者の中心――胸の奥に蠢く、巨大な声帯の塊が脈動するのを見据え、彼は全力の踏み込みを放った。
「――終われッ!」
雷光の斬撃が直撃し、声帯の核を真っ二つに裂いた。
瞬間、塔全体に響き渡っていた『声』が途絶し、無数の口が断末魔のように開閉を繰り返した。
「アアアア――ァ……」
守護者は数百の声を同時に発しながら、音そのものが霧散していくように形を失っていった。
虚空を満たしていた圧迫感が霧散し、血のように溢れていた液体は逆流しながら音もなく消滅していく。
やがて残ったのは、黒い灰のような欠片と、アルフレッドの雷光に焼かれた深い裂け目だけだった。
荒い息をつき、剣を地に突き立てて膝を折る。
だが、耳の奥にはまだ微かな囁きが残っていた。
「……声ハ……一ツ……マダ……果テヌ……」
消滅したはずの守護者の残滓が告げるように、これは終わりではない。
幹部『声』自身が、この塔のさらに深部で待ち受けているのだ。
守護者が消滅した後、広間には奇妙な静寂が訪れていた。
さっきまで耳をつんざいていた囁きも叫びも消え、ただ瓦解した音の残骸が灰のように舞っている。
アルフレッドは肩で息をしながら、慎重に周囲を見渡した。
――だが、違和感が残る。
静かすぎる。声が消えたはずなのに、耳の奥にはまだ何かが潜んでいる気配がある。
崩れ落ちた壁の一部に、黒い結晶が埋め込まれていた。
それは砕かれた声帯の核の破片で、表面には無数の刻印が走っている。
アルフレッドが近づくと、破片から微かに囁きが漏れ出した。
『……深部ニ……声ノ主……汝ヲ待ツ……』
声はまるで血のように重たく、体の奥に沈み込む。
幹部『声』が、この塔のさらに奥で支配を強めている証拠だった。
広間の裂け目の下――虚無の暗闇の中から、低い唸りが響いた。
それは人の声ではなく、数千の声を重ねたようなざわめき。
まるで塔そのものが生きており、深部へ侵入する者を待ち構えているかのようだった。
アルフレッドは剣を握り直し、決意を固める。
「……ここからが本番、というわけか。逃げも隠れもしない。必ず斬り裂いてやる」
崩壊した広間を後にし、アルフレッドは裂け目を越えてさらに奥へ進んだ。
そこはもはや建築物の内部ではなく、『声』そのものが形成する異界の回廊だった。
壁は黒い肉のように蠢き、そこに無数の口が浮かんでは囁きを繰り返す。
「来ル……拒ムナ……声ニ従エ……」
その囁きは優しくも甘く、だが底に濁った狂気を孕んでいた。
アルフレッドは剣を抜き、雷を纏わせながら前進する。
雷光だけが、この回廊で唯一の現実を保つものだった。
進むにつれて、空間の歪みは強まった。
遠くから聞こえるはずの囁きが、頭の中で直接響き、思考を揺さぶる。
壁の口々が人間の声色を真似、導師ゼムや過去に倒した敵の声までもが入り混じる。
「アルフレッド……お前の剣は何を守る?」
「お前ノ旅ハ……無意味……」
それはただの幻聴ではなかった。
幹部『声』がこの空間全体を通じて、彼の精神を削ろうとしている証だった。
やがて回廊の先に、巨大な扉のような影が現れた。
扉には人の顔を模した無数の口が刻まれ、開閉を繰り返している。
その奥から、圧倒的な存在感が溢れ出していた。
「……来タカ、剣ノ者」
重く、低い声が空間全体を震わせる。
それは幹部『声』自身――姿を現すことなく、既にアルフレッドを見据えていた。
アルフレッドは剣を握り直し、息を整える。
「……やはりお前か。ここで決着をつける」
扉がゆっくりと開いていく。
奥に待つのは、声の源、狂気の主――幹部『声』との邂逅だった。
扉が軋むような音を立てて開いた。
その奥に現れたのは、人とも怪物ともつかぬ存在だった。
頭部は顔という形を失い、無数の口だけが重なり合っていた。
腹部から腰にかけては黒い声帯の束が垂れ下がり、血管のように塔の床へと伸びている。
声そのものが肉体を形作ったような異形――それが幹部『声』であった。
「……剣ノ者。オ前ハ数多ノ声ヲ斬リ、我ガ守護者ヲ屠ッタ」
幹部の声は単一ではなく、千の囁きと一つの絶叫が重なったものだった。
「ダガ、声ハ止マラナイ。オ前ノ意思モ、結局ハ声ニ呑マレル……」
アルフレッドは剣を掲げ、稲光を走らせた。
「俺は声に従わない。俺の道は俺自身の意思で決める」
『声』は嗤うように広間を震わせた。
「意思……? 意思ハ声ダ。声ナキ意思ナド存在セヌ。オ前ガ剣ヲ振ルウノモ、声ノ命ズルガママ」
アルフレッドの瞳が細く鋭く光る。
「ならば証明してやる――声の支配が絶対じゃないと」
『声』の口々が一斉に開き、重低音が広間を震わせる。
アルフレッドの雷光と、幹部の声の奔流が交錯する直前――
決戦の時が訪れようとしていた。
『声』の口々が一斉に開いた。
「滅ベ……声ニ従ワヌ者ヨ!」
絶叫が衝撃波となり、刃のように鋭い音が広間を覆う。
床が裂け、空間が震え、音そのものが殺意を帯びて形を持った。
アルフレッドは瞬時に雷を纏い、剣を振り抜く。
雷光が奔流となり、音刃の一部を打ち消したが、残りが肩と脇腹を掠め、血が飛び散る。
「……っ、だが――これしき!」
『声』は胸部の声帯を震わせ、低い唸りを響かせた。
その音は空間全体に共鳴し、アルフレッドの筋肉を痙攣させる。
体が自分の意思と違う動きをし始め、剣が僅かにぶれる。
「声ハ命令……声ハ鎖……抗ウナ……」
歯を食いしばり、アルフレッドは自らの心臓に雷を流し込む。
痛みと轟音が共鳴を打ち消し、足を再び動かすことができた。
「俺の体は、俺のものだ……誰の声にも縛られない!」
幹部の声がさらに膨れ上がる。
無数の口から漏れ出す囁きが次々と形を持ち、人影となってアルフレッドに襲いかかる。
それはかつて斬った敵、失われた仲間、そして己自身の幻影――声が生んだ虚像の軍勢だった。
アルフレッドは雷剣を振り抜き、幻影を次々と切り裂く。
だがそのたびに幻影は断末魔を上げ、耳を劈くほどの声で彼を追い詰めた。
「……これはただの幻じゃない……声そのものが敵だ!」
膝をつきかけながらも、アルフレッドは剣を地に突き立て、雷光を広間全体に解き放つ。
幻影が一瞬だけ掻き消え、視界が開けた。
そこに立つ『声』の本体が、無数の口を大きく開き、次の攻撃を準備していた。
「声ハ世界……世界ヲ呑ミ込ム……」
「ならば斬り裂く。お前の世界ごとだ!」
アルフレッドが雷光を極限まで高め、剣から奔る稲妻が空間を裂く。
幹部『声』は全身の口を開き、あらゆる音を重ねた絶叫を放つ。
低音が骨を震わせ、高音が脳を突き破り、声は空気そのものを武器と化した。
雷と声が正面から衝突した瞬間、広間は白と黒に引き裂かれた。
閃光が影を消し、音圧が雷鳴を飲み込み、互いの力が相殺しきれずに暴れ狂う。
足元の床が砕け、塔の壁は波打つ声の膜へと変貌した。
そこからは呻きや嘆きが漏れ出し、手のような影が伸びてアルフレッドを掴もうとする。
天井からは稲妻が落ち、声の奔流を焼き尽くすが、同時に空間そのものが悲鳴を上げて崩れていく。
「……っ、限界を越えてる……!」
雷を纏ったアルフレッドの体も痺れ、血管が裂けるような痛みに苛まれる。
だが、『声』の狂気はさらに増していた。
「声ハ全テヲ呑ム……声ハ世界……貴様ノ雷モ、声ノ内ニ溶ケル!」
口々が大地のように震え、空間全体が一斉に崩落を始める。
裂け目の向こうには、深淵のような黒い空と、無数の声の残骸が渦を巻いていた。
荒れ狂う崩壊の中で、アルフレッドは歯を食いしばり、剣を掲げた。
「……ならば、世界を斬り裂いてでも前に進む!」
雷光が剣を走り、破壊と声の奔流を押し返しながら、突破口を狙って突撃する。
広間はすでに瓦解し、黒い裂け目から虚無と血のような液体が溢れ出していた。
声の奔流が嵐のように巻き起こり、耳を裂き、脳を抉る。
その中心に――鼓動する声の核があった。
それは巨大な喉と声帯が絡み合ったような塊で、ひと息ごとに空間そのものを揺るがしていた。
幹部『声』はそこに根を下ろし、無数の口を震わせながら狂気の讃歌を放つ。
「声ハ永遠……声ハ世界……オ前モ声ニ溶ケ……!」
アルフレッドは全身を雷光に包み、裂けるような痛みを無視して前へ進む。
崩れ落ちる足場を跳び越え、押し寄せる声の波を斬り裂きながら、ただ核だけを見据えて突撃する。
「お前の声に支配されはしない……! 俺は俺自身の声で、未来を切り開く!」
雷鳴が剣を走り、白い閃光が戦場を照らした。
『声』は最後の抵抗として、全ての口を開き、絶叫を放った。
広間全体が砕け、虚無と血と声が混じり合った奔流が押し寄せる。
その奔流に飲まれながらも、アルフレッドは剣を振り下ろした。
稲妻が轟き、声と声がぶつかり合い――
刹那、雷の刃が声の核を貫いた。
「アアアアア――――!」
幹部『声』の断末魔は、塔全体を揺るがすほどの咆哮だった。
だがその声も、次第に掠れ、途切れ、やがて闇の中に消えていった。
核は裂け、灰となり、空間を支配していた声の圧力が霧散していく。
荒い息を吐きながら、アルフレッドは剣を構えたまま立ち尽くした。
――決着の瞬間だった。
『声』の核が砕かれた後、広間を支配していた圧倒的な音は消え失せた。
残されたのは、灰となった声帯の残骸と、虚無のように静まり返った空間だけ。
アルフレッドは剣を杖代わりに立ち上がり、深く息を吐いた。
耳の奥にはまだ幻聴の残滓がこびりついていたが、それすら次第に霧散していった。
足元に、黒く変質した結晶の破片が散らばっていた。
それは砕けた核の断片であり、近づくと微かに声が漏れ出す。
「……声ハ……途絶エナイ……北ニ……響ク……」
それは死に際の呟きにも似た残滓であり、『声』の支配が完全には潰えていないことを示していた。
アルフレッドは破片を拾い上げ、雷の火で焼き封じる。
「……まだ先がある、というわけか」
広間の奥には、石の壁に刻まれた碑文が残されていた。
そこには古代文字でこう記されていた。
――『血と声と獣、その先に影の主在り』
セイセス=セイセスの幹部たちは、それぞれの領域を支配しているに過ぎず、そのさらに上に黒幕が存在することを暗示していた。
静まり返った空間に一人立ち、アルフレッドは剣を握り直す。
「……どれだけ声を並べ立てようと、俺の意思は消えない。必ず斬り裂く」
崩壊した塔を背に、彼は次の目的地へ向かう決意を固めた。
残された声の残滓は、新たな戦いの始まりを告げていた。




