第一話
私がこの旅路を終えた時、残されたものは何なのか。それは名誉なのか、あるいは富なのか、権力なのか、あるいは闇の中で迎える死なのか。旅を終えるまではそれを知る術は無かった。何れにせよ、旅を始めたことを後悔はしていない。私にあるのは剣と魔法の力のみ。剣と魔法、その力を以て、私は自分の天命を切り開こうとしたのだから。
アルフレッドはそこまで書いてペンを置いた。アルフレッドはこの旅路を記録していた。
目の前では夜の闇を照らす焚火の炎がぱちぱちと音を立てて燃えていた。
彼はいわゆる超常的な身体能力を持つ能力者であり、自らの剣と魔法を頼みに世界を歩いてきた。ここアメテリシア大陸では、現在群雄が割拠しており、有力諸侯のいずれもが大陸の統一を狙って覇を争っている。
尤もアルフレッドは戦争とは距離を置いており、「闇」の痕跡を追って旅をしていた。
この世界には人々の目に映る世情ともう一つ、異なる世界が存在する。それがいわゆる闇の信奉者たちの活動であり、彼らはいたるところに密かに勢力を伸ばしては世界を裏で操作している。陰謀論で片づけられるものではない。その名を「セイセス=セイセス」という秘密結社である。
アルフレッドはこれまでにも幾多の闇の信奉者たちを葬り去ってきた。それ故彼はセイセス=セイセスとっても重大な敵であり、命を狙われる時もある。
アルフレッドは目の前の炎に目を向ける。
「霊視術・招来環」
アルフレッドは呪文を唱えた。すると、炎の中に映像が浮かび上がった。壮年の男である。名をラドヴェン。男爵位を持つ貴族だ。アルフレッドがこの大陸に渡って最初に手掛かりを得たセイセス=セイセスのメンバーである。情報によれば無実の民を投獄し、領内に恐怖政治を敷いているという。アルフレッドの次の標的である。
焚火の炎に揺れるラドヴェン男爵の姿は、まるで亡霊のように淡く、しかし冷たく現れていた。硬い眼光と細く歪んだ唇――それは、権力を握る者の傲慢と残虐さをそのまま形にした顔である。
映像は淡々と彼の日常を映し出していた。石造りの薄暗い牢獄、鎖に繋がれた囚人たち。泣き叫ぶ者も、声すら枯れた者も、全て無表情の兵士に監視されている。その中心で、ラドヴェンは赤い葡萄酒を手に笑っていた。まるで人の苦しみが彼にとって最上の酒肴であるかのように。
炎がはぜ、映像は揺らぎながら途切れた。
アルフレッドは静かに息を吐き、魔剣の柄に手を置いた。
「……放ってはおけん」
彼は立ち上がり、焚火のそばに立て掛けていた外套を羽織る。夜の冷たい風が頬をかすめ、遠くで梟の声が響いた。
目指すはラドヴェンの領地――マルグレイン城。険しい断崖に築かれた要害で、海霧が常にその周囲を覆い、陸路からの接近は困難とされていた。正面から挑めば城門の前で矢の雨を浴びることは必定だ。
しかし、アルフレッドには別の道があった。
「西の断崖下、古代の鉱山跡……あそこからなら、城の地下牢へ通じる」
焚火の余熱を背に、彼は地図を広げ、わずかな記憶と情報を突き合わせて経路を描く。
――その時、闇の中から乾いた枝を踏む音が響いた。
アルフレッドは即座に魔剣を抜き、炎の明かりの外へと視線を向ける。
影がひとつ、二つ……木々の間から現れた。
黒い外套を纏った者たち。胸元には、月を二つ重ねたような紋章――セイセス=セイセスの印。
「やはり、先回りしてきたか」
リーダー格と思しき影が、低く笑った。
「ラドヴェン様は、お前を城まで通すつもりはない。我らがここで屍に変える」
アルフレッドは魔力を剣に流し込み、刃に淡い蒼光を走らせた。
「ならば――試してみるがいい」
炎が風に煽られ、戦いの幕が上がった。
先頭の黒外套の男が、腰から湾曲した短剣を抜き放つ。刃が月光を受けて冷たく光った瞬間、背後の二人が左右から素早く回り込み、包囲を完成させる。
アルフレッドは一歩も引かず、魔剣を半身に構えた。足元の枯葉が風に舞い上がり、焚火の赤い光が三人の影を長く引き延ばす。
「――剣気解放」
低く呟くと同時に、蒼光が魔剣から奔流のようにあふれ出し、夜気を震わせた。
一人目が正面から踏み込む。短剣が喉元を狙う刹那、アルフレッドは左足を半歩引き、剣を横薙ぎに振る。
蒼光をまとった刃が空気を裂き、男の短剣ごと腕を弾き飛ばす。金属の悲鳴と共に血飛沫が舞い、男は呻きながら後退した。
背後から迫った二人目の影。その気配を感じた瞬間、アルフレッドは身体を捻り、反転しざまに魔力を放出する。
「雷槍撃!」
刃先から放たれた稲光が闇を切り裂き、二人目の胸甲を貫いた。焦げた匂いが夜風に混じり、男は声もなく崩れ落ちる。
最後の一人は怯むことなく、逆に距離を詰めた。両手に短杖を握り、呪文を高速で唱える。
――赤黒い魔方陣が宙に浮かび、そこから無数の火弾が弾丸のように放たれた。
アルフレッドは後退もせず、剣を縦に構えたまま前進する。
火弾が蒼光の刃に触れるたび、炸裂音を上げて霧散していく。
「終わりだ!」
一歩目で間合いに入り、二歩目で刃を振り下ろす。
蒼光が闇を裂き、敵の短杖をへし折り、その胸を深く切り裂いた。男は声を漏らす間もなく地面に沈んだ。
焚火の炎が再び静けさを取り戻す。
アルフレッドは剣を振って血を払い、鞘に収めた。
「……前座にしては、骨があったな」
夜空には雲が流れ、半月が姿を現した。
彼は外套を翻し、マルグレイン城への道を踏み出す。
西の断崖――そこに口を開ける古代鉱山跡が、この先の全ての鍵を握っているのだ。
夜明け前の闇は、海霧と断崖の影が混じり合い、視界をほとんど奪っていた。
アルフレッドは足元を確かめながら細い獣道を進み、やがて海鳴りが耳に届く。崖下で荒波が岩を叩き、白い飛沫が暗闇の中に一瞬だけ光を生む。
古代鉱山跡は、その断崖の中腹に口を開けていた。
岩肌に穿たれたその入口は、崩落しかけた石組みの門で塞がれ、苔と潮風の匂いに満ちている。かつて鉱山を守っていたであろう鉄扉は錆び付いて原形を留めず、潮の浸食で一部が崩れ落ちていた。
アルフレッドは膝をつき、周囲の足跡を調べる。――新しい。重装の兵士が数日前に通った痕跡が、湿った砂利の上に残っていた。
「……やはり、警備は置いてあるか」
魔剣を抜き、刃にわずかな魔力を流し込む。蒼光がぼんやりと灯り、暗闇をわずかに押し返す。
奥からは微かな灯りと、鉄鎧の擦れる音。やがて、二人の兵士が会話を交わしながら通路の奥から現れた。
「まったく、こんな場所で見張りとはな……」
「文句を言うな。あの男爵が直々に命じたんだ。奴は外から来る剣士を恐れてるらしい」
アルフレッドは壁際に身を寄せ、呼吸を潜める。兵士たちが通り過ぎた瞬間、刃が閃き、一人目の喉を貫き、二人目を柄で打ち倒した。
呻き声もなく、兵士たちは倒れたまま動かない。
通路を進むにつれ、鉱山は徐々に人工の構造物へと変わっていった。古代の鉱脈を利用して造られた石造りの回廊が続き、その壁には見慣れぬ紋章――二重の月輪に蛇が絡みつく意匠――が刻まれている。
セイセス=セイセスの印だ。
奥の鉄格子の向こうから、鎖の軋む音と低い呻き声が聞こえる。
アルフレッドは足を止め、灯りを落とした。
牢の中には数人の囚人が膝を抱え、やせ細った顔でこちらを見ていた。その中の一人が、掠れた声で囁く。
「……あんた、外から来たのか? お願いだ……助けてくれ……」
アルフレッドは魔剣を逆手に構え、格子の錠前へと刃を押し当てる。
「静かに。騒げば、全員殺される」
だが、その時――奥の階段から、金属靴が石を叩く硬質な足音が近づいてきた。
炎を掲げた影が一つ、ゆっくりと姿を現す。
全身黒鎧に覆われ、面頬の奥からは赤い光が二つ、こちらを睨んでいた。
「侵入者……アルフレッド、貴様か」
低く響く声には、確かな敵意と殺気が宿っていた。
次の瞬間、黒鎧の男は巨大な戦鎚を肩から下ろし、石床を叩き割る勢いで踏み込んできた――。
轟音とともに戦鎚が石床を砕き、破片と衝撃波が狭い回廊を駆け抜けた。
囚人たちは悲鳴を上げ、牢の隅へと身を寄せる。
アルフレッドは飛び退き、壁際を滑るようにかわしたが、直後に振り向きざま魔剣を一閃。
「……ッ!」
黒鎧の男は戦鎚を横薙ぎに振り回し、その一撃を受け止めた。
鈍く低い金属音が響き、火花が散る。
剛力で押し込まれ、アルフレッドの足が石床を削った。
「セイセス=セイセスの走狗か」
「走狗で結構……主の命が絶対だ」
黒鎧の面頬の奥で、赤い光が一瞬だけ強く瞬いた。
その体からは、鎧の重さに似合わぬ素早さが感じられる。戦鎚を肩へ戻す動きが滑らかで、隙がない。
アルフレッドは呼吸を整え、魔剣にさらなる魔力を注いだ。
刃の蒼光が強まり、周囲の闇を押し返す。
「雷槍撃!」
突きと同時に放たれた稲光が、黒鎧の胸甲へと走った――が、火花を散らすだけで貫通には至らない。
「……雷か。悪くない」
黒鎧の男は逆に踏み込み、戦鎚を振り下ろす。
石床が再び砕け、粉塵が視界を覆った瞬間、アルフレッドは右へ飛び、懐へ潜り込む。
魔剣が鎧の脇腹をかすめ、甲冑に細い傷を刻む。
「ほう……血を見せたのは久しぶりだ」
黒鎧の声は、痛みよりも愉悦を含んでいた。
粉塵の中、二人の影が再び交錯する。
刃と戦鎚が何度も激突し、火花と衝撃が回廊を満たす。
そして――遠くから金属鎖の軋みが再び響いた。
アルフレッドは一瞬だけ横目で囚人たちを見やり、低く呟いた。
「……お前を倒したら、全員連れ出す」
黒鎧の男は、その言葉に面頬の奥で笑った。
「倒せるものならな――剣士」
二人は同時に踏み込み、次の一撃で勝敗を決する間合いへと入った。
衝突の瞬間、空気が震えた。
アルフレッドの魔剣が蒼光の尾を引き、黒鎧の戦鎚が鈍い轟音を響かせて振り下ろされる。
刃と鉄塊がぶつかり合い、耳をつんざく金属音が狭い回廊に反響した。
だが次の瞬間、アルフレッドは体をひねって刃を滑らせ、戦鎚の勢いを殺すと同時に懐へ踏み込む。
「――終いだ!」
渾身の力を込めた斬撃が黒鎧の脇下から胸へと走った。厚い甲冑を裂き、血が熱い飛沫となって迸る。
黒鎧の男は呻き声を漏らし、戦鎚を片手で支えながら後退した。
「……見事だ……だが――」
その声と同時に、彼の全身から黒い霧が溢れ出した。霧は甲冑の割れ目から漏れ出し、まるで生き物のように渦を巻く。
アルフレッドはすぐに察した。
――これはセイセス=セイセスの術式、終焉の代行か。
敗北を悟った信奉者が、命と引き換えに魔的な爆発を引き起こす禁忌。
「……貴様を道連れに――」
黒鎧の男の言葉が終わる前に、アルフレッドは地を蹴った。
「断雷剣!」
蒼光の刃が霧ごと男の胴を両断し、黒い靄を瞬時に霧散させた。
重い鎧が崩れ落ち、金属音を響かせて床に沈む。
残ったのは血と焦げた鉄の匂いだけだった。
アルフレッドは剣を納め、倒れた兵士の鍵束を拾い上げる。
牢の錠前に差し込み、ゆっくりと回すと、重い音と共に格子が開いた。
「立てるか」
囚人たちはおそるおそる立ち上がり、目に涙を溜めながら頷いた。
「外に抜ける通路は確保してある。急げ」
アルフレッドがそう告げると、一人の男が震える声で言った。
「……あんた、アルフレッドか? ラドヴェンの城に潜り込むって話を……」
「そうだ。――お前たちはここを離れろ。俺はこれから、本丸へ行く」
囚人たちが外へと走り去るのを見届けた後、アルフレッドは再び回廊の奥へと歩を進めた。
そこには冷たい海霧が流れ込み、階段の上に、巨大な城門の影がぼんやりと浮かんでいた。
――マルグレイン城。
ラドヴェンとの対決は、もう目前に迫っていた。
階段を上りきった瞬間、海霧の向こうにそびえるマルグレイン城の威容が現れた。
切り立った断崖の上に築かれた城は、海風に晒されながらも重厚な石壁を保ち、幾重もの防御塔が夜空に突き立っている。
城門の前には松明を掲げた兵士たちが立ち、鋭い視線で霧を睨んでいた。
アルフレッドは岩陰に身を隠し、城門周辺の警備を観察する。
――門番四、見張り台に二。さらに内側から巡回の足音……正面突破は無謀だ。
彼は視線を右手の城壁に移す。そこは断崖と接しており、波しぶきが絶えず吹き上げていた。
「……あそこなら」
外套を締め直し、断崖沿いの狭い岩棚を進む。
足元は滑りやすく、僅かな踏み外しが命取りになるが、アルフレッドの動きには迷いがなかった。
やがて壁の一角に、岩に隠された古い水路口が見えた。鉄格子は潮で腐食しており、手をかければ簡単に外れそうだ。
彼は魔剣の切っ先で錆びた鉄をこじ開け、静かに内部へと潜り込む。
湿った空気と海水の匂いが鼻を突き、足音は水面に吸い込まれて消えた。
水路は徐々に上り坂となり、やがて石畳の廊下に変わる。壁には古びた燭台が並び、揺れる炎が影を伸ばしていた。
アルフレッドは呼吸を整え、耳を澄ませる。
――奥から笑い声。男の低い声と、何人かの女の嬌声。
廊下を曲がると、豪奢な扉が現れ、その隙間から暖色の光が漏れている。
扉をわずかに押し開け、中を覗く。
そこは豪勢な食堂で、長卓の中央には豪華な料理が並び、その上座にラドヴェン男爵が座っていた。
葡萄酒の杯を片手に、傍らの女の髪を弄びながら、彼は下卑た笑いを浮かべている。
「……民は飢えているというのに、よくもまあ」
アルフレッドは静かに呟き、魔剣の柄を握りしめた。
しかし次の瞬間、背後の廊下から冷たい声が響いた。
「――客人とは珍しいな。だが、招かれざる者だ」
振り返ると、黒衣の女が立っていた。
瞳は琥珀色に光り、腰には曲刀。
その胸元には、二重の月輪に蛇が絡みつく紋章――セイセス=セイセスの証が刻まれていた。
「私が通すのは、主の許しを得た者だけよ」
女は唇の端を上げ、曲刀を抜き放った。
ラドヴェンに辿り着く前に、アルフレッドは新たな刺客と対峙することになった。
女の動きは獣のようにしなやかで、廊下の灯火を掻き消すかのように一瞬で間合いを詰めてきた。
曲刀が弧を描き、アルフレッドの首筋を狙う。
刹那、魔剣が蒼光を放ちながら軌道を遮った。
金属が擦れ合い、甲高い火花が散る。
衝撃の余韻が腕を通じて伝わった瞬間、女は半歩下がり、まるで舞うような足さばきで再び斬りかかる。
「名を聞こう、刺客」
アルフレッドが低く問うと、女は笑いながら身を翻した。
「名を知ってどうするの? 死者の名簿にでも記すつもり?」
曲刀の軌跡は、壁際の燭台の火を次々と切り落としていく。
廊下は闇に沈み、光源はアルフレッドの魔剣だけとなった。
その蒼光が、女の琥珀の瞳を妖しく照らす。
「……速いな」
「あなたが遅いだけ」
言葉と同時に女は腰を沈め、低い軌道からの斬撃を放つ。
アルフレッドは剣を下げて受け止め、力を流すように刃を外へ逸らす。
その反動を利用して踏み込み、逆袈裟に魔剣を振り上げた。
蒼光が女の外套を裂き、左肩から血が滲む。
だが女は苦痛を顔に出さず、むしろ笑みを深めた。
「……やっぱり、あなたは本物ね。だからこそ、ここで殺す」
背後――扉の向こうから、ラドヴェンの笑い声が聞こえた。
「ほう、あの剣士が来たか。面白い……遊んでやれ」
女はその声に軽く頷くと、両手で曲刀を構え直した。
空気が張り詰め、次の一太刀で互いの命が決まるかのような緊張が走る。
アルフレッドは魔剣を中段に構え、息を整えた。
「――終わらせる」
二人の影が同時に跳び、蒼光と銀刃が闇の中で交錯した。
火花が散り、衝撃が廊下の空気を震わせた。
アルフレッドの魔剣と女の曲刀がわずかな刃渡りで押し合い、互いの顔が至近距離に迫る。
女の瞳は獲物を逃さぬ猛禽の光を宿し、その唇がわずかに歪んだ。
「残念ね――あなた、もう詰みよ」
曲刀の鍔元から閃光が走った。隠し仕掛けの小型刃が、横薙ぎにアルフレッドの顔を狙う。
だが、彼の反応は一瞬早かった。
魔剣をひねって曲刀を弾き、同時に左手で女の手首を掴む。
「……詰みかどうか、確かめてみろ」
掴んだ腕を捻り上げると、女は体勢を崩し、わずかに隙を見せた。
アルフレッドは迷わず踏み込み、蒼光の刃を女の脇腹へと走らせる。
布と肉を裂く感触、熱い飛沫。
女は息を呑み、膝を折った。だが完全には倒れず、壁を背にしてこちらを睨みつける。
「……殺すがいい……だが、主は……すぐそこに……」
その言葉と同時に、豪奢な扉が重く開いた。
中から現れたのは、金糸の衣を纏い、杯を手にしたラドヴェン男爵。
薄い笑みを浮かべ、その視線は床に倒れかけた女ではなく、アルフレッドただ一人を射抜いていた。
「ようやく来たか、異邦の剣士。私の宴のために、わざわざ血を撒き散らしてくれるとは」
彼の背後では、甲冑を着た私兵たちが半円を描くように並び、槍の穂先をこちらへ向ける。
アルフレッドは女から手を離し、魔剣を中段に構え直した。
「……お前を斬るために来た。それ以外の理由はない」
ラドヴェンの笑みが深まる。
「ならば、存分に楽しませてもらおう」
杯が床に落ち、乾いた音を立てた瞬間、私兵たちが一斉に突進してきた。
蒼光の刃が唸りを上げ、マルグレイン城の食堂は、死と鉄の匂いで満たされていった――。
最初の二人が槍を突き出すより早く、アルフレッドは左へ踏み込み、槍の間合いの内側へ飛び込んだ。
蒼光の刃が円を描き、二本の槍柄をまとめて斬り払う。
続けざまに柄を蹴り飛ばし、兵士たちの体勢を崩すと、その隙を逃さず一人の胸を貫いた。
背後から迫る足音。
振り返ることなく、魔剣を水平に走らせる。
刃が肉を裂き、短い悲鳴が上がった。倒れた私兵が床に血溜まりを広げ、残りの者たちが一瞬足を止める。
「怯むな! 囲め!」
ラドヴェンの叱声が響く。
三人が同時に間合いを詰め、左右と正面から斬りかかる。
アルフレッドは後退せず、逆に踏み込み、左の敵の刃を受け止めながら体を回転させた。
魔剣が右側の敵の首筋を薙ぎ、返す一撃で正面の兵士の兜を叩き割る。
血と火花が同時に舞う。
数息の間に四人が床に沈み、残る私兵はわずかとなった。
ラドヴェンは椅子に腰を下ろしたまま、まるで観劇でもしているかのようにその光景を眺めていた。
「やはり評判通りだな……だが、これはどうかな?」
彼が指を鳴らすと、奥の扉から重装の騎士が一歩ずつ現れた。
黒鉄の甲冑に全身を包み、手には刃渡りの長い戦斧。
その胸甲には、二重の月輪と蛇――セイセス=セイセスの紋章が刻まれている。
「我が精鋭、月輪の斧グラディオスだ。お前を屠るために呼び寄せた」
ラドヴェンの声は冷ややかで、同時に満足げでもあった。
グラディオスは無言のまま戦斧を構え、その刃先をアルフレッドへ向ける。
重い足音が床を響かせ、空気がずしりと沈む。
アルフレッドは一歩前に出て、魔剣を中段に構えた。
「……何人いようが変わらん。斬るだけだ」
次の瞬間、二つの影が同時に飛び込み、食堂の空気が爆ぜた。
戦斧の一撃は雷鳴のような衝撃とともに降り下ろされた。
アルフレッドは半歩下がって斜めに刃を上げ、衝撃を受け流す。
床石が砕け、破片が飛び散ったが、彼の足はぶれなかった。
グラディオスは間髪を入れず、戦斧を横薙ぎに振る。
空気を裂く唸りとともに、鋭い刃が目の前を走り抜ける。
アルフレッドは低く身を沈め、魔剣を突き上げて斧柄を弾いた。
「ほう……」
初めてグラディオスの口から声が漏れる。
だが、それは驚きではなく、獲物に出会った猛獣の喜びだった。
踏み込む足が石床をきしませ、巨体が迫る。
戦斧の柄が逆手に回され、下からの突き上げが腹を狙う。
アルフレッドは外套を翻して横へ躱し、その勢いのまま魔剣を振り下ろす。
蒼光が黒鉄の肩当を裂き、金属音とともに火花が散った。
だが傷は浅く、グラディオスはそのまま戦斧を大きく振り回して距離を取る。
「力も速さもあるか……ならば」
アルフレッドは魔力を深く剣に通し、刃先が眩い蒼を帯びる。
「雷槍撃!」
放たれた稲光は一直線に騎士を貫こうとしたが、グラディオスは斧を盾のように構えて受け止めた。
閃光と轟音が交錯し、二人の間に焦げた匂いが漂う。
「悪くない……だが、足りん!」
グラディオスが吠え、渾身の突進を仕掛けてくる。
重装の巨体が矢のように迫り、戦斧が再び振り下ろされる。
アルフレッドは呼吸を一つ置き、足を止めた。
――迎え撃つ。
魔剣が蒼光の弧を描き、斧刃と正面からぶつかり合った瞬間、食堂全体が揺れるほどの衝撃が走った。
激突の余波で、長卓の上の酒瓶や陶器が次々と砕け、赤い葡萄酒が血のように床へ流れ落ちた。
互いの武器が押し合い、火花が散る。
グラディオスの筋肉が鎧越しに隆起し、戦斧を通じて凄まじい圧力が伝わってくる。
アルフレッドは歯を食いしばりながらも、力を正面から受けず、刃を滑らせるように角度を変えた。
戦斧の重さが空を切り、巨体の体勢がわずかに崩れる。
その隙を逃さず踏み込み、魔剣を鎧の隙間――脇腹めがけて突き入れた。
鋼を裂く感触と共に、蒼光が肉を貫いた。
グラディオスの口から、押し殺したような呻きが漏れる。
だが彼は退かず、逆に魔剣を自らの体で挟み込み、もう片手でアルフレッドの胸当を掴み上げた。
「まだだ……!」
巨体に持ち上げられ、壁際へ叩きつけられる。
背中に衝撃が走り、肺から一気に息が抜けたが、アルフレッドは即座に片膝を立てて立ち上がる。
グラディオスは戦斧を振り上げ、止めを刺すために一直線に迫ってくる。
アルフレッドは残った全魔力を魔剣に注ぎ込み、刃が白に近い蒼へと輝きを変えた。
「――断雷剣!」
踏み込みと同時に放たれた斬撃は稲妻そのものとなり、斧刃を砕き、鎧の胸甲を真一文字に裂いた。
巨体が一歩、二歩と後退し、膝をついた。
赤黒い血が鎧の割れ目から溢れ、床へ滴る。
グラディオスはかすかな笑みを浮かべると、力なく前のめりに倒れた。
静寂が戻ると同時に、ラドヴェンの拍手が響く。
「実に見事だ……やはり、殺しがいのある男だな、アルフレッド」
彼は席を立ち、背後の壁に掛けられた長剣を抜いた。
「次は私だ。――城主として、直々にな」
食堂の空気が再び緊張に満ち、決戦の幕が上がろうとしていた。
ラドヴェンはゆっくりと歩み出る。その足取りには焦りも怯えもなく、むしろ狩人が獲物を仕留める前の静かな高揚があった。
彼の手に握られた長剣は、銀の鍔に黒曜石のような刃――禍々しいまでに闇を吸い込む光沢を帯びている。
「これがわかるか、剣士。古代戦乱期に鍛えられた黒刃カルディス。魂を刈り取る剣だ」
ラドヴェンの声には、誇りと陶酔が入り混じっていた。
アルフレッドは魔剣を構え直し、無言で相手を見据える。
蒼光と漆黒、二つの刃が互いの呼吸を探り合うように揺れた。
一歩――。
ラドヴェンが地を蹴った瞬間、黒刃が稲妻のごとき速さで首筋を狙う。
アルフレッドは身を沈め、魔剣を斜めに上げて受け止めた。火花が散り、耳をつんざく金属音が食堂を満たす。
「やはり速いな……だが、お前は防戦一方になる」
次の刹那、ラドヴェンの剣筋が変わる。
斬撃から突き、突きから返し斬りへ――攻撃が淀みなく繋がり、間合いの外へ逃れる余裕を与えない。
アルフレッドは受け流しながらも、相手の重心と呼吸を見極めていた。
――力は鋭いが、踏み込みに僅かな溜めがある。そこを突く。
やがて、黒刃が肩口へと振り下ろされた瞬間、アルフレッドは逆に踏み込み、刃を滑らせて相手の懐へ潜る。
魔剣の切っ先がラドヴェンの外套を裂き、胸甲に火花を散らした。
「ほう……」
ラドヴェンは後退せず、むしろ笑みを深めた。
「やはり噂以上だ。だからこそ――お前をセイセス=セイセスに差し出す」
その言葉と同時に、彼の足元から黒い靄が立ち上る。
床に刻まれた紋章が不気味に輝き、周囲の空気が一変した。
――召喚術か。しかも、この規模……。
アルフレッドは刃を構え直し、瞳を細めた。
ラドヴェンの背後、闇の裂け目から何か巨大な影が現れようとしていた。
裂け目の奥から、獣とも人ともつかぬ咆哮が響いた。
やがて姿を現したのは、鎖に繋がれた巨躯の魔物――四本の腕を持つ異形だった。
漆黒の肌には無数の呪刻が走り、眼窩の奥には紅玉のような光が二対、ぎらついている。
「古き契約の守護鬼クルザ=マルド……お前に相応しい死を与えてくれる」
ラドヴェンは黒刃を下ろし、まるで観客のように一歩退く。
魔物は鎖を引きちぎると、石床を抉るような足音でアルフレッドへ迫った。
四本の腕が一斉に振り下ろされ、空気が押し潰されるような重圧が襲いかかる。
アルフレッドは瞬時に横へ跳び、魔剣を振るって最も近い腕を斬り払った。
蒼光が閃き、肉と骨を裂く感触――だが、切断面からは血ではなく、黒い霧が噴き出す。
霧は瞬く間に形を変え、再び腕となって元通りになった。
「再生か……厄介だな」
額に汗を浮かべつつ、間合いを取り直す。
魔物は低く唸り、今度は二本の腕で牽制しながら、残る二本で鋭い爪撃を繰り出してきた。
アルフレッドは剣で受け流しつつ、隙を窺うが、呪刻の光が一瞬ごとに強まり、動きがさらに速くなっていく。
――このままでは押し切られる。
彼は魔力を全身に巡らせ、剣先に雷光を集中させた。
「断雷剣・双閃!」
稲妻をまとった二連の斬撃が交差し、魔物の胸を大きく裂く。
裂け目からは黒い霧が噴き出すが、今度は一瞬だけ動きが鈍った。
その隙にアルフレッドは踏み込み、霧が完全に再生する前に心臓部らしき呪刻へ刃を突き立てる。
蒼光が紋様を焼き裂き、魔物が絶叫を上げた。
クルザ=マルドの巨体が崩れ、黒い霧となって消えていく。
ラドヴェンは目を細め、しかしその口元には薄い笑みを残していた。
「見事だ。だが、これは余興に過ぎん」
黒刃カルディスが再び構えられ、今度こそ二人の直接の死闘が始まろうとしていた。
ラドヴェンの足元に、先ほどの召喚陣の残滓がゆらめいていた。
その黒光を踏みしめるたび、彼の全身を覆う気配が濃く、重くなる。
黒刃カルディスの刀身は微かに唸りを上げ、空気を震わせていた。まるでこの戦いを楽しんでいるかのように。
「貴様の首を刈り、魂ごと我らの糧にする」
ラドヴェンの声音は低く、それでいて不気味な確信を帯びていた。
アルフレッドは魔剣を中段に構え、わずかに腰を落とす。
蒼光が刃に集い、食堂の崩れた壁や血に染まった床を照らした。
次の瞬間、二人の姿が同時にかき消える。
刹那の交錯。
火花と衝撃がほぼ同時に走り、床石がひび割れる。
アルフレッドは受け流しながら左へ回り込み、ラドヴェンの肩口を狙うも、黒刃は異様な角度で返され、弾かれた。
「その程度か」
挑発とともに、ラドヴェンが刃を振り下ろす。
黒曜の軌跡が床を裂き、破片が跳ね上がる。
アルフレッドはその隙に踏み込み、逆袈裟に魔剣を振り抜いた。
蒼光が男爵の外套を裂き、薄く血が滲む。
しかしラドヴェンは表情一つ変えず、むしろ笑みを深める。
「悪くない……だが、ここからが本当のカルディスだ」
黒刃が再び構えられた瞬間、その刃から黒い炎が溢れ出す。
炎は空気を喰らうように広がり、部屋全体の温度が急激に下がった。
アルフレッドの呼気が白く曇る中、ラドヴェンは一歩、また一歩と詰め寄ってくる。
「この刃に触れれば、魂ごと凍り砕ける……覚悟はあるか?」
アルフレッドは息を整え、魔剣の光をさらに強めた。
「覚悟なら、最初から出来ている」
蒼と黒、二つの刃が正面からぶつかる瞬間――
食堂は雷鳴にも似た衝撃音に包まれた。
衝撃は壁を揺らし、崩れた瓦礫が食堂の床に雨のように降り注いだ。
蒼光と黒炎が絡み合い、刃の交点からは火花とも雷ともつかぬ光が奔る。
互いの顔は刃先の向こうでわずか数十センチ――ラドヴェンの瞳は、狂気と確信で満ちていた。
「やはりお前はいい……殺すには惜しい」
低く囁くと同時に、ラドヴェンは黒刃を押し込み、炎を解き放った。
咄嗟にアルフレッドは後退し、魔剣を盾のように構える。
黒炎が床を走り、接触した石を瞬時に氷結させ、砕け散らせた。
――炎で凍らせる、逆転の魔法か。
刃だけでなく、炎そのものが魂を削る性質を持っている。受け続ければ終わる。
アルフレッドは呼吸を整え、迂闊な受けを避けながら横へ回る。
ラドヴェンはそれを読んでいるかのように体を捻り、横薙ぎの一撃を放つ。
蒼光と黒炎が弾け、床の血痕が熱風に舞った。
「避けるだけか? ならば削り尽くすまでだ!」
ラドヴェンは剣を旋回させ、空間そのものを切り裂くような連撃を繰り出す。
アルフレッドは刃を滑らせるように受け流し、その反動を利用して懐へ潜り込んだ。
魔剣に渾身の魔力を注ぎ、刃が白に近い蒼光へと変わる。
「――断雷剣・穿破!」
突きが放たれ、蒼の閃光が黒炎を裂き、ラドヴェンの胸甲を貫いた。
金属が砕ける音とともに血が吹き出し、男爵の体が後方へよろめく。
しかし、ラドヴェンはまだ倒れなかった。
「……素晴らしい……だが……我らの闇は……ここで終わらぬ」
彼の足元の黒い紋章が再び輝き、今度は城全体を揺らす低い振動が響き始めた。
――何かを呼び込もうとしている。
アルフレッドは刃を構え直し、次の一撃で全てを終わらせる覚悟を固めた。
振動は瞬く間に食堂の床全体へ広がり、壁に走る亀裂から黒い霧が噴き出した。
その霧は天井まで届き、渦を巻きながら一つの巨大な魔法陣を形作る。
ラドヴェンは胸から血を流しながらも、黒刃を支えにして立ち上がり、口元に血をにじませながら笑った。
「……見ろ……これが……セイセス=セイセスの真の力だ……」
魔法陣の中心から現れたのは、異様に長い首を持つ骸骨の巨影だった。
眼窩には炎が揺れ、全身は鎖に縛られているにもかかわらず、圧倒的な威圧感を放っていた。
霧の中、その鎖を握る影がいくつも蠢き、呻き声を上げる。
――このままでは城ごと呑み込まれる。
アルフレッドは一瞬の迷いもなく魔剣を高く掲げ、魔力を限界まで収束させた。
蒼光が閃き、稲妻の音が空気を裂く。
「断雷剣・終閃――!」
放たれた光刃は、渦巻く霧と魔法陣を一気に両断した。
轟音とともに巨影が悲鳴を上げ、鎖が霧散していく。
衝撃波が食堂を包み、破片と黒煙が吹き荒れた。
光が収まった時、ラドヴェンは床に膝をつき、黒刃を支えたままうつむいていた。
「……これで……終わったと思うな……闇は……必ず……」
言葉はそこで途切れ、男爵の体は力なく崩れ落ちた。
蒼光が静まり、食堂には瓦礫と血の匂い、そして冷たい海霧だけが残った。
アルフレッドは一瞥だけラドヴェンの亡骸を見やり、魔剣を納める。
――この城には、まだ解放すべき囚人と証拠がある。
彼は足を返し、奥の回廊へと歩みを進めた。
外では、夜明け前の空がわずかに白み始めていた。
奥の回廊は静まり返っていた。
だが、その静けさは死の後の沈黙であり、戦闘の余熱がまだ石壁に染みついているようだった。
割れた燭台からは薄暗い火が揺れ、壁に映る影が不規則に揺らめく。
アルフレッドは足音を殺しながら進み、城の地下へと続く階段を見つけた。
重い扉を押し開けると、そこは牢獄だった。
錆びた鉄格子の中、やせ細った人々がこちらを見上げる。
「……助けに来た。静かにしろ」
短く告げると、腰から鍵束を取り出し、錠前を一つずつ開けていく。
扉が開くたび、囚人たちの瞳にわずかな光が戻っていった。
「外は……安全なのか?」
震える声の老人に、アルフレッドは頷いた。
「今はな。城門までは俺が護る」
解放した囚人たちを先導し、階段を上る。
途中、倒れた兵士や崩れた壁が道を塞いでいたが、障害を除きながら進んだ。
やがて、海霧に包まれた中庭へ出る。
東の空は白み、霧の向こうに朝日の気配が差し込んでいた。
「走れ。あの門の先まで行けば安全だ」
囚人たちは互いに肩を貸し合いながら、霧の中へと消えていく。
最後の一人を見送った時、背後の城から黒い煙が立ち上った。
戦いの末に残ったのは、瓦礫と静けさ、そして焼けた血の匂い。
アルフレッドは振り返らず、霧の中の道を歩き出した。
――ラドヴェンは倒れた。だが、セイセス=セイセスの闇はまだこの大陸に根を張っている。
次の標的を探す旅は、すでに始まっていた。
マルグレイン城から離れた海岸沿いの小高い丘。
朝日が霧を割って海面に金の道を描き、潮風が焼けた血の匂いを洗い流していた。
アルフレッドは倒木に腰を下ろし、外套の裾を払う。
戦いで刻まれた浅い傷が腕や肩に残っていたが、致命傷はない。
背負った水筒を開け、冷たい水を一口飲むと、喉の奥まで清涼が満ちた。
遠くには、解放された囚人たちが小さな集団となって歩き去っていく姿が見える。
その背中が霧に溶けるまで、彼は静かに見送った。
「……終わったな」
独りごちて、腰の魔剣を軽く撫でる。刃は戦いの名残を残したままだが、どこか満足げに静まり返っているようだった。
潮騒と鳥の声。
久しく味わっていなかった穏やかな音だけが、耳に届いていた。
マルグレイン城のある岬を離れ、半日ほど歩いた先に小さな港町レーヴァンがあった。
木造の桟橋には漁船が並び、海鳥が甲高く鳴きながら飛び交っている。
市場通りからは焼き魚の香ばしい匂いが漂い、通りを歩く人々の顔には、この町がまだ戦の影から遠いことを感じさせる穏やかさがあった。
アルフレッドは外套のフードを深くかぶり、露店の端に立ち止まる。
そこで干し魚を並べていた老婆が、彼の顔をちらりと見て微笑んだ。
「旅人さんかい? 今朝は霧が濃くて漁も遅れたが、いい鯖が上がったよ」
「鯖か……悪くないな」
短く答えて銀貨を置くと、老婆は包みを差し出しながら声を潜めた。
「ここまで来る間に、北の城から逃げてきた人たちを見なかったかい?」
アルフレッドは頷いた。
「見た。もう安全な道を進んでいるはずだ」
その言葉に、老婆の顔に安堵が浮かぶ。
「そうかい……あの人たち、皆いい顔をしてたよ。命が繋がったのは、あんたみたいなのがいたからだね」
礼を受けるつもりはなかったが、老婆はそれ以上何も言わず、笑顔で背を押してくれた。
市場を離れると、海辺の酒場から賑やかな笑い声が漏れてきた。
アルフレッドは一瞬足を止めたが、やがてその暖かな空気に吸い寄せられるように扉を押し開けた。
中は木の香りと潮の匂い、そして素朴な歌声に包まれていた。
戦場の緊張とは無縁の時間――短いが確かな休息が、そこにあった。
酒場の中は、昼間から樽酒の香りが漂っていた。
漁師たちが粗い笑い声を響かせ、長旅の商人たちが卓を囲んで取引をしている。
アルフレッドは隅の席を選び、背を壁につけるように腰を下ろした。
店主の女が注文を取りに来る。
「温かいシチューと黒パンを。それと、この町の地図があれば助かる」
銀貨を添えると、女は驚いた顔をしつつも頷いた。
「地図は古いけど構わないかい?」
「構わない」
やがてシチューと一緒に簡易な羊皮紙の地図が置かれる。
海岸線に沿って北方の村々、内陸の交易路まで簡潔に記されていた。
北東の印にはカラン砦と小さく書かれている。
「その砦……最近、妙な連中が入り浸ってるって聞いた」
隣の席に座っていた初老の商人が、酒の勢いで話しかけてきた。
「黒い外套の男たちだ。港に荷を下ろさず、夜中にだけ動く。不気味なもんだ」
セイセス=セイセスの影か――アルフレッドの脳裏に、ラドヴェンが息絶える直前に吐いた「闇は終わらぬ」という言葉がよぎる。
食事を終えると、アルフレッドは市場へ回った。
道具屋で油と火打石、保存食を補充し、鍛冶屋で魔剣の刃を研ぎ直してもらう。
研ぎ師は刃を手にしながら感嘆の声を漏らした。
「こんな剣……滅多にお目にかかれん。使い手の方も、並じゃないんだろうな」
「ただの旅人だ」
短く返し、代金を置くと、外の冷たい潮風が再び頬を撫でた。
装備も整い、次の標的の情報も手に入った。
アルフレッドは海沿いの道を見やり、北東――カラン砦の方角に視線を向ける。
潮騒の中、再び歩み出す覚悟が、胸の奥で静かに固まっていった。