18話:梟の詩
ネストの拠点には、重く湿った空気が澱んでいた
数日前まで響き渡っていたはずの活気ある声や、機体の整備音は鳴りを潜め、代わりに沈黙が支配していた
ファルシアの死は、彼らの心に深い傷跡を残していた
リーダーであり、精神的な支柱であった彼の喪失は、ネストのメンバーたちから光を奪い去ったかのようだった
ブラインは、自室の片隅で膝を抱えていた
彼の視線は、壁に立てかけられたクレセントの整備用具に向けられていたが、その瞳には何も映っていなかった
ファルシアが庇ってくれた一撃、あの時の衝撃と、彼の最期の表情が、何度も脳裏に焼き付いて離れない
彼の悲痛な叫びは、まだ喉の奥に張り付いているかのようだった
ファルシアの死は、ブラインにとって初めての、そして最も重い喪失だった
組織の兵士として、彼は多くの死を見てきた
しかし、それは常に敵であり、あるいは見知らぬ味方の死だった
ファルシアは違った
彼はブラインに、人間としての温もりと、新たな生きる意味を与えてくれた恩人だった
その彼が、自分のために命を落とした
その事実が、ブラインの心を深く抉っていた
イオロは、整備格納庫で黙々と作業を続けていた
彼の指先は、いつもより僅かに震えているように見えた
ファルシアの機体「ヘブリン」の残骸が、作業台の上に無残に横たわっている
彼の目は、その残骸を見つめながら、遠い過去を思い出しているかのようだった
ファルシアと出会い、彼に希望を見出し、ネストに参加した日のこと
彼の脳裏には、ファルシアの力強い言葉と、未来を見据える瞳が鮮明に蘇っていた
しかし、その希望は、今、目の前で砕け散っていた
イオロは、ヘブリンの損傷箇所を丁寧に確認しながら、時折、深く息を吐いた
彼の背中からは、言葉にならない悲しみと、そして何かを決意したかのような固い意志が感じられた
リズは、食堂でシェパーズパイを準備していた
しかし、その手つきは、いつもよりずっと重く、そしてぎこちなかった
彼女の視線は、パイの表面ではなく、遠くの一点を見つめている
ブラインに初めてシェパーズパイを食べさせた日のこと、あの時のブラインの表情が、彼女の脳裏に焼き付いていた
ぶっきらぼうな彼女の心の中には、ブラインへの深い気遣いと、そしてファルシアへの惜別の念が渦巻いていた
彼女は、パイをオーブンに入れながら、静かに呟いた
「ファルシア……あんたは、本当に馬鹿だよ……」
その声は、誰に聞かせるでもなく、ただ虚空に消えていった
リースとギャレスは、ネストの作戦室で地図を広げていた
しかし、彼らの目は、地図の上の情報ではなく、互いの顔を見つめ合っていた
ファルシアが倒れて以来、ネストの指揮系統は混乱していた
誰がネストを率いていくのか
その重い問いが、彼らの肩にのしかかっていた
リースは、ネストのアダリズとして、常に冷静沈着な判断を下してきた
しかし、今、彼女の心は揺れていた
ギャレスもまたアダリズとして、ネストの索敵の要を担ってきた
彼の表情には、親友カイを失った悲しみと、そしてファルシアを失った絶望が入り混じっていた
二人は、互いの目を見つめながら、言葉にならない思いを共有していた
ネストの未来は、彼らの双肩にかかっていた
ネスト全体を覆う悲しみの空気の中、ブラインはファルシアの死と向き合っていた
彼の心は、深い喪失感に苛まれていたが、同時に、ファルシアが彼に託した「希望」の重みを感じ始めていた
この悲しみを乗り越え、ファルシアの意志を継ぐことができるのか
ブラインの心の中で、新たな決意が芽生え始めていた
それは、まだ小さな、しかし確かな光だった
そして、その光は、やがてネスト全体を照らす希望の光となるだろう
夜が更け、ネストの拠点に静寂が戻る
ブラインは、眠れずに格納庫へと足を運んだ
そこには、月明かりに照らされたクレセントが静かに佇んでいた
その隣には、無残な姿となったヘブリンの残骸が、まるで墓標のように横たわっている
ブラインは、ヘブリンの装甲にそっと触れた
冷たい金属の感触が、指先から伝わってくる
ファルシアの温もりは、もうどこにもない
「ファルシア……」
ブラインの口から、か細い声が漏れた
「俺は……どうすれば……」
その時、格納庫の入り口から、静かな足音が聞こえた
振り返ると、そこにはイオロが立っていた
彼の顔には、深い悲しみと、そしてブラインを気遣うような優しい眼差しが浮かんでいた
「眠れないのか、ブライン」
イオロは、静かにブラインの隣に歩み寄った
「……ああ」
ブラインは、俯いたまま答えた
イオロは、何も言わずに、ヘブリンの残骸を見つめた
しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた
「ファルシアは……いつも言っていた」
「……」
「希望を捨ててはいけない、と」
イオロの言葉が、ブラインの心に静かに染み渡っていく
「彼は、この荒廃した世界に、緑を取り戻そうとしていた
誰もが不可能だと笑う中で、彼はたった一人で、種を蒔き続けていたんだ」
イオロは、遠い目をして、ファルシアとの思い出を語り始めた
それは、ブラインがまだ知らなかった、ファルシアのもう一つの顔だった
リーダーとして、戦士として、そして、一人の人間としての、ファルシアの姿
イオロの話を聞きながら、ブラインの心の中に、小さな変化が生まれていた
悲しみは、まだ消えない
しかし、その悲しみの奥底から、新たな感情が芽生え始めていた
それは、ファルシアの意志を継ぎたいという、強い思いだった
「俺……」
ブラインは、顔を上げた
彼の瞳には、先ほどまでの絶望の色はなかった
代わりに、確かな決意の光が宿っていた
「俺が、やります」
「……」
「ファルシアの意志を継いで、この世界に、希望を取り戻してみせます」
ブラインの力強い言葉に、イオロは、複雑な表情を浮かべた
彼の目には、涙が浮かんでいた
しかし、それは喜びの涙ではなかった
ブラインの決意を感じながらも、同時に、深い不安と疑念が彼の心を支配していた
ファルシアの意志を継ぐことの重さ、そしてそれが本当に可能なのかという疑問が、イオロの胸に重くのしかかっていた
二人の間に、言葉はなかった
しかし、彼らの心には、それぞれ異なる思いが渦巻いていた
ファルシアの死は、ネストに深い悲しみをもたらした
そして、残された者たちに、それぞれ異なる道を歩ませることになるのだった
ブラインは、クレセントを見上げた
その機体は、まるで彼の決意に応えるかのように、月明かりを浴びて、静かに輝いていた
彼は、もう一人ではない
ファルシアの魂と共に、そして、ネストの仲間たちと共に
彼は、希望の場所へと、飛び立つことを誓った
その先には、どんな困難が待ち受けていようとも、彼の心は、もう揺らぐことはないだろう
なぜなら、彼の胸の中には、ファルシアが遺してくれた、消えることのない希望の光が、灯っているのだから